劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~

劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~

3月の1本目は先週末スルーした

劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~」です。

評価:(45/100点) – 絵は凄い。絵は。曲もまぁまぁ。でも話しが、、、。


【あらすじ】

バジュラのフロンティア船団侵攻を食い止めたS.M.S.とシェリル・ランカは一躍船団のスターとなっていた。そんなおりスパイ容疑でギャラクシー船団からの避難者達が続々と襲撃・逮捕されていく。逮捕されたシェリルを尻目に、フロンティア船団のミシマはギャラクシー船団の技術を盗みバジュラ達を操ろうとする。実現すれば宇宙最大の脅威になると考えたS.M.Sマクロス・クォーターのジェフリー艦長は反逆罪を覚悟でシェリルを脱獄させ、ミシマの野望阻止に動き出す、、、。


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【感想】

今日はレイトショーで「劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~」を見て来ました。21:30開始の結構遅い回だったのですが、観客は2~3割ぐらいの入りでした。この時間だと観客1ケタが当たり前なので、結構入っている方だと思います。一昨年公開された「劇場版マクロスF 虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~」の後編です。
ここで読んでいただいている方に注意があります。本作は私もちょっと整理しながら書かないと分からないくらい話しが大混乱しています。ですので、100%ネタバレで書こうかと思います。総論としては、アニメーションの動きは凄いけどストーリーが無茶苦茶でかなり観客を選ぶ作品だと思います。具体的にはTVアニメを見てシェリルやランカといったキャラクターが好きなことを前提として、「彼女たちを見ていれば満足できる」という人のみがターゲットです。完全なキャラものです。TVシリーズ未見の方はまずTVシリーズと劇場版前編を見てから、それでも興味があれば行きましょう。

今回のストーリーの大混乱っぷり

今回のストーリーで一番厳しいのは、劇中の行動の動機・因果関係がグッチャグッチャだからです。しかもそのグチャグチャなストーリーの合間に「ミュージックPV」や「萌え要素」のような本筋と関係無いシーンが長く入るものですから、余計わけがわからなくなります。ですから、まずは時系列に沿って話しのプロットを整理しましょう。
・シェリルのV型感染症が末期であることが分かる。助かるには免疫を持ったランカを殺してシェリルに臓器移植する必要がある。
・フロンティア船団の前に巨大バジュラ艦が現れる。アルトとブレラの活躍で撃退するが、アルトが被弾し入院する。
・ギャラクシー船団幹部の野望が明らかになる。
 フォールド細菌を持つシェリルとランカの歌を通じてバジュラの意志ネットワークを解析、
 バジュラを操り世界征服を目論む
・ギャラクシーの幹部がフロンティアの公安に襲撃される。グレイスが重傷で拘束、シェリルが逮捕される。
・フロンティア幹部のミシマがギャラクシー幹部の世界征服案をそのまま流用しようとする。
・ミシマの野望を阻止するべく、S.M.Sマクロス・クォーターがシェリルの救出作戦を行う。
・ミシマがバジュラ・ネットワークの解析を終える。バジュラにインプラント弾を撃つことで操れるようになる。
・ミシマがバジュラを寝返らせつつ、バトル・フロンティアでバジュラの母星を目指し侵攻する。
・S.M.Sのマクロス・クォーターがバトル・フロンティアを追撃する。途中シェリルとオズマ隊長とはぐれる。
・バトル・フロンティアがブレラに襲撃され皆殺しにされる。
・ブレラはギャラクシー3幹部のインプラント体を起動しバトル・フロンティアを乗っ取る。
・バトル・フロンティアがバジュラ・クイーンと融合する。
・マクロス・クォーターのアルトがシェリル・オズマと合流。
・アルトが単機でバトル・フロンティアに突撃する。周囲のバジュラを押さえ込むためランカとシェリルがデュエット。
・S.M.S救援連合艦隊が到着。
・ランカの歌でブレラが正気に戻りインプラントを自らはずす。バトル・フロンティアに特攻し、3幹部を自爆破壊。
・バジュラ・クイーンとバトル・フロンティアの融合が外れる。
・救援連合艦隊の複数のマクロス級戦艦でバトル・フロンティアとバジュラ・クイーンを一斉射撃し破壊する。
・爆発に巻き込まれアルトが行方不明になる。
・ランカからの輸血で一命は取り留めたものの、重度の感染症からシェリルが昏睡する。
・バジュラ・クイーンの死によって無人になったバジュラ母星にフロンティア船団が入植する。
 はからずも第2の地球をゲット!
え~たぶんこの箇条書きだけ見ても訳が分からないと思いますが、大丈夫です。本編を見ても所々意味がわかりませんw
例えばシェリルを脱獄させる動機です。どう考えても「シェリルが好きだから」なんですが、劇中では「ミシマを止めるため」としか言いません。でもフォールド波はランカでも出せるんですから、対バジュラ兵器としてはこの時点でシェリルはもういらないんです。なぜこれが「ミシマを止める」ことに繋がるか分かりません。ちなみに救出作戦でのランカの歌声でミシマがバジュラ・ネットワークの解析を終えますから、むしろ「ミシマに勢いを与えて」います。
次いで一番引っ掛かるのはラスト付近のアルトの突撃です。「歌を届けるため」に突撃するということになっていますが、それって要はスピーカーを担いでいくイメージです。でもこの時点ではもうバジュラ・クイーンとバトル・フロンティアは融合しているので、その直前まであった「バジュラを救うためバトル・フロンティアを倒す」という構図はなくなっています。一応、マクロス・クォーターの唯一の大義名分は「バジュラにも意志がある=異星人だから、ミシマの異星人への侵攻は銀河連邦法違反である」という点です。ところが結局はマクロス・クォーターもバジュラを殺して母星を奪っていますw それって駄目なんじゃなかったの? しかも主人公・アルトがこの件に関してはまったく役にたっていませんw 勝手に突っ込んで勝手に爆発に巻き込まれただけです。

