スイートリトルライズ

スイートリトルライズ

今日は一本です。サービスデーで1,000円でしたので、

「スイートリトルライズ」を見ました。

評価:(10/100点) – 「お家に帰ろう」なメンヘラ雰囲気映画。


【あらすじ】

瑠璃子と聡は結婚三年目のおしどり夫婦である。しかしそれは見た目だけ、夫との生活にドキドキが足りないと感じた瑠璃子はふと知り合った春夫と浮気を始める。一方、夫の聡も大学のサークル同窓会で再開した後輩・しほと浮気をする。しかし春夫が彼女と別れて本気で自分にアプローチしてきたことに尻込みし、瑠璃子は夫の元に返る。その事情を悟り、聡もまた浮気をやめる事を匂わせる、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 夫婦の日常。
 ※第1ターニングポイント -> 瑠璃子の個展に春夫が訪ねてくる。
第2幕 -> 浮気。
 ※第2ターニングポイント -> 春夫が文と別れる。
第3幕 -> 瑠璃子の決心。


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【感想】

本日は江國香織原作の「スイートリトルライズ」です。あんまり見る気は無かったんですが、1000円だったので入ってみました。小さな箱でしたが、女性を中心に結構お客さんが入っていました。ホワイトデーに女性だけで江國香織を見に来てる時点で「お察しください」なわけですが、それを言ったら私もなのであまり言及しません(笑)。

さて、本作については実はあんまり言及するようなネタもありません。というのも私の大嫌いな「雰囲気映画」だからです(苦笑)。
まず、本作のストーリーは上記の「あらすじ」が全てです。瑠璃子が夫婦生活に満足出来なくなって、ドキドキを求めるために浮気するが、相手が本気になったのにビビって元のサヤに戻る話です。このストーリーなら普通は瑠璃子に変化があるはずです。例えばポジティブ展開なら夫と積極的にコミニュケーションをとるようになったり、ネガティブ展開なら現状に歯を食いしばりながら耐えるようになったり。成長でも諦めでもなんでもいいんですが、必ず何かしら変化しないと物語にならないわけです。

ところが、、、本作ではそういう描写は全くありません。もっというと、そもそも瑠璃子と聡が「愛し合っている」という描写が無いんですね。だから初っ端からまったく乗れないわけです。聡はゲーマーで家に居るときは自室に籠もりがちで、一方の瑠璃子はわけ分からないことをブツブツ言ってる不思議ちゃんです。結局この2人がなんで夫婦なのかという肝心の前提が全っ然見えてこないんです。せめてオープニングの5分ぐらいで結婚前の恋愛状態を見せるとかの「愛し合っている描写」が無い限り、その後の展開がまったく意味の無いものになってしまいます。たぶん本作は「愛し合っていた2人が、結婚3年目にしてお互いに慣れすぎて愛を実感できなくなってしまった」っていう状況のもとで「いろいろあって互いの愛を実感できるようになる」「自分の(精神的な)安息の地としての家族/我が家へ戻る」って話をやろうとしてると思います。でも前提状況が描けていないために、さっぱり意味不明な映画になっています。

そんなわけ分からない話の中でも、本作のテーマを考える上で完全に失敗していると思うのは聡の描写です。聡が夫婦関係に不満を持っている様子が一切描かれませんので、少なくとも映画を見る限りでは聡が浮気したのは単にしほに誘惑されたからです。これってテーマにまったく合ってないんですね。夫婦がお互い浮気するのはいいんですが、一方は夫との恋愛に物足りなさを感じ、一方は単なる浮気(笑)。つまり根本的に浮気した理由がずれています。これじゃあ「互いの愛を実感」するのは無理です(笑)。なにせ、本作のなかで聡は浮気を辞めていません(苦笑)。いいのかそれで、、、。

【まとめ】

え~ここまでの文章であえてストレートな表現を避けてきたんですが、最後に身も蓋もないことを書きます。

 馬鹿いってんじゃないよ 
 お前と俺は ケンカもしたけど 
 ひとつ屋根の下暮らして来たんだぜ
 馬鹿いってんじゃないよ 
 お前のことだけは
 一日たりとも忘れたことなど なかった俺だぜ
 (以下略)

もうお分かりですね。本作は、ヒロシ&キーボーの名曲「3年目の浮気」を再解釈しただけです(笑)。再解釈と言っても、サイフォンやテディベアといったOL風オシャレ要素を足しただけ。ところが、中谷さんの演技の問題か演出家の問題かはわかりませんが、オシャレと言うよりは瑠璃子が単なるサイケな変人にしか見えないんです。しかも聡は普通に浮気。テーマが描けていない以上は結局雰囲気しか無いので、もうどうにもなりません。中谷さん以外の役者さんは結構良かったと思うんですが、、、ご愁傷様です。
作中で聡が瑠璃子を「彼女には実在感が無いんだ」と評しますが、それ言っちゃうと本作の世界全体に実在感がありません(苦笑)。この台詞が出た瞬間に「お、メタ構造の日本版レボリューショナリーロードか?」と期待した自分が恨めしいです。あ~~~8時間前にタイムリープしたい(笑)。
本作が気になった方はレンタルで「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」を借りてきて、本作を無かったことにするのがオススメです!!!

