ジョーカー

ジョーカー

今日はもちろん話題沸騰中のこちら、

「ジョーカー(JOKER)」です。

評価:(95/100点) – ジョーカーの悪辣なジョークに君は何を思うか?


【あらすじ】

アーサー・フレックは道化師である。スタンダップ・コメディアンを目指し、今日もピエロとして営業に明け暮れている。アーサーは少し精神を病んではいるが、老いた母の介護をしながら自身もカウンセリングを受け、ゴッサムの片隅でそれなりに頑張って生きていた。

ある日、アーサーは商店での道化営業中に通りすがりのヤンキーたちに絡まれてしまう。トラブルに遭ったアーサーを心配した同僚のランドルは拳銃をアーサーに渡す。それが大トラブルの元だとも知らずに、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アーサーの日常と道化業
 ※第1ターニングポイント -> 地下鉄での事件
第2幕 -> アーサーの苦悩
 ※第2ターニングポイント -> 母殺し
第3幕 -> ジョーカー爆誕!


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【感想】

皆さんおはこんばんにちは。きゅうべいです。ブログを書き始める前は億劫なのに、一回書き始めると急に書きたいことが山程浮かんでくることってあるんですよね(笑)。前回の「HELLO WORLD」のおかげで何となく文章欲が高まってまいりました。ということで今日は超話題作の「ジョーカー」です。

このブログを読んでいただいている方にはとっくにバレてると思うんですが、実は私、マーベルよりDCというかバットマンのが好きなんですよね。アメコミももっぱらバットマンシリーズを読んでいます。子供の頃にティム・バートン版のバットマンを映画館で見たのが私の原体験になっていまして、これも仕方ないかなと思っております。三つ子の魂百までってやつです(笑)。

さて、このジョーカー。世間的にはもちろんベネチア映画祭の最優秀賞・金獅子賞を獲ったというのが大きいのは言うまでもありません。その御蔭からなのか、体感では「バットマンvsスーパーマン」の5~6倍ぐらいは観客が入っていました。というか日比谷のTOHOは完全フルハウスでした。一昔前では考えられません。アメコミの中でも知名度バツグンのバットマンだというのみならず、ベネチア金獅子賞も一役買ってるのでしょう。客層もいわゆる「アメコミファン」というよりは、心なしかお上品な方が多かったような気もしています(笑)。

相変わらず三幕構成でネタバレはしておりますが、ここから先はさらにネタバレのオンパレードになります。また作品の都合上、おそらく正解は無いといいましょうか、どうしても「オレ解釈」的な話に終始することになってしまいます。私の文作風として断定口調で進めていきますので、不快に思われる読者の方がおられるかもしれません。何卒ご容赦ください。

話の概要

頭からいきましょう。

本作はバットマンの永遠のライバル「ジョーカー」の誕生を巡るストーリーです。正確には「ジョーカーの誕生を巡るストーリー」ということになっています(笑)。舞台はおなじみのゴッサム・シティ。本作でもクリストファー・ノーラン版に準拠するような形でリアル志向の街並みとなっています。たぶんニューヨークですかね。ニューヨークといえばで有名な一直線の高架地下鉄(NY市営地下鉄)が出てきます。劇中にでてくる象徴的なながーい階段はシェークスピア・アベニューのやつです。

そんな「汚い大都市」ゴッサム・シティで、主人公アーサーは懸命に生きています。自分も精神を病んでいるのに、さらに介護が必要な母親との2人暮らし。生活は厳しく、日雇いのような形でピエロ派遣会社に勤めています。鬱屈とした生きづらさを漠然と感じながらも、それでも生きるのに一生懸命なアーサー。そんなアーサーの周りで、理不尽な事件が吹き荒れます。突然の解雇。補助金打ち切りによる精神カウンセリングの廃止。薬もロクに買えず、世間との溝はますます深まるばかり。唯一の心の拠り所であったスタンダップ・コメディアンへの道も、しかし共感性の欠如からか中々笑いのツボが皆と合わない。そんなこんなで怒涛の”追い込み”がアーサーを襲い、彼の精神的な限界を超えます。ついにブチ切れたアーサーはジョーカーとして生まれ変わります。もはや他人は関係無い。笑いなんて所詮は主観的なのだ。完全に開き直ったジョーカーは、自身に政治的な意図が一切ないにも関わらず、貧困層が富裕層に対する不満をぶち撒けるその象徴に祭り上げられます。デモ隊のど真ん中で、ジョーカーは脳内音楽でダンスを始めるのです、、、。

、、、というストーリーをジョーカーは監獄の精神病棟でカウンセラーに語ります(笑)。「このジョークわかるかなぁ???わかんねぇだろうなぁ~」。そんなわけでサクッとカウンセラーをぶっ殺したジョーカーは、今日も今日とて脱獄を企てるのです。

これはジョーカーの仕掛けた壮大なメタギャグだ!

本作を見ていると、強烈な違和感というか「変な感じ」をすごく感じます。いわゆる編集ミスのような不自然な点が多いんです。まるでサブリミナル効果のように「変な感じ」が積み上げられ続け、そして最後の最後にジョーカーの顔のドアップからのズームアウトによって「実はこの映画本編こそがジョーカーが仕掛けた壮大な問いかけなのだ」というのがわかるという仕組みになっています。

さて、大前提です。
DCコミックスの世界において、バットマンやジョーカーは言うなれば「普通の人間」です。超大金持ちだったりはしますが、しかしスーパーマンのように空が飛べるわけでもなければワンダーウーマンのように神様の子供みたいなこともありません。努力やコスプレで格好よくなっているだけで、中身は普通の人間です。ではジョーカーはなぜライバル足り得るのでしょうか?

ジョーカーをジョーカーたらしめているのは、彼の「悪魔性」です。いま一番手に入れやすいコミックですと「NEW52!バットマン:喪われた絆」あたりですかね。ジョーカーはバットマンに対して「おまえの考えている常識は本当に常識なのか?」「おまえの正義は本当に正しいのか?」というのを絶えず問いかけてきます。その精神攻撃はとどまるところを知りません。彼はその攻撃によってバットマンの「偽善と欺瞞」を白日に晒し、そしてそれによって「バットマンだってオレと変わらないじゃねぇか」というのを証明しようとします。そう、善と悪でベクトルが違うだけでジョーカーもバットマンもどちらも狂人なんです。

そんなジョーカーは本作でついに攻撃を映画の観客に向けてきます。そう、今回の精神攻撃の対象はスクリーンの前に座っている我々です(笑)。今回バットマンは出てきませんからね(苦笑)。

今回のジョーカーの攻撃はこうです。この映画の本編を見て「これは社会風刺の映画だ!」とか「これは社会に阻害された貧困層が自我を開放して自ら行動を起こすまでの物語だ!」とか「これは21世紀のタクシードライバー、トラヴィスの再来だ!ベトナム戦争反対!トランプ辞めろ!」とかそういうことを思った人は、ジョーカーの攻撃にまんまと嵌った方たちです。なぜならば、こういうことを言ってる人たちは、つまり「劇中の最後にジョーカーの意思を無視して勝手に祭り上げるピエロ覆面の暴徒たち」と同じことをしているからです。

映画の最後を思い出してください。逮捕されたアーサー=ジョーカーは、暴徒たちによってパトカーから奪還されます。ぐったりしたジョーカーは両手を広げて足を閉じ、まるでキリスト像のような十字型の体制で人々の上を担がれていきます。そして車のボンネットに横たえられ(=磔になり)、皆の祈り・期待によって復活します。復活したジョーカーは「政治的な意図は一切無い」という言葉とは裏腹に、反体制の象徴として祭り上げられます。


つまり、この映画を見て上記のような「社会風刺が~」と言うのは、まさに「ジョーカー(※キャラと本作のタイトルのダブルミーニング)」を祭り上げる行為であり、はっきりと本人の口から「政治的な意図は無い」と言われているにも関わらず勝手に自分の意見を正当化するためだけに「ジョーカー」を利用する偽善者どもなわけです(笑)。

念の為ですが私が言ってるんじゃないですよ。劇中のジョーカーが言ってるんです。

つまり、ジョーカー(=というかこの映画を作ったトッド・フィリップス監督)にとっては、「社会風刺として素晴らしい」とかいって世界三大映画祭のベネチア金獅子賞をもらった事自体が壮大な「欺瞞・偽善を白日のものに晒してやった」成果なわけです(笑)。ベネチアさん、釣られましたな(笑)。