良かったところ

とまぁ話しに関してはつっこみ放題なほど酷いんですが、もちろん良かったところもありました。当然戦闘シーンとミュージックPVシーンです。戦闘シーンは相変わらず勢い重視で、各機体の位置関係はわかりません。ただ、ひたすら大音量でドガシャーンと動かすためテンションはかなり上がります。
「ミュージックPV」部分については、こちらも3DCG中心でかなり気合いの入ったものでした。こちらも相変わらず客観視点がありませんが、手持ちカメラっぽい動きをバーチャルに再現していて非常に面白かったです。こちらはハッキリ言って本編と一切関係がありませんから別に無くても良い部分ではあるんですが、やっぱりマクロスと言えば「アイドル」「飛行機」「三角関係」なのでここのクオリティは大事ですw

【まとめ】

上に書かなかった本作の特徴として、パロディが多いという事も言えます。ざっと思いつくだけでも、「エウレカセブン」のロボットが波乗りするシーン、「ガンダムW」の岩を盾にして大気圏突入するシーン、「F91」のセシリーっぽいシェリルの衣装。バジュラ母星での戦闘は「ダンバイン」の最終回です。バジュラ自体もダンバインっぽい造形です。
ということで、本作は完全にアニメオタク向けの作りですし、もっというとキャラクターもののアニメを好きな人向けです。話しの整合性よりは勢いや萌えがあればOKという割り切り方が出来ないと、結構つらいかもしれません。オススメはしません。本作のターゲットになるような方は勧めなくても見に行くでしょうし(苦笑)、見に行く気が無い人にオススメして無理に見せてもどうせ意味がわかりません。すごく閉鎖的で人を選ぶ作品です。前編が比較的わかりやすい整理をしていただけに、後編でなんでここまでグチャグチャになったのか結構不思議ですw

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冷たい熱帯魚

冷たい熱帯魚

今日は新宿で3本です。一本目は今更ですが

冷たい熱帯魚」を見ました。

評価:(75/100点) – でんでんは最高 !


【あらすじ】

社本信行は富士郊外で熱帯魚店を経営している。最初の妻を亡くし、一人娘・美津子はグレ、後妻の妙子ともあまり上手くいっていない。
ある日、夜御飯の途中で飛び出していった美津子が万引きをしたとの連絡が信行の元へ来る。急いで妙子と共にスーパーマーケットへ向かった信行は、店長へこっぴどく叱られる。すると、そこに近くで熱帯魚店を経営しているという村田幸雄が現れその場を丸く収めてくれた。そのまま成り行きで村田の熱帯魚店を見学した社本一家は、どんどん村田のペースへと巻き込まれ、やがてにっちもさっちも行かなくなってしまう、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 社本一家と美津子の万引き。
 ※第1ターニングポイント -> 吉田の死。
第2幕 -> 村田のビジネス。
 ※第2ターニングポイント -> 村田の死。
第3幕 -> 社本の逆襲。


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【感想】

今日は3本見て来ました。1本目は冷たい熱帯魚です。今月頭にちょくちょくレイトショー狙いで新宿テアトルに通っていたのですが、ずっと立ち見ばっかりで見逃していました。公開から1ヶ月経って拡大ロードショーが始まったからか、そこまで混んではいませんでした。
随所でかなり感想が出そろった感がありますので、細かい所を抜かして要点だけさらっと書いてしまいます。
個人的には本作は「ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う」以上、「愛のむきだし」未満って感じです。キャラクターはどなたも最高に切れてますし、役者はどなたも最高にすばらしいです。特に誰しも言うことですが、でんでん演ずる村田幸雄はいろんな意味でちょっと他では見られないくらい切れてます。激情的に捲し立てたかと思うと突然優しげになったり、本当に嫌な意味での「あるあるオヤジ」の村田は存在感抜群です。このキャラクターを作っただけで勝ちかなという気はします。
ただ逆に言うとこのキャラだけかなという印象もあります。もちろんそんなことは無いですし、社本の成長(?)物語にも見えます。ヘタレな社本が村田という暴力的な男性に感化されて”男らしさ”を獲得するも結局そんなことではどうしようも無いという、、、そういう風にも見えます。でもそういう全部を吹き飛ばすぐらい村田が濃すぎるため、どうしても村田が退場した後のがっかり感というか失速を感じてしまいました。
2時間半の長い映画ですが、すくなくとも途中で飽きることはありません。かなり高いテンションで見ることができます。ですがそこまで万人にお勧め出来るかというとちょっと微妙だと思います。そこまで言うほどでもないですがグロい事はグロいです。とはいえ、でんでんさんには是非賞を獲って欲しいので小声でオススメします。

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KG カラテガール

KG カラテガール

今日の3本目は

「KG カラテガール」です。

評価:(30/100点) – 不満ばっかりなので次作に期待!


【あらすじ】

伝説の空手家・紅宗次郎の末裔・紅達也は謎の男達の道場破りに会い、次女・菜月を攫われ自身も殺されてしまう。なんとか生き延びた長女の彩夏は池上家にやっかいになり、池上彩夏として紅家に伝わる宗次郎の黒帯を守り続ける。
それから数年後、高校生になった彩夏はバイト先でひったくり犯を撃退したことで「スーパー空手少女」としてニュースになってしまう。彩夏が生き延びていることを知った謎の集団のボス・田川は、彩夏へ刺客を放つ、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 彩夏がひったくり犯を撃退し有名になる。
 ※第1ターニングポイント -> 彩夏が二人組に襲われる。
第2幕 -> 彩夏とサクラ。
 ※第2ターニングポイント -> サクラが田川の人質となる。
第3幕 -> 菜月の救出。


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【感想】

本日の三本目は「KG カラテガール」です。T-JOY作品ですので、自社のバルト9とブルグ13のみでの公開となります。初日のレイトショーですがまぁまぁ人が入っていました。主演はハイキックガールの武田梨奈。監督はハイキック~で脚本だった木村好克。アクション監督で西冬彦。キャストも殺陣は大志塾門下が出演で、ほぼハイキックガールの陣容そのままです。続編ではないですが、西冬彦組の一連のカラテ作品の最新作です。
結論から言ってしまいますと、本作はダメダメですw これより書くことはダメ出しばっかりになるとおもいますが、でもこれは期待の裏返しです。間違いなく武田梨奈は日本アクション界の期待の星です。可愛いですし、十分に動けます。そしてきっちりエンディングを歌うなどアイドルとしての佇まいもできています。だから、是非、この素材をフル活用して素晴らしい作品を撮って欲しいんです。今から書くことはアクション馬鹿からの提言というか(苦笑)、アクション映画の面白さの肝の部分になります。

提言その1: アクションでキャラクターを語れ!!!