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花のあと

花のあと

今日も二本見てきました。一本目は

「花のあと」です。

評価:(70/100点) – 時代劇というよりは現代劇でありアイドル映画。若い人の方が乗れるかも。


【あらすじ】

父である寺井甚左衛門に剣術の手ほどきを受けて育った以登は、ある日花見中に江口孫四郎に声を掛けられる。羽賀道場の筆頭・孫四郎が気になった以登は、父に頼んで手合わせの機会を設けるが、自身を真っ向から打ちのめした孫四郎に惚れてしまう。しかし自身には許嫁がおり、孫四郎にも婚姻の話があった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 以登と孫四郎が出会い、決闘する。
 ※第1ターニングポイント -> 以登が孫四郎に惚れる。
第2幕 -> 孫四郎の結婚と勘解由(かげゆ)の罠。
 ※第2ターニングポイント ->孫四郎が切腹する。
第3幕 -> 以登の敵討ち。


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【感想】

一本目は藤沢周平原作の時代劇「花のあと」です。私は勉強不足にして、監督の中西健二さんを存じ上げておりませんでした。彼の作品を見るのは初めてだと思います。昼の回で見ましたが、年配の方を中心に結構観客が入っていました。
本作は全体として中々良いまとまり方をしていまして、見た後の満足感はかなり高いです。が、、、実は二本目に見た作品で全部吹っ飛んじゃいました(笑)。それはそれとして、まずはストーリーから行ってみましょう。

本作のストーリーについて

本作品のストーリーはかなり良いです。要は男に興味の無かった女性が初めて惚れた男の仇を討つ話しです。シンプルな「女戦士の仇討ちもの」でして梶芽衣子の得意分野です(笑)。とどのつまりは昔の東映・大映に良くあった映画です。まず前半は以登が初恋にとまどいながらも悶々とする話。そして後半はサスペンス仕立ての仇討ち話です。この繋がりが結構面白くなかなかエンターテインメイントとして優れていると思います。
ただ、サスペンス部分に関してはかなり残念な事になっています。第一に、以登は孫四郎がハメられるまさにその場にニアミスするんですが、一方でそれが後半まったく生きてきません。第二に、捜査は全て才助が行ってしまい主役の筈の以登が全然仕事をしないことです(苦笑)。第三に、そしてコレが一番まずいのですが、観客に最初から犯人がハメる場面を見せてしまっていることです。だから謎解きには全く乗れません。以登にとっては謎でも、観客にとってはついさっきスクリーンに映ってたことですから(笑)。なのであんまり盛り上がれません。でも、サスペンス要素はあくまでも蛇足みたいなものです。根幹はあくまでも以登が恋心に悶々とする様子をニヤニヤ見るというアイドル映画です(笑)。
そんなわけで、以登が初恋を追いかけていく内に頼れる才助に惚れていく様子はかなり丁寧に描いています。作品の全編通じて仏頂面をしている以登ですが、最後の最後で、本当に最後で一回だけ笑うんです。そこまでの仏頂面にタメがあるからこそ最後のちょっとした微笑みがとても効果的です。

本作の演出について

演出についてですが、役者の顔のアップがかなり多いために時代劇というよりは現代劇に見えます。それ以上に北川景子と佐藤めぐみが完全に「いまどきの女の子」の顔なので全然江戸時代に見えません(笑)。また、宮尾俊太郎の棒読みもちょっとビックリするレベルです。役者さんでは無いので仕方がないんですが、いくら甲本雅裕や市川亀治郎が超頑張って好演していても全部帳消しになってしまいます。
かくいう以登のキャラ描写にも惜しいところがあります。というのも彼女が「男に興味が無い」という直接的な描写が無いために、孫四郎にちょっとナンパされただけでホイホイ引っ掛かったギャルに見えてしまうんです。冒頭の花見シーンで「別の男に話しかけられても無視した」という描写が欲しかったです。以登は面食いでは無く、あくまでも男勝りの自分を受け入れた初めての男に惚れたはずですから。
その「以登の剣術」についてですが、北川さんは相当頑張ってます。私も剣道を少し囓っていたんですが、映画で俳優さんが素振りをしたときにキチンと左手が鳩尾の高さで止まって右手が絞れているケースはほとんどありません。冒頭の稽古シーンでかなり綺麗な形で左右面の素振りをしているのはグッと来ました。ですが、、、これは仕方がないのかも知れませんが、やはり映画の時代劇で血しぶきの一つも出ないのは納得出来ません。人が切られたら血が出るのは当たり前でしょう? いくらアイドル映画とは言え、「汚いモノは見せない」というのはどうなんでしょう。別にR15+になるまで血糊を使えとは言いません。でもせめて切られた敵の服が赤くなったり、ちょっと返り血を受けるぐらいは当然だと思います。殺陣で血糊が無いと、それだけでショボくて幼稚に見えてしまいます。
最後に最もがっかりする部分を。まさしく最後の最後、以登が初めて笑顔を見せて完全に北川景子の魅力にヤラれたまさにその瞬間に、なぜか一青窈の「J-Popでござい!!!」っていう主題歌が流れ始めます(苦笑)。余韻ゼロ。そして作品のトーンと全くあってない軽快な音楽。それでもエンドロールならまだ諦めはつくんですが、桜並木を才助と以登が歩いていく作品上一番の見せ場が流れてるんですね。挙げ句の果てに間奏部分でナレーションまで入りやがります。タイアップが大事なのは分かるんですが、せめてもう5分待って、エンドロールが始まってからにしてください(苦笑)。これのおかげでせっかくジーンとくる場面が台無しです。