そんなわけあるか!と思う人は、以下のインタビューを御覧ください。

続編はホアキンが作るべきと言ったら真剣に考える――『ジョーカー』トッド・フィリップス監督インタビュー
https://jp.ign.com/joker/38759/interview/

政治的な映画だと見る人がいるかもしれないが、それは自分が意図したところではない。人道主義者的な映画だと見る人もいるだろう。それは自分が意図したところだが、メッセージが何かはすべて観客の方に委ねている。

劇中でジョーカーがお披露目となる象徴的なテレビシーンで司会者マレーに言い放つ「自分に政治的な意図はない」というセリフを、監督も自覚的に繰り返しています。確実にわざとですね(笑)。トッドもワルよのぉ。

この映画はアーサーが外部からの怒濤の抑圧から解放されて、そして周りから求められるところで終わるという大変パーソナルな内容です。だから不謹慎ではありますが、間違いなく人道的です。一人の男の救済の話ですからね。

もちろんこのジョークが成立した一番の成功要因がホアキン・フェニックスの演技力であることは疑いようがありません。ジョーカーが生理的に魅力的であればあるほど、偽善者どもは彼をダーク・キリストとして祭り上げるのですから。

【まとめ】

というわけで、本作は大変悪趣味かつ壮大なメタジョーク作品なのです。そして現在リアルタイムでこのジョークは完成度を上げていっております。なにせ世間がこの映画を政治的に祭り上げれば祭り上げるほど、よりジョーカーの悪辣なジョークが鋭さを増す構造になっていますからね。こうなったら是非アカデミー賞まで行ってほしいですね。壇上のスピーチで「おまえら馬鹿ばっかか!」とやれば伝説になれるでしょう。出禁になっちゃうかもしれませんが(笑)。

ですからこの映画は是非劇場で御覧ください。これはリアルタイムで評論が飛び交う今でないと最大限に楽しむことはできません。映画を見てそして是非周りのいろんな人の意見を読んで・聞いてみてください。自分の中の偽善者が出て来たのか来なかったのか?評論を書いているあの人は理性的なのか欺瞞的なのか?この映画はそんなイヤ~なところが炙り出される、まさにジョーカーのサイコトラップなのです。

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記事の評価
スター・ウォーズ/最後のジェダイ

スター・ウォーズ/最後のジェダイ

もうね、これは書かざるをえないでしょう

「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」です。

評価:(15/100点) – これはスターウォーズの文化大革命だ!!!


【あらすじ】

前作「スターウォーズ/フォースの覚醒」によりついに居場所の割れたルークの元に、レイが降り立つ。反乱軍の希望としてルークを連れ戻しに来たレイだったが、ルークの意思は固い。レイに同行したチューイとの再会にも心が動かないルーク。しかしR2D2との再会により遂にルークは自分が「オビ=ワン」になることを決意する。フォースに目覚め困惑するレイにルークは指導っぽいことをしていく。

一方その頃、反乱軍はファーストオーダーの大追撃を受けていた。逃げ切れないと悟ったフィンは、女性整備士のローズとともに敵戦艦に乗り込み追跡装置の電源を落とす作戦に出発する、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ドレッドノートとの戦闘/レイとルーク
※第1ターニングポイント -> ルークがR2D2と再会する/潜入作戦開始
第2幕 -> レイの修行とフィンのカジノ惑星潜入
※第2ターニングポイント -> スノークとの闘いと敵戦艦への潜入
第3幕 -> 決戦!クレイトの闘い


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【感想】

さて、本日は話題沸騰の「スターウォーズ/最後のジェダイ」です。言わずと知れたスター・ウォーズの正伝最新作であり、エピソード8です。昨日から公開ですが、すでに大手WEB媒体の現代ビジネスだの産経ニュースだのでは大絶賛状態です。だが、ちょっとまって欲しい。ちょいっっと待って欲しい。本当でしょうか?あなたの心の中のフォースはなんて言ってますか?本当に褒めてますか?そう、私はこの映画に怒り心頭です。はっきり言います。

ふざけんなよライアン・ジョンソン!!!!!!!!

なんじゃこのクソ映画はボケ!!!!!!!!!

てめぇは偉大なるシリーズへのリスペクトが足らんのじゃカスが!!!!!

失礼いたしました。つい正気を失っちゃいまして(笑)。握りしめたビール瓶は汗で滑って落ちたので勘弁してください。

ということで、今回もご多分にもれずネタバレを多く含みます。もしまだ本作を見ていない方、本作を見て大満足した方は以下お気をつけください。

はじめに

結論から言ってしまえば、本作はシリーズを終わらせるための、、、そして今後無限に続けるための作品です。そういった意味ではディズニー資本となってより安売り/商品化されるための必要悪と言えます。

この映画の問題点は山ほどあります。というか問題しかありません。ストーリーは駄目だし、キャラも駄目だし、設定はクソ。こういった山ほどある問題は大きく3つに分けることが出来ます。1つ目はストーリーテリングがグダグダすぎる問題。2つ目は「リアリティ・ライン」「SFレベル」が旧作から大幅に乖離している問題。もう1つは世代交代における旧作全否定/キャラへのリスペクトが無い問題です。具体的な細部に入る前にまずは作品を俯瞰的に見ていきましょう。そう、キーワードは「文化大革命」です。

これは「神話」を「物語」に堕とすための作品だ!

スター・ウォーズシリーズはストーリー・ドラマの手法を取っているクロニクル形式の映画です。つまりスター・ウォーズ世界の年表を基に、「今回の映画はここからここ」みたいな歴史の一部分を切り取って映像化するスタイルです。そのため全てのシリーズでオープニングテロップにより「これまでのあらすじ」が語られ、そして映画本編のアバンタイトルが始まるわけです。今回のEP8はEP7の直後から始まっていますが、旧作は作品を跨ぐとけっこう時系列が飛んでいました。

ストーリー・ドラマである以上はキャラクターの新陳代謝は必要不可欠です。前作では旧作キャラであるハン・ソロが大活躍し、かつ敵も新しくダークサイドに堕ちたスカイウォーカーであったわけで、必ずしも世代交代できたとは言えませんでした。今回のテーマはこの「世代交代」であり私に言わせればこれは「文化大革命」です。

以前のローグ・ワンでも触れましたが、スター・ウォーズシリーズは「スカイウォーカー家」を中心とした善=ジェダイと悪=シスの闘いの話です。よくスター・ウォーズは「スター・ウォーズ神話(サーガ)」と表現されますが、まさしく「善と悪との闘いで超能力一家が大活躍する」というギリシャ神話/エジプト神話/北欧神話的なストーリーなわけです。この辺は「キング・オブ・エジプト」を見た人ならよくわかると思います(笑)。このサーガにおいてスカイウォーカー家は神様であり大貴族様です。だからこそ昨年の「ローグ・ワン」がスター・ウォーズ史上初めて「普通の人間にフォーカスした」作品として大変面白かったわけです。

ところが、、、ディズニー的なポリティカル・コレクトネス=過剰な平等主義=共産主義が、この神話世界を完膚なきまでに俗世化し破壊いたしました。そう、平等主義の名のもとに保守的な神話/宗教を破壊する本作はまさしく「文化大革命」です

本作ではこの「文化大革命」について2度もジェダイとダークサイドの両方から語られます。

1度目はルークと霊体ヨーダのシーンです。ヨーダが出てきたテンションで誤魔化されがちですが(笑)、彼の言ってることは「保守的なジェダイの教えは役に立たない」ということなんですね。つまり保守主義を全否定する進歩主義です(笑)。
2度目の言及はカイロ=レンがスノークを殺した後にレイを勧誘する際のセリフです。「ジェダイ、シス、ファーストオーダー、反乱軍、そんなもんはどうでもいいんじゃ!俺等で新しい秩序をつくるぞ!一緒にやろう!」的なアレです。

そしてこの文化大革命にはプロダクション上で大きな狙いがあります。旧シリーズの「スカイウォーカー家の神話」を断ち切るため。そしてそれによって「今後の作品を作る上でのあらゆる制限を取り払うため」です。これまでだとどうしてもカイロ=レン的な旧作ゆかりのキャラクターやほぼスカイウォーカー家の人物の周辺で話を転がすしかありませんでした。しかし今回の文化大革命により、広く一般人に門戸が開放されたわけです。