本作で一番の肝はここになります。アクションはただ戦えばいいというわけではありません。アクションはキャラクター描写の一種であり、立派な演技なんです。例えば先日見たドニー・イェンの「イップマン2」を例に見てみましょう。
イップマンは詠春拳を使います。詠春拳は守りのカンフーであり、空手の「三戦立ち」のように内股気味で正面に構えます。攻撃は適切な時に適切なタイミングで最小限のカウンターを入れます。技は拳が中心となり、足技は相手の動きを制するため、遠い間合いから牽制したり相手の攻撃をかいくぐる際に使用します。この一連の型は、イップマンの平和主義と直結しています。イップマンは決して自分から手を出す人間ではなく、普段は至って温厚で低姿勢です。詠春拳はこのイップマンの性格・理念を体現しています。
このように、アクションとはその動きでキャラクターの性格や理念を表現するものです。力任せの攻撃を行う人間なのか、それとも守りを中心にカウンターで制するのか。足技を多用するのか、拳を多用するのか。正々堂々とした攻撃を使うのか、卑怯な手段を使うのか。とにかく勝利にこだわるのか、勝利よりも礼節を重んじるのか。その動き全てがキャラクターを表さなければいけません。「この人物ならばこういう動きをするはずだ」という物であり、逆に「この動きをするのだからこういう人物に違いない」という物です。
本作では、アクションが一切キャラクターを表しません。敵も味方も似たように飛び跳ねていますし、似たように踏み込んできます。これは本当に残念です。キャラクターを表さないアクションは、もはやただの「演舞」です。これでは例え動きが良くても映画作品にはなりません。

提言その2: アクションでストーリーを語れ!!!

前項にも通じますが、アクションはキャラクターだけでなくストーリーも語る物です。
本作では田川は傭兵集団のボスで「宗次郎の黒帯」をブランドに仕事をしています。しかしそれ以外の具体的なことは何も描写がありません。作中において一番意味が分からないのは「結局田川とは何者なのか」という部分です。それは田川側のアクションに一貫性と特徴がないからです。例えば、田川側の刺客たちが「田川流」的な技を使いさえすれば、この作品は「田川流」と「紅流」の抗争の話なのだと一目で分かります。また、もし田川本人が戦うシーンがあって、そして紅流のあの独特の構えを使いさえすれば、それは十分ストーリーの説明になります。田川が紅流というブランドを奪おうとしている表現になるからです。
ですが、本作には前述のようにアクションに特徴がありません。アクションとストーリーが完全に分離してしまっていますので、アクションパートではストーリーが前に進みません。唯一ストーリーのあるアクションは海沿いでの姉妹の一騎打ちです。ここでは、2人が同じ型を使うことで姉妹だと気付くという描写があります。この積み重ねがないため、90分しかない上映時間が長く感じてしまいます。

提言その3: アクションは主演のプロモーションタイムと心得よ!!!

アクション俳優とアイドルは紙一重です。というのもアクション俳優は演技力よりもアクション力を重視されるため、より俳優本人の魅力・技量がストレートに表れるからです。ですから、アクションシーンは主演俳優のプロモーション的な要素が強くなります。衣装であったりシチュエーションであったり、アクションシーンに物語り上とは別の「テーマ」を設けることが肝心です。
では本作の彩夏のアクションを順を追って見てみましょう。
最初のアクションはひったくり犯との対決です。ここは顔見せ程度であり、素人相手に圧倒的な強さを見せます。
次いでのアクションは額のペットボトルを蹴り飛ばす模擬シーンです。これは彩夏のハイキックの高さと正確さを見せています。
その直後がサクラと武田一馬との2対1の対決です。ここがひったくり犯とのアクションと同じ構図でレベルを上げた物です。
次がサクラとの一騎打ちです。ここは前述のようにお互いが同じ技を出し合って相打ちになるシーンです。
次はもう本拠地に乗り込みます。乗り込み先で1対1の空手戦、1対多数の乱取りの後、ヌンチャクで木刀相手に戦います。ここが本作で唯一武器を使うシーンです。
最後にいかつい外人リチャード・ウィリアム・ヘセルトンとの1対1から菜月が援護にはいった1対2の戦いです。ここでは劇中で唯一の姉妹連携が見られます。
とまぁ羅列してみるとわかるように、パターンが少なすぎますw すべてのアクションは平らな床の上でおこなっており、地形や施設を利用した戦いがありません。武器もヌンチャク対木刀が1回、それも1分ぐらいで終わってしまいます。本作は武田梨奈のアイドル映画でもあるわけですから、彼女の能力を知らしめないといけません。だからもっと戦いのバリエーションを増やして「武田梨奈ってこんな事もできるんだ」というプロモーションをするべきです。本作では空手家・武田梨奈の魅力の半分も伝えられていません。

【まとめ】

残念です。ただただ残念です。正直な所、ドグーンVで私は一気に武田梨奈の魅力にやられました。だから本作もかなり期待していたんです。ところが蓋を開ければ、、、本当に残念です。疑問なのは、本作のスタッフ(=ハイキックガールのスタッフ)は本当にアクション映画が好きなんでしょうか? どうもアクションに愛が感じられないというか、「アクション映画」という一種のジャンルムービーの肝が分かっていないような気がしてなりません。とはいえ、武田梨奈は文句なく可愛いですから、彼女のファンはとりあえず押さえておくに越したことはありません。ただし、間違っても傑作や良作ではありません。つまらない映画だという前提で、是非将来のアクションスターへの投資だと思って見に行ってもらえるといいかなと思います。小声でオススメします。