【まとめ】

ストーリーは面白いですし、北川景子さんのアイドル映画としてもバッチりです。ですがちょっと演出がノイズになって結構評価を落としてしまっています。全体のトーンも時代劇というよりは昼ドラっぽいですが、とても良く出来た作品だと思います。時代劇が好きな方よりも、恋愛ドラマが好きな方にマッチするかも知れません。
また、北川景子のファンであれば本作品は鑑賞必須です。義務です。絶対に見に行きましょう。

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ハート・ロッカー

ハート・ロッカー

今日はある意味で一番の話題作、

「ハート・ロッカー」を観て来ました。

評価:(60/100点) – これがアカデミー監督賞の最有力候補なのか!?


【あらすじ】

ジェームズ軍曹はイラクの爆弾処理班「ブラボー部隊」のリーダーとして赴任する。マッチョで冷静なサンボーン軍曹と気の弱いエルドリッジ技術兵と共に、ジェームズは数々の爆弾を処理していく、、、。


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【感想】

本日観ましたのは「ハート・ロッカー」です。おそらくこのエントリーを書いている6時間後には女性初のアカデミー監督賞受賞作として歴史に残るのではないでしょうか?そういった意味では今もっともホットな作品です。
皆さんご存じの通り本作は全米映画批評家協会賞の作品賞・監督賞・主演男優賞を獲って一躍アカデミーの有力候補に躍り出ました。キャスリン・ビグローとジェームズ・キャメロンの元夫婦対決というキャッチーなコピーも相まって、その知名度が急上昇しています。
実際に私が見に行った際も、夕方の回は完全に満員完売で、夜の回も最前列以外は全席埋まっていました。元がインディ映画なので箱が少ないという問題はあるものの、それにしても物凄い入り方です。マナーが悪い客が結構いましたので、それだけアカデミー賞の話題によって普段映画を観ない人まで来ているという事だと思います。
もちろん前評判の高さから、私の期待値も相当高かったです。それ故に観ている最中はちょっと信じられませんでした。これが数々のマイナーなものからメジャーなものまで映画賞を獲っているという事実。そしてアカデミーでも作品賞(プロデューサー賞)と監督賞で最有力候補に挙げられるという事実。その事実こそが本作を読み解くキーワードであり、そして現在のアメリカが抱える病理のようなものだと思います。それを順を追って考えてみましょう。

本作の大枠について

いきなりですが、本作の冒頭である文章が表示されます。ニューヨークタイムズが出版している「War Is a Force That Gives Us Meaning(戦争は我々に存在意義を与える力)」というベストセラー本からの一節で、「The rush of battle is a potent and often lethal addiction, for war is a drug.」という文です。直訳しますと「戦いの連続は良薬であり、時に中毒を引き起こす。戦争とは麻薬だ。」となります。これが本作で描かれる全てです。
テーマをそのまま言葉で表すのは最も避けるべき演出の一つですが、恐ろしいことに本作は冒頭でいきなりテーマをそのままずばりの文章で説明してしまうわけです。なんか演出そのものをいきなり放棄しているというか、映画であること自体を放棄しているように見えます。ところがこの「映画演出としての致命的な下手さ」が、観ている内にだんだん実は意図的なのでは無いかと思えてくるわけです。
本作にはいわゆる三幕構成のようなものはありません。もっというと、話の展開すらロクにしません。ただひたすらジェームズ軍曹とブラボー部隊の爆弾処理を淡々と描くだけです。ですので率直に言って退屈です。物凄く退屈です。その退屈っぷりはかなり度を超していまして、はっきりと観ていてイライラしてくるレベルです。しかしですね、、、どうもこの反応こそが監督の意図のような気がするんです。
というのも、この作品は常にグラグラと揺れるカメラでドキュメンタリータッチな映像が流されるわけです。ここに先ほど書いた「映画としての演出の放棄」が加わり、それがドキュメンタリー感を補強する効果を持ちます。そして別に劇的な事がおこらないというのもある意味では現実的です。
要はですね、本作は観客に戦場を疑似体験させているわけです。そのために意図的に映画を退屈にして、観客に緊張とストレスを与え続けるわけです。結局二時間近くスクリーンには緊張する爆弾処理の様子が映されているわけで、そもそも面白くなんてなりようがないんです。であればこそ、おそらくこの観客のイライラは意図的なものの筈です。すなわちこの「ハート・ロッカー」という映画そのものが、実はアバターと同じく「アトラクション」なんです。ただし、アバターが「楽しいパンドラ観光ツアー」だったのに対して、ハート・ロッカーは「悲惨な戦場ストレス体験ツアー」です。
私が先ほど「現在のアメリカが抱える病理」と書いたのはまさしくこの部分です。つまり、あれだけ「世界の警察」面してイラク戦争を強行しておきながら、実はアメリカ人の大半が戦場のなんたるかを映画アトラクションにしないと理解できないほど薄っぺらにしか考えていなかったということです。そしてこの作品が高い評価を受けているということは、このアトラクションをみんな良くも悪くも気に入ったということです。
注意しなければならないのは、本作には特別政治的な描写は無いということです。というよりも、舞台がイラクであるという必然すらありません。劇中に出てくるイラク人・イスラム教徒は、はっきり言ってゾンビと大差ない描かれ方ですし、限りなく抽象化された「驚異となる敵」以上の存在ではありません。そして、本来であれば爆弾を800個以上解体した英雄のジェームズは、しかし全く英雄的には描かれません。むしろ狂人(=戦争中毒者)として描かれます。妻と子供と暮らす平凡な日常に嫌気が差し、彼は自ら危険な戦場へ志願し続けます。
この作品は救いのない要素で埋め尽くされていて、ただただ緊張とストレスを観客に与え続けます。そういった意味ではもしかしたら反戦映画なのかも知れません。少なくとも本作を観て「超面白かった。サイコー!!!」とか感じる人とは友達になれないと思います(苦笑)。