この文化大革命の意図は本作の随所に見られます。「レイの両親が何者でもない=庶民である」というのもそうですし、血筋だけ見れば最強のはずのカイロ=レン(ベン=ソロ・スカイウォーカー)がヘタレであるのもそうですし、そして最後のシーンで名もなき奴隷っぽい少年がフォースを使ってホウキを引き寄せて掃除するシーンもそうです。ジェダイ=フォース使いが特権階級・既得権益ではなく市民に開放されたわけです(笑)。

これによってスター・ウォーズシリーズは今後無限に作ることが可能になりました。スター・ウォーズ神話(サーガ)がスター・ウォーズ物語(ストーリーズ)に俗世化したのです。

全世界のスター・ウォーズオタクが涙を流した大傑作ドキュメンタリー「ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス(2010)」を見ればわかるように、このSWサーガの創造主ジョージ・ルーカス自身も大変商売っ気のある人です。彼の同門であり大親友のスピルバーグがよくグチっているように、ルーカスは偉い立場になったり映画人としての責任で真面目映画を撮るみたいなことを全然しません(笑)。当のスピルバーグは一生懸命「ユダヤ人としての使命」とか「映画人としての責務」とかいって政治映画や歴史物をいっぱい撮ってるんですけどね。ルーカスはぜーんぜんそういうのに興味ありません。そんなルーカスですが、どんなに叩かれまくったプリクエル(※SWエピソード1~エピソード3の総称)でも、キャラクターの価値だけは頑なに守ろうとしてきました。商売道具ですからね。結果的にヨーダだけに全ての物語のしわ寄せがいって無能になってしまっていますが、続けてトリロジー(※SWエピソード4~エピソード6の総称)を見るとよりEP6最後の感動が増すようにちゃんと設計出来ています。

しかし今回の文化大革命によって旧作の全てのストーリーは破壊されました。結局旧来のジェダイ・オーダーはフォースのバランスを保つことが出来ず、新世代(レイとカイロ=レン)の独自判断に委ねられることになります。これが「創造のための破壊」だったのか、それともただの自爆だったのかは、次回作エピソード9の公開まで判断を待ちましょう。

さてここまでが本作の位置づけです。ここからは細かい問題点の話に行きます。長くてすみません。

問題1:話がクソすぎる

本作を単体で見たときの問題は話のグダグダっぷりです。これに尽きます。この映画では大きく3つのグループが並行で行動します。

第1グループはレイとルーク、R2D2、チューイです。こちらは「ルークが引きこもっている島へ行って連れ帰ってくる」というミッションを与えられたレイ一行の物語です。なんやかんやでルークにフォースを教えてもらうレイですが、しかし特に師弟関係になるでもなく仲違いしてすぐにレイが飛び出してしまいます。このシークエンスにおいて、レイはロクに修行をしておらず、いわゆる自主練だけでメキメキ強くなっていきます。ルーク師匠出番なし(笑)。結果的にレイが天才だったって話にしかなっていません。「子は親が居なくても強くなる」ってやつですね。

第2グループはフィンとローズのコンビです。2人は反乱軍を追撃してくるファーストオーダー艦隊を撒くため、潜入して追撃装置の電源を切ろうと企てます。追撃装置を切るためには直接敵艦に潜入するしかなく、そのためには世界最高の鍵破りが必要ということでマズ・カナタの紹介を受けスカウトに出かけます。こちらに関しては作戦工程もグダグダなら結果もグダグダで、エピソード自体が丸々どうでもいいという大惨劇になっています。おまけにポリティカル・コレクトネスの弊害でマッチョ黒人と不細工アジア人のラブロマンスという別に映画でまで見たくない絵面になっており、もう本当にどうしていいか分かりません。そういうのはブリジット・ジョーンズの日記とかのスイーツ映画だけにしてくれませんかね。人種差別だとかそういう変なこと抜きで、不細工が正統派ヒロインみたいな仕草をしているのを映画でみたくないっす。これも俗世化の反動ですね。神々しいまでに美人のアミダラと較べて、今作のローズは人間味に溢れています。しかし冒頭に出てくるローズの姉がめっちゃ美人なため、もう制作側の悪意しか感じません。このエピソードに関わった俳優は全員ババ引いてます。

第3グループはレイア将軍率いる反乱軍本隊です。こちらはひょんなことからホルド中将がレイアに代わって指揮を執ることになるんですが、この超絶秘密主義のババァ(※リンチ映画でお馴染みの怪優ローラ・ダーンですw)に掻き回されて無駄な小競り合いに発展します。もうね、、、全てがアホ過ぎます。ホルドが5分説明すれば済むだけのことで映画を30分以上使いますからね。反乱軍の連中は全員ナポレオン・ヒルでも読めよってレベルです(笑)。コミュニケーションって大事ですね、、、。

ということで、話に関しては褒めるところは一ミリもございません。全てがクソすぎます。監督兼脚本でこれは酷い。

問題2:SFレベルの旧作からの大幅な乖離

たぶん私も含めた旧作ファンで本作にブチ切れている人はここに引っかかっているんだと思います。本作は旧シリーズに対してリアリティ・ラインがズレ過ぎています。

ちょいと補足をしましょう。SFは「サイエンス・フィクション」=「科学的なハッタリ」という文字通りにウソをついてなんぼのジャンルです。スーパーマンが空を飛んだりバットマンが戦闘服を着ただけで大暴れできるのもこの「ウソ」の賜物です。そして各作品には「ウソの付き方」の度合いというのがあります。この「どの程度まで本当でどの程度ウソ=魔法的な要素を入れるか」を「SFレベル」とか「リアリティ・ライン」と言います。よく言われますが、スター・ウォーズでは「真空の宇宙空間なのにレーザーガンの音が聞こえる」というのがウソです。大前提としてもちろんフォースもウソです(笑)。

このSFレベルというのは「その作品がどの程度SFでどの程度ファンタジーか」を図る重要な尺度でありここがブレてはいけません。例えば、漫画のドラゴンボールでは、キャラクターが死んでもすぐに生き返ります。だからキャラが一回死んだくらいで長々とセンチメンタルなことをされたらシラケてしまいます。ところが同じSFジャンルの映画スタートレックでは、一度死んだキャラは生き返りません。ですから、老スポックの死が観客みんなの心をうつんです。これが作品ごとのSFレベルの違いです。同じ「キャラが死んだ」という状況なのに、SFレベルが違う作品では受け止め方が全然違うわけです。そんな重要なSFレベルにおいて、本作は旧作から大きく逸脱しています。

具体的に言いましょう。

まず映画の冒頭で皆さん引っかかると思うのが、「宇宙空間において爆撃機が爆弾を投下する」シーンです。旧作でもこのシーン以外でも、巨大戦艦の近くで重力が発生するという描写はただの一度も記憶にありません。宇宙空間で爆撃機の艦底を開けると爆弾が落ちていく意味がわかりません。浮くんじゃないの? 実際に撃破された戦艦の破片は浮いてますしね。なんで爆弾だけが戦艦に落ちていくのか意味がわからなすぎてポカーンとなります。

他にもレイアの宇宙遊泳なんかもそうです。宇宙空間に放り出されて意識を失っているのになぜかフォースを使って生き残るという、、、フォースって無意識でこんな便利に使えましたっけ? 霊体ヨーダが雷を起こすところも同じようにSFラインを崩しています。霊体になったジェダイが現実世界に物理干渉しちゃ駄目でしょう、、、。それがありならヨーダ・クワイ・オビワン・アナキンで全部の戦争を瞬間的に終わらせられそうです。さらにはルークの幻影術ですね。こんなんできるんかい!っていう。全然役にはたっていませんでしたが(笑)。さらに忘れちゃいけないのがライトセーバーの遠隔操作ですね。あ、それやっちゃうんだ、、、という呆れと驚きがありました。それがありならガンダムのファンネルみたいに自分の周りにライトセーバーを飛ばしときゃ無敵ですよね(笑)。このように本作におけるジェダイ/フォースの扱いは無茶苦茶です。

さらに驚くのが最後の最後、ハイパードライブ(ワープ)を使った特攻攻撃です。え!?それできるの!?という。全部それだけでいいじゃんって話です。ハイパードライブを積んだ無人機を魚雷みたいにすれば全部倒せるわけですよ。スター・デストロイヤーだって瞬殺です。この世界の戦争のあり方の根底が覆ります(笑)。