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記事の評価
白夜行

白夜行

日曜日は

「白夜行」を観てきました。

評価:(80/100点) – テレビ屋映画でもちゃんとしたサスペンス出来るじゃない。


【あらすじ】

昭和55年、廃墟となったビルで質屋の主人・桐原洋介の遺体が発見された。警察は桐原の身辺を洗い不倫相手と思われる西本文代を突き止める。しかし文代は自宅で自殺体で発見され、事件は被疑者死亡のまま書類送検される。担当刑事の笹垣は文代の犯行を疑い、それから何年も個人的に捜査を進めていく。
それから10年後、桐原の妻・弥生子の愛人だった栗原が他殺体で発見されたことから事件は思わぬ方向へと転がり始める、、、。


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【感想】

日曜日は東野圭吾原作の「白夜行」を見て来ました。客層は中年~高齢者が多く、一人で見に来ている女性も目立ちました。GANTZ程ではないですが、そこそこの入りです。
見た直後に「韓国映画に負けない悲惨な話がまだまだ出来るじゃん」とかなり満足だったのですが、調べたら韓国でも映画化されているんですね。見かけた記憶が無いので日本未公開でしょうか。私は、不勉強ながら原作もドラマも韓国版映画も見ていません。完全に前知識無しで見に行きました。ですので、もしかしたら原作の方が面白いとか、原作ファンからすると「ここが許せない」みたいな所があるかも知れません。少なくとも前知識無しで見た私にとっては、本作は久々に見た日本映画のかなり面白いサスペンスでした。傑作と言ってしまってもいいかと思うぐらい満足度は高いです。
話のフォーマットはサスペンスとして定型的な「悲惨な目にあった少女の(非合法的)成り上がりストーリー」です。ですが本作では外道な振る舞いをしながら光り輝く少女・雪穂と献身的な振る舞いで彼女の影になる少年・亮司が、明暗・表裏のすばらしい対比になってグイグイ物語を引っ張っていきます。ストーリーは間違いなく大変面白いです。
唯一本作で不満があるとすれば、やはり演出的な面です。特に主役の笹垣を演じる船越英一郎がいつも通りの二時間ドラマ演技を見せ、そしてその他の戸田恵子や栗田麗もモロにTVドラマの演技(=はっきりとした滑舌で大げさなリアクション)を行ってくるため、かなり安っぽいことになっています。話の内容の重さ・暗さに反して、ルックスはとても軽いです。
がっかりがピークに達するのが本作でもっとも盛り上がる(はずの)クライマックスです。安っぽい泣き脅しと甘ったるい音楽とスローモーションの極悪コラボレーションで、一瞬火曜サスペンスで定番の沖縄・万座毛での探偵と犯人の説得シーンからの「落ちるなよ!!!落ちるなよ!!!!!(by ダチョウ倶楽部)」がフラッシュバックしますw
ただ、主要キャストは良く嵌っています。堀北真希は相変わらず下手ですがその下手な演技が逆に雪穂の「嘘くささ」にぴったりですし、高良健吾の「偽ダルビッシュ」感も痩せた感じと相まって病的な執着をもった男にきちんと見えています。この二人には珍しく当たり役だと思います。

【まとめ】

あんまり細かい所はサスペンスの面白さが減じてしまうので書けないのですが、間違いなく日本映画では良作の部類です。とはいえあまりハッピーな話ではありませんので、デート等では避けた方が良いと思います。メジャー資本の日本映画でもまだまだ十分に面白いサスペンスが作れるということだけでも、十分に見ておく価値のある作品です。かなりオススメです!

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記事の評価
GANTZ

GANTZ

土曜日は二本見て来ました。1本目は、

「GANTZ」です。

評価:(9 /100点) – 適当でショボい「予告編」。


【あらすじ】

就職活動中の玄野は地下鉄の駅で小学校の同級生・加藤を見かける。加藤は線路に落ちた酔っ払いを救うため、自らも線路に降りてしまう。なんとか酔っ払いを助けた加藤だったが電車はすぐそこまで来ている。ためらいながらも加藤に手を貸した玄野だったが、加藤に引き込まれ線路に転落、2人共電車に轢かれてしまう、、、、。
しかし気がつくと、玄野と加藤はマンションの一室に居た。まわりには数名の男子。目の前には謎の黒い玉。はたして二人は死んだのか、、、そして黒い玉は何なのか、、、。


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【感想】

土曜の1本目は「GANTZ」です。おなじみヤングジャンプ連載のコミックの映画化で、日テレ、東宝、ジェイ・ストーム、ホリプロが制作委員会に名を連ねます。二宮君と松ケン狙いなのか若い女性が多く、漫画ファンの層とはちょっとずれているように感じました。かなりお客さんは入っていまして、一度アニメ化もされている人気シリーズです。

ソープオペラと映画について

当ブログを読んで戴いている方には「そもそも」という単語が出ると危ないというのはご想像できると思いますが(苦笑)、いきなり「そもそも論」から行きたいと思いますw
そもそもですね、原作コミックスはいわゆる「ソープオペラ」の形式をとっています。当ブログでも何度か出てきていますが、一応念のため。「ソープオペラ」はアメリカの連続ドラマの形式の一種で、キャラクターだけを配置して延々と下世話に話を転がしていくものです。ストーリー自体にゴールは無く、またあったとしても限りなく薄いゴールが設定されます。基本的にはシチュエーションとキャラクターの魅力しかありませんので、いくらでも続けることができますし、いつでも止めることができますw 実はそういう風に考えると、連載漫画とソープオペラがとても相性が良いというのがお分かり頂けると思います。つまり編集部やファンの要請が続く限りいくらでも話を転がせますし、また打ち切りが決まればすぐにでも完結させることが出来るからです。
しかしその一方で、ソープオペラは映画にはまったく向いていません。というのも映画には元々「フィルムリール」と言う形で物理的な尺の制限があるからです。もちろん複数リールをつなげるようになってからも、単純にリールが増えるとそれだけダビングに時間も費用もかかりますのである程度の制限は残ります。長さに制限があるということは、つまり作品に明確なゴールを設定した上で、時間に合わせて的確にストーリーを語る必要があるということです。二時間半ならそれに見合った話の内容があり、きっちり二時間半でゴールまで行かないといけません。
さて、原作の「GANTZ」はラストミッションまではこの「ソープオペラ」形式で「星人狩り」のゲームが繰り返されます。この繰り返しの一回一回には特に意味は無く、ゲームや星人のシチュエーションとそこに放り込まれるキャラクターを楽しむものです。正しいソープオペラであり、よく考えられた連載向けの物語構成です。
しかし前述のような映画とソープオペラの相性の悪さがありますから、この原作を映画化するのであれば当然そのままではどうにもならないわけです。(逆に言えば、例えば毎週放送するアニメやドラマであればそのままでもある程度格好は付きます。)
この「原作のストーリーをテーマを絞ってまとめる」事が映画化する際の一番の肝であり、もっとも監督や脚本家の手腕が問われる箇所です。