【まとめ】

タイトルの「ハート・ロッカー(The Hurt Locker)」は「棺桶」を表すジャーゴンで、転じて戦場そのものを表現しています。
そのままずばり、これはこのアトラクションの名前なわけです。
ここまで長々と書いておいてなんですが、、、これって映画として果たして出来が良いのでしょうか? アトラクションとしてはOKだと思うんですが、これがアカデミー作品賞・監督賞の有力候補と言われるとちょっと考えてしまいます。これなら「イングロリアス・バスターズ」の方が数倍面白いですし、なんなら「しあわせの隠れ場所」だってコレよりは面白いです。
「アバター」と「ハート・ロッカー」という両極端なアトラクションがアカデミー賞を争うという構図が、ハリウッドの現状を如実に表しているように思えます。
もし極限のイライラを体験したいという方は止めませんが、エンターテインメントでは無いことを十分にご理解の上でのご鑑賞をオススメします。きっと今週末はアカデミーの影響で入ったカジュアルな観客が、呆然としながら劇場を後にする様子を多く見ることになると思います(笑)。

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パレード

パレード

今日も今日とて二本です、一本目は、

行定勲の「パレード」を見ました。

評価:(45/100点) -架空の問題設定で描く箱庭の世界、、、。


【あらすじ】

世田谷のとあるアパートの一室で、4人の男女がルームシェアをしていた。
映画配給会社勤務の直輝、大学生の良介、イラストレーター志望のフリーター・未来、無職の琴美。ある日彼らの元に謎の金髪少年・サトルが現れ共同生活に加わる。4つの章それぞれで4人の視点を描くことで、徐々にこの共同生活の実態が浮き彫りになってくる、、、。


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【感想】

さて、行定勲の最新作「パレード」です。原作は吉田修一。一応売り文句としては「都会で過ごすゆとり世代の心の闇を描き出す」的な宣伝をしています。これについて、冒頭で書いたようにちょっとどうかという意見があるのですが、それは後述します。
主要登場人物は5人。それぞれ、藤原竜也、小出恵介、香里奈、貫地谷しほり、林遣都です。ぶっちゃけ私の嫌いな人しか出てないんですが(笑)、まぁそこそこ人気があってそこそこ演技も出来そうな雰囲気の人を集めたって感じでしょう。予告も含めて全体の雰囲気もいわゆる「エンタメ全開!!」という感じよりは「知る人ぞ知るウェルメイドな映画」感をビンビン出してきています。この辺りの宣伝手法は上手いと思います。じゃなきゃ監督・キャスト含めて地雷の香りしかしませんから(笑)。
ここでお約束ですが、本作を語る上でやむを得ない範囲で若干ネタバレを含みます。全部書くつもりありませんがニュアンスで伝わってしまう部分もあると思いますので、楽しみで楽しみでしょうがないけど原作未読で1800円払いたくないのでレディーズ・デイ/映画の日を待っているという方は、ご遠慮ください。

物語のプロット

物語のプロットは非常に単純です。一見幸せな共同生活をしているように見える4人が実はそれぞれそれなりに心の闇を持っていて、けれど共同生活を維持するための社交性として上辺を繕って仲良くしている。とまぁこんな感じです。
そして、これが今の現代日本の「東京砂漠感」を良く表しているという評価をする方がいるという事です。
実際に章の冒頭に「伊原直輝 映画配給会社勤務 28歳」みたいなのが黒バック白抜き文字で画面に出てそれぞれの視点が描かれますので、これを見た後で話しが分からないという方は一人もいないと思います。「社会派な重たいテーマをポップに見せる」という意味ではシンプルで良い方法なのかも知れません。
でも、、、僕はこの問題設定そのものと、そしてそれを本当に描けているのかという部分に疑問を抱きます。
そのポイントは、サトルと直輝です。