SFレベルというのはその作品の説得力を生み出す根幹の部分です。それがここまでブレていると、もはや真面目に見ているのが馬鹿らしくなるレベルです。

問題3:世代交代のやり方が上手くない

3つめの問題点はキャラクターの世代交代のやり方です。これは懐古主義者のグチといわれても仕方ない部分なので最後に持ってきました(笑)

前述のとおり、本作の文化大革命において世代交代は大きなテーマです。旧作キャラ達から新3部作キャラへのバトンタッチです。ところが、本作では新キャラを魅力的に描くというプロセスが欠けており、ただ単に旧作キャラを貶して退場させているだけです。これではいくら旧作キャラを退場させても新キャラに人気は移りません。

だって、レイもポーもフィンもローズも、なにも大勢(たいせい)に影響を与えてないじゃないですか。小さな活躍をスポットでしているだけで、まったく魅力が伝わりません。その代わりといってはなんですが、宇宙遊泳をするレイアや、幻影術で翻弄するルークなど、旧作キャラの強烈な能力だけが描かれています。

とはいえルークに関しては本作では貶されまくりです。特にカイロ=レンに裏切られるエピソードからの引きこもりの流れが酷すぎます。この監督はルークに怨みでもあるんですかね?本作のルークは結局ダークサイドを恐れているだけであり、ジェダイとして完成されているとは到底思えません。旧作ファンの戯言としては「こんなのルークじゃない!」と強く思います。演じるマーク・ハミル自身も思ってるみたいですが(笑)。クワイ・ガン・ジンや若き日のオビ=ワンの方が遥かにしっかりしていますからね。前作の「フォースの覚醒」が思いっきり旧作パロディに徹していたのと真逆のアプローチで、旧作ファンとしては怒りボルテージがどんどん上がっていきます。

そのくせ、本作でグッとくるシーンってことごとく旧作ファンむけの目配せなんですね。ルークとR2D2が再会したときのレイア映像とか、C3POへのウィンクとか、最後のルーク仁王立ちとか、太陽が2つ見える(=ルークとアナキンの故郷であり旧作の原点タトゥイーンを彷彿とさせる)シーンとか、ぜーんぶ旧作の思い出に頼りきってます。散々頼りきっといてそれかよっていう監督の不誠実さが本当に腹が立ちます。

【まとめ】

なんか書いていたらどんどんグチになってきたのでこの辺で切り上げます(笑)。この映画、マジで誰が得してるんでしょうか。私は前作のエピソード7は「EP4の焼き直しじゃねぇか!」と思いながらもまぁまぁ許せる範囲でした。ある意味でJJエイブラムスお得意の「同人映画」ですからね。ところが、本作は旧作へのリスペクトが無く、破壊して今後の商売につなげるためだけの作品です。冒頭に書いたように、ディズニーがスター・ウォーズを未来永劫続けるために必要な行為なのは間違いありません。ただ、これはやっぱり旧作ファンにはキツイものがあります。

ちょいと余談です、私、実はこの映画を見ていて一番感じたのは「これはスター・ウォーズにおける∀ガンダムだ」ってことなんです。ロボットアニメ史上に燦然と輝くガンダムシリーズは、創造主の富野由悠季自身による「∀ガンダム(1999)」によって完全に破壊され眠りにつきました。当時「ガンダム」というブランドが巨大になりすぎて、富野監督本人のコントロールできる規模ではなくなってしまっていたんですね。彼自身そのギャップでちょっと精神的にマイッてしまった時期もあるぐらいです、しかし一方のバンダイとしてはガンダムはドル箱であって、無限に作り続けたいというニーズがありました。そこで頭の切れる富野監督は、バンダイを騙し討ちする形でガンダムシリーズの完結編を勝手に作っちゃったんですね(笑)。「いままでのシリーズから何万年も後の遠い未来」という設定で、完全にピースフルで、どんな無茶苦茶な物語でもすべてを包み込んでしまう「優しい最終回」を書いてゲリラ的に放送しちゃうんです。富野監督本人は「ターンエーの癒やし」という単語でこの作品を表現していました。要は今後どんなにガンダムシリーズが粗製乱造されたとしても、物語上はすべて「∀ガンダム」に繋がるようになっていて、そしてそこで大団円のハッピーエンドになるわけです(笑)。このおかげで、どんなに「ガンダム」という名のもとで駄作が量産され続けたとしても、「どうせ最後はターンエーガンダムにたどり着いて、あの湖畔に行くんでしょ」と監督やファンは枕を高くして眠れるようになりました。

そうなんです。本作は、スター・ウォーズが好きな全世界のファンに別れを告げる作品なんです。「もうお前らの好きなスター・ウォーズは終わったから」というディズニーの決別宣言です。ファンとしては、もし本作をジョージ・ルーカスが撮ってくれていたら文句言いながらも泣いてお別れができたと思うんですね。ですけども、実際のルーカスはとうの昔にスター・ウォーズからイグジットしてしまっており、シリーズはもはや彼の興味から離れているわけです。私達はルーカスの幻影を追いかけていただけなんです。そして、本作では最大限の侮辱をもってその幻影を新オーナーであるディズニー自らが振り払ったんです。だからもう私達も後ろを振り返るのは止めましょう。2017年12月15日はスター・ウォーズの命日です。R.I.P。

私も、次作以降は心を無にして見ることができそうです。
日本全国のスター・ウォーズファンにこの言葉をお送りします。

「諸君らの愛してくれたルーク・スカイウォーカーは死んだ!何故だ!」
「ディズニーだからさ」

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記事の評価
ジャスティス・リーグ

ジャスティス・リーグ

さて、久しぶりの映画感想の更新です。今日見てきたのはこちら

「ジャスティス・リーグ」です。

評価:(35/100点) – どうしてこうなった、、、


【あらすじ】

前作「バットマンvsスーパーマン」からしばらくのち、世界は謎のエイリアンに襲撃されていた。謎のエイリアン「ステッペン・ウルフ」の目的は地球にある3つのマザー・ボックスを1つに融合し地獄の世界をよみがえらせること。世界の危機を察したブルースは、超人類達のスカウトを開始する。

【三幕構成】

第1幕 -> バットマンのスカウト活動
 ※第1ターニングポイント -> ステッペン・ウルフ降臨
第2幕 -> ステッペン・ウルフのマザー・ボックス集め
 ※第2ターニングポイント -> スーパーマンを蘇らせる
第3幕 -> 対決!ジャスティス・リーグvsステッペン・ウルフ


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【感想】

皆さんおはこんばんにちは。久しく映画の記事を書いていなかったのですが、当ブログの復活は元はと言えば「バットマンvsスーパーマン」を擁護するためでした。そう、ならばこそ、この映画は外せないでしょう。ということで「ジャスティス・リーグ」の登場です。

本作は「マン・オブ・ザ・スティール」「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」「スーサイド・スクワッド」「ワンダーウーマン」に次ぐDCフィルムズユニバースの5作目です。監督はおなじみザック・スナイダーで脚本も引き続きクリス・テリオが書いていたものの、最終的には両者とも降板して仕上げをなんと「アベンジャーズ」のジョス・ウェドンがやっています。相変わらずワーナー映画はプロダクションがグダグダです(笑)。

そんなこんなで相変わらず迷走を続けるDC映画陣営で、では本作はどうなったかといいますと、、、、これですね、まさに「どうしてこうなった」状態です。絵面は間違いなく格好いいのに、話が酷すぎます。このブログを読んでいただいている方にはなんとなく伝わってるんじゃないかと思っているんですが、「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」と「スーサイド・スクワッド」は映画としては決して褒められる出来ではないものの、見るものを熱くさせるというか、こうエモーションを直接的に刺激してくるような魅力があったんですね。だからこそ文句もグチグチいいたくなるし、擁護もしたくもなるわけです。ところがですね、正直申し上げて、本作にはそういう魅力はまったくありません。早い話がただつまんない。今日は私のグチを全開でお届けします。

話の概要

本作は「バットマンvsスーパーマン」の直接的な続編です。スーパーマン亡き世界で、バットマンは今日も今日とてゴッサムの治安を守っています。そんななか、ゴッサムに前作の夢に出てきたパラデーモンが出現するようになります。いよいよ悪魔が地球に迫っていることを実感したバットマンは、目星をつけていた超人達をまとめようとスカウトに乗り出します。一方、ワンダーウーマンの故郷・アマゾンでは、代々守られてきたマザーボックスに異変が起きます。そしてマザーボックスは悪魔ステッペン・ウルフを召喚してしまいます。召喚されたステッペン・ウルフは、地球上に散らばる3つのマザーボックスを集めて地獄を蘇らせようとします。