本作におけるストーリーについて

では今回の映画化はどういった形でテーマをまとめているでしょうか? これは明確で、「玄野の自分探しと成長」です。物語の冒頭では、玄野は面接のマニュアル本を暗記するだけで何の熱意や希望もなく安穏と生活していました。それがGANTZのゲームに参加することで段々と調子に乗り始めます。自分が「いじめっ子をやっつけるのが得意」だと認識した上で、星人狩りを天職だと思うようになり独善的に暴走していきます。しかし対おこりんぼう星人戦で仲間を失ったことで戦いの惨さを再認識し、皆で力を合わせて生き残る事を決意します。これが本作のストーリーの全てです。
問題は、本作のストーリーがどう考えても130分という尺に対して薄すぎることと、そしてストーリーに対して起こっているGANTZを巡る事態が風呂敷を広げすぎな事です。物語の最後で玄野が決意することは、物語の冒頭ではすでに自明であり加藤が連呼していたことです。ですから130分も使った上で成長するゴールとしては低すぎます。
また、映画の尺が伸びすぎている大きな要因がこれでもかというほどクドい「ウェット」で「だるい」演出です。この映画版ではXガンが強力な銃として登場します。実際に劇中で戦う敵は全てこのXガンで撃たれることで倒されます。引き金を引いたら戦闘が終了するような武器を持っているにも関わらず、玄野はなかなか銃を撃ちません。挙げ句の果てには敵の目前で愁嘆場を演じたりする始末です。
特に酷いのがラストの千手観音戦です。ここでは「岸本と加藤」「玄野と加藤」の二回、まったく同じシチュエーションで敵の目前で「感動的なお涙頂戴話」を始めます。それを待ってあげている千手観音もお茶目ですし、「そんなことしている間にXガンで撃てよ」という文句が何度も頭をちらつきます。実際問題、本作の戦闘シーンはほとんどが「そんなことしている間にXガンで撃てよ」で片付いてしまいます。アクションもへったくれもありません。CGがショボイとかカット割りすぎとか以前に、アクションシーンとしておかしな事になっています。しかも玄野と加藤と岸本以外が完全に何の役にもたっていません。ソープオペラというのは各キャラクターを群像劇のように立たせるものですが、本作ではこの3人以外は誰が誰やらさっぱり分からないため、そもそもソープオペラとしても失敗しています。

【まとめ】

だらだらとグチを書いてきましたが、要は本作は後編「GANTZ PERFECT ANSWER」の予告編以上のものではありません。130分も使っておきながら、「みんなで力を合わせよう」などどいうヌルイ着地をしつつ、結局「GANTZ」関連のストーリーには進展がないままです。まるで打ち切り漫画のようなラストショットと、そしてエンドロールの後に流れる心底がっかりする後編の予告によって、本作がただの「前振り」でありただの「お試し版」であることがハッキリします。
本作は見る必要が1ミリたりともありません。どうせ後編をやる直前に日テレで放送するでしょうし、別に後編からいきなり見ても十分に話が通じる程度のボリュームです。まったくオススメしませんが、二宮君と松山ケンイチのファンであれば見に行っても良いかと思います。完全なるドラマ演出によって顔のどアップばかりですので、ファンであれば顔だけは楽しめると思いますw

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最後の忠臣蔵

最後の忠臣蔵

本日は1本、

最後の忠臣蔵」を観てみました。

評価:(60/100点) – 真っ当な作りだけど、面白いかは別問題。


【あらすじ】

赤穂四十七士の最後の生き残り・寺坂吉右衛門は遺族達を訪ねて生活の支援をしていた。16年を掛けて全ての遺族を訪ね終えた吉右衛門は、四十七士の十七回忌の法要のため京都の進藤長保の元を訪れる。その道中、彼はかつて討ち入り前夜に逐電(=脱走)した瀬尾孫左衛門によく似た人物を見かける、、、。


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【感想】

本日は一本、「最後の忠臣蔵」です。お客さんはお年寄りが中心でしたが、あまり入っていませんでした。原作は池宮彰一郎で、一度NHKで連続ドラマになっています。私は原作、ドラマ共に未見でした。
本作の話の内容自体は予告で全て語られます。なので、予告編を見れば十分です。オススメDEATH!!!!。




で終わるのもなんなので、ちょっとだけ書きますw
劇中繰り返し出てくる「曽根崎心中」があんまり関係無いとか、キャラも話も薄すぎるとかいう嫌いはあるのですが、全体的には結構よく出来ていると思います。ただ、良く出来ているといってもそれは「告白」的な意味で良く出来ているという感じです。どういうことかというと、それはあくまでも演出的な格好良さ・大作感が前面に出ているだけということです。
この話は世間から臆病者と罵られながらも生き抜いてきた孫左衛門の忠義の話であり、それには明確に「可音をしかるべき家に嫁がせる」というゴールが設定されているわけです。そしてこのゴールへの回答は、開始20分くらいに豪商のお坊ちゃん・茶屋修一郎が一目惚れする事で示されるわけです。後は「可音が嫁ぐ気になるかどうか」と「孫左衛門が隠している秘密とは?」という2点で1時間を引っ張ります。
後者については、予告の時点から散々見せられていますのでもはや引っ張りにはなりません。「だって内蔵助の隠し子でしょ?」というのは映画を見に来た全員が知っている事です。そして前者については、ものすごくあっさりと解決されてしまいます。映画の時間にして約3分。孫左衛門が可音とちょっと喋って終わりです。なので、この映画は非常に予定調和的に話が進んでいきます。そこには驚きや興奮はありません。私たちが予告を見て想像したまさにそのことが、たっぷりと間をとった演出でゆったりと語られます。
ですから、良い映画かどうかと聞かれれば「かなりまともな映画ですよ」と答えますが、「面白いですか?」と聞かれたら、、、、、お察し下さいw
元からしてそこまで盛り上げづらい題材ではあります。せめて討ち入りの回想をもっと豪華にするとか、所々で吉右衛門と孫左衛門の過去エピソードを入れるとかいう工夫があれば、もうちょい話の推進力を保てたかなと思います。
もちろん桜庭ななみが好きで好きでしょうがなかったりですとか、役所広司が好きで好きでしょうがないといった事情があれば興味も続くかとは思いますが、後半は結構睡魔との戦いでした。
チェックして置くに越したことは無い作品ですが、前夜にはたっぷり休息とカフェインを取って見に行くのがオススメです!!!

