何者

何者

今日は一本

「何者」を見てきました。

評価:(80/100点) – ペルソナ論を青春映画へアレンジ


【あらすじ】

大学生の二宮拓人は、友人で同居人の光太郎のバンド引退ライブで片思いの相手・瑞月と出逢う。お互い就活生の身でリクルートスーツに身を包みながら、ライブハウスで友人のサークル引退を見届けた2人。バンドを引退した光太郎は髪を黒く染め短髪にし、心機一転就活を開始する。偶然拓人のマンションの真上に住んでいた小早川理香が瑞月の友人だったことから、この4人の愛憎渦巻く就活が始まった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 光太郎のバンド引退
※第1ターニングポイント -> 就活対策本部設置
第2幕 -> それぞれの就活
※第2ターニングポイント -> 瑞月が内定をもらう
第3幕 -> 蜜月の終わりと決意


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【感想】

今日は「桐島、部活やめるってよ」でお馴染みの朝井リョウ原作「何者」を見てきました。平日夜だからか、メインターゲットと思しき学生はあまりおらず、サラリーマンが目立ちました。それでもパラパラといった客入りで、公開初週にしてはちょっと寂しい感じです。

監督は三浦大輔。まったくノーマークで見に行ったのですが、見終わった後に「ボーイズ・オン・ザ・ラン(2010)」の監督と知って妙に合点がいきました。「ボーイズ・オン・ザ・ラン」もオタク自己憐憫全開の映画でしたが、本作も負けず劣らず自己憐憫全開の話であり、バッチリ監督の資質に合っていると思います。

さて、本作はあくまでも文芸系の作品なのであんまりネタバレがあってもどうこうなる類ではないのですが、一応どんでん返しっぽい雰囲気になっていますので、未見の方は以降お気をつけください。とはいえ、全然どんでん返しじゃないんですけどね^^;。

概要:「青春が終わる、人生が始まる」のまんま

本作は就職活動を舞台にして、5人+旧友1人のそれぞれを通じて「大人になるとはなんぞや」というのを描いていきます。そういった意味で、予告のキャッチコピーであった「青春が終わる、人生が始まる」というまさにそのまんまの内容です。というかこれが全て(笑)。青春が終わって人生が始まるのがクライマックスで、「いよいよ人生が始まるぞ」と扉を開けたところでエンドロールに入ります(笑)。シャンテ系じゃないんだから全部ネタバレかYO!!というツッコミは脇に置いときまして、肝心なのはあくまでもその過程、「大人になるとはなんぞや」の部分です。

本作では、冒頭からずっと「あなたを1分でアピ―ルしてください。方法は問いません。」という就活の面接でありがちな問いかけによって、これが語られていきます。明らかに嘘くさいテンプレ回答を繰り返す就活生たちのモンタージュ。それに対して、その就活を風刺する旧友・銀次の劇団員たちの心からの叫び。そして、一連のドラマを通じて、内定がまったくもらえず泥沼にハマる主人公・拓人がどう意識を変えていくのかが本作の肝です。

ペルソナ論で青春の終わりを描く

本作は「ペルソナ論」という心理学者・ユングさんの有名な話を青春劇へと落とし込んでいます。ちょいとペルソナ論の話をしますので「知ってるわい!」という方はすっ飛ばしちゃってください。

このペルソナ論というのは超簡単に言いますと「人格とは色々空気を読んだ結果だ」みたいな話です。

例えば、ここにある男・太郎さんがいるとします。この太郎さんは会社にいったら新人サラリーマンで、出身大学のサークルに顔を出したら伝説のOBで、家に帰ったら男3人兄弟の次男だとしましょう。太郎なのに次男なのは気にしないでください(笑)。そうするとこの太郎さんは、その各々の場面でキャラを無意識に使い分けないといけません。会社の飲み会では末席に座って上司や先輩に気を使いながら次に何を飲むかを聞いてまわらないといけませんが、サークルの飲み会ではウザい先輩としてデーンと構えて偉そうにしてればいいわけです(笑)。でも家に帰ったら次男で、お兄ちゃんと喧嘩しつつ、弟のテスト勉強を見てやったりする出来た息子になります。ところがそんな生活にストレス全開で、自分の部屋では夜な夜なツイッターの裏アカウントで毒づきまくってたりします(笑)。

では「本当の太郎さん」はどれでしょうか?

ペルソナ論というのはまさにこの「本当の私はなんだ!?」という自分探しへの一つの解答です。上記の太郎さんのケースだと、もしかしたら読者の皆さんは「自分の部屋で一人で毒づいてるときが本当の太郎さんだ」と思われるかもしれません。しかし、ペルソナ論では、「本当の自分」などという絶対的な正解は存在しません。「私」というのは何者でもなく、周囲の環境に合わせて「ペルソナ=演劇用の仮面=役割」を身につけることでその役割に合わせた振る舞いをするようになり、そのいろんな役割の集合体こそが「私」であるという考えです。つまり「私」というのは全て他者や環境に影響されて外部から作られた概念なんだっていうことですね。会社の飲み会でペコペコしてるのも、大学でウザい先輩やってるのも、兄弟とどつきあったり勉強教えたりしてるのも、ぜ~んぶひっくるめて「本当の太郎さん」なんです。部屋に籠もってtwitterで愚痴りまくってたって、結局はtwitterを他者から見られているのには変わりないですから。完全な「個/孤」とか言い出すと、座禅の世界が始まります^^;

逆に言うと、自分の脳内で「本当の私はXXXXなんだ!」とか思ってても意味ないってことです。それを表に出して、他者からその役割を与えられて、初めてそういう人間になれるんです。

本作「何者」では、このペルソナ論を受け入れることが「大人になること」として描かれます。つまり、「私は本当は演劇マンなんだ!サラリーマンなんかじゃない!」という青春特有の夢というか可能性に対して、それを追い続けるにしても諦めてサラリーマンになるにしても「”他者との折り合い”を上手くつけて責任感を持つのが大人なんだ」っていうことですね。決して「夢なんか追ってないで現実を見ろ」っていう内容では無くて、あくまでも「他者との折り合いをつける=他者からきちんと求められる/承認される=社会的な責任を受け入れる」っていうのが大人の条件だと本作では言ってます。

そして、就活の舞台はこの「サラリーマンとしてのペルソナを与えられる」承認プロセスの一つとして描かれます。あくまでも正解ではなくてプロセスの一つです。だから、演劇の道を突き進んで必死に居場所を作ろうとしている銀次の名前が、「拓人がもし演劇を選んでいたら」というifの存在として事あるごとに先輩の口からでます。銀次は就活はしてないですが、毎月公演をしたりSNSで発信するというプロセスで役者のペルソナを獲得しようとしています。

拓人は他者に心を開かず、常に一歩引いて冷静さを装うことでこの「周囲から求められる役割」を拒否しています。そして、自分が思うがままに振る舞う「自分が考える”本当の自分”」というのをTwitterの裏アカウントに叩きつけるわけです。でも、そのアカウントに鍵を付けることもなく、承認欲求だけが行き場を失っています。本作では最終盤で、拓人が瑞月に承認される(=「君の演劇が好きだったよ」という”許し”)ことでまさにこの「社会的な責任」を受け入れて、他者に心を開く方向へ意識が変化します。そして見事にハッピーエンドになるわけです。ちなみに同じく「青春の終わり」を描いた映画は、当ブログでは「マイレージ、マイライフ(2009)」と「SOMEWHERE(2011)」を猛プッシュしております。本作が気に入った方は是非こちらも御覧ください。

有村架純という優しいかぁちゃん

この映画では有村架純演じる瑞月がミューズとしてドラマのど真ん中にデンと座っています。この瑞月がすばらしい役どころでして完璧に場を支配してくれます。彼女は両親の離婚(別居?)という外的要因によって、否が応でも「母親を支える一人娘」というペルソナを押し付けられます。そしてその責任を真っ当するために仲間内でイの一番に大人へと成長します。だから彼女が最初に内定が決まりますし就活仲間たちを大人として客観視できるようになります。その上で瑞月は仲間たちへちょっと厳しい効果的なアドバイスまでしてくれます。まさにミュ―ズ。まさに女神。そして母親。もうね、彼女完璧です。有村架純さんって見た目がちょっとふっくらしてて包容力があるように見えるので、こういう母親役にバッチリあってます。