そう本作はファンタジーよりな世界観で描かれるヒーローvs悪魔のバトルものです。強大な悪魔を倒すため、アマゾネス、アトランティス、人類、クリプトン人の各種族が力を合わせて闘います。これだけ聴くと超楽しそうです(笑)。ところが、、、

本作のマズい所:いま何を何故やってるかがわからない

本作が一番マズいのは、「話の目的」がわからないため、画面の登場人物が「いま」「何を」「なぜ」やっているかがまったくわからない所です。つまりガールズトークっぽい(笑)。これはかなり重傷です。

例えば序盤から出てくるロシアの田舎の家族がいます。なんか原発っぽい煙突がある村に親子で住んでいて、村がパラデーモンに占領されちゃったようです。映画全編を通じてちょいちょいこの家族の描写が挟まるのですが、この家族が本筋に絡むのはラスト15分前くらいです(笑)。しかも実際絡んでみると、それまでの描写がまったく意味がないのがわかります。はっきりいって作品上はただのノイズです。

その他にも、序盤に描かれるバットマンのスカウト活動があくまでも「迫りくる危機に予め対処しようとする」という体裁なので、まったく切羽詰まっていません。そうすると、なんでいまスカウトをやってるのか、そして画面上でなぜその描写が行われているのか、見てて戸惑うんですね。

スカウトが終わった後にしても、唐突に「スーパーマンって復活させられるんじゃね?」みたいな話が始まり、そして唐突に最優先事項として行われ、さらには「復活したスーパーマンは以前とは違うかも」みたいな謎の横滑り展開が始まります。そしてその結果、映画のストーリー上もっとも大切な最後のマザーボックスを置き引きされます(笑)。あのねぇ、、、映画の最重要アイテムをラスボスに置き引きでパクられるってさ、、、バカじゃないの?大げさに書いているように思われるかも知れませんが映画を見た方なら誰しもが納得いただけると思います。最後のマザーボックスは完全に置き引きです。そして最重要アイテムを置き引きされてまで始まった「スーパーマンがおかしい」みたいな展開も、特に収束しないまま適当に終わります(笑)。

これらの事は単に「一本の映画に要素を詰め込みすぎ」というだけではなくて、そもそものストーリーラインをちゃんと書けてないということなんですね。一本のストーリーラインを書いた後にエピソードを肉付けしていったならばこうはなりません。すっっっっごい行き当たりばったりです。これですね、おそらく元々前後編の2部作でやるはずだったのを1本にまとめたことと、監督・脚本が相次いで降板したことが無関係では無いと思います。少なくとも一人の「責任者」がちゃんと目を通したらこうはなりません。

万事が万事適当なので見てて本当に混乱しますし、今何を目的に何をしてるのかがよくわからなくなってきます。そんなわけで結果的には大した盛り上がりもせず、本当は結構強いはずのラスボス・ステッペン・ウルフがただの雑魚にしかみえなくなり、しかもフラッシュもアクアマンも「スーパーマンが居ればいらないんじゃね?」というアレな着地になってしまうんです。そう、せっかくのスーパーヒーロー集合映画なのに、ぜーんぜん役にもキャラも立たないんですね。本当どうしてこうなったんでしょう

【まとめ】

というわけで、DCFUの前2作と比べて明らかにテンションが低いのがお分かりいただけるかと思います(笑)。テンション、、、、、、上がらないっすよね。凄い期待してたんですけれども、なんだかな~~~となってしまいました。気を取り直しますと、DCFUの次回作は脚本・主演ベン・アフレックの「ザ・バットマン」になるはずです。これはさすがに面白いでしょう。天才ベン・アフレックがまさか得意の俺様映画で外すとも思えません。ということで「ジャスティス・リーグ」は見なかったことにしまして、ザ・バットマンに期待しましょう!!!

ちなみに「ザ・バットマン」は元々ベン・アフレックが監督・脚本だったのに、監督は猿の惑星リメイク版のマット・リーヴスに交代になり、脚本もベン・アフレック版からだいぶ改変されたと言われております。なんでワーナーはこんな話ばっかなんでしょう、、、、。

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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス

土曜は2本見てきました。1本目はマーベル最新作

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」です。

評価:(82/100点) – ヤンキー=マイ・メン+マザコン


【あらすじ】

ガーディアンズの面々はソブリン人の依頼でアニュラクス・バッテリーの防衛を任される。軽々仕事をこなして、報酬として囚われの身のネピュラを確保したガーディアンズだったが、なんとロケットが肝心のバッテリーを盗んでいた!「防衛を引き受けた貴重品を自分で盗むバカがどこにいるか!」大激怒するソブリン人達から命からがら逃げるガーディアンズを救ったのは、謎のカプセル型宇宙船でサーフィンを決め込むナイスダンディだった。いかしたオジさんは、ピーターにこう声を掛ける。「探したぞ、我が息子よ」。こうしてガーディアンズは二手に別れる。ロケット、グルート、捕虜ネピュラの三人は壊れた宇宙船ミラノを修理するためとどまり、ピーター、ガモーラ、ドラックスの三人は、ピーターの父の故郷と言われる惑星エゴへ向かう、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> バッテリー防衛とソブリン人の追撃
※第1ターニングポイント -> ガーディアンズがベアハートに不時着する
第2幕 -> ふた手に別れた行動
※第2ターニングポイント -> ピーターが真実を知る
第3幕 -> 惑星エゴ決戦


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【感想】

さて、土曜はマーベル・シネマティック・ユニバースの15作目、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」を見てきました。前作「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(2014)」は「ダメ人間たちがダメなまんまで宇宙を救うスペース・オペラ」として超大傑作すぎる内容で親指が上がりっぱなしでしたが、本作ではダメ人間から「ダチ公マイ・メン!」な感じのマイルドヤンキー志向にシフトしまして、よりエモい方向に方針転換しています。ちょうど最近「ワイルド・スピード ICE BREAK (Fast & Furious 8)」を見たばっかりなので、完全にテーマが被ってました^^;

本作では実の「家族」と、マフィア/ヤンキー的な意味での「ファミリー」の間で多くのエモい事件が発生します。

アベンジャーズ・シリーズのラスボス・”青ゴリラ”サノスの娘であるガモーラとネビュラ姉妹の確執。実験動物として家族を持たない(=持てない)ロケットと、相方でありながら前作で犠牲となり転生した赤ん坊のグルート。妻と娘を殺されて孤独なドラックス。栄光のラヴェジャーズから追放されワルとして生きるヨンドゥと、彼に誘拐され育てられたピーター。こういった孤独を感じるハグレもの達が、「ガーディアンズ」というチームによって仮想家族となり、お互い絆を深めていきます。

そう、これ、スペースペラを使っているだけで、やってることはドヤンキー人情ものなんですね。全世界規模でマイルドヤンキー化が進んでいるという、、、良いのか悪いのか^^;

ただ、「ワイルド・スピード ICE BREAK」が「ヘッドの隠し子を救うためにファミリーが頑張る」という非道徳/ヤンキー色が強すぎる(笑)内容であるのに対し、こちらはよりマイルドで道徳的な方向に着地しております。そういった意味では、こちらの方がより万人受けします。

相変わらずジェームズ・ガン監督が上手いのは、こういったエモエモ全開の話の合間に事あるごとオヤジギャグをぶち込んでバランスをとってくる所です。最後の最後、カーテンコールの超エモい花火&ラストカットの涙まで、なるべく観客が泣き出さないようにひたすらハズしてきます。そして、観客の「泣きたいのに泣けないよ~~~」を完全に殺しに来るラストで、ものっすごいアザとい演出を使い、ものっすごいピンポイントに泣かせにきます。ダメ人間が名誉回復する話なんだから、そりゃウルっときても仕方ないですわ。仕方ないけど、あまりのアザとさに個人的にはちょっと引きました(笑)。正直な話、泣ける映画度は前作より格段に上がっていますが、映画としてのクオリティというか対象レベルはちょっと下がってると思います。