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記事の評価
ノルウェイの森

ノルウェイの森

2本目はこちらも久々の”危ない橋”

「ノルウェイの森」を見ました。

評価:(6/100点) – 春樹フリークスのみんな!!! ゴメンね!!!!


【あらすじ】

時は1969年、学生運動まっただ中の大学に通うワタナベは自殺した親友・キズキの恋人・直子と再会する。毎週末に直子と会っては無口に東京中を散策して周るワタナベは、徐々に直子に魅かれていく。直子の20歳の誕生日、彼は直子と一晩を過ごすがその後彼女と連絡が取れなくなってしまう。連絡したい一心で直子の実家に手紙を書いたワタナベのもとに、直子からの返事が届く。それは彼女が入院している京都の精神病療養所からであった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ワタナベと直子の再会と交流。
 ※第1ターニングポイント -> ワタナベが療養所に向かう。
第2幕 -> ワタナベと直子と緑。
 ※第2ターニングポイント -> ワタナベが冬に療養所に向かう。
第3幕 -> 結末。


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【感想】

本日の2本目は新作映画「ノルウェイの森」です。ご存じ村上春樹の代表作であり、日本で最も有名な国産小説と言っても良いのではないでしょうか。その割には、お客さんは4割~5割ぐらいの入りでした。若い方もあまり居なかったので、微妙に「若者の活字離れ」という私の嫌いなキャッチコピーが思い浮かんでしまいましたw
一応念のためのお断りです。400万部以上売れている20年前の小説にネタバレも無いと思いますが、一部結末を感づいてしまうかも知れない程度のほのめかしは入ってしまうかも知れません。極力ネタバレをしない方向には致しますが、小説未見でまっさらな気持ちで映画を見たい方は以下の文章はご遠慮ください
また、せっかくの村上春樹作品なので、前置きとしてウダウダ書こうと思いますw 「知るかヴォケ~」という方は中項目「本題:~」からお読み下さい。

前置き1:作品の概要をおさらいとして。

本作の主題を端的に言うならば「生/性と死」です。
学生運動というテンション全開で暴れまくっていた時代背景の中で、本作の初期主要人物であるワタナベ、キズキ、直子は非常にローテンションな生活を送っています。冒頭に語られるキズキの自殺を筆頭に、作中では何人かが自殺します。そのそれぞれが絶望であったり理想とのギャップであったり、そういった今に通じる精神不安からの行動として自殺します。
一方本作ではその「死」の対義として「生/性」が取り上げられます。「愛する」ということと「欲情する」ということの違いで混乱する直子や、「愛する」ことと「欲情する」ことを明確に分けて考えるプレイボーイの永沢先輩、さらにはワタナベの「それでも生きていく」という美意識/決意、そうしたものを全てひっくるめて本作では生きることのタフさを繰り返し説いていきます。
本作ではワタナベと直子と緑の三角関係が物語りの中心になります。ワタナベは直子に自殺した親友の忘れ形見として「支える人間的義務」を感じる一方で、緑とは”普通の大学生として”恋をします。直子は自殺したキズキを想いながらも、一方で「キズキには欲情できなかったのにワタナベには欲情した」という事実に苦悩し精神的に混乱していきます。緑は”普通の大学生として”ワタナベを好きと公言しながらも、一方で別に付き合っている男がいることも公言し、ワタナベを翻弄します。3人が別々の場面で口にする「自分が幸せになる」というキーワードを巡り、物語は進んで行きます。

前置き2:村上春樹という作家について思うこと。

ここから危ない橋に突入していきますw 私の中学校の卒論の課題作品は村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でした。その際、村上春樹について「ハヤカワSF文庫や創元推理文庫で紹介された近代的アメリカ純文学のエッセンスを日本語ネイティブで書き起こした無国籍文学者」と書いたのを覚えています。中3にして村上春樹に痛烈だったわけですが(苦笑)、決して悪口として書いたつもりはありません。先生には当然細かく聞かれましたけどw
村上春樹の小説はとにかく読みやすいため、一般受けして部数が伸びるのはさもありなんと納得します。熱狂的なファンの方には申し訳ないのですが、私は村上春樹という作家の位置付けは「ライトノベル」の一つ前にあると考えています。つまり、レイ・ブラッドベリやカート・ヴォガネット、ジェイムズ・ティプトリーJr.といった1920年前後生まれの純文学要素をもったSF作家達が50年~60年代にハヤカワSF文庫によって日本で紹介され、その影響を受けたエンターテイメント寄りの現代作家達が続々と誕生した内の一人という位置です。その中には萩尾望都や竹宮惠子のように漫画界で一時代を築く作家がいる一方で、村上春樹のように小説界で活躍する作家もいます。さらにこれらの影響でエンターテイメント色が強くなったのが現代のライトノベルであったり最近の若い作家達の小説群です。そういう意味では村上春樹というのはある種の時代の転換点というか、純文学からエンタメ小説に移りゆく過渡期に誕生した無機質・無国籍な得体の知れない(=これがスタイリッシュな印象につながります)”いまどきの作家”だと思っています。
当然彼の特徴として真っ先にあがるのは、その直訳調の文体です。「おまえは日本語が苦手なのか!?」と突っ込みたくなるほど堅くぎこちない文語体を使い、倒置法や体言止め、さらには極端な擬態語・擬音語を多用します。「やれやれ。」「結局のところ、」「わかったよ。」等々、村上春樹は文章をパロディにしやすい作家としても有名ですw
これはかつての純文学の文法上は完全にアウトですが、一方でアメリカSF小説の翻訳に慣れた読者にとってみればこの上なく取っ付きやすいものとなります。ここが村上春樹という作家の評価がパックリ分かれる大きな要因です。純文学を保守的な文脈で「土着の文化の発露」と捉えるならば、村上春樹はただの得体の知れないエセ文学者です。しかし、彼の小説を「時代の肌感覚をドライに表した進歩的な作品」と考えることも出来ます。後は読み手が考える「文学」の定義次第です。ちなみに、私の友人で小説好きな人の中では村上春樹を擁護する人は皆無ですw 個人的には結構好きですが、私はSFの翻訳本と岩波文庫の政治思想書ばっかり読んでいるため、こと小説眼に関してはまったく当てにはなりません(苦笑)。