描き方について

話がややこしくなりますので、まずは問題設定が「あり」だと仮定して描き方を見てみましょう。
一番最初に引っ掛かるのは、少なくともこの映画ではサトルが何の役にも立っていないことです。結局なんなのコイツ。ゲイのオッサン向けの売春とピッキングで生活している住所不定の少年なのですが、プロット上で特に役が与えられていません。予告を見ていててっきりこの「異分子」が安定した共同生活を壊すor暴くのかと思ったのですが、別にそういう描写も無く居ても居なくてもなんの影響もありません。強いて言えばラストのある事件を目撃するためだけの第三者なんですが、でもそれって良介でも未来でも琴美でも問題無いわけで、結局コレって言う存在意義がないんです。
さてそのほかの4人の共同生活者には、そもそも闇があるんでしょうか? 良介は浮気しています。琴美は彼氏を盲信しているメンヘラです。未来は男をとっかえひっかえと言葉では出てきますが、別にそういう描写はありません。幼い頃父から暴力を受けたトラウマを持っている普通のフリーターです。そんでもって実は一番えげつない直輝。
これ、冷静に考えると直輝以外に闇がないんですが、、、。良介は言わずもがなですし、琴美は作品内で成長を見せます。未来なんてトラウマとしっかり向き合って折り合いをつけている立派な自立した大人の女性ですよ。しかも成長まで見せます。だから、「一番まともそうな直輝が実は一番狂ってる。こわ~~い。」みたいな描写に無理があるんです。どっちかというと、「頭がおかしい直輝が、女性に振られて不安定になった自身の精神安定を図るために共同生活を主催している。」というように見えます。
別にそういうスリラーならそれはそれで良いんですが、だとしたらもうちょっと描き方を工夫する必要があります。直輝がもっと頼りになりそうな超好青年で底抜けにいい人に見えないといけないんです。でも藤原竜也では残念ながらその雰囲気は出せません。藤原さんはいかにもなコテコテの「舞台芝居」をする俳優さんなので、映画に出てくるとわざとらしすぎて曲者・小者にしか見えません。非常に惜しいです。最初っから藤原竜也の演技が気持ち悪いので、最後のシークエンスでも全然意外性が無くなんか白けてしまいました。そんなわかりきったことを「これがどんでん返しじゃ!ドーン!!!」みたいな大仰さで見せられても、、、なんだかな。

問題設定について

次に根本の問題設定の部分です。
さて、心に闇をもっていない人間が果たして居るでしょうか?もっというと、自分のプライベートを全てあけすけに公開するような人は世界中でどれだけ居るんでしょうか?
私は、少なくとも文明化した近代社会では皆無だと思います。誰にだって一つや二つ他人に言いたくないことはあるでしょう?むしろ飲み会とかで全部のプライベートを話してくる人間がいたら、ちょっと警戒しますよ。
この「みんな隠し事があるのに上辺だけを繕って共同幻想のもとで社会を運営している」っていうこと自体が、別に当たり前すぎて問題提起になっていないと思うんです。それなら「家族ゲーム(1983)」の方がよっぽどスマートに描いています。そもそもそれが「社交性」ってことですし。
さらに問題になってくるのは最終シークエンスです。
最終シークエンスで「そんな隠し事でも、実はみんな知ってるぜ?」みたいなことをサトルに言わせます。そして最後の最後、直輝が「”共同幻想を守れ!”という圧力」を感じるという場面で終わります。映画だから分かりやすいように極端に描いたと言えなくもないのですが、あまりにも極端すぎてこれを「社会の縮図を上手く表現した問題設定」とは到底思えません。

【まとめ】

実は私が懸念しているのは、本作が「ベルリン国際映画祭・国際批評家連盟賞」を獲得したという先日のニュースです。論評をまだ読んでないんですが、もしこれが「日本の若者の社会観念を抉り出した社会派映画」みたいな受け取られ方をしていたらそちらの方がホラーです。
私は本作は「架空の問題提起から膨らませた空想上の社会派問題遊び」だと思います。
若者としての自分の感覚ですが、私はむしろ自分も含めた若い人は、いわゆる団塊世代とかにある団結性はあまり持っていないと思ってます。アイデンティティの規定において、連帯感みたいなものにはあまり頼っていないのかなと。極度の個人主義というか「一人に一つの携帯・パソコン世代」って感じです。
なので、本作は私の目から見ると「オッサンのグチ」に見えるんです。「最近の若者は~~~」で始まる飲み屋のグチを「極端な空想キャラクターの箱庭」を使ってただただ見せられているような感覚です。まったく乗れません。
今回私が見た劇場は結構な大箱だったんですが、若い方と中年が半々ぐらいでした。こういう作品こそ、ちょっとアンケートを取ってみたい気がします。多分若者の評価が低くて中年が絶賛するんじゃなかろうかと、そんな作品だと思います。
ということで、最近職場で虐げられている中間管理職の皆さんや、お子さんが反抗期でうまくいっていないお父さんにはおススメです!!!
※書き忘れてましたが、音楽の使い方は驚くほどダサイです。ピアノではじまるワンパターンな演出に口あんぐりでした。こんなテーマなんだからバックミュージック無しでいいのに、、、。