一方の光太郎はコミュ力満点でやっぱり内定を取るんですが、彼は模範的就活生というペルソナを駆使して内定を取ったことに逡巡を抱えます。こんなの本当の自分じゃない。たまたま自分は就活生を演じるのが上手かっただけだって。でも彼はしっかりしてますから社会人になったらきちんと大人になるでしょう。大多数の社会人はこういう経験があると思います。ちなみに、これをこじらせると3年ぐらいで会社を辞めて自分探しの旅にでたり大学に入り直したりしてアダルトチルドレンへの道を爆進することになります(笑)。

残念トリオは拓人と理香とタカヨシです。拓人は前述のとおりスノビズムに陥っており他者との間に壁を作っています。理香は周りの目だけを気にして演技・装飾が過剰になっちゃったタイプです。こういう子はOLよりも芸能人のが合ってます。個人的にはあんまり関わりたくないっす(笑)。

タカヨシは典型的な「意識高い系」の人で中身スッカラカンです。彼は表現だけはするんですが、承認されるプロセス、つまり他者と折り合いをつけるプロセスが欠落しています。さらにこのタカヨシには対比として銀次が登場します。銀次が学校を辞めて自ら退路をたって責任を持って夢に邁進しているのに対して、タカヨシは休学をして適当に本を読んだり講演会にいったりして虚無な人脈ごっこをしているだけです。ばっちり肝っ玉母さんに看破されて心を入れ替えるので根は素直ないい子。中二病をこじらせただけだと思います(笑)。

こういった面白キャラクター達を通じて「大人になるとはなんぞや」というこそばゆい青春劇を見せてくれるわけで、これがつまらないはずがありません。

【まとめ】

たしかに、「拓人の心の闇が~」みたいな部分や、終盤に出てくる超恥ずかしい演劇メタファー(※これは「他者から見られることで初めて自分になるのだ」というペルソナ論をそのまんま舞台役者と観客の関係に例えています。)に引っ張られるとダサく/つまらなく見えるかも知れません。しかし、本作は「青春の終わり」を描く群像劇として大変良くできています。結局理香だけが大人になれないんですが、それでもみんな青臭くもがいて大人になろうとします。もう大人になっちゃった方はもちろんのこと、これから大人にならないといけない学生のみんなにも十分楽しめる内容だと思います。学生のみんなも「大人って嫌なもんだぞ」みたいな脅しはないので安心して見に行ってください(笑)。ということでおすすめします!

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記事の評価
少女

少女

今日は

「少女」を見てきました。

評価:(45/100点) – 雰囲気アイドル映画


【あらすじ】

高校生のユキは、親友のアツコをモデルにして小説「ヨルの綱渡り」を書き上げる。しかし小説家崩れの国語教師・小倉によって原稿を盗まれうえに雑誌へ投稿、小倉は新人賞まで獲得してしまう。怒り狂ったユキは小倉へ復讐しようとする。それが、すべての悲劇の始まりだった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ユキの執筆とアツコ
※第1ターニングポイント -> シオリが転校してくる
第2幕 -> アツコの罪と夏休み
※第2ターニングポイント -> ユキが「ヨルの綱渡り」を読む
第3幕 -> アツコとユキの仲直り


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【感想】

さて、今日は湊かなえ原作の最新作「少女」を見てきました。観客はほとんどおらず、私以外はみんな学生さんでした。「白ゆき姫殺人事件(2014)」は中年夫婦がいっぱいだったのでちょっとびっくりしました。まぁでも湊かなえさんの映像化したものって題材が高校生が多い印象があるので、ターゲットとしてはちょうどいいのかも知れません。
監督は三島有紀子さん。すごいテレビっぽい(というか堤幸彦っぽい)演出が多いのでテレビ系の人かなとは思いましたがまさかのNHK出身でした。不勉強ながらこの監督の作品を見るのは初めてです。

ここでいつものお約束です。本作は多少サスペンスっぽい要素がありますのでネタバレは驚きを減じてしまう恐れがあります。未見の方はご注意ください。

サスペンスじゃないよ!青春ユリユリ映画だよ!

本作は予告でがっつりサスペンスっぽい雰囲気ーーというかモロに「告白」を意識した雰囲気を出していたので、てっきり本田翼がサイコパスっぽい感じで山本美月を殺しちゃったりするのかなと思いきや、まさかの完全青春友情モノでした。

一応映画的な意味でのメインテーマは「因果応報」の話です。自尊心肥大気味な落伍者・小倉がユキの原稿を盗んだことを発端に、ユキの復讐→オグラ/セイラが自殺→セイラの親友シオリが転校→シオリがユキとアツコを焚き付ける→・・・といった形で次々にイベントが連鎖していきます。そして印象的なセリフとしてユキのおばあちゃんの「因果応報、地獄に落ちろ!」があります。その言葉通り、本作には連鎖するイベントによって「報い」が次々と描かれていきます。一部「それを因果応報って言って良いのか!?」っていう倫理的に引っかかる部分はあるんですが、大枠はこんな感じです。物凄い少ない登場人物達がウソでしょってくらい強烈に絡み合いまくっており、ご都合主義というよりはすごく”戯曲的/寓話的な”抽象性を伴っています。そんなところも含めて、たぶん監督がわざとやってるんですが、全体的に物凄い嘘くさい演出になっています。

そういった”文学的な”要素を背景にして、本作は本田翼と山本美月のダブルヒロインのユリユリした熱い友情が展開されます。ちょっと女子高生役には年齢が厳しいですが、見た目はまったく問題なくちょいとマセた高校生を演じられています。そんな”少女”が青春特有の中2病的な悩みを爆発させて悶々としているわけで、これはもう100%純アイドル映画です。ですので、この2人さえ可愛ければあとは大丈夫です!なんの問題もございません!

しかしだね、、、

しかしですね、、、、本作はあまりにも演出面が古臭いというか、ダサいというか、、、”雰囲気作り”によりすぎています。映画の冒頭と終盤を心象風景みたいな劇場のモノローグ(=寓話性の演出)にしたり、文化祭(体育祭?)の踊りを「運命の糸が絡まり始める」みたいな表現として使ったり、しかもその踊りが完全に観客不在で超無機質だったり、作品自体が中2病的な雰囲気演出のオンパレードです。これですね、最初のイントロだけなら100歩譲ってまぁまぁまぁまぁ、、、、って感じだったんですが、現実の教室シーンまでが同じ方針だったので本気でゲンナリしました。だって、学校だっていってるのに他にクラスがあるのかすらわからなくて猛烈に抽象化されてるんです。

本作はかなり文芸作品を意識しており、あんまり情報量自体は多くありません。だからこそ画作りの合う合わないが結構大事なんです。前述の通り、アイドル2人が可愛くて、全力で走ってて、思いっきり笑顔で泣き笑いしてればそれだけで十分っていう志の映画なんですが、ちょっとあまりにもあんまりかなと思います。ユキの「人が死ぬとこを見てみたい」発言とか、それで実際に難病専門の子供病院に行っちゃうところとか、そういう中2病的な痛々しさをがっつり見せながら、最終的にはそういうのを全部ほっぽり出して「だって青春だし」で片を付けてしまうあたりがとってもアレです。一応最後にこの2人の青春は「了」しないというカットで因果応報を暗喩するわけですが、それも「深くていい話だね」っていう記号としてしか役立っておらず、実際にはホラー映画で最後にオマケが付くのと一緒です(笑)。「高慢と偏見とゾンビ」のラストカットと一緒。本作のは監督の自意識が目立ちまくっており、まだ「高慢と偏見とゾンビ」の方がサービス精神でやってるだけいいかな、とも思ったりします。

ちなみに、本作はいわゆる「いろんな伏線が最後に絡まる!」みたいなものではまったくありません。細かいイベントは連鎖しているもののキャラの関係性には必然がひとつもないので、それこそ「寓話的に少人数を無理やり配置している」という類のものです。

また、ストーリーで言うとどうしてもアツコの「ストーリー上の欲求」が弱いのが気になります。彼女は流されまくっているだけで全然主体性がないんですね。だから彼女のシーンは純粋に「山本美月鑑賞タイム」以外の何物でもありません。アツコには「剣道入学なのに剣道ができない」っていう負い目と、「それによりイジメられたとしても適当に謝ってりゃいいだけだから楽は楽」という葛藤があります。葛藤はありますが、そこから欲求が生まれません。じゃあどうしたいの?っていう部分が無いんです。たまたま流れで痴漢詐欺に加担して、たまたま学校の体育の補習で老人ホームへ行って、たまたま流れでバァちゃん助けて、、、みたいに全部たまたま。唯一アツコが自分から動くのが「ヨルの綱渡りを読みたい!」とタカオに頼むシーンなのですが、ここではじめて「アツコはユキと仲直りしたかった(※というかアツコが勝手に誤解してただけ)」という意思が見てとれます。ところがこれもう2幕目の終わりなんですね。今かよ、、、ていう(笑)。これならアツコの主観シーンを丸々全部カットしちゃって、ユキをメインにして構成したほうがよかったんじゃないかなと思います。ユキには「オグラが自殺したことで人の死を目の前で見たくなる」という欲求があり、ストーリーがちゃんと転がってますから。「人の死」どころか目の前で人が刺されただけでビビって逃げ出しちゃうレベルの「中2病的格好つけ」ですけど(笑)。

でも、やっぱ可愛ければいいじゃん!!