本題:今回の映画化について。

既に2200文字も書いてますが(笑)ここからが本題です。 上の文章を読んでいただいた方は、村上春樹を映画化するというのがいかに難しいかというのがなんとなく分かっていただけると思います。つまり、彼は小説界の中での「純文学からエンタメ路線へ」というトレンドの移項という文脈ありきでの作家なんです。ですから、それを映画にする際には、どうにかしてこの「村上春樹の日本文学界における立ち位置」の空気感を映画に移植してやる必要があります。
その移植作業の一つとして、本作の監督にトラン・アン・ユンを起用したのは大正解だと思います。トラン・アン・ユンの持つ暗めのカメラカット・空気感は、村上春樹の持つ無国籍性に通じる物があります。そしてそれは、本作のほとんど唯一の見所となっています。早朝の療養所の森が見せる冷たい感覚、夜の森が見せる不安な感覚、そして冬の海の見せる孤独で厳しい感覚。どれもトラン・アン・ユンとリー・ピンビンが見せるカットの巧さで引き込まれます。
ですがもう一つの部分、すなわち村上春樹の直訳調文体をどう処理するかという部分については、まったく戴けません。よりにもよって、本作ではそのまま直訳調の文語体を俳優が喋ります。この直訳調の文語体というのは、俳優が喋るととたんに嘘くさく安っぽく見えてしまうと言う特徴があります。なぜかというと、それは単に棒読みで大根役者に見えてしまうからです。「わたしが今なに考えているか、分かる?」「わからないよ。」とか普通の会話では言わないでしょう? 口語体であれば、「ねぇ、私が何考えてるか分かる?」「わかんないよ。」となります。「わからないよ。」と「わかんないよ。」の間には、台詞としてはものっっっすごい大きな差があります。
個人的にはあまり好きではありませんが、この酷い台詞達をもってしても自然にみえてしまう菊地凛子はやっぱり凄いです。直子役には合ってないとも思いますけどねw
今回の映画化は、原作に”比較的”忠実にしています。前述の通り台詞はほぼそのままですし、プロットも省略がありこそすれ大幅な改編は(ワタナベと直子の療養所でのワンシーンを除いて)ほとんどありません。非常に意地悪な見方をすれば、これは原作小説のファンに最大限配慮したやり方だと思います。未読の人にとっては肝心な描写が足りないわりにレイコとの後日談のような本筋とあまり関係無い描写が入ってきますし、既読の人にとっては大急ぎで原作の名場面を端折って再現しているだけにも見えます。
結果、単体の映画として見た場合には、ファンには申し訳ないですがそこいらにあるどうしようもない映画と大差ない出来になってしまっています。実在感の無い若者達が無菌室の中で「勝手に人類を代表して悩んでやがる」感じです。小説ではあれほど読み易かった直訳調の台詞も、無機質な映像と相まって観客の感情移入を拒絶してきます。まったく観客のあずかり知らぬ所で勝手に140分過ぎていく感覚。そう、置いてきぼりとはこのことです。

【まとめ】

村上春樹作品を映像化する際にやってはいけないことをがっつりとやってしまっています。結果、単調で、無機質で、実在感の乏しい、謎のファンタジー世界で繰り広げられる文学的風景の連続写真になっています。原作ファンの方は当然見に行くと思いますが、原作を読んだことが無い方は先に原作を読むことをオススメします。その上で本作を見て頂けると、いかに小説の映画化が難しいのかが良く分かると思います。
村上春樹作品の映画化はまた30年後でいい気がします。

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記事の評価
劇場版マリア様がみてる

劇場版マリア様がみてる

今日はレイトショーで

「マリア様がみてる」を見てきました。

評価:(85/100点) – ポスターを見て舐めてました。m(_ _)mペコリ


【あらすじ】

お嬢様学校・私立リリアン女学園に通う一年生の福沢祐巳は、ある日学園のアイドル・二年生の小笠原祥子に声を掛けられる。その場面を写真部の蔦子に撮られた事から一転、祐巳は生徒会演劇に巻き込まれていく。

【三幕構成】

第1幕 -> 祐巳と祥子の写真。
 ※第1ターニングポイント -> 祥子が薔薇様との賭を受ける。
第2幕 -> 演劇の練習と賭け。
 ※第2ターニングポイント -> 祥子が優との関係を祐巳に告白する。
第3幕 -> 結末


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【感想】

本日は「マリア様がみてる」を見て来ました。シネマート新宿は1,000円の日だったからか、公開から一週間経ちますがお客さんは10名ぐらい入っていました。でもほとんど男性ですw