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フローズン・リバー

フローズン・リバー

続いての作品は一転して大真面目な

「フローズン・リバー」です

評価:(90/100点) – 「母は強し」は万国共通。


【あらすじ】

舞台はカナダとの国境沿いの田舎町、レイ・エディの夫はクリスマス直前に貯金を持って蒸発してしまう。二人の息子とともに残されたレイは夫を捜しに賭博ビンゴ場を訪ね、そこでまさにインディアンの女性が夫の車を盗む所を目撃する。追いかけたレイは、その犯人・モホーク族のライラと出会う。彼女は姑に奪われた我が子を引き取って暮らすために大金が必要であった。そのためカナダからの密入国者の運び屋をしており運転席からの操作で後ろのトランクを開けられる車を探していたと言う。
車の譲渡を断ったレイに、ライラは密入国の手伝いと報酬山分けを提案する。どうしても金を工面する必要があったレイはこれに同意する。こうしてライラとレイの犯罪家業が始まった。カナダとのルートは冬にしか現れない「凍った川(フローズン・リバー)」。両端には治外法権のインディアン保留地。それは絶対安全な金稼ぎであるはずだった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 夫の蒸発と長男との確執
 ※第1ターニングポイント -> レイがライラと出会う。
第2幕 -> 密入国家業
 ※第2ターニングポイント -> レイが「最後の仕事」を提案する。
第3幕 -> 最後の国境越え。


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【感想】

本作は二年前のサンダンス映画祭のグランプリ作品です。サンダンスといえば言わずと知れた世界最高クラスのインディ映画祭りです。やはりグランプリ作品は伊達ではなく、本作も主要登場人物がわずかに4人のミニマムな構成でありながら、これ以上無いほどの情緒と圧力を観客に叩き込んできます。
日本では二年前に配給会社がつかずDVDスルーも怪しかった所をアステアが拾ったようですが、素晴らしいことをしてくれました。大正解です。
こんな良作を公開しないとかありえないですよ、本当。

本作の肝

この映画は「田舎で女性が不幸になる話」の極北です。本作の肝は「母は強し」につきます。全部で三組の母子が出てきますが、三組とも全て子供のために必死です。特にレイとライラはほとんど絶望的な状況下から、必死でがむしゃらに家庭を立て直そうとします。
そして母に不満を持ちながらも、やはり自分なりに家庭を支えようとする長男。その家族のもがきの全てが最高潮に盛り上がったクリスマスに事件が起きます。悲惨で救いが無いように見えながらも、本作の最後の瞬間・最後のカットに写るちょっとした希望が、得も言われぬ感情を呼び起こさせます。これぞまさしく「映画的な感動」です。
メリッサ・レオの疲れた顔の中で唯一ギラギラ光る目が印象的で、本当にすばらしい演技をしています。ミスティ・アップハムは、、、この人は何やっても”デブキャラ”で終わっちゃうので何とも言えません。でもメリッサに引っ張られたのか中々の演技を見せます。
ちょっと苦言を呈する部分が見つからないような最高レベルのフィルムです。完全に単館映画ですが、渋谷まで足を運べる方は必見の作品です。是非、映画館で引き込まれてください。
余談ですが、渋谷のシネマライズは床が特徴的で、一番後ろから前5列目ぐらいまで急に下ったあと、前の方は逆傾斜でちょっと昇ります。なので一番前で見てもイス自体が上を向いてるので首が痛くなりません。シネマライズは土地柄なのか何時行っても煎餅食ったり携帯いじってるマナー悪い人が多いので、是非一番前で見るのをオススメします!!!

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インビクタス‐負けざる者たち‐

インビクタス‐負けざる者たち‐

本日も二本立てです。一本目は「インビクタス‐負けざる者たち‐」。

評価:(65/100点) – 人間ドラマはなかなか。 試合はちょっと、、、。


【あらすじ】

ネルソン・マンデラはロペン島の刑務所から釈放されANC議長につく。その勢いのまま大統領に就任したマンデラだが、黒人と白人の対立構造は変わらなかった。ANCが政権を執ったとはいえ経済力や学力は白人の方が圧倒的に上である以上、国家の分裂は南アフリカの黒人にとっても得策ではない。そこでマンデラは白人達のスポーツであったラグビーを通じて、黒人達の愛国心を喚起しようとする。


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【感想】

昨年は「チェンジリング」と「グラン・トリノ」で未だ衰えない構成力を披露してくれたクリント・イーストウッド監督の最新作、「インビクタス」です。何はともあれイーストウッドの新作が出たら映画館に駆けつけるのは映画ファンの義務です。ということで、私もいそいそと出かけましたが、、、観客が入ってない!
300名のキャパで100名も居なかったでしょうか。マット・デイモンなのに、、、。スポーツ物なのに、、、。