とまぁストーリーや演出部分には不満タラタラなわけですが、一方で俳優さん達をみるとこれ本当にいい感じです。ダブルヒロインのモデルコンビは本当に現実感がないくらい見た目が整っていまして、しかも両名とも物凄い棒読み演技。こういうと悪口みたいですが、この映画の浮世離れした寓話的雰囲気にとてもマッチしています。ストーリーのわざとらしさと演技のわざとらしさが奇跡的にいい感じに合っているので、とっても魅力的です。この時点でアイドルPV映画としては十分じゃないでしょうか?真剣佑や稲垣吾郎もいつもの棒演技ですが、まったく違和感がありません。俳優陣的にラッキーなのか怪しいですが(笑)、テイストの統一はきちんと出来てます。

【まとめ】

たぶん本作に何を期待するかでバッくり評価が別れると思います。もし学園サスペンスや重々しい文芸作品を期待するなら、本作はペラッペラでとてもじゃないですが厳しいです。ただ、もし話に一切期待しないで山本美月や本田翼のファンとして見に行くなら、これはもう絶対見に行ったほうがいいです。むちゃくちゃ魅力的に撮れています。本田翼がちょくちょく菊地凛子に見えますが、それもたぶん棒読み・オカッパ・ちょい吊り目だからでしょう。なんか近作の「SCOOP!」といいこのパターンが多いですが(笑)、「なかなか俳優の魅力を引き出しつつ話も面白い!」っていうのは難しいなというのが率直な感想です。ということで、両ヒロインのファンの方は必見ですよ!両ヒロインに興味が無い映画ファンの方は、そっと記憶から消しときましょう(笑)。

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記事の評価
怒り

怒り

今日は一本

「怒り」を見ました。

評価:(80/100点) – “信頼”を巡るオムニバス・横溝正史もの


【あらすじ】

八王子で夏の白昼に起きた夫婦殺人事件。現場には被害者の血で「怒」という文字が残されていた。それから1年。千葉、東京、沖縄に、それぞれ不詳の怪しい流れ者が現れる。犯人は誰か? そして流れ者と周りとの関係性は?

【三幕構成】

第1幕 -> 3組の流れ者
※第1ターニングポイント -> しばらく平穏な時間が過ぎる
第2幕前半 -> 3人が各々の懐に飛び込む(親父と話す/母紹介/那覇で飲む)
※ミッドターニングポイント -> 田代と愛子の同棲/優馬の母が死ぬ/泉が襲われる
第2幕後半 -> 過去捜索/浮気窃盗疑惑/旅館住み込み
※第2ターニングポイント -> 通報/警察から連絡/田中の苛立ち
第3幕 -> 結末


【感想】

本日は李相日監督の「怒り」を見てきました。3連休最終日だからなのか劇場はかなり空いていてちょっと寂しかったです。また、結構1人で来ている女性が多くいて驚きました。俳優目当てでしょうか?(※)まさかBL絡みの需要ってことはないとは思いますが、、、といいつつ結構ツイッター上ではそっちのコミュニティに受けており、よく分かりません(笑)。本作は原作者と監督の絡みから「悪人(2010)ふたたび」と宣伝されています。正直な所、私個人的には「悪人」を全く評価していないので(←ファンの方すみません)、結構ハードルを下げて見に行きました。結果、かなり面白かったです。一部ひっかかったものの、全体としてみれば十分楽しめました。

これ以降、直接的に犯人に言及することはいたしませんが、なんとなく雰囲気でわかってしまう可能性があります。未見の方はご注意ください。

※2016年10月4日追記:
「結構1人で来ている女性が多くいて」→「俳優目当てでしょうか」という私の連想が差別的であると受け取られる方がいたようです。謹んでお詫び申し上げます。
こういう予告で猟奇殺人を前面にだしている作品はふつう女性客がほとんどおらず、いても夫婦連れ合いが多いので、女性一人客ばっかりというのが珍しかったという記述でした。純粋に「猟奇殺人ものが好き」な女性が増える分には大歓迎です。是非「高慢と偏見とゾンビ」もよろしくお願いします。、、、とか書いといて単に「文芸好き」って可能性もありますね。亡き「銀座テアトル」も女性客が多かったですし。その場合は正にぴったりですので、是非、文芸超大作が原作の「高慢と偏見とゾンビ」も一つよろしくお願いします。(←猛プッシュ中)

全体像。韓流逆輸入サスペンスとテーマ

この映画は、”信頼”をキーワードとした3つの話からなるオムニバス映画であり、その根底には「横溝正史もの」のサスペンスが流れています。

本作は千葉(勝浦?)、東京(目黒)、沖縄(郊外のどこか)を舞台に、それぞれ素性の分からない訳あり男3人を巡りストーリーが展開していきます。このストーリーは交わることがなく全て独立しており、そして三幕構成に忠実に同期して進行します。このあたり、作りがとても真面目です。

どのあたりが「横溝正史もの」かといいますと、これは「田舎/狭いコミュニティの閉塞感」とそこに乗る「サイコパス的な猟奇殺人事件」という点です。作品全体を通して、八王子郊外での夫婦猟奇惨殺事件の凄惨さ・不穏さが根底にあり、そこにゲイ/性労働経験/レイプ被害という3つの性的な”ハードル”要素が追加され、さらに母の介護/親の借金苦/日雇い労働/軽度知的障害/沖縄米兵問題というオプションが追加されます。ハードル扱い云々の倫理的な面や政治的な主義を脇に置いとくと、たぶんこれが監督の考える現代日本の問題なんでしょう。登場人物たちはこれでもかという「現代日本というコミュニティの生きづらさ」によって追い詰められていき、その中で「信じるもの」「信じたいもの」を選択していきます。

この「現代の生きづらさ」を「横溝正史もの」のフォーマットにテンコ盛りするというのは、それこそ、ここ最近韓国映画が圧倒的に得意としていた分野です。当ブログでいうと「黒く濁る村(2010)」や「母なる証明(2009)」とかですね。もうちょっと前だと「ほえる犬は噛まない(2000)」とか「殺人の追憶(2003)」みたいな一連のポン・ジュノ作品もそうです。「韓国人が見せたくない韓国人の嫌な所」みたいなものを全面にだして、それを「不穏な空気」の表現として使うという手法です。監督の出自云々は置いといて、李相日監督がこのジャンルをもう一回日本に逆輸入してきたというのは大正解だと思います。

本作ではこの「生きづらさ」によって人々がすれ違っていきます。肝心のことをきちんと話さなかったために誤解をしたままになってしまう男、「自分が幸せになるチャンスはこれしかないという焦りで信じて”しまった”」と思い込んで逆に信じられなくなってしまう女、そして一度相手を素直に受け入れ信じてしまったが故に客観的になり切れない少年。こういったそれぞれの思惑を通して、「信じる」ということの不安定さと不確実さが描かれていきます。

それぞれのストーリーラインに「怒り」の描写は出てくるのですが、直接的に「怒り/感情爆発」によってどうこうなるというより、生きづらさ→鬱屈/現状に対する怒り→猜疑心・嫉妬・弱みという流れで、これによって信頼の強度が変わっていくというのが本作の肝です。

静かな描写と熱演する俳優陣

上記のように、この映画は3つの物語が直接的には結びつきません。あくまでも群像劇ではなくオムニバスです。そうすると、当然、中だるみは避けられません。本作が素晴らしかったのは、特に2幕目までの俳優陣含めた描写というか「画作り」の部分です。極力直接描写を避けて、きちんと映画的な表現で間接的に見せるようになってます。沖縄の公園とピアノの女の子とか、ちょっと対位法を使いすぎかなっていうシーンも多かったんですが、これぐらいなら全然問題ありません。PFF出身監督特有の手癖です(笑)。昔、深川栄洋監督の「洋菓子店コアンドル(2011)」のときにちょっと書いた、「演出さえできていれば話がつまらなくても画面は持つ」っていうやつです。特に東京パートと千葉パートはほとんどイベントがないですから、だいぶ演出力に助けられていると思います。