おさらい

今更ですが、一応おさらいをしておきましょう。「マリア様がみてる」は雑誌「Cobalt」に連載されたライトノベルで、1998年開始です。当時はまだそこまでジャンルとして確立していなかった「同性同士だけの閉じた世界の甘やかし合い」の代表格でありブームの火付け役です。とはいえ間違ってはいけないのは、この「マリみて」以降氾濫することになった「ホモソーシャルの馴れ合い」だけを拡大コピーした作品とは違い、少なくとも初期の「マリみて」はきちんとクラシカル少女漫画的な悲壮感・愛憎を描いていたという点です。
舞台は「私立リリアン女学園」という完全に閉じた世界で、ファンタジックな階級社会が形成されています。学園のアイドルとしての生徒会長が3名「赤薔薇」「白薔薇」「黄薔薇」の肩書きと共に君臨し、その見習い2年生が3名、さらにその見習いの1年生が3名で「山百合会」というエリート組織が学園の最上部に構成されます。
そのエリート組織にひょんなことから入ることになる「一般民衆」の福沢祐巳を中心とした「身分ギャップ・コメディ」で物語が展開されます。
作品の中心となるのは「紅薔薇のつぼみ」小笠原祥子とその妹(=見習い)・福沢祐巳の関係性です。片や超お嬢様の優等生で浮世離れした存在。片やリリアンには不似合いなほど庶民的で俗世的な存在(=大半の読者と同じ)。この二人がそういった環境のギャップを越えて友情・信頼を深めるというホモソーシャルが「マリみて」の売りです。
一方作品の構造上、「マリみて」は「レギュラードラマ(=同じ時間を永遠に繰り返す作品。ドラえもん等)」ではなく「ストーリードラマ(=時間が進んでキャラが成長する。)」にならざるを得ません。ですので、いつかはこの「閉じた世界」は壊れてしまうんです。それは祐巳が成長しきった時(=祥子を必要としなくなった時)であり、祥子が卒業する時です。
この構造が限界に達したのが11巻の「マリア様がみてる パラソルをさして」です。この11巻によって、祥子と祐巳の関係性は一種の完成を迎えます。そしてこの時点で作品内での「祥子が卒業するまでの時間」が9ヶ月を切ります。ここに至って、作者・今野緒雪は作品の続きを書けなくなってしまいます。なぜなら、これ以上作品内時間を進めると、世界が壊れてしまうからです。苦し紛れとしてこれ以降は短編が増えていくことになります。短編であれば時間をそこまで進める必要はないですから、限りなく「レギュラードラマ」に近い展開ができるからです。
結局、祥子が卒業する「マリア様がみてる ハロー グッバイ」までに6年間も掛かってしまっています。
ファンとしては残念ですが、少なくとも「マリア様がみてる」の作品寿命は11巻までと考えるのが妥当だと思います。それ以降は、良く言えば「ファンサービス」であり、悪く言えば「蛇足」「延命処置」です。

そして実写版

ようやっと実写映画版の話に行きます。この実写版は原作一巻を元に、「祐巳と祥子」にのみ絞って物語を展開させます。元々が「学校」と「祐巳の家」ぐらいしか舞台の出て来ない話ですが、本作では完全に学園内で完結しています。祐巳の家族は出てきませんし、祐巳の友達もほぼ蔦子のみ。山百合会に至っては祥子と志摩子以外の誰一人、明確に台詞や紹介もありません。白薔薇の二人や令・由乃コンビは原作では相当なファンがついていますが、このあたりの要素は全てばっさりカットしています。あくまでも「祥子が祐巳をスールに出来るか否か」というストーリーのみで転がしています。
私はこの整理は大正解だと思います。というのも、90分程度で話をまとめるのであれば、、、そして映画として3幕構成に落とし込むのであれば、あきらかに祥子の成長をメインに据えるよりほかないからです。原作一巻の肝は、「庶民派の祐巳の影響で、お嬢様の祥子が成長する」という部分にあります。これにより、身分を越えた信頼関係が生まれるからです。最初は「シンデレラをやりたくない(=優と向き合いたくない)」から祐巳を構っていた祥子が、第二ターニングポイントで祐巳に相談することで「私はむしろシンデレラをやりたい(=優と向き合ってケリをつける)」と変化するところが一番大事です。
この実写版ではその肝を中心にして、見事に原作がシュリンクされています。映画化はこの時点で確実に大成功です。
もちろん細かい演出からもきちんと原作を噛み砕いているのが見て取れます。本作における原作からの最大の変更点はラストシーンです。ラストのクライマックスにおける祐巳と祥子の会話が変更され、祐巳の台詞が削られています。本作ではあくまでも祐巳は「自信の無い庶民」として描かれますから、クライマックスのシーンで「あまりのことに声も出ない」というのは映画演出としては正しいです。ここは非常に有名な掛け合いシーンですので変更には相当勇気がいたと思いますが、個人的には良い変更だと思います。
また、BECKの時に書いた「歌を誤魔化す」演出も本作では見事にクリアしています。本作の演劇シーンは「夕暮れ時の教室や生徒会室の風景」と「BGM」と「徐々にフェードアウトする台詞」で誤魔化されます。そしてそのシーンの直後に、蔦子と祐巳の会話で「夢のような日々が終わってしまった」という内容が語られます。つまり、演劇シーンの演出は「祐巳が感じたセンチメンタル/ノスタルジーの表現」になっているわけです。これによって、「誤魔化すため」の演出に作品内で必然性をもたせたることに成功しています。

【まとめ】

大枠では原作に忠実な流れでありながら、きちんと映画にするための整理を行った素晴らしい映画化だと思います。もちろん、キャラクター人気の高い作品ですから、キャストにあれこれ文句は絶対に出ると思います。個人的には鳥居江利子と柏木優のキャスティングは無しですw
冒頭にも書きましたが、ポスターを見るとものすごい地雷の香りがただよってきますw っていうかはっきり書きますと、未来穂香の顔と鼻が丸すぎます。でも本編を見て納得しました。本作では「祥子が祐巳を心より必要とした」のが大事なんです。だから外見がブサイクならブサイクなほど「内面に惚れた」という表現になるわけです。ストーリー上も、「志摩子には外見で判断してスールを申し込んだけれど、祐巳には内面に惚れてスールを申し込んだ」わけですから、志摩子と祐巳は絶妙な顔バランスでキャスティングしないといけないわけですw
もうすでに公開スクリーンが小さくなってきているようですが、お近くで上映している方は是非是非見てみて下さい。かなり意外な掘り出し物です。オススメします!

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