この後の展開として、マーベル・シネマティック・ユニバースとしては「スパイダーマン・ホームカミング(2017夏)」「ソー:ラグナロク(※バトルロイヤルとかいうクソ邦題はボイコットします。)」「ブラック・パンサー(2018春)」と続いて「アヴェンジャーズ:インフィニティ・ウォー(2018GW)」に行きます。ガーディアンズが前作「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(2014)」でノバ帝国に預けたオーブをサノスが奪いに来るのは確実なので、「アヴェンジャーズ:インフィニティ・ウォー」でガーディアンズが乱入してくるのはほぼ間違いありません。

本作の舞台が2014年。「ドクター・ストレンジ」の冒頭が「キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー」と同時期(※事故に遭う車の中でローディのカルテが映る)で2016年。アヴェンジャーズ:インフィニティ・ウォーの舞台が2018年になると考えると、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」からは4年後になります。グルートはどこまで成長しているのか?ガーディアンズのチーム力は上がっているのか?スタローン率いるラヴェジャーズの参戦は? キャラが飽和状態で散らかり始めたMCUですが、まだまだ大団円まで突っ走りそうです。

ただ、結局これって原作アメコミと同じく「一見さんお断り」状態になりつつあるんですね。DCコミックでは全部リセットして「New52!シリーズ」と銘打って最初からやり直しましたが、MCUもどこかで一区切り付けないといけないかもしれません。

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モアナと伝説の海

モアナと伝説の海

週末はディズニーアニメ最新作

「モアナと伝説の海」を見てきました。

評価:(75/100点) – ザ・ロックの魅力で持たせる120分


【あらすじ】

かつて女神テフティは世界を作った。その強大な力を手に入れようとする邪悪な者達はテフティの心を狙い闘争を続けていた。そしてある時、マウイがテフティの心を盗む事に成功する。しかしマウイは悪魔テ・カァの襲撃にあいテフティの心と大切な武器・釣り針を海に落としてしまう。マウイは泥棒の罪で無人島に幽閉される。

それから1,000年、サモアの島々は闇に吸収されようとしていた。世界を救うために選ばれたムトゥヌイのモアナは海よりテフティの心を授かる。マウイを探し一緒にテフティに心を返すため、モアナは村の掟を破ってサンゴの海を渡る。

【三幕構成】

第1幕 -> ムトゥヌイに不吉な事が起きる
 ※第1ターニングポイント -> お婆ちゃんの死
第2幕 -> マウイ捜索とテフティへの旅
 ※第2ターニングポイント -> テ・カァに返り討ちにあう
第3幕 -> リベンジ・マッチ


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【感想】

さて、週末は1本、ディズニー映画最新作「モアナと伝説の海」を見てきました。監督はご存知ロン・クレメンツとジョン・マスカーのコンビで、「プリンセスと魔法のキス」以来7年ぶりの新作です。私は有楽町の日劇で見てきました。シアター1の大箱で、観客が6割ぐらいでしょうか。ちょっとさびしい感じでした。

本作のストーリー自体は指輪物語と同じです。世界を変えてしまうような強大な力をもったアイテムを返す・破棄するために、田舎出身の主人公は仲間とともに旅をします。途中なんやかんや妨害を受けながら最終的には目的を達成して、だけどもスーパーパワーを得るわけでもなくまたもとの田舎の生活に戻ります。

そう、この映画はただしく「行って帰ってくる話」であり、そこになんの文句もございません。

この映画は、最近のディズニーでは珍しく明確に子供向けにターゲットを絞っています。モアナは最初から選ばれた「ザ・ワン」として登場し、身体能力も超抜群、特殊能力を使わない生身の体で並み居る悪魔や怪物と戦っていきます。このモアナは完全に子供の考える「スーパーヒロイン」です。ピクサーの「メリダとおそろしの森(2012)」みたいに男勝りの女主人公はいましたが、ここまで明確に「女性であることを捨てずに身体能力抜群なアクションスター」というのを打ち出したのは初めてじゃないでしょうか?

そうすると、やっぱりちょいと年のいった身としては、相方のマウイの方に魅力を感じちゃうわけです。

このマウイがですね、声優をやっているザ・ロックに120%寄りかかったキャラなんですね(笑)。俺様キャラでありながら根は優しく力持ちでニヒルに笑うナイスガイ。挙句の果てには「みんなのヒーロー(=ピープルズ・チャンピオン)になりたいんだ」とかいいながらピープルズ・アイブロー(=ザ・ロックの決め顔で、片眉だけ思いっきり上げるドヤ顔)をする始末。狙いすぎだろっていうくらいザ・ロックそのものです。WWEアティテュードど真ん中世代としては、もうこのキャラだけで2万点だしていいかなと思います。

そんなバディ2人がすったもんだしながら珍道中を繰り広げるわけで、これがつまらないはずがありません。

本作は子供向けに全振りしてますので、細かいところのアラ・ウソはかなり多いです。食料問題とか、モアナが絶対ヤケドしないとか。でもそういうのも全部流して勢いでカバー出来ているのが本作のいいところです。やっぱオトギ話的な冒険譚って理屈じゃなくてノリと勢いですから(笑)。CGで作っているのにミュ―ジカルパートの入り方が往年のディズニークラシックそのものですし、音作りもモロにアラン・メンケンオマージュです。そういったところも勢いに一役買っています。

【まとめ】

取り留めもなくなってしまいましたが、本作はとってもよく出来たファミリームービーです。「大人も楽しめる」みたいな変な色気をださずに、全力で子供向けに作っています。残念ながら賞レースでは「ズートピア」に持って行かれましたが、子供向けとして見れば「アナと雪の女王」には周回抜かしで勝ってるくらいのレベルです。

大人が見ると言う意味で惜しむらくは、字幕上映が少なくザ・ロックが声優をやってるバージョンが見づらいことです。プロレスファンなら絶対字幕で見たほうが良いです。ネーション・オブ・ドミネーションの頃のちょっと太った初期ザ・ロックが見られます(笑)。

とまぁそんなこんなで、見て損はない作品です。なんせ私、吹き替え版を見た後にあまりのロック・リスペクトに感激して字幕版にハジゴしましたから(笑)。

春休みに鉄板でおすすめできる作品です。

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ラ・ラ・ランド

ラ・ラ・ランド

今日はアカデミー賞ノミネートで大宣伝中の

「ラ・ラ・ランド」を見てきました。

評価:(45/100点) – 雰囲気パロディ


【あらすじ】

ミアは女優を夢見てハリウッドへやってきた。何百回とオーディションを受けながらも結果が出ず、ワーナー撮影所のコーヒーショップで働いている。
ある日、友達とハリウッドのプライベートパーティに参加したミアは、辟易しながら家路についていた。その途中、彼女はレストランから聞こえてきたピアノの旋律に耳を奪われる。それが、ピアニスト・セブとの運命の出会いだった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 冬。ミアの上京。
 ※第1ターニングポイント -> ミアとセブがレストランで出会う。
第2幕 -> 春、夏、秋。ミアとセブが恋に落ちる。バンドと一人芝居。
 ※第2ターニングポイント -> ミアが故郷へ帰る。
第3幕 -> ミアが戻ってきてオーディションに受かる。

エピローグ -> 5年後の冬。セブズでの邂逅。


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【感想】

さて、本日は「アカデミー賞大本命!」とギャガが大宣伝中の「ラ・ラ・ランド」を見てきました。

予告を見るとラブストーリーっぽいのでもっとデート客が多いのかと思ってたんですが、意外と老夫婦が多くちょっとびっくりしました。この辺が宣伝効果ですかね。大成功だと思います。

監督は「セッション」のデミアン・チャゼル。まだ31歳でこれだけ話題の作品が撮れるんですから、素直に凄いと思います。個人的に主演(※厳密には主役ではなく脇役ですが^^;)ライアン・ゴズリングが大好きなんで、宣伝と相まってめちゃくちゃハードルが上がってました。

本作はラブストーリー部分だけに焦点を絞れば別にそんなに作りが変な話でもないですし、いい塩梅だと思います。ただ、いま見終わって1時間くらい経って書いてるんですが、私は個人的に結構キてます(笑)。いっぱい感動した人がいるのはわかりますし、大絶賛する人には多分この映画のバイブスが合ったってことだと思うので、全然いいと思います。いまから例によってグチグチ書きますが、それによって作品の価値が毀損するようなチンケなクオリティではありません。是非、劇場でご覧ください。