その分というとアレですが、3幕目、特にエピローグはみんなウェットに喚き始めて急に画面が安っぽくなりました。ここだけは本当にもったいなかったです。せっかく「無音で指紋の鑑定結果を聞かされる」っていう演出をやってるのに、わざわざ音声つきでもう一回やりますからね。セリフ無くても見りゃわかるのにっていう。広瀬すずだって海に向かって叫ぶ必要まったくないですから。壁の文字を見つけて呆然とするとこでやめときゃいいのに。2幕目までが本当にすばらしかったので、「終わりよければ全て良し」の逆で最後がもったいなかったです。

また、俳優陣はみんなとてもいいです。今回は特に佐久本宝ですね。この子は本当に新人かっていうくらい佇まいがよくできてました。ぶっちゃけ広瀬すずの存在感を完全に食ってます。千葉パートはベテランが多くて安定しすぎて逆に面白くないってぐらいで(笑)、その分東京パートの妻夫木さんが光りました。私なんかが勝手に想像する”ゲイ像”と妻夫木さんのちょっとわざとらしい演技がちょうどマッチしていて、すごい実在感があってよかったです。個人的にはあんまゲイシーンって見たくないんですが(笑)、汚くなりすぎないギリギリかなっていうところで良い具合でした。

【まとめ】

こういう文芸作品って「空気感」を表現するジャンルなので大変文字に起こしづらいのです(笑)。この映画を私がすんなり見られたのは、たぶん画作りが客観的にできていてちゃんと解釈の幅があったからだと思います。「悪人」は監督の誘導が多すぎ&作品内矛盾で「いやいや、それおかしいでしょ」という反発心が強かったのですが、今作はまったくそんなことありません。本作の方が明らかに映画的な懐の深さがあります。是非是非映画館でご鑑賞ください。「他人を信用しよう」「だけど信用し過ぎもよくない」というモヤモヤした感じがとても文芸作品っぽくていい感じにイヤな気分になれます(笑)。

そんなわけで、あんまり終わった後で他人と会話をするようなタイプの作品じゃないんですね。エグみが云々というよりも、あくまで「空気感」でシンミリする作品ですから、知人と見に行くよりは一人レイトショーでこっそり見る感じが正解だと思います。個人的には、李相日監督のこのテイストでゴリゴリのサスペンス・スリラーが見てみたいと思いました。かなりオススメいたします。

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記事の評価
イレブン・ミニッツ

イレブン・ミニッツ

​今日の2本目は

「イレブン・ミニッツ」です。

評価:(90/100点) – スコリモフスキ meets ファイナル・デスティネーション!


【あらすじ】

ポーランドのワルシャワ、17時。女優はオーディションのため、夫を置いて一人で監督の部屋へ向かう。自殺未遂をした女は、同棲していた彼の犬を譲り受け、別れを告げられる。学生への性犯罪で保護観察中の男は、公園でホットドッグを売る。質屋に強盗に入った男は、そこでクビを吊った店主を発見する。そして17時11分、なにかが起こる、、、。


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【感想】

今日の2本目はイエジー・スコリモフスキの最新作「イレブン・ミニッツ」です。あんまりお客さんが入っていないのはある程度予想していたのですが、さすがに同じ列のサラリーマンが焼酎と唐揚げを食べ始めたのはびっくりしました(笑)。どうみても映画オタク向けの作品なのに、なんかいいんだか悪いんだか、、、というね、、、。

映画オタク向けと書きましたが、本作はイエジー・スコリモフスキらしからぬ、とても愉快なエンタメ色の強いジャンルムービーです。ですので、是非、映画オタクの方以外にも見ていただきたいです。ここから私はこの作品をがっちり褒めちぎります。細かいネタバレはいたしませんが、どうしても具体的に書かざるを得ない部分がありますので、実際に見てから読んで頂いたほうが良いかと思います。本当におすすめですので、是非劇場で御覧ください!

これは悪趣味ジャンルムービーだ!

いきなりですが、この作品には明確なストーリーがありません。いわゆる物語的な意味での起承転結がなく、ある日の世界の「17時~17時11分」までを切り取った形になっています。なぜ「11分」というハンパな時間なのか?これは映画を見ていただければわかります。

本作には起承転結が無いと書きました。では何があるのかというと、それは「不穏な空気とカタストロフの予感」です。本作では、全編を通して、ひたすら「不穏な空気」が描かれます。明らかに悪事を考えてるっぽいエロ監督と、狙われてるっぽいちょい頭の弱いグラマラスな女優。そこに乱入しようとする左目を怪我した女優の夫。保護観察中のホットドッグ売りと、その息子で麻薬中毒のバイク便配達屋。公園で彼氏を待つのは、手首を切って家に火を付けながらそれでも生き残ってしまった女。全ての登場人物が、何か犯罪の臭いというか危険な雰囲気を漂わせており、いたるところでちょっとしたアクシデントや不吉なイベントが頻発します。空にはよくわからない”何か”が浮かび、部屋には鳩が突っ込んでくる。

群像劇である以上はいつかはこの登場人物たちは交わるわけで、それはもうこの不穏さの積み重ねで破滅するしかあり得ないわけです。いつカタストロフがくるのか?いつこの不穏さが爆発するのか? 見ている私たちはヤキモキ・ハラハラしながら、それを待ち続けます。「お!バーナーに火がついた!」「うぉ、交通事故起きそう!」「うわ、飛行機が低空で!これは9・11か!?」「え!?隕石落ちちゃうの!?アルマゲドン!?」。そういったヤキモキが5分に1回くらいやってきます(笑)。まだこない、、、まだこない、、、うぉ、、、まだだ、、、。こうやってジレている内に、いつしかカタストロフを待ち焦がれてハードルが上がりまくっている自分がいるわけです。そしてついに来る破滅の瞬間!やっときた!ガッツポーーーーズ!しかも笑えるぐらい凄いあさっての方からカタストロフがやって来ます(笑)。この開放感!エクスタシー!最高にスッキリします(笑)。もう完全に「ファイナル・デスティネーション」です。

これだけだと普通のブラックホラー・コメディなんですが、さすがにこれで終わらないのがイエジー・スコリモフスキ。ちゃんとこの後に、「でもこういう劇的な事件は、実は世界中でしょっちゅう起きているんだ。」という締めが加わり、最終的には「人生の不条理さとだからこその面白さ」という人間讃歌に着地します。私たちが出会う人やすれ違っただけの人にも、すべてその瞬間に至る人生の物語があるんだってことですね。つまり、この映画は世界で常に起きていることを、たまたま11分だけ切り取ったという形なんですね。だから起承転結もないし、ドラマが途中から始まるんです。11分っていうのは、おそらく9・11の連想、つまり破滅の時ですね。ついでにホテルの部屋番号も「1111」です。

この結末はとても良くまとまってます。なんですが、なんかこういたずらっこの無理矢理なアリバイ言い訳に聞こえるんですね(笑)。「ほら!悪趣味だけど楽しいだろ!皆好きだろ!あ、一応道徳的な内容なんで、親御さんは子供が見ても怒らないでください。」みたいな変な言い訳(笑)。

とてもお茶目で素晴らしい映画です。

【まとめ】

もうすぐ80歳になる巨匠の最新作がまさかの直球ジャンルムービーという、よくも悪くもとても驚いた作品でした。逆に言うとですね、みんなホラーコメディのことを低俗だの下品だの文句いうなよ!ってことです(笑)。巨魁スコリモフスキも認めた素晴らしいジャンルです。是非是非、「ファイナル・デスティネーション(2000)」「デッドコースター/ファイナル・デスティネーション2(2003)」「ファイナル・デッドコースター(2006)」「ファイナル・デッドサーキット(2009)」「ファイナル・デッドブリッジ(2011)」とセットで見て欲しい作品です。これホント名作です。絶対映画館で見ましょう!

