笑う警官

笑う警官

「笑う警官」を見てきました。
観客動員150万人いかなかったら角川春樹引退とか言ってるので協力してやってください(笑)。
評価:(20/100点) – もう何も言えません。


<あらすじ>
ある朝、生活安全課の婦人警官が分署で死体となって発見される。本庁から介入があり不自然な形で追い出された大通署の面々。さらに直後には同僚警官の津久井に逮捕状と射殺命令が出る。不振に思った面々はすすき野の喫茶・ブラックバードに集まり、真相解明のため独自捜査を開始した。
<三幕構成>
第1幕 -> 事件の勃発
 ※第1ターニングポイント -> ブラックバードに津久井が現れる。
第2幕 -> 事件捜査
 ※第2ターニングポイント -> 浅野が自殺する(殺される)
第3幕 -> 百条委員会への護送


<感想>
見終わって最初に感じるのは「間違いなく角川春樹監督作だ」という疲労感です(笑)。音楽から画角から台詞回しまで、あらゆるところから「俺ってオシャレだろ」というオーラがびんびん伝わってきて、何ともいえない気分になります。それもそのはず。だって角川春樹なんですから。怖いんであんまり言及できませんが、、、いろいろお察しください。
私は小説未読ですので、あくまでもこれから書くのは映画版「笑う警官」についてであるとお考えください。
■ 役者陣の健闘について
まず役者の方々は相当良いです。絶対的なレベルで良いわけではないですが、かなり健闘しています。というのも本作自体がもう完全に角川春樹の顔しか見えないくらい全ての要素に角川春樹印がついているからです。その時点でアクが強すぎて他の要素なんて吹き飛んでしまいます。、、、キツイっす。
本作は間違いなく大森南朋と松雪泰子で持っています。また、若干一名ほど腐敗体制側でスーパー役者魂を見せている猛者がいますが(笑)、あれはもはや反則の飛び道具です。笑うなっていう方が無理。シリアスな場面なのであんまり笑っちゃいけないんですが、絶対わざとやってるだろっていう役者根性、感服いたしました。
私は大森南朋がかなり好きなんですが良くも悪くも織田裕二の域に達してきてしまっていて少々心配です。重たい顔して俯いてればOKみたいな型に嵌らないで、是非ともすばらしい演技を続けていただければと思います。他の面々はいうことありません。非常に堅実に荒ぶる監督(笑)のオーダーをこなせていると思います。中川家だけがちょっとなんだかなぁという感じですね。宮迫さんがキチンとチンピラに見えていたので、中川さんももうちょい小物チンピラ感を出せれば大変良かったのではないでしょうか。でも角川演出自体がある意味で意図的に全員を大根役者にさせているような所がありますから、仕方ないでしょう。というか何を書いても結局角川春樹に行き着いてしまうというこのキツさ(笑)。
■ 角川春樹流の荒ぶる回顧権威主義
作品を通じて流れ続けるジャズの何ともいえない感じであったり、全ての台詞回しが「台詞舞台劇」調の説明体であったり、極めつけは全ての要素からビンビン伝わってくる警察への恨みだったり(笑)、一観客の僕にどうしろっていうんですか!?。
角川春樹御大が警察嫌いなのはよくわかります。でも肝心の「腐った組織に反抗して正義を貫く人間達」みたいな芯がなくて、「笑う警官」の面々も正義感っていうよりは好奇心で動いているように見えてしまいます。でもそこがエンターテインメントだったりするので良いのかもしれませんが、、、ねぇ。
作品の根底に流れているのは、間違いなく角川春樹監督自身の「かくあるべし」という信念です。「邦画は1960~70年代が黄金期だ」「ジャズ喫茶は漢(おとこ)の溜まり場」「国家権力は腐っている」「若者は正義感に燃えるくらいがちょうどいい」などなど。なんと言いましょうか全共闘の亡霊がフィルムに焼き付いている感覚です(笑)。2時間ずっと説教されてる気分(笑)。私はその荒ぶる魂を華麗にスルーしながらお茶を飲んで耐えてました。がっぷり四つは無理ですよ、いくら何でも。20代のペーペーと角川御大では気合いというか情念が違いすぎます。とはいえ客席は結構若めだったので、純朴にふらっと映画でも見に入ったカップルがどう思ったかはちょっと聞いてみたかったりします。
<まとめ>
すごいものを見させていただきました。ありがたく拝承いたします。敬礼!!!
でもつまんないから20点!!!



ごめんなさい、本当にごめんなさい。マゾっ気がある方にはおすすめです、ごめんなさい。

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Disney’s クリスマス・キャロル IMAX 3D版

Disney’s クリスマス・キャロル IMAX 3D版

「Disney’s クリスマス・キャロル IMAX 3D版」を109シネマズ川崎で見てきました。
レイトショーだったからか、カップルばかりで子供連れがほぼ皆無でした。
評価:(80/100点) – 3D映画って超楽しい~!!!