この後でもしかしたら取っちゃうかもしれませんが(笑)、個人的にはこれにアカデミー賞作品賞・監督賞はないと思います。それは個人的にどうこうっていうよりも、やってることが最近アカデミー賞を取ったばっかりの「アーティスト」とドンカブりだからです。さすがに二匹目のドジョウにサクッと賞をあげるようなことは無いんじゃないかな、、、と予想しています。とか書いといてハズれそうですが^^;

2017年3月1日追記:
本作、見事にアカデミー賞監督賞を獲得しましたね!おめでとうございます!!!とともに、私の予想の外れっぷりに謹んでお詫び申し上げます。主演女優賞と音楽関連は他にないし獲るんだろうな~とは思ってましたが、監督賞はまったく予想外でした。
m(_ _)mゴメンチャイ

ここでお約束です。これだけ評判の映画にグチるわけですから、具体的な部分に話が及ばざるをえません。以下多数のネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。

良かったところ1:ラブストーリーとして鉄板の話

まずは良かったところから行きましょう。1つ目は、多分本作で感動した皆さんがまさに思っているであろう点です。

この映画は「ハリウッドの夢追い人」=「あたまラ・ラ・ランド♪」な人が織りなす青春劇です。ミアは叔母さんの影を追って女優を目指し、セブは「ジャズの復興」という壮大な夢を提げ、お互いハリウッドにやってきます。ミアの友人たちが(いわゆる枕営業的なノリで)人脈を作ってのし上がろうとする中、ミアはそんな売り込みに馴染めず真っ向からオーディションを受けまくり、そして落ちまくります。一方のセブも「ジャズはバップこそが本流である」という信念を捨てきれず、レストランのBGMを弾くバイトでついうっかり勝手な演奏をしてクビになってしまいます。

こういった「信念はあるけど世渡りが下手で社会的に馴染めない」コダワリ派の2人が出会い、お互い励ましあいながらも夢に邁進していくわけです。そして大人になり、ちょっと回り道をしながら、見事に夢を叶えます。

この基本ストーリーは間違いなくよくできてます。っていうか鉄板です。オリジナリティはあんまり無いですが、「王道的」という意味では間違いなくど真ん中の青春ストーリーです。日本映画だってこの手の物は山程も作られていますし、これがダメなわけがありません。「パラダイス・キス(2011)」なんかはモロにこれですよね。

このストーリーの根幹部分は(面白いかは置いといて)減点法で言えば100点満点です。別にツッコム気は一切起きません。

良かったところ2:名作ミュージカルのパロディ

良かったところの2つ目はミュージカル・パロディです。本作は冒頭からして4:3の画面が広がってシネマスコープになるという20世紀フォックスの往年のロゴから始まります。もうこの時点でわかり易いくらいのパロディです。「いまから古き良きミュージカル映画をやるよ!」って宣言しており、そしてその宣言に違わず、映画はいきなり「ウソみたいな青空のもと」「原色のドレスを着た」人たちが群舞するオープニングソングから始まります。この色がモロに「着色感」があるギトギトなもので、完全に昔の天然色映画をパロっているのは疑いようもありません。余談ですが、このオープニングの長回しはとっても良かったです。

さらにさらに、本作は「本能寺ホテル」も真っ青なくらい、映画の舞台背景に奥行きがありせん。外のシーンでも道の真ん中から歩道を平行に撮るようなカメラ・ショットばかりですし、パーティやレストランシーンの舞台も狭く、そして何より例のポスターのポーズを2人で決める山の上からのシーンではわざわざ下界がピンボケしています。加えてそのシーンでのタップダンスは、今時珍しくクレーン撮影をしています。これらは完全に意図しており、要は「スタジオセットで撮影している」ような雰囲気を出すためなんですね。スタジオには奥行きもクソも無いですから、スケールを出すためにクレーンを多用します。

これを象徴するのが、本作で何度も出てくる「部屋の壁の絵」や「スタジオ内で運送中の書き割り」です。画面を意図的に書き割りとして撮っているわけです。まっすぐの道路や波止場を真正面かつ上から撮るのとかはモロにクラシカルですよね。こういうパロディはとっても微笑ましく見られました。

ワシのグチを聞いてけれ

さて、ここまで絶賛モードなわけですが、なんでこれが45点かという部分を書いていきます。

一番大きいのは、セブが夢を全然叶えてないところです。セブは「バトルスタイルのフリージャズ」にこだわりがあったわけですよ。そしてそういう「古き良きバップ」が若者に人気が無いという危機意識から、「俺が復活させるんだ!」「そのためにJAZZの店をやるぞ!」と野心ギラギラなわけです。ところが、最終的にセブが開いた店は「オシャレな大人向けのJAZZバー」です。カクテルとか出してやがるんですよ?は???おまえバップ至上主義者じゃなかったっけ?ミアがジャズの印象を「エレベーター/天気予報で流れてる曲」みたいなノリで言った時にマジギレしたり、熱くフリースタイルの素晴らしさを語ってなかったっけ?せっかく友達から売れるバンドに入らないかって声かけられた時「セルアウトとかジャズじゃねぇわ」とか言って断りかけたりしなかったっけ?そのおまえが最後に開くのが「大人の夜のオシャレJAZZバー」ってどういうこと?テキーラだの麻薬だので若者がハイになってガンガン踊り狂ってるような「狂乱のバップ酒場」じゃねぇの?

しかもですね、最後に開く「セブズ」ってバーがよりにもよってリラクシン♩な感じの椅子まで用意した本格的オシャレバーなんですよ(笑)。それじゃ踊れねぇだろ!ヤジれねぇだろ!アホか!!!!おまえが好きな「古き良きバップ」はラリったミュージシャンがラリったまんまのグルーヴを延々とアドリブでつなぎ続ける最高にサイケな音楽だぞ!!!!

というこのエピローグをもって、本作の私の中の評価はガタ落ちしたわけです。

そこまでも「ふーんa-haをそう使いますか?」とか「踊りも演奏も下手じゃね?」とか、「プリウスもiPhoneもあるのに、CG撮影はなくて車にもカセットテープなの?」とかちょいちょい引っかかる部分はあったんですが、この終わりが決定打で完全崩壊。

結局それっぽいのを表面だけそれっぽくやりたいってだけの志の映画なのね、、、っていう。じゃあ別にいいっすわ、それで。

そしたら急に雑さが目立ってきちゃったんです。ガラガラの一人芝居で何の前振りもなく急にフックアップってそれでいいのかとか、セブのバンドも最初はフュージョンだったのに初ライブで急にニューエイジポップスになっててジャンル変わってるじゃねぇかとか。

そんなわけで、せっかく一番盛り上がるであろう最後の脳内妄想パートもすっごいシラけてみてました。

結局セブは夢を叶えたんじゃなくて、一番現実的であろうところに妥協したってことなんですね。「若者にバップを広めてジャズを再興する」んじゃなくて「単価の高い大人をターゲットにオシャレバーをする」っていう。じゃあ最初に働いてたレストランと変わらないじゃん。

2017年3月2日追記:
実は私おとといのレイトショーで2回目を見てきたんですが、上記のセブが夢を叶えられなかったの自体が監督の意図のような気もしてきました。下でコメントいただいた「悲しき男代表」さんもおっしゃってますが、セブは未練タラタラでミアに引きずられまくっており、一方のミアはどんどん男たちを乗り換えて踏み台にしてのし上がっていくという構図ははっきりしてます。そんでもってこれ完全に薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」ですよね。

夢のいた場所に 未練残しても 心寒いだけさ
<中略>
愛した男たちを 想い出に替えて
いつの日にか 僕のことを想い出すがいい
–「セーラー服と機関銃 作詞:来生えつこ より」

まぁでもこの解釈になっちゃうと、本当に「パラダイス・キス(2011)」とまったく同じになるので、やっぱ45点で上等だよな~とも思います^^;

まとめ

多分この映画に乗れないのは、私の心が濁ってるからです(笑)。気に入る人が一杯いても全然いいですし、感動も全然ありです。かくいう私も描写に腹が立ってるだけで、ストーリー自体には別に文句はありません。最後だってそもそも冒頭で今カレから”ビビっと来て”速攻セブに乗り換えた前歴がありますから、別にどうとも思いません。

実際、ちゃんとミュージカルパートでお話が進んだりっていう基本的な部分はちゃんとできてますから、私もあんまり細かいところを気にせずに見ればそれなりに楽しく観れたと思います。