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記事の評価
後妻業の女

後妻業の女

9月の映画の日は

「後妻業の女」を見てきました。

評価:(75/100点) – 大竹しのぶハンパねぇ!圧巻のブラック・コメディ


【あらすじ】

小夜子は資産家男性と結婚しては殺して遺産を奪う「後妻業」の女である。今度のターゲットは元女子大教授の中瀬耕造。いつもどおり首尾よく遺産を奪ったものの、耕造の次女・朋美は小夜子の胡散臭さに気付いてしまう。朋美は友人で法律事務所勤務の守屋に相談し、私立探偵を雇って調査することにする、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 小夜子と耕造
※第1ターニングポイント -> 耕造の死
第2幕 -> 本多探偵の調査
※第2ターニングポイント -> 本多が柏木を脅す
第3幕 -> 決着


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【感想】

今日はですね、映画の日ということで「後妻業の女」を日劇で見てきました。高齢の夫婦で4割ぐらいは埋まっていました。劇場で流れる予告の「通天閣やない!スカイツリーや!!」というアレがあまりにもアレすぎてちょっと不安だったのですが、、、これ実際に見てみるとかなり面白いです。もちろんギャグが全体的に古臭いというのはあるんですが、終盤は結構本気でツボに入りました(笑)。悪いことはいいませんので、予告でちょっと引いたかたも見たほうがいいと思います。

今回は核心部分のネタバレは無しで書いていきますので、そのあたりはご安心ください。

男と女の化かしあい

本作は、ブラックコメディとピカレスクのハイブリッド映画です。

メインストーリーとしては「男と女の化かしあい」というものです。主人公・小夜子の「後妻業」は女が男の遺産を狙って遺言を書かせた上で死ぬのを待つという”捕食”の犯罪です。しかし、本作では最後のとあるオチで「いやいや男側だってある程度そういう女側の打算は看破してるんだぞ」というのを見せます。女は男の最後を看取るかわりに遺産をもらう。男は人生の最後を楽しむために遺産を渡して女に相手をしてもらう。この両者の打算的なWin-Win関係が、本当に悪いといえるのか、、、ってなところです。要は「結婚って実際はそういう打算的な部分もあるんだよ」っという教訓話ですね。これは本当に身につまされます。

犯罪モノから怒涛のブラックコメディへ

こういったシリアスな大人の(というか高齢者向けの)ストーリーをベースにして、終盤には怒涛のブラックコメディが展開されます。もうですね、大竹しのぶ扮する小夜子の魅力が全てを掻っ攫っていきます。それも反則じゃないかというレベルで(笑)。

本作には、大勢の”小悪党”が登場します。結婚相談所・所長で小夜子に高齢者のカモを紹介する柏木。探偵の癖にいろいろ黒い本多。ホステスで柏木を金蔓にするマユミとリサ。金庫破りに、ヤクザも見る獣医。登場人物が少ないにもかかわらず、出てくる人がみんな悪党だらけです。それもわりとショボい小悪党。そんな中にあって、とにかくなんせ凄いのが小夜子です。ネコはかぶるわ、人は殺すわ、遺族にドス効かせるわ、銀行員に小芝居打つわ。もうやりたい放題です。この小夜子がですね、最初は本当にうざくてうざくて仕方ないんですが、鶴瓶演じる舟山が出てきてからは一気に人間臭くなるんですね。急にホツれ始まるんです。このギャップが凄い良くて、なんかもうこのキャラだけで全部いいんじゃないかというアイドルオーラを感じます。

序盤はわりと大人しめのピカレスク(=格好いい犯罪者もの)が展開されるのですが、だんだんギャグがひどくなってきて、三幕目は完全に悪ふざけの大ブラックコメディ祭りになります。この祭りの勢いを一身に担っているのが小夜子の実の息子・岸上博司君です。
この博司君がですね、30歳にしてニートかつキ◯ガイかつ獰猛かつ小心者という最高に頭の悪い狂言回しでして、もはや会話が通じないレベルのスーパーコントを展開して来ます。博司君が出てくるパートはことごとくウザく、ことごとく面白いです。ボケの博司君とツッコミの柏木という布陣で展開しつつも、後半は柏木に起きた”ある事”によってツッコミすら不在になり、一切収拾がつかなくなります(笑)。

このあたりは、私それこそ「マルホランド・ドライブ(2001)」のドタバタ殺し屋パートを思い出しました。ゲスな犯罪者達にしょうもない間抜けなドタバタコメディをさせることで笑い飛ばしちゃおうというスノビスト的なセンスですよね。それこそ北野武の「アウトレイジ(2010)」もそういう方向性ですし、なんかこう「90年代的日本映画の臭い」みたいなものを感じてとても良かったです。それも、序盤がシリアス/シニカルであればあるほど、後半の超絶ドタバタコメディでの「ゲスな犯罪者達への軽蔑込みの笑い飛ばしっぷり」が加速するわけで、この辺のバランス感覚は本当にすばらしいです。

【まとめ】

書き方が難しいんですが、とても日本映画らしいバランスの文芸コメディ映画でした。つい最近”ザ・ハリウッド”な某コスプレコント映画を見たばっかりだったので、余計に安心して見れたのかも知れません。こういう良作がもっと流行ってほしいです。そういう意味では、一番のネックはあの予告編ですよね(笑)。あのド下品なオヤジギャグ予告だと、じぃちゃんばぁちゃん以外は劇場に呼べないです。もっと大竹しのぶのはじけっぷりを前に出せばいいのにと、そこだけがちょっと不満でした。

ちなみにこういった内容の作品ですので、当たり前ですがポリティカル・コレクトネスとかそういう道徳的なものは一切ありません(笑)。たぶんフェミニストの方が見ると気が気じゃないくらい怒り狂うと思いますので、ご注意下さい。「君の名は。」で恋人たちのロマンチシズムに浸りきった後にはね、コレでも喰らえ!(笑)
超オススメします。

■ おまけ(ネタバレあり)

この映画は、最後のオチが本当に良いと思うんです。最後に見つけた遺書って、本来は妻である小夜子が最初に見つけてしかるべき場所にあるんですね。小夜子にもし少しでも良心があったなら、当然仏壇に手を合わせて、お線香が足りなくなって、そしてサクっと遺書を見つけて、サクっともみ消せたんです。これは、耕造の最後のテストなんですね。「お前が遺産狙いなのは感づいてるぞ。でもそれは良い。きちんと”妻”を演じてくれるなら遺産は渡す。でも本当にお金が欲しいだけなら、そりゃあげないよ」という茶目っ気たっぷりの挑戦状です。そして見事にテストに不合格という、、、耕造/小夜子共々いいキャラでした。

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記事の評価
レヴェナント:蘇えりし者

レヴェナント:蘇えりし者

本日はアカデミー賞3部門制覇の

「レヴェナント:蘇えりし者」を見てきました。

評価:(78/100点) – 世界一暗いアイドルムービー


【あらすじ】

西部開拓時代、ミズーリ川の上流で毛皮狩りをしていた一行は、インディアン・アリカラ族に襲撃され、命からがらベースキャンプへと撤退するはめになってしまう。しかしその撤退の途中、一行の道案内をしていたグラスが熊に襲われてしまう。なんとか熊を殺したものの、彼は瀕死の重傷を追ってしまう。グラスが足手まといと判断した隊長のヘンリーは、グラスの息子のホーク、一行で最年少のブリッジャー、そして罠師のフィッツジェラルドの三人を見届人としてグラスの最期を看取るよう託し、一行を引き連れて先にベースキャンプへ向かってしまう。一行に早く追いつきたいフィッツジェラルドは、グラスに止めをさそうとする、、、

【三幕構成】

第1幕 -> アリカラ族の襲撃とベースキャンプへの敗走
 ※第1ターニングポイント -> グラスが熊に襲われる
第2幕 -> グラスが必死にベースキャンプへと戻る
 ※第2ターニングポイント -> グラスがベースキャンプへと帰還する
第3幕 -> グラスの復讐


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【感想】

それでは久々の完全新作映画、本日は公開ホヤホヤの「レヴェナント:蘇りし者」です。
レオナルド・ディカプリオのアカデミー賞主演男優賞初受賞がなにかと話題になりがちですが、撮影賞と監督賞もきっちりとっています。年明け早々ぐらいから劇場予告が流れていましたから、それだけは何十回と見ていました。なんとなく、「息子を殺されたディカプリオがトム・ハーディの一味をぶっ殺していくセガール的な復讐アクション劇なのかな?」と思っていたら、開けてびっくり完全な「大自然サバイバルもの」でした(笑。

ここでいつものお約束です。次パートからはガッツリとネタバレを含みます。本作は予告で流れていることが、ほぼ全てです。映画予告では禁じ手である「2幕目以降を見せる」というのも平気でやっており、あまつさえ密かにしれっと3幕目のシーンまで予告に入ってます(笑)。なのでネタバレもあってないようなものなのですが、念のためご注意下さい。

本作のとてもよいところ

本作には「もうこれだけで十分お腹いっぱい」という良い所が3つほどあります。

まずは、序盤というか映画の冒頭です。まるで一人称視点(POV)のようにグネングネン動くカメラの長回しワンショットで、アリカラ族の襲撃が描かれます。ここはもう臨場感満点で本当に怖いです。本気でよこから矢が飛んでこないかな~とかなりドキドキします。ここは100点満点。