<あらすじ>
ロンドンで会計事務所を営むスクルージは強欲で血も涙もない男である。彼はクリスマスイブにいつものように店を閉めると、書記のクラチェットに悪態をつきながら家路についた。その晩、スクルージの元に七年前に死んだ共同経営者のマーレイの亡霊が現れる。石と鎖でがんじがらめになったマーレイは、スクルージに徳高い人生を歩むよう説教する。そしてスクルージの元に三人の精霊が訪れ、それが最後のチャンスだと言い放って消える。その直後にドアベルがけたたましく鳴った、、、。
<三幕構成>
第1幕 -> スクルージの事務所に甥が訪ねてくる。彼の普段の行い。
 ※第1ターニングポイント -> スクルージの元にマーレイの亡霊が訪ねてくる。
第2幕 -> スクルージと三人の精霊
 ※第2ターニングポイント -> スクルージが墓場で「まだ来ぬクリスマスの精霊」に改心を約束する
第3幕 -> 生まれ変わったスクルージ


<感想>
本作は、おそらく誰しもが知っている古典的名作の映画化です。過去に何度も映画化されていますし、ディズニー自身でも「ミッキーのクリスマスキャロル」というアニメがあります。ドナルドの伯父さんであるスクルージ・マクダックが主演で、ディズニーの人気キャラ総出演の「お遊戯会」的な作品です。
なにせ150年以上前の本ですから(笑)、今更ストーリーの目新しさだったりネタバレのようなものはありません。でも語り継がれるにはそれなりの理由があります。疑いようのないキリスト教の道徳話でありながら、いわゆる神への信奉や信心には向かわずに施しと協調精神に向かうところが、この話に一般性・普遍性を持たせています。そこまで長い作品でもありませんので、ストーリーについては原作を読んでいただいて、ここでは「Disney’s」と謳う3D部分を語りたいと思います。
■ 3D映画って超楽しい!!!
本作は、一部の劇場では3D版と2D版を同時上映しています。私は字幕かつ3Dを探した結果、せっかくなのでIMAXシアターを選びました。値段はちょいと高いですが十分満足の出来です。
全編を通じて3Dであることを意識したカット作りがなされています。空を飛ぶにせよ追いかけられるにせよ、すべて奥行きを意識した構図となっています。そのおかげでこれでもかというほど3Dの楽しさが表現されます。とにかく町並みやら雪やらがどんどん飛び出してきて、それはもう「ヒャッホゥゥー!!!」ってなもんです。
また3D映画もIMAXも何度か見ていますが、3DでIMAXは初めてでした。良いですね。XpanD方式やRealD方式よりもIMAX 3Dの方が色調がよくでていてとても見やすいです。明るいですし、動きのあるシーンでも変な残像はありません。あとは値段がもう少し安くなってくれれば問題無いんですが、、、頑張ってください。普通の映画は前売り券で1,300円、レイトショーだったら1,200円なわけで、そこで2,200円はさすがにちょっとなぁ、、、せめて200円増しでお願いしたいです。
<まとめ>
監督ロバート・ゼメギスは「ポーラー・エクスプレス」と「ベオウルフ」で俳優を使ったレンダリングを研究・実践してきました。技術自体はスクウェアが「ファイナルファンタジーX」を制作するときに開発したフェイシャル・モーションキャプチャが元にはなっていますが、わずか八年でここまで人形ライクなレンダリングができるとは驚きです。スクルージなんてジムキャリーそのものでちょっと気味悪いレベルです。そのうちショーン・コネリーやらジョージ・レーゼンビーやらのレンダリングを集めて「歴代ボンド総出演」みたいなことが出来そうです(笑)。
と同時にキャラクターの衣装はジョン・リーチのオリジナル挿絵に非常に忠実です。これは実際の挿絵を見てみてください。(挿絵はコチラ)。
非常にすばらしいCG映画です。2Dで見るのはあまりオススメできません。ということで本作は3D版の、できればIMAXないし大きめのスクリーンで見るのがオススメです。

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ゼロの焦点

ゼロの焦点

ゼロの焦点」を昨日見てきました。TOHOシネマズデーと初日効果で激混みです。
評価:(10/100点) – 電通+テレビ朝日+韓国ロケ=????


<あらすじ>
見合いで結婚したばかりの禎子は夫・鵜原憲一が出張から戻らないことを不審に思い単身新潟へ捜索に向かう。そこでは禎子の知らない鵜原憲一のもう一つの顔が見え隠れした。やがて彼女の周りで起こる2つの殺人事件と2人の女から、夫のもう一つの顔が明らかになる、、、。
<三幕構成>
第1幕 -> 憲一が新潟出張から戻らず、禎子は新潟に捜索へ向かう。
 ※第1ターニングポイント -> 禎子が室田耐火煉瓦で室田佐知子に会う
第2幕 -> 新潟での捜索と殺人事件。そして東京に戻り捜査続行。
 ※第2ターニングポイント -> 禎子が集合写真に佐知子を見つける。
第3幕 -> 解決編