いろいろ書いてきましたが、こういうのは個人個人の好みの部分ですから、まずは見てみないことには始まりません。是非是非、劇場でご覧ください!もしアカデミー賞を取るようなことがあれば劇場が混んじゃいますから、ゆっくり見るなら今のうちです(笑)。

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セル

セル

今日は2本見てきました。1本目はこちら、

「セル」です。

評価:(35/100点) – オカルト侵略SFの凡作


【あらすじ】

クレイ・リデルは漫画家である。妻と息子を置いて放蕩の旅に出て1年が経ったが、やっと漫画の契約が取れて自宅へ戻ろうとしていた。そんなとき、空港で突然の暴動に巻き込まれる。どうも電話を使っていた人が凶暴化しているようだ。わけがわからないまま、クレイはやっとのことで空港を抜け出し地下鉄のホームまで辿りつく。地下鉄運転士のトムと共に、クレイは自宅を目指す、、、

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【感想】

今日の1本目はスティーブ・キング原作の映画化「セル」です。監督はパラノーマル・アクティビティ2のトッド・ウィリアムズ。脚本をスティーブン・キング本人が書いています。スティーブン・キングでホラーSFといえばお家芸なわけで、これは否が応でもB級の期待をするしかありません!

そして実際に見てみると、、、これ、B級が過ぎます(笑)。

どこかで見たような話のオンパレードでなんかちょっとパロディっぽさすらあり、あんまり盛り上がりません^^;

今回の一発アイデア風呂敷は、「ある瞬間に電話を使っていた人が急にゾンビみたいに凶暴化して襲ってくる」というものです。これ、すごいつい最近、まさにサミュエル・L・ジャクソンが出てた「キングスマン(2014)」にそのまんまのものがありました^^; もちろん小説の発表は「セル」が2006年で圧倒的に早いので全くパクりではないんですが、目新しさはありません。そして、途中で携帯人間がするある”進化”も、まんま「ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!(2013)」でエイリアンがやってたのと同じです。大人の男2人と子供の男女4人の珍道中というのもテンプレ的ですし、「いろんなところに立ち寄りながら絶望的なパターンを体験していく」というのもありがちです。

そんなこんなで、な~んかテンションあがらないな~と思って微妙に目が泳ぎながら見ていますと、急に頭にとある作品が浮かんできました(笑)。

これ、全体的な雰囲気がニコラス・ケイジの「ノウイング(2009)」に似てるんです。シャマラン的といいましょうか、アイデア一発でグワァーーーっと風呂敷を広げまくって、それが急激にしぼむ感じ。オカルトホラーなんだけど、な~んか微妙に小じんまりした感じ。以前「スカイライン-征服-(2010)」の時に「最近の侵略SFは主人公たちの無力さを表現するから楽しいんだ!」みたいなことを書きましたが、本作は主人公たちが縦横無尽の大活躍をして携帯人間共をたぶん数千体単位で退治します(笑)。そんなところも引っくるめて、ジャンル映画としても「なんか微妙」なんです。最後の最後の絵面だけは最高にニヤニヤできるんですが、そのために1時間半はキツいです、、、

ということで、無かったことにしましょう^^;

「アンダー・ザ・ドーム」「骨の袋」「11/22/63」と、最近のスティーブン・キング原作者はドラマで当たりが多かっただけに、久々にアレなのを見た気がします。

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マリアンヌ

マリアンヌ

先週末はロバート・ゼメキスの最新作

「マリアンヌ」を見ました。

評価:(40/100点) – オシャレ。以上!


【あらすじ】

時は1942年、モロッコのカサブランカ。RAF(ロイヤルエアフォース=イギリス王立空軍)のマックスは、ドイツ大使の暗殺任務を負ってスパイとして彼の地へ降りたった。マックスに先行して現地社会に潜り込んだフランス人工作員のマリアンヌとともに、マックスは作戦を遂行する。その過程でマックスはマリアンヌに惹かれていく、、、。

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【感想】

さてさて、先週末はロバート・ゼメキスの「マリアンヌ」を見てきました。

ロバート・ゼメキス監督に脚本がイースタン・プロミスのスティーヴン・ナイト、音楽は毎度コンビのアラン・シルヴェストリ。そして主演でブラッド・ピットとマリオン・コティヤール。ガッチガッチに固めてきているこのスタッフ・キャストリストを見ただけで、「こりゃ絶対オシャレないい映画になるんだろうな」という雰囲気をビンビンに出しています。

しかもタイトルが「ALLIED」ですよ。大戦中の連合軍を意味する「ALLIED」の文字間をちょっと開くことで、「ALL LIED = 全部 嘘だった」と「LIED = ドイツ語で”歌”」を掛けてくるというこのオシャレっぷり。

そして実際に見てみますと、、、お、、、オシャレしかない(笑)。

久々に凄いアレな映画がやってきました。雰囲気7割、音楽2割、内容1割。とてもオシャレでオシャレなオシャレ映画です。

前半後半で話が全然違う

本作は良くも悪くも古風な作りをしています。昔は3時間超えの映画だと真ん中に休憩が入ったじゃないですか。私が劇場で見て覚えているのだと、「サウンド・オブ・ミュージック」とか、「十戒」とか、「2001年宇宙の旅」とか。日本映画で最近だと、「愛のむきだし」とか「沈まぬ太陽」とかですかね。本作も、作りはモロにこの「休憩付き前半後半構成」の映画です。

本作の前半1時間はカナダ出身イギリス軍人のマックスがカサブランカで同じく同志マリアンヌと出会い、偽装夫婦としてドイツ大使を暗殺するというスパイものです。マックスがフランス語の訛りをケベック訛からパリ訛に特訓したり、モロッコの風習をマリアンヌに教わったりと、コッテコテのスパイものです。

後半ではうって変わってその18ヶ月後にすっ飛び、マリアンヌがマックスと結婚・引退してロンドン郊外で家庭をもつ話になります。そしてそこで、マリアンヌのダブルスパイ疑惑が浮上し、マックスが真相を探るために奔走します。

そう、この映画は、完全に前半と後半で話が分断されているんです。しかも肝心の中心人物であるマリアンヌが結構な形でキャラ変します(笑)。前半部分では「戦う女」だったマリアンヌは、後半は「子供と家庭の庇護者」としてマックスに守られる”か弱い”存在になります。そしてマックスも、家族を守る男と軍人との間で走り回ります。前半はとっても愉快なんですが、一方の後半は、とっても甘ったるい家族愛ものに変わります。サスペンス・探偵要素も特にありません。

そうなると、当然これはもうストーリーとかほったらかしでベテラン実力俳優の掛け合いを楽しむだけの映画になるわけで、「オシャレだね~」という感想しか出てこないのです(笑)。

とにかくオシャレなんだよ!

舞台となったカサブランカ/ロンドンの背景といい、ジャズ中心の音楽といい、そしてブラピとマリオン・コティヤールの衣装といい、本作にはオシャレ要素がテンコもりです。とにかく画面上の全てがオシャレ。そんななかで火曜サスペンス劇場もびっくりのやっすいサスペンスが展開されたとしても、果たしてそれに文句をいっていいのかというそんな気さえします。言うて見れば荻上ワールドみたいなもんです。だからストーリーを期待してはいけません。とにかくオシャレ。雰囲気命。そして疑いようもなく、オシャレ作りは成功しています。

まとめ

私自身が、何を隠そうオシャレとは正反対の人生を送っていますので、こういう映画の感想を書くのにどうしても語彙が貧弱になってしまいます(笑)。

だってマリオン・コティヤールがセクシーでオシャレじゃん。ブラピだって渋くて軍服が似合っててオシャレじゃん。2人の子供が来てるニットのベビー服だってすごいオシャレじゃん。だからもう映画自体がオシャレじゃん。

ということで、オシャレな方たちのオシャレな昼下がりを彩るのに最適なオシャレ映画です。オシャレにオシャレな時間を過ごしたいオシャレ男子・女子のみなさんにオシャレにおすすめします!

これを見れば、今日から君もオシャレ(ウー)メンだ!

※余談ですが、こういうのを見ると女子高生が「カワイイ!」という単語だけで会話が成り立つという都市伝説がすごい納得できます(笑)。たぶんこの映画をカッポーとかで見て感想を言い合うと、マジで「オシャレ」しか出てこないと思います。

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