そしてその次が今作最大の目玉であるクマちゃん襲撃シーンです。このクマがですね、本当に可愛くて、かつ本当に怖い(笑)。臭いを嗅ぐ仕草とか、ちょっとディカプリオをいじって転がす仕草とか、めちゃくちゃ本物っぽい(っていうかネコっぽい)リアルさがあります。これも満点。

最後にこれは全編を通してですが、やはりこの「スペクタクル感」ですね。これは「スペクタクル映画」の代名詞であるリドリー・スコットとはまた別の意味で、ものすごい威圧感のある「大自然」をきっちりと撮れています。見渡すかぎりの雪山と終わりの見えないミズーリ川。そしていつどこから襲われるかもよくわからないような木々。このスケールは本当にすばらしいです。おそらくこの映画を見て、これがアカデミー賞撮影賞を取ったことに疑問を持つ人は一人もいないのではないでしょうか?この画作りだけで、この映画のスペクタクル感は満点です。もうね、この景色を見るだけにでも映画館の大画面を使う価値があります。小学校の卒業旅行で釧路湿原を見たときの神々しさを、何故か突然思い出しました(笑)。

それで肝心のストーリーなんですがね、、、、

画作りが完璧となれば、当然次はストーリーテリングに行くわけです。でですね、これがですね、なんというかですね、、、、、、、、ひどい(笑)。

本作のテーマ「信仰心の回復」について。

プロット自体は大変シンプルで、瀕死のグラスことディカプリオが呻きながらひたすらベースキャンプを目指すという話が2時間ぐらい続くわけです。はっきりとはわかりませんが、劇中時間で1ヶ月弱ってところでしょうか? グラスは驚異的な回復力を発揮しながら、ひたすらベースキャンプを目指します。いろいろご都合主義的な展開が重なりまして、ついにベースキャンプの捜索隊が彼を見つけて2幕目が終わるわけです。

いまシレっとご都合主義と書きましたが、もちろんイニャリトゥ監督のことですから単純なご都合主義なんて、いけしゃあしゃあとはできません。劇中でこのご都合主義がなぜなのか、きちんと説明してくれます。それでもって肝心の理由ってのがですね、、、「神の祝福を受けていたから」。



そこかっていう、、、、ね(笑)。

本作では、史実というか伝説に基づいたグラスの奇跡の帰還にプラスして、明確に「信仰心」という根拠が示されます。グラスは瀕死の中で幾度と無く、亡き妻の幻と邂逅します。そして彼女の幻は、息子の復讐を求めず、ただグラスが生きる残ることのみに集中させようとちょっとしたサバイバル・トリビアを披露してくれます(笑)。しかしグラスは息子の敵討ちを生きがいとして、信仰心を抑えてあくまでも「人間の力」でサバイブしていくわけです。この悲しいスレ違いがず~っと続きます。しかし、ガーディアン・エンジェルとなった妻のおかげで、グラスは神様から祝福を受け続けます。そして最後の最後で、彼は復讐よりも信仰を選びます。それによって「超ご都合主義」ともとれる奇跡的な巡り合わせを引き寄せ、彼はアリカラ族の敵ではなくなります。そして、ラストシーンで彼は祝福を受け、幻の妻の姿を見るわけです。

このグラスの対比というほどではないのですが、劇中ではあと2名、「信仰」によって運命が変わる者がいます。一人はブリッジャー。ブリッジャーは逮捕される直前に神に許しの祈りを捧げ、そしてその祈りがとどきます。結果としてグラスの証言により無罪(減刑かも?)となります。

もう一人はフィッツジェラルドです。彼は自分勝手な糞野郎ですが、一方で彼の行動は非常に現実的かつ合理的です。信仰が非合理・非利益重視な行動であるとするなら、彼はまさにその対局の現実主義者かつ合理主義者なんです。彼は最終盤、グラスに対して復讐の無意味さを説きます。「復讐したからって息子は生き返らない。」「なんの意味があるのか? 」「命のリスクを犯すだけ無駄である」と。これは明らかに人情ではなく合理主義からくるセリフです。そしてこれによって、図らずもグラスは復讐の無意味さに気づいて信仰を取り戻すわけです。そして信仰を持たないフィッツジェラルドは、アリカラ族と偶然居合わせるという「天罰」に遭遇するわけです。彼は物語の中盤でリスの寓話をもちだして信仰の無意味さと馬鹿らしさを語りますが、結果として「信仰不足」によって地獄に落ちるのです(笑)。

大自然、神への信仰、とくれば「おまえテレンス・マリックか!?」とツッコミが入るわけで(笑)、これは例のごとく宗教の勧誘ではないかという、、、、ね。

ちなみにですが、本作の中でグラスは、ネイティブ・アメリカンと結婚した欧米人という扱いのため、一口に「宗教」といっても自然信仰とキリスト教が混ざってしまいます。この作品では、「欧米人にやられたバッファローの頭蓋骨の山」「荒廃した基督教会」が何度も登場しますので、おそらく土着の自然信仰の話かと思います。自然信仰ならば、当然雪山とか川にいる妖精さん(=この場合スピリッツでしょうか。タバコの銘柄じゃないですよ^^;)への信仰ですから、極寒サバイバルにはご利益がありそうです。

純粋なサバイバルものとしては結構頑張ってるよ!

とまぁここまで全体的なことを書いてきたわけですが、さて細部に目を向けてみると、、、これ結構よく出来ています。たとえば喉の傷を焼いて塞ぐのに火薬を喉にちょっとつけて自爆したり、たとえば背中が壊死して膿んできたのを枯れ草をつかって乾かしたり、ほかにも人工サウナで一気に全身消毒したりとかですね、「サバイバルあるある」としてのネタはふんだんに取り入れられています。極めつけは、馬の例のアレですね。マーユ(馬の油)って火傷や切り傷なんかの皮膚外傷にめちゃめちゃ効果的な「天然の軟膏」なんですね。しかも一番よく取れるのは馬の腹部です(笑)。ですから、「一晩中馬のぬくもりを全身に感じると一気に回復する」っていうあのシーンはよく出来てます(笑)。
細かいディティールは本当に凄いんです。ここまでイヤ~なリアリティを描いたサバイバルものってあんまり記憶にありません。個人的には、見ている間中「THE GREY 凍える太陽(2012)」を思い出してました。

ただですね、やっぱ長いんですわ、この映画(笑)。なんせ3時間近くあるわけで、しかもそのうち2時間くらいがディカプリオが逃げてるか呻いてるんです。たしかに「観客に、グラスのいつ終わるともしれないサバイバルの苦痛と閉塞感を擬似体験させるため」という理由はあるんですが、やっぱ圧倒的な大自然映像を2時間以上見せ続けられるってのはきついです。絵的には代わり映えしないですからね。そうすると、体感時間はどんどん伸びてっちゃうわけです。

難しいところなんですが、この映画ってたぶん「エンタメ映画」を目指してないと思うんですよね。映画って企画時点で結構明確に「賞レース用」「お金儲け用」って分けるんですが、これは明らかに前者のアート寄りな映画です。なので「ちょっと退屈」ぐらいの温度感を意図的に狙ってるような気がします(笑)。

【まとめ】

いいシーンもいっぱいあったんですが、でもやっぱり「長くて代わり映えしないな~」というのが強く出てしまいました。2回目を見たいかって言われるとあんま、、、。正直なところ、これが「監督賞」を取ったというのはあんまりしっくりきません。あえていうなら「よくディカプリオをここまで追い込んだ。ナイス演出!」ってところぐらいなので、実質的に監督賞のトロフィーもディカプリオにあげていい気がします(笑)。

これですね、大変下世話にいってしまえば「ディカプリオがこんなに頑張ってる!」というアイドル映画ど真ん中の「アイドル応援ムービー」なんですよね(笑)。でもアイドル映画としてはちょっと記憶にないくらい「暗い」し「傷だらけ」です(笑)。そういう意味では、大金をかけて強烈にスペクタクル度をあげた「私の優しくない先輩」だと思って見に行っていただけるといいと思います。
”イケメンアイドル・レオ様”からの脱却をテーマにして頑張ってきたディカプリオが、初めてアカデミー主演男優賞を取ったのがアイドル映画だった」っていうのはなんかトンチが効いてていいですね(笑)。要チェック作品なのは間違いありません。ぜひぜひ劇場で御覧ください。