ストーリー部分

本作はマンデラ役のモーガン・フリーマンのほぼ一人舞台です。その台詞もほとんどがアジテーションのようで、タクシー内での秘書との駄話しですらどんどん演説調になっていきます。これが結構くどくてどうかなと思ってしまいます。
もちろん話の根幹になるマンデラの考えはかなりのものですし、マンデラ自身には大いに頭が下がります。政治犯として27年も刑務所に入れられた上で、それでもなお白人と黒人の共生というところに向かう達観には恐怖すら覚えます。実際のマンデラの人柄に詳しい訳ではないので何とも言えませんが、本作では極度の絶望の果てに解脱してしまった聖人のように見えます。それでいて自身の家族については急に人間臭い面を見せるなど、大変魅力的に描かれます。
一方、本作のダブル主演といっても過言ではないマット・デイモン演ずるピナールについては正直なところだいぶ陰が薄いです。マンデラの信奉者として以外にはキャプテンとしての能力やチームでの立ち位置はあまり描かれません。あくまでも観客の感情移入先として、「マンデラを仰ぎ見る好青年」としての役割を果たします。実際に本作が微妙な印象になる原因は、多分にラグビーの描き方です。
スプリングボクスはアパルトヘイトの関係で国際試合に出られなかっただけで、90年代前半の時点でも十分に強豪でした。しかし本作の序盤であたかも弱小チームであるように描かれます。「評論家の予想では良くて準決勝どまりです」みたいなセリフ回しがあったりして「そうか、弱いのか」と一瞬思ってしまうんですが、でも当時は優勝候補だったんです。あまりにも無理に「弱小国が連帯感を持ってついに優勝!」という物語に当てはめようとしたために、むしろ何で強くなったかが良く分からないという弊害が生まれてしまいました。これでスプリングボクスの成長物語りも併せられればものすごい傑作だったと思うのですが、ラグビーの使い方が少し中途半端になってしまった印象を受けます。

【まとめ】

さすがはイーストウッドという感じで、凄くデリケートな題材を上手く軟着陸させています。もちろんいくらでも深読みは出来ます。イーストウッド自身も共和党員ですし、「なんでもかんでもチェンジすることが良いわけではない」と意味深なことを言いますし(笑)。
傑作というほどではありませんが、良作なのは間違いありません。
オススメはオススメなんですが、できればyoutubeで95年のワールドカップ決勝の映像を見ておいた方が良いかもしれません。再現性の高さに驚くこと請け合いです。

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記事の評価
おとうと

おとうと

本日は「おとうと」を観てきました。

評価:(85/100点) – 大満足です。


【あらすじ】

吟子は夫に先立たれ娘と姑の3人暮らしで薬局を営んでいた。娘の結婚式当日に音信不通だった吟子の弟・鉄郎がひょっこりと現れるが、よりにもよって泥酔して披露宴をメチャクチャにしてしまう。このことがきっかけで吟子のもう一人の弟・庄平は鉄郎に絶縁を宣言する。しかし吟子はどうしても縁を切れない。
暫く経って、大阪より鉄郎の恋人が吟子の元を訪れる。彼女は、鉄郎に130万円を貸したまま彼が音信不通になったと告げる、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 小春の結婚
 ※第1ターニングポイント -> 小春の披露宴
第2幕 -> 小春の離婚と鉄郎の失踪。
 ※第2ターニングポイント ->吟子が鉄郎に絶縁を告げる。
第3幕 -> 鉄郎の最期。


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【感想】

見終わっての率直な感想は、「あ~~~~映画見た。」という満足感です。さすが山田洋次。中居正広やラサール石井の”ノイズ”が気にならないほど、とても良くできた映画です。本作には最近のエンターテイメント映画にありがちなドラマチックな展開や社会的メッセージなんかはありません。むしろヨーロッパのアート系映画に近い構造をしています。でも、実際にはそれこそが日本映画なんです。日本にだって昔はこういう良い作品があって賑わっていたんです。日本市場は今やハリウッドの映画産業に飲み込まれてしまっていますが、それでもまだ山田洋次監督のような映画人にきちんとバジェットが渡る環境があることは大変喜ばしいです。

物語の肝

本作には際だったドラマがありません。ログラインで表すならば、「ある女にはどうしようもない弟がいて彼が死んだ。」と超簡潔に終わってしまいます。要は展開しないわけです。ですが、それこそが映画の醍醐味だと個人的には思っています。ハリウッド・エンタメ映画も好きなんですが、やっぱり「いま私は映画を見た」と満腹感があるのは、この種の映画なんです。
劇中での鉄郎は考え得る中で最悪レベルの「困った家族」です。そして頭がイカレてるかと思うほど馬鹿で人間のクズです。だけれども家族は家族、吟子にとっては紛れもなく弟です。尻拭いをしてやってるのに調子の良いことばっかり言ってフラフラしているダメ男。そんな奴でも、やっぱり家族なら死ぬ間際には世話をしてやりたくなりますし心配だってします。吟子があまりにも聖人すぎると思う方もいらっしゃるかも知れませんが、家族なんて実際はそんな物なのだと思います。というか思えてきます。
それを表すのに「家族の絆」みたいな安っぽい表現は使いません。小春と旦那のイビつな関係、吟子と姑の関係、吟子と鉄郎の関係、そして吟子と小春の関係。利害を超えて憎まれ口を叩きながらも愛し合う家族が居れば、お互い支え合う親子が居て、その一方で合理的な会話以外を否定する夫婦も居ます。そのいろいろなシチュエーションを観客に見せた上で、どれが正解とメッセージを送る事も無く表現していく山田洋次監督の演出力。ただただ拍手をお送りさせていただきます。本当に素晴らしい作品です。

少々気になる点

とはいえ、気になる点が無いわけではありません。最も大きいノイズは吉永小百合さんの演技です。
断っておきますが私は女優・吉永小百合の大ファンです。だからこそ今回の棒読みで滑舌良くハキハキした文語調の台詞回しは、ちょっと信じられないレベルです。”あの”吉永小百合さんにしては酷すぎます。それと反するかのように蒼井優と鶴瓶師匠の演技は冴え渡っています。それだけに果たして演出が悪いとも思えず、もしや吉永さんが衰えてしまったのではと恐れています。映画の出演数を絞っているようですので、次の作品までの時間で修正できると信じています。