<感想>
ザ・電通。そしてザ・テレ朝。130分がここまで苦痛だったのは「20世紀少年・最終章」以来です。沈まぬ太陽でももうちょと盛り上がりました。全編通じて映像描写よりも言葉で説明することを優先しながら、あまつさえその語り口さえも混乱するという非常にカオティックな作品です。どこからツッコんで良いかよくわからないので、大枠のところから攻めてみたいと思います。
なお、なんとなく点数と冒頭でお察しのことと思いますが、今回はネタバレ込みで広末さん中谷さん犬堂監督の悪口と取られてしまうかと思います。彼女達のファンの方は今すぐブラウザを閉じて、幸せに過ごしていただければと思います。

■ 語りの視点
問題点の第一に、語り口の混乱があげられます。この作品は広末涼子演じる鵜原禎子の独白から始まります。そして作中なんども独白によって禎子の感情が吐露されます。この作品は新婚である禎子の視点で「夫が突然いなくなって、捜索していくうち夫の裏の顔が見えてくる」というサスペンスが根幹にあります。ですから独白で始まるのは非常に正解というか必然的なもので、ここに関しては何の違和感もありません。問題はその語り口と映画視点の混乱です。
まずは一般論ですが、どの作品にも必ず視点というものがあります。言い換えるならば、観客の目線・カメラマンの立ち居地です。映画やドラマは、役者が演じている何らかのイベントをカメラマンが撮影します。ですからカメラマンはある「立場」「役柄」を持って作品を録画します。これが映画の視点です。
たとえば、何気ないテレビドラマの場合、そのほとんどは「神の視点」を採用します。これは「誰が」「どこで」「どんなイベントを」行っていても撮影できる万能でオーソドックスな視点です。たとえば風呂のなかで溜息をついてるところだったり、便所で顔を洗ってたり、密室殺人の殺人現場でさえ撮影できます。なにせカメラマンは「神」なので、どこにでも入れるし、ワープだってタイムスリップだってできます。なんでもありです。
一方カメラマンが登場人物として作中に登場すると、いわゆるフェイクドキュメンタリーになります。この場合、カメラマンは役名を持ってハンディ・カムなんかを使い撮影します。当然登場人物たちはカメラマンに話しかけますし、カメラマンも人間なので彼が居るその場しか撮影できません。いわゆる空撮みたいなものもできません。場合によっては死んでしまうこともあります。ブレア・ウィッチ・プロジェクトやクローバー・フィールドあたりが有名だと思います。
「ゼロの焦点」においてカメラ自体は匿名の第三者視点を持っていますが、禎子の独白(心の声)から始まることでわかるように禎子の視点となっています。この作品は禎子に感情移入することによって「夫が何者だかよくわからない」という乗り物に観客を乗せて進んでいきます。ところが終盤、もっとも大事なクライマックスで破綻と混乱が起きてしまいます。それは崖沿いのハイウェイで行われる佐知子と久子のやり取りのシーンです。まさにクライマックスで、音楽も話も最高潮に盛り上がる場面です。ところが本作は禎子の視点で描かれています。ですからイベントのまさにその場に存在できない禎子にはこの場面は知りようがありません。そこで、おそらく意図的だとは思いますが、犬堂監督はこの佐知子と久子のやり取りを禎子が列車の中で眉間に皺を寄せるカットで挟みます。つまり、最高潮に盛り上がる物語のクライマックスが「禎子の空想」として描かれているんですね。ここにものすごい違和感というかガッカリ感があります。
メインストーリーの人物相関からすれば禎子は「善意の第三者」であり「巻き込まれる人」です。そしてサスペンスは憲一と佐知子と久子の関係性であり、禎子はあくまでも観客の移入先/語り手です。だからこそ、余所者である禎子を「佐知子と久子のシーン」に登場させるのは非常に難しいのです。でも登場しなければ撮影ができません。そこでちょっとだけ禎子の苦い顔で挟むことで「空想であること」を気付きにくくしたのは、犬堂監督のせめてもの工夫だと思います。たぶん私のように映画を見すぎて捻くれた(笑)見方をしていなければ、すんなりあのシーンが事実だとミスリードされたかもしれません。演出としては巧みなんですが、視点が混乱しているのは否めません。これは非常に根深い問題で、ストーリー全体にも実は影響を及ぼします。それは次項で見ていきましょう。
■ 物語の構成について
前項で触れたように、本作は新妻・禎子の視点でサスペンスが描かれます。観客は禎子とともに事件を体験していくわけです。一部・憲一の兄が殺されるシーン等で視点の混乱はあるものの、第二幕までは概ね禎子の視点のみで、「素人探偵もの」が展開されていきます。