【おまけ】小ネタについて

■ ネタ1:砦のバーでの隊長とフィッツジェラルドの会話

物語の終盤で、ヘンリー隊長がフィッツジェラルドに「300ドルは必要経費(=おまえが余分な物資を買ったこと)になってる」と告げるシーンが有ります。直後フィッツジェラルドが外に出て立ち小便をしようとするもヨレヨレフラフラで、、、というシーン。ここがわかりづらいようなので私なりの解釈を。
そもそもこのご一行はクマとか鹿なんかの毛皮を半年~一年とかのスパンで採るための狩り集団です。会計上、300ドル(=当時としては田舎に農場が買えるくらい大金)を無理やり捻出しようとすると、「消耗品をいっぱい買った/使った」とするしかないわけです。隊長は上記のセリフでこの消耗品ってのを「フィッツジェラルドが罠の材料をいっぱい買った」としました。公式記録上は、ですね。
そうするとですね、実はこれは「フィッツジェラルドの罠師としてのキャリアがほぼ終了した」っていう死刑宣告なんですね。だってそんな大金を無駄な罠に使いまくるってことは、罠師としては無能極まりないですから。そんな人はだれも雇いません。しかも隊長はあくまでも隊長ですから、オーナー(=スポンサー/隊長の雇い主)が別にいるわけで、そちらから無駄に使った分の損害賠償/補填を求められる可能性もあるわけです。
これを受けてフィッツジェラルドは、完全に自分がこの一行にもういられないことを悟って、しこたまお酒を飲んで泥酔するわけです。立ちションもできないくらい。これが直接的に逃亡に繋がるんですね。つまり、フィッツジェラルドは完全に追い込まれており、逃亡は成り行き上仕方ないんです。

■ ネタ2:フィッツジェラルドのヘンリー隊長頭皮剥について

上記の会話にプラスしてグラスが生き残っていたことがわかった時点(水筒を見た時点)で、フィッツジェラルドは逃亡します。逃亡中にフィッツジェラルドがヘンリー隊長の死体の頭皮をハンニバル・レクター並に剥いでる点について「フィッツジェラルドが野蛮である」という指摘がありましたので補足をします。
このシチュエーション時には、フィッツジェラルドは追っ手が何人いるか分かっていません。当然自分の痕跡は消したいです。銃声までしちゃってるので、別の追手がいたら駆けつけるのは間違いないですから。なので、彼はアリカラ族の仕業に見せるために頭皮を剥ぐわけです。幸い、アリカラ族はフランス人から鉄砲を買ってますから、頭さえ剥いじゃえばそんなに不審な点もありません。

これが本映画のラストシーンにつながります。

■ ネタ3:フィッツジェラルドの死が切腹である点

これは大変細かいネタなのですが、フィッツジェラルドの死は「切腹」を連想させるようになってます。本作の映画音楽では、担当する坂本龍一のオリジナル・スコア以外に、同じく坂本自身が担当した「一命(※三池崇史&海老蔵のやつです)」のメインテーマがそのまま流用されています。他の映画からテーマソングをまるまる持ってくるっていうのは、つまりオマージュだったりテーマを借りてきているわけです。タランティーノと一緒(笑)。
本作でどこが一命=Hara-Kiri: Death of a Samurai かというと、これはフィッツジェラルドです。彼は自分で握ったナイフをグラスに掴まれて、腹を刺され、そこから横一文字に切られます。まんま切腹です。そしてその後、アリカラ族に頭皮を剥がれ(=頭をとられ)絶命・介錯されます。
映画上はこれはグラスによる死刑ではなくて、神の手に委ねた結果だと描かれています。絵的にはちょっと無理がありますが(笑)。
それでですね、じゃあ切腹とはなんぞやという話なんですが、外国人からみた場合これは「自分の行為の責任を潔く取ること」なんですね。つまり、フィッツジェラルドを切腹させたということは、「これは他者から悪として成敗されたのではなくて、自ら招いた責任を取らされたんだよ」という表現なわけです。ここでも繰り返し「フィッツジェラルドは悪ではなく、ただの合理主義者である」ということが強調される良いシーンとなっています。分かりにくいですが(笑)。

もっと言ってしまえば、「息子の敵討ちに行く」っていう時点で、まぁ「一命」ですよね(笑)

途中のデルス・ウザーラのパロディとかを見るにつけ、本作は結構な割合で日本映画/サムライムービーを意識してくれています。

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ゴーストライター

ゴーストライター

今日は一本です。ロマン・ポランスキーの陰謀サスペンス、

ゴーストライター」でした。

評価:(90/100点) – ポランスキーの真骨頂!


【あらすじ】

主人公はエージェントのリックの紹介で元イギリス首相・アダム=ラングの自伝のゴーストライターを引き受ける。前任者が酔って船から転落死してしまってリライトが中断してしまっているという。
自伝を書くためにアダムの滞在するアメリカのマーサズ・ヴィニヤード島を訪れた主人公だったが、今度は着いて早々にアダムが違法にスパイを米国に引き渡した嫌疑で国際裁判所に告発つされてしまう。果たして自伝は無事に完成するのだろうか?そして前任者・マイクは本当に事故死なのだろうか?

【三幕構成】

第一幕 -> 主人公の抜擢とヴィニヤード島への到着
※第1ターニングポイント -> ラングが国際裁判所に告発される
第二幕 -> 主人公の調査
※第2ターニングポイント -> 主人公がライカートと出会う
第三幕 -> 解決編


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【感想】

今日は一本、ロマン・ポランスキーの「ゴーストライター」を見てきました。昨年の東京国際映画祭でも上映していましたし、さらに昨年度ベルリン国際映画祭で銀熊賞を獲っています。その評判からなのかポランスキーのネームバリューからなのか、かなりのお客さんが入っていました。テレビ映画からもどんどんサスペンス映画が減ってきていますが、やっぱり面白いサスペンスには需要があるんですね。大変嬉しい限りです。

わりと静かな陰謀サスペンス

本作はゴーストライターとして首相の近くで働くこととなった男が、前任者の謎の死を興味本位で調べて行くうちに恐るべき陰謀に巻き込まれてしまうという陰謀サスペンスです。あっけらかんとした元首相アダムにその愛人とおぼしき秘書のアメリア。それに不満で冷め切っているアダムの妻・ルース。そして政敵のライカート。たったこれだけの主要キャストながら、主人公が興味本位で首を突っ込んでしまったばっかりに発覚する事実はイングランドの政治に大きく関わる重要な陰謀です。
本作は起こることの重要性に反してとても静かに進んで行きます。主人公が実際にやることと言えば前任者の部屋で秘密の書類を見つけてしまうことと、そしてたまたま乗った前任者の車のカーナビでその足取りを追ってしまうことぐらいです。「介入型サスペンス」でありながらも 限りなく「巻こまれ型」に近い展開を見せます。
そうです。本作の素晴らしい所は、主人公はあくまでも一市民であり、終始ただのしがないゴーストライターなんです。何か驚異的な能力を発揮するわけでもなければ、特別な立場にあるわけでもありません。「たまたま」がどんどん重なっていって、 しまいには国家を揺るがす陰謀と向き合うこととなってしまいます。その過程の好奇心と戸惑いがあまりにも普通かつ下世話すぎて、どうしようもなく見ている人間の興味を惹きつけます。本当によくできたサスペンスです。

そもそもアダム・ラングってブレア元首相のパロディ、、、。

下世話という意味ではここを外すわけには行きません。本作のラングは実在のイギリス首相トニー・ブレアをパロっています。実際にブレアは「テロとの戦い」を前面に出して米国の完全追従を打ち出し当時は「ブッシュの飼い犬」とまで言われていました。イギリスの左翼に言わせればそれがロンドン同時爆破テロにつながって行くわけです。 ブレアの良し悪しは置いておくとしても、前首相のほとんど悪口に近いネタを 使って陰謀サスペンスを作れるというところが、イギリスの懐の深さというか、エンターテイメントのアコギなところです。まぁポランスキーは少女強姦罪で指名手配中で米国から34年間も逃亡してる身ですので、そりゃアメリカが嫌いなのは当然ですけど。

【まとめ】

大変愉快なサスペンス映画です。あくまでも無力な主人公を通じて、ちょっとした正義感と野次馬根性を出してしまったがばっかりに巻き込まれる大き過ぎる陰謀に終始ドキドキしっぱなしです。間違いなく映画界トップクラスのポランスキーの演出とユアン・マクレガーの良い人すぎる困り顔を是非是非劇場でご覧ください。万人に受ける必見の作品です。
オススメです!!!
いや~今週は超豊作です。