【まとめ】

「山田洋次約10年ぶりの現代劇」の煽りはまったく嘘ではありません。「博報堂DYと朝日が絡んでるから糞映画だ」と判断して観に行かないのは賢明ではありません。是非、劇場で見てみてください。
この種の映画は、観客の感想=観客の自己分析につながっていきます。山田監督が作中で意見を明確に述べていないため、観客は自分の体験や過去に読んだ物語りからモロに影響を受けます。ですので作品は自身の鏡、この作品を語るということは自分をさらけ出すことにつながります。終わったあとの満足度と友人と意見を言う材料になる作品です。
だから、悪い事は言いませんので映画館に見に行っておくべきです。オススメです!!!

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記事の評価
ゴールデンスランバー

ゴールデンスランバー

日曜日に「ゴールデンスランバー」を観てきました。

1月最後の映画です。

評価:(55/100点) – 伏線という名の後出しじゃんけん祭り。


【あらすじ】

青柳雅春はお人好しの宅配配達員である。ある日学生時代のサークル仲間・森田に釣りに誘われた青柳は、彼に睡眠薬を飲まされて車中で寝てしまう。目が覚めると、凱旋パレード中の金田首相がすぐ後ろの大通りを通っていた。そして爆殺される首相。車ごと爆死した森田をのこしてその場から逃亡する青柳だったが、首相暗殺容疑で指名手配されてしまう、、、。

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【感想】

え~伊坂幸太郎原作シリーズの最新作、ゴールデンスランバーです。笑う警官を観たときに初めて予告編が流れまして、「同じ話じゃん」と思ったのを強く覚えています。
本作では、陰謀に巻き込まれて首相暗殺の濡れ衣を着せられる青柳を主役に、かつての仲良しサークル仲間4人組の活躍を描きます。
が、、、全編通じて流れるジャイブ調のバックミュージックや伏線に巧妙に見せかけた時系列シャッフル、そして無内容なのにスカした演出など、笑う警官の角川春樹を連想させる作品です。
とはいえ本作はまったく駄作というわけではないと思います、頭を空っぽにして観れば面白いことは面白いですし、雰囲気に流されれば割と良さゲな所に着地します。なので、本作を絶賛する人が居ても不思議ではないと思います。ただ、、、小手先で撮ってる感じが前面に出ていてちょっとどうかと思ったりもします。

本作の気になる点

本作で気になったのは、後出しじゃんけんの多さとディティールの甘さです。
特に後出しじゃんけんについてですが、これは伏線に見せかけているだけに結構タチが悪いと思います。
私が観ていた限り、伏線として機能していたのはアイドルの整形疑惑の部分と花火のバイトをしていたところぐらいです。そのほかはほとんど後出しです。というのも、伏線は「それ単体でも物語上機能するが、後から別の機能を追加で与えられる」ことです。例えば、冒頭のプレタイトルシーン(デパートの親子)は、後からさも伏線であるかのように繰り返されますが、単なる時系列シャッフルです。また冒頭のシーンで娘が一瞬居なくなったことに意味はありません。つまり「単体では意味が無いことにあとから意味が追加された」という事です。同様に下水道の話も書き初めの話も単なる後出しです。しかし花火と整形にはその時々に意味があるため伏線たり得ています。
こういった後出しじゃんけんの多さは普段映画をあまり観ない人には「よく出来た脚本」と誤解されがちです。作り手もそれを狙っているのですが、しかし実際には全部のストーリーを決めた後に要素をばらして前半に配置しているだけなので上手いわけではありません。
伏線として機能していない物を山盛りにするあたり、もしかすると実際に脚本を書かれた方はこれでOKとおもっているのかなぁと、ちょっと心配になってきてしまいます。
ディティールについてはやはりボロボロです。なぜ晴子がカローラのバッテリを取り替えるかの根拠がないですし、なんでそのタイミングで廃車の所に青柳が来るかも分かりません。極端な話、ほとんど全ての登場人物達がエスパーではないかと思うほど、適切な場所に適格なタイミングで意味もなく偶然現れます。
また公園のシークエンスも苦笑いです。生中継のテレビ映像に写っているのに何故か警官だけが見失いますし、晴子が花火をセットするのが早すぎます。物語はまったく解決しませんし、あまつさえ何が起こったかもロクに説明されません。かと思えば検問の前で明らかに不自然に左折した車をスルーしたり、車検を通ってない車が前を通ってもスルーです。カローラだってあんなバッテリー変えただけでは動くはずはありません、最低限タイヤも変えないと、、、。そのほかにも挙げればきりがないくらい不可解な点は多々あります。ご都合主義を連発しまくってしまったがために、単にフィクションレベルが下がって(=嘘くさくなって)しまっています。

【まとめ】

上にも書きましたが、決してダメダメな作品ではありません。よく言えば「作家性の強い」、悪く言えば「オッサン臭いすかしたダサさ」のある作品ですがボケ~っと観ていればそれなりに楽しめます。ポップコーン映画という点では十分にオススメ出来ます!

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