ところが、第二ターニングポイントで佐知子がマリーだと分かった段階から、カメラの視点が突如佐知子にフォーカスされます。前述のとおり、描き方としてはあくまでも禎子の主観で「空想シーン」ではありますが、カメラは完全に佐知子に飛びます。すなわち観客は急に「禎子」という乗り物から「佐知子」という乗り物に強制乗り換えさせられるんです。そして佐知子の過去から動機から現在の心情・状況まで、まるでテレビの再現ドラマのように完全な説明口調で情報を畳みかけられます。もうここまでくると、禎子なんてどうでもよくなってしまいます。中谷美紀のまるで宝塚かシェイクスピアのような大仰で威圧的な「熱演」も相まって、これでもかというほどの佐知子の”業”が観客に叩きつけられます。難しいのは、ここでほとんどの人は佐知子に感情移入してしまうことです。旧映画版のように禎子の視点で通していれば佐知子は単なる「独善的な犯罪者」なのですが、佐知子の事情を観客が知ることで情状酌量の余地というか「見知った人」になってしまいます。だからこそ、佐知子と久子のシーンが物語上で一番盛り上がるクライマックスになってしまいます。
これがすでに混乱しているんです。本来、この物語のクライマックスは「佐知子と禎子の対決」でなければいけないはずです。だって禎子の物語なんですから。ところが、実際の佐知子と禎子のシーンはまったく盛り上がりません。それは佐知子への観客の移入度が上がりすぎて、クライマックスがずれてしまっているからです。
これが原因で、佐知子と久子のシーン以降がまったく盛り上がらず蛇足に見えてしまいます。禎子が佐知子に一太刀浴びせても、なんのカタルシスもないんです。なぜならすでにその一太刀は久子がやっちゃってるからです。これは脚本・構成の根本的なミスだと思います。本来の「傍観者たる禎子がひょんなことから怖い世界を覗き見ちゃった」というフォーマットではなくなっているわけです。
そんなわけで、おそらく映画を見終わった後は誰しも中谷美紀の印象が残ると思います。それは中谷美紀が上手いからではなく、脚本がそうなっているからです。これを良しとするか駄目とするかは難しいところです。
■ 広末さんと中谷さんについて
広末さんの役は完全にはずれでした。というのも、この人の声は舌っ足らずというかアホに聞こえるんです。子供っぽいと言っても良いです。ヴィヨンの妻では好演してたので残念です。「善意の第三者」にしては恐怖とか怯えとか好奇心とか、そういう部分がまったくナレーションに表れないので、何を考えてるかわからないアホの子にしか見えません。できれば広末さんはもうちょい悪女とか頭悪い子とか世間知らずの役の方が良いと思います。ご本人の悪口ではなく得手不得手の部分ですよ。本人はそれこそたくさん社会の裏を見て世渡りしてきてるはずなので(笑)。
また中谷さんですが、悪い意味で主役を食ってしまい作品を混乱させてしまっています。犬堂監督の意向でしょうが、いくらなんでも大仰ですし、とくに最後の柱に頭を打ち続けるところとか演説のところなんかはヒロイック過ぎます。棒立ちで後ろに倒れるところなんかは完全にコントでした。ショックで放心した場合、人はああは倒れません。膝が落ちてその場で腰を抜かします。格好良いんですがやりすぎです。中谷さんというよりは演出家の問題でしょうか?
最後に木村多江さんは出番が少ないながら非常に良い感じだったと思います。正直あのクライマックスが成立してるのは木村さんがいればこそです。中谷さんだけだと、それこそ舞台演劇になってドン引きしてしまいますから。
<まとめ>
え~~~~良いんじゃないでしょうか(笑)。本作はサスペンスとして頭を使いながら見てると失望します。でもぼけ~っと見てる分にはそれなりに盛り上がって、それなりに社会派っぽくて、それなりな出来に見えます。でもちょっと考えたとたんに破綻がいっぱいで突っ込みたくなります。そもそもこのテーマと内容で130分使っている時点で脚本がおかしいです。残念ですが、物語をせめて100分前後にして語り口を整理・統一するべきだったと思います。そうすればサスペンスとしてのスピード感がもう少し出て、勢いで破綻がごまかせたと思います。ただ、何にせよ火曜サスペンスで十分な内容です。私は昨日TOHOシネマズで1,000円で見ました。1,000円でももったいないと思います。ということで、タダ券をもらってから見に行くのがオススメです!

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SOUL RED 松田優作―生きているのは、お前か俺か

SOUL RED 松田優作―生きているのは、お前か俺か

SOUL RED 松田優作―生きているのは、お前か俺か」を見てきました。最近ドキュメンタリー多いですね。
評価:(75/100点) – 丁寧に語るカリスマのフィルモグラフィ


<概要>
松田優作生誕60年および没後20年の記念ドキュメンタリー。早世したカリスマ松田優作とゆかりの深いゲストスピーカー達へのインタビューを通して、人物・松田優作を考える。


<感想>
人物ドキュメンタリーの場合にはまず立場をはっきりさせる必要があります。優作が亡くなったとき、私は小学生でした。ただ記憶にはありません。私がはじめて優作の作品を見たのは、日テレで夕方再放送していた「探偵物語」です。次いでテレ東の深夜放送で「蘇える金狼」を見ました。たぶん1998年のリメイク版「蘇える金狼」の宣伝枠だったと思います。そのほかの作品については後にDVDでフィルモグラフィを追いました。
おそらく松田優作に熱狂した方々とは二世代くらい離れているかも知れません。私にとっての松田優作はそれこそブルース・リーのような「映画史には欠かせない偉大な俳優」という認識でした。ただ、いまでも「ねぇジュピターには何時につくの?」を聞いたときの衝撃は頭から離れません。
このドキュメンタリーは、一世代上の黒澤満プロデューサー(=育ての親)、仙元誠三や丸山昇一といった同世代の仕事仲間(=戦友)、浅野忠信・香川照之・仲村トオルといった一つ下の世代(=後継者)、そして龍平・翔太という実の息子(=血脈)と全四層のそれぞれから人物・松田優作を語ります。とても分かりやすい人もいれば、酔っぱらいかと思う人や何故か正統後継者を自称してヒートアップする人もいて、まさに三者三様です。誰がどのタイプかは劇場でお確かめください(笑)。
私はこの映画を見ていてクリント・イーストウッドと松田優作を重ねてしまいました。歳は違えど優作もイーストウッドも、日米それぞれの「映画黄金期」にギリギリ間に合わなかった方々です。そして間に合わなかったが故にそれを生涯追い求め続けて”最後の守護者”となった方々です。優作は旧来の映画会社とスター俳優の「専属契約・主演作量産」体制に間に合わなかったが故に、個人の情熱と努力と才能と技量によって自らスターにのし上がり、最後には「松田組」とも言うべき制作体制を作り上げました。そして、テレビ局や広告代理店が主導の「クオリティを無視したマーケットビジネス商材としての映画」が氾濫する現在から見れば、まさに「陽炎座」から「華の乱」までの異様でいびつな優作のフィルモグラフィこそが「日本映画が燃え尽きる直前の最期の輝き」に見えるのです。前半生の狂気を身体で表現できるカリスマ・アクションスターから、後半生の姿や仕草で人間味と陰を表現する超演技派時代まで、非常に幅広い松田優作を系統立てて見ることが出来ます。そしてまるで「一人黄金期」と言っても差し支え無いほどの強烈なカリスマ性と自分勝手さによって、どんな役であったとしても鮮烈な印象を残していきます。
松田優作はもはや映画の教科書にでてくる「歴史的人物」になりつつあります。しかし、彼の情熱や映画に対する真摯な態度、そして何よりも圧倒的なまでの威圧感と存在感は今なおまったく色褪せていません。むしろ現在の邦画が酷くなりすぎて、優作の生きた当時よりも輝きを増しているかも知れません。ビッグバジェットのスポコン邦画なんて見てる場合ではありません。是非、映画館で「RED SOUL~」を見て、そして帰りの足でレンタルショップに行って「蘇える金狼」「野獣死すべし」「華の乱」を借りてください。まったく古びない感動を味わえること請け合いです。全力でオススメします!

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PUSH 光と闇の能力者

PUSH 光と闇の能力者

いろいろと微妙な噂を聞く「PUSH 光と闇の能力者」の微妙さを確かめてきました。
評価:(60/100点) – 最近このパターン多いですがアイドル映画としてOK。


<あらすじ>
ニック・ガントは物を操るムーバーである。あるとき彼の元に予知能力を持った少女・キャシーが現れる。あるカバンを手に入れると政府機関ディヴィジョンに捕らえられた彼女の母が救えるらしい。ニックはディヴィジョンから脱走したかつての恋人キラと共にキャシーに協力していく、、、。
<三幕構成>
第1幕 -> ニックのキャラ紹介
 ※第1ターニングポイント -> ニックが目覚めるとキャシーが睡蓮を持っている
第2幕 -> カバンを探して奔走
 ※第2ターニングポイント -> カバンがとある建築中のビルにあるのが分かる
第3幕 -> カバン捕獲作戦


<感想>
今回は「微妙でした」と一言で終わらしちゃっても良いんですが、結構良いテキストになりそうなのでCGとストーリー構成について考えたいと思います。
■ 舞台とCGについて。
本作の舞台は香港です。この「アジアでありながらイギリスっぽくもある折衷感」があんまり使えておらず、なんで香港にしたかがよく分からないのが正直なところです。おそらく俳優を欧米人で固めたいけれど中国の胡散臭い感じも出したいということだと思いますが、どうにも俳優が浮いちゃってるんですね。あきらかに風景に溶け込めておらず、隠れて逃げてるはずなのに超目立つという失笑ものの事態になってしまっています。
この溶け込めない感じはCGを使ったアクションシーンにも言えます。念力みたいな空気のゆがみが飛んでいったり、かと思えばどうかってぐらいに合成感たっぷりな閃光が散ったり、お金が掛かってるんだか掛かってないんだかよく分からない微妙なチープさを醸し出しています。いかにも「スタイリッシュなアクションだろ!」と自己主張する外連味たっぷりなカメラワークをしてくるんですが、それが一段とダサさを補強してしまっていてなんか可哀想になってしまいます。
根本的な話になってしまうんですが「超能力」を映画で表現する時にCGを使うのは結構勇気がいります。というのも、通常それは「目に見えない」物であるからです。もちろん空気がゆがむとかそういう物理現象が発生するのは良いのですが、それをやり過ぎると完全にマンガ表現になってしまうんです。同じ「超能力で相手を吹っ飛ばす」にしても、例えばスターウォーズでは単純に相手が吹っ飛んでいきます。フォース自体をCGで可視化することはしません。それは明らかに安っぽくなってしまうからです。CGを使えばはまさにお絵かき感覚でいろんな要素を画面に作ることが出来ます。でも嬉しくなってやり過ぎちゃうと貧乏臭くなってしまいます。このサジ加減と自己抑制がイマイチ崩れてしまっているように見えます。
格好良くするためには「描くこと」と「描かないこと」をバランス良く調整しないといけないという良い教訓となっています。
■ ストーリー構成について
○物語における主人公のステップアップ
とはいえ、前項に書いてきたことはあくまでも絵の安さであって、B級映画好きには特別欠点には見えません。むしろ本作で問題なのはストーリー構成についてです。
皆さん、ドラゴンボールというマンガをご存じでしょうか?よく分からない方はドラクエとかファイナルファンタジーのようなRPGゲームを想像してください。
主人公は最初かなり弱いです。ところがいろんな敵と戦ってどんどん強くなっていきます。そして最終的には世界を救っちゃったりします。
ここには二つの大事な要素が入っています。一つは主人公が成長していくという点。もう一つは敵が段々と強くなっていく点です。これは成長していく主人公がその時々で頑張らないと勝てない「自分よりちょっと強い相手」を倒していく必要があるからです。
つまり、レッドリボン軍と戦ってるときにいきなりフリーザが攻めてきたら地球は全滅しちゃうわけです。セル最終形態を倒した後に桃白白が出てきても、下手すればデコピン一発で倒せてしまうわけです。主人公の成長と敵の強さは綺麗に比例していないとシラけてしまうという事です。
映画のストーリーにもこれと同じ事が言えます。主人公は物語上いろいろな困難をクリアし、話が進んでいきます。困難は最初が一番易しく、終わりに向かってどんどん難しくなっていきます。これを次々と越えることで主人公はステップアップしていくわけです。そして最終的に大きな困難を乗り越えるカタルシスが待っているわけです。これがクライマックスです。では本作について、簡単に敵を見てみましょう。
○本作における戦闘歴
まず冒頭の市場で襲われるシーンでは中国人のウォッチャー・The Pop Girl とその弟のブリーダー・The Pop Boysが登場します。このThe Pop Girlは物語を通してキャシーに立ちはだかるライバルです。The Pop Boysは奇声を挙げて相手を流血させるという超強い能力を持っています。すなわち、このシーンはボスキャラの顔見せみたいな物です。実際にこの段階ではニックは全く歯が立ちません。
つづいての戦闘はエージェント・マックとエージェント・ホールデンをキラが翻弄するシーンです。ここではキラがプッシャーとして相手を操る能力がずば抜けていることが分かります。いきなり最強助っ人候補です。
次は飛びましてカーバーと側近ヴィクターが登場する中華料理屋のシーンです。カーバーは父親の仇(?)とも言える人物で因縁の相手です。そして側近のヴィクターはニックと同種の能力者です。すなわち、ニックにとってのライバルがヴィクターであり、ラスボスがカーバーです。やっぱり歯が立ちません。
さて、次ですが、いきなりクライマックスに飛びます。建築現場で中国マフィアとディヴィジョンとニックが入り乱れてのラストバトル、、、かと思いきや、マフィアはヴィクターと洗脳されたキラが殆ど全員瞬殺してしまい、結局ニックとヴィクターの一騎打ちになる、、、、かと思いきや、ヴィクターもThe Pop Boysの片割れに殺され、結局ニックはThe Pop Boysをちょっと竹槍もどきで殺しただけです。そして物語終了。
はい、ここまで読んでいただいた皆さんはもうお解りですね?この物語はニックが成長する様子も無ければ、成長した結果として歯が立たなかった敵を倒したりすることもありません。ストーリーの推進力がこれでもかっていうくらい不足しています。せっかく超能力者が入り乱れての大乱闘になる要素があるのに、設定を全く生かしていません。唯一正当に成長してライバルを越えるのはキャシーです。彼女は自分より能力の優れたThe Pop Girlの裏をかいて倒します。きちんと乗り越えたわけです。でも彼女だけなんです。後の人たちは成長も工夫もたいしてしません。ちなみにニックの最高の見せ場である赤い封筒配りも、あれはカーバーではなくThe Pop Girlへの対策です。みんな彼女を倒すのに夢中ですが、でも彼女はラスボスじゃないんです。駄目だこりゃ。
<まとめ>
毎度の事ながら、何故ここまで微妙なのに60点/100点かというと、それはもうハンナ・ダコタ・ファニングが可愛いからです。アイドル映画としてだったら全く問題ない出来映えです。全編通じて明らかにポール・マクギガン監督がハンナに恋をしている、フェティッシュなカット割りが続きます。ポール・マクギガンは46才で結構のっぺりした顔をしてます。、おまえその年と顔でハンナ萌えはヤバイだろとか思いつつ、堂々たるアイドル映画です。ハンナ・ダコタ・ファニングのファンなら絶対に何があろうとオススメです!

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僕らのワンダフルデイズ

僕らのワンダフルデイズ

「僕らのワンダフルデイズ」を見てきました。
評価:(50/100点) – どこを切っても竹中直人


<あらすじ>
胆石で入院していた藤岡徹は、ある日リハビリ中に主治医が「末期の胆のうガン。もって半年」と言うのを聞いてしまう。生きる気力を失った藤岡だが、息子の学園祭でバンド演奏を目撃し自身の学生バンド時代を思い起こす。彼は人生の最後にバンドを再結成することを決意する、、、。
<三幕構成>
第1幕 -> 藤岡が自身を末期の胆嚢ガンと思い気力をなくす。
 ※第1ターニングポイント -> 息子の学園祭でバンド演奏を目撃する。
第2幕 -> シーラカンズの再結成と練習風景
 ※第2ターニングポイント -> 練習後に山本が倒れる。
第3幕 -> 演奏会とエンディング


<感想>
本作は竹中直人が主演する他の映画と同じくどこを切っても竹中直人です。シリアスな話の内容とは裏腹に、彼の「面白い」「いつもどおりの」「ふざけた」演技が炸裂します。本作の評価は彼の演技を「うざい」「しつこい」「くどい」と感じるかどうかが全てといっても過言ではありません。
前半の気力を無くした藤岡と、バンド結成後に命を燃やし尽くそうとする藤岡を、竹中直人は非常に上手く表現します。彼が心の中の絶望をまったく表に出さずにハジけまくる様子は、竹中のオーバーリアクションと相まって悲痛な中にもすがすがしさすら感じます。お涙頂戴は前半も前半のみで、中盤からは仕事や私生活の悩みに翻弄されながらも趣味に打ち込む中年の青春活動を描きます。決して巧みなエンターテインメント映画ではないですが、かなり丁寧に作られている良作だと思います。
惜しむらくは、クライマックスであるバンド演奏会が終わった後の「後日談」が長すぎるため、見終わった後の「竹中直人がくどい」という印象を加速してしまっている点です。演奏会のバンド演奏をバックにエンドクレジットが出るか、せめて結婚式の演奏開始と同時にエンドロールでも良かったのではないでしょうか?10分は「後日談」としては間延びしすぎです。
またこの手の音楽物で一番難しい「音楽の説得力」の部分ですが、私はかなり良かったと思います。さすが奥田民生監修と言いましょうか、良い意味で素人バンド感がでていました。素人のわりに観客を煽りすぎではありますが、そこは竹中直人なので、、、諦めましょう(笑)。
<まとめ>
不覚にも、私は前半で一回泣きました。まさか竹中直人に泣かされる日が来るとは思わなかったです。本作は決して大絶賛できる内容ではありません。脚本もわりと雑ですし、観客の予想を超える展開はありません。でも安心して楽しめる良作だと思います。前売り券も安いですし、もし時間がある方は行ってみてください。なかなか良い2時間を過ごせると思います。オススメです。

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ディセント2

ディセント2

「ディセント2(DESCENT PART 2)」を見てきました。
評価:(55/100点) – ファン専用のおまけムービー


<あらすじ>
前作でただ一人生き残ったサラ。しかし彼女はあまりのショックに記憶喪失に陥っていた。六人の捜索を行っていたヴェインズ保安官は、彼女を案内役に洞窟に入る事を決める。再び洞窟での惨劇がはじまった、、、。
<三幕構成>
第1幕 -> サラの救出。救助隊が洞窟に降りる。
 ※第1ターニングポイント -> 洞窟にて死体を発見する。
第2幕 -> 複数の組に分断されて洞窟をさまよう
 ※第2ターニングポイント -> ジュノの登場。
第3幕 -> サラ組とジュノ組が合流し出口を目指す。


<感想>
この物語は前作「ディセント」のエンディング直後から始まります。話の流れは至ってシンプルで、メインパートの洞窟探索に関してはほぼ前作を踏襲しています。よく言えば前作ファンへの「おまけムービー」ですが悪く言えば「焼き直し」であり非常に評価が難しくなっています。
前作のエンディング直後から始まる続編としては、先日見た「REC/レック2」の方が正直なところ良くできています。あちらは前作の謎を回収しつつ話を広げていましたが、本作は良くも悪くも前作に非常に忠実です。つまり前作の世界観を一歩も出ません。「続編を作る」ことの構造は「バタフライエフェクト3/最後の選択」の時にちょろっと書きましたが、あれはあくまでもシリーズものとして各作品が独立している時に使う手法です。本作のように時間軸が完全に連続している場合、同じ事を繰り返すことにどれだけの意味があるのかと問われると何とも言えません。ファンは間違いなく喜びますし、現に僕も十分楽しめました。でもそれだけというか、だからどうしたというか、どうにも発展しないわけです。
同じく本日公開のソリッド・スリラーで「SAW6」がありますが、あちらもシリーズ2作目以降は完全に繰り返しなので見るの辞めちゃいました。でもファンは間違いなく見てると思うんですね。たぶん興味半分・義務感半分で(笑)。「ここまで付き合ったんだから最後まで付き合ってやるか」ってなもんです。この「ディセント2」もある意味そういう長期シリーズになる可能性があります。「ディセント・ゼロ」とか言っちゃったりするかも知れません。第一作目を結構楽しく見た身として切実に思うのは、「ディセント2が興行的に失敗して続編はここで止めといて欲しい(笑)」ってことです。これについて、次項でちょっと考えてみようと思います。
■ ソリッド・シチュエーション・スリラーについて
「ソリッド・シチュエーション・スリラー」は主に日本でよく使われるジャンル区分です。外国では全然聞きません。和製英語ってやつです。読んで字の如く「固定された状況でのスリラー」と言うことで、一般的には場面転換やロケ地の移動が極端に少ない、そして設定・目的が途中で変わらないホラー・スリラー映画を指します。本作も冒頭の導入部分を除いて全編洞窟が舞台ですし、そこから脱出するだけの映画です。ですから典型的な「ソリッド~」です。このジャンルはロケ地やセットが少なくて済みますので低予算・短期撮影という利点があります。そんなわけで、「CUBE」や「SAW」の大ヒット以降はまさに粗製濫造されて来ました。今では単館系のホラー・スリラーは殆ど全部これと言っても差し支えありません。近々公開される物だけでも「THE WAVE ウェイヴ」「実験室KR-13」なんかがあります。もちろん「SAW6」や「REC/レック2」もです。このジャンルの映画は、スケールの小ささを補うためにシチュエーションの独創性や奇抜さを競います。要は「出オチ」「一発アイデアもの」なんです。そんなわけで、このジャンルは腕に自信のある無名の監督には格好の踏み台になり、実際に多くの監督が名声を得てハリウッド・エンターテインメントにのし上がっていきました。もちろん代表格はサム・ライミです。またのし上がるきっかけにはなりませんでしたが、ジョージ・ルーカスの処女作「THX-1138」も実はこのジャンルの先駆的作品です。
こういった制作側に大変魅力的な事情がある一方で、このジャンル特有のデメリットもあります。それが少し前述した「続編のむずかしさ」です。あくまでもアイデア勝負のジャンルなので、続編を作ってセルフコピーをすればするほど陳腐で安っぽく見えてしまい内容は単純化されてしまいます。せっかく第一作目が傑作だったとしても、続編が作られるに従ってどんどん価値が落ちてしまい、結果として第一作目ですらレンタル屋で手に取ってもらえないなんてことが当たり前に起きてしまいます。レッテルを貼られてしまうんですね。「CUBE=グロいだけ」「ランボー=筋肉馬鹿が暴れるだけ」といった感じです。両シリーズとも第一作目はまったくそんなこと無い大傑作なんです。
「ディセント」も「狭い洞窟で盲目のモンスターが襲ってくる」というアイデアは本当に良かったんです。モンスターが盲目なので「静かにする」事が重要になってきますし、これは観客をスクリーンに集中させるのに非常に効果的です。だから本作の様なセルフコピーはここいらで止めてほしいです。「ディセント3」とかやってしまうと単なるモンスター映画になっちゃいそうで、、、それだけは勘弁してください。実は本作でも単純化の兆候は見られます。一部の場面で結構大声で会話しちゃうんです。前作ではそれだけは御法度だったのに、、、残念です。
<まとめ>
色々と書いてきましたが、本作はあくまでも第一作目のファンへのオマケです。なので第一作目を見た方はとりあえず見に行きましょう。第一作目を未見の方は是非DVDで見てみてください。ただ相変わらず低予算のモンスター・スラッシャーなのでグロいのが苦手な人は無かったことにしてください。映画としては一作目がオススメです!

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スペル( 2回目鑑賞 )

スペル( 2回目鑑賞 )

を持して「スペル」を見てきました。TIFFについで二回目です。公開したらネタバレありで書きたいこと全部書こうと思ってメモとってたのですが、パンフレットを買ったら高橋諭治さんがほとんど書いちゃってました。
なので、それ以外のことを書いてみようかと思います。ちょっと悔しい(笑)
あらすじとかその辺の基本的な事はコチラを見てください。


【感想補足】

■ 非常に「道徳的な話」
間違いなく主人公のクリスティンは超常識人です。すごい良い子。どんなにテンパってても(猫以外の)無実の他人は自分から巻き込みません。すばらしいです。ホラークイーンにあるまじき(笑)優等生です。

■ 直接的な表現を極力控えている
これはサム・ライミ自身も清水崇さんと中田秀夫さんからの影響と語っていますが、直接表現が殆どありません。例えば変な黄色いゼリーや泥を効果的に使って、グロいものを映すことを避けています。
既