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わたしを離さないで

わたしを離さないで

ようやく原作を読み終わりました。先週の日曜日に見たのは

わたしを離さないで」です。

評価:(96/100点) – 原作の世界観を利用した極上のラブストーリー


【あらすじ】

キャシー・Hは28歳の介護士である。彼女は提供者の安らかな最期を看取りながら、昔を振り返っていく。それは「ヘールシャム」という幻想的な学校で育った思い出だった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 1978年、ヘールシャムでの思い出。
 ※第1ターニングポイント -> トミーとルースが付き合い始める。
第2幕 -> 1985年、三人のコテージでの思い出。
 ※第2ターニングポイント ->
第3幕 -> 1994年、現在。


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【感想】

原作を読んでいて一週間遅くなりました。先週の日曜日は「わたし離さないで」を見ました。原作はご存じ日本の生んだイギリス人ブッカー賞作家・カズオ・イシグロ。昨年の東京国際映画祭でも上映されていましたが、当日券目当てで朝8時に窓口にならんだらもう完売してました。当時は「カズオ・イシグロの作品がついに」っていうよりは「若手俳優の有望株が豪華集合!」みたいな扱いだったと記憶しています。公開2日目だったのですが、そこまでお客さんは入っていませんでした。たぶんこの一週間でだいぶ評判にはなっていると思いますが、勿体ない事です。
本作を見ていると、これは確かに俳優力が半端でなく凄いことになっていると分かります。一種のアイドル映画と見られないこともありません。ですが、それ以上に、本作はすばらしい純愛映画に仕上がっています。この「純愛映画」と言う部分がこれ以降書くことのキーワードです。アメリカやイギリスでの評判を見ますと、この「純愛」成分が賛否両論の的になっています。つまり、「原作と全然違うじゃないか」という不満が原作ファンから挙がっているんです。原作付きの作品にはある程度仕方が無いことですが、私は原作を映画の後に読んでみてそれでもこの映画は最高に上手く脚色していると思います。
ここで例によって注意があります。本作はSFラブストーリーですが若干のミステリー要素も含んでいます。個人的には世界観のネタバレについては全く問題ないと思いますし、実際、映画の冒頭2分ぐらいの「匂わせ」でSFファンならすぐ理解できる程度の内容です。原作者のカズオ・イシグロ氏も「ミステリーのつもりで書いたワケじゃないけど、発表後に読者に言われて気付いた。」と語っていますが、やはりネタバレによって幾分か面白さが減ってしまう可能性はあります。肝心の部分については書きませんが、もし完全にまっさらな状態で観たい方は、ここから先はお控え下さい。

作品の世界観

本作について書こうと思いますと、やはりまずは世界観と原作について触れなければいけません。正直に申しますと、世界観については本来なら予告編や公式のあらすじでバラしてしまっても良いと思います。というか本作の一番の肝はこの世界観の設定の部分なので、ここを説明しないと面白さがまったく伝わりません。この辺りがいつもの「SF作品はお客さんが入らない」という例の宣伝方針なのかな、、、とちょっと複雑な気分になります。
さて、本作は今現在2011年から見て過去の話しになります。そして映画の冒頭で一気にダイアログによって世界観が説明されます。
1952年、科学技術の発展によってそれまで不治の病とされてきた病気が駆逐され平均年齢が100歳を越えます。そしてその中で、提供者と呼ばれる人々を育てる学校が各所に建てられます。作品はその中の一つ「ヘールシャム」で育った仲良し三人組をメインに語られます。
本作の世界観は「臓器提供のためだけに”造られた”クローン人間達」の人生を描きます。原作にしろ映画にしろ、この世界観を設定したことですでに「勝ち」です。
まったく同じ世界観に大味馬鹿映画でお馴染みマイケル・ベイの「アイランド」があります。しかし本作は「アイランド」とは”人生”についての解釈が180度違います。「アイランド」は不条理な一生を余儀なくされたクローン人間の復讐・逆襲を描きます。つまり「被差別層の最終目標は自身が差別層と入れ替わることである」という価値観をストレートに描きます。一方で本作のクローン人間達は常に達観しています。彼女たちは幼少時より隔離された世界で育てられ、自身の人生を「そういうものだ」という前提として受け入れています。そして受け入れた上で一生を”普通に”送っていきます。
言うなれば、本作におけるクローン人間・臓器移植という設定は「人生をギュッと圧縮するための設定」なんです。本作のクローン人間達は成人すると「通知」と呼ばれる手紙が来ます。そして自身の臓器を提供します。最高でも4回、通常は2~3回目の提供手術でクローン人間は亡くなります。このとき大抵は30歳前後です。一方、その臓器を提供された「普通の人間」は、移植によって100歳近くまで生きることが出来ます。つまり寿命という点では非常に両極端な事態になっているわけです。
肝は、クローン人間達の寿命が極端に短いからといって一生が薄いというワケではないという点です。彼女たちはまさしく普通の人間が送るのと同じような一生を、ギュッと圧縮して送るわけです。幼少時は学校で保護者達に守られた生活を送り、次は同年代の人間達のみで共同生活を送り、そして成人して一人暮らしをしながら仕事をし、通知を受け取ってからは臓器提供を行うことで体が思うように動かなくなり、ついには一生を終えます。これはモロに幼少期→青年期→成人期→老年期のメタファーです。
本作はSF設定を用いることで人間の一生を擬似的に圧縮し、それによって「否が応でも迫ってくる人生の不透明性/不条理性」を浮かび上がらせています。
昨年末の「ノルウェイの森」の時にちょっと書きましたが、これはまさしく1960年代的な純文学要素をもったSFそのものです。原作「わたしを離さないで」は、新しいような古典的なような、懐かしさをいれつつ今風のポップな文体に起こした大傑作だとおもいます。

映画における脚色の妙

さて、前述のように「わたしを離さないで」は人間の一生を圧縮して見せています。原作において、キャシー・Hは一生を多感に過ごします。幼少時には無邪気なグループ間の争いやイジメ的なものも目撃しますし、青年期には一夜の遊びも何度も経験します。成人期には仕事に没頭しつつもストレスや学閥による嫉妬も経験します。まさしく私達が送るであろう人生そのものを経験します。
一方、映画版においてはその描写は恋愛要素に大きく偏っています。キャシー・Hは幼い頃より好きだったトミーをずっと思い続けます。なかなか自分に振り向いてくれないトミーを見ながら、それでもずっと一生を送っていきます。映画版におけるテーマはここです。「人生は怖い」「いつかは終わりが来てしまう」「もしその恐怖に対抗できるとしたら、それは愛だけである」。本作のクライマックスにくるエピソードはまさしくこれを表現しています。そして、クローン人間達の人生が圧縮されていることで、この「愛」が相対的に長くなり、それが「純愛」要素を帯びてくるワケです。ファンタスティックMr.FOX的な表現をするなら、「人間時間で15年、提供者時間で70年の恋愛」です。
これによって、本作はもの凄い大河ロマン的な恋愛ストーリーとなります。私はここの部分において映画版は原作を越えているとさえ思います。大河ロマンになることで、最終盤にふとキャシー・Hが見せる涙が、それまで達観していた人生からふと漏れ出して見えるわけで、これこそ一生の不条理性を強烈に印象づけます。しかもそこに人生の不条理を絞り出すブルース調の「Never let me go」と、まだそれに気付いていない無邪気で無垢な少年少女達による「ヘールシャム校歌」がかぶさってくるワケです。
まぁ泣くなって方が無理です。

【まとめ】

本作はキャシー・Hという内気な女性の一代記になっています。そしてそれがとんでも無いほどの魅力を放っています。ですので、当然演じるキャリー・マリガンのアイドル映画として見ることも出来ます。そう、本作は1年かけて大河ドラマでやるような「女性の一代記」をわずか100分に濃度そのままで超圧縮しているんです。この恐るべき編集力と脚本力はどれだけ褒めても褒めきれません。小説版にでてくる脇役達も大きく削り、メインの三人組に集中したのも上手い脚色です。しかもそれでいて端折っている感じはありません。きちんと100分で完結しています。アンドリュー・ガーフィールドも神経質で多感な少年をすばらしく演じていますし、キーラ・ナイトレイの悪女っぷりも最高です。
これは心の底から是非映画館で見て欲しい作品です。確かに原作をゴリゴリのSFとして読んだ方には若干甘ったるい印象を与えるかも知れませんし、そこで違和感を感じるのも分かります。しかし、ここまですばらしく纏まったラブストーリーはなかなか見られません。かなりのテンションでオススメします。とりあえず、この1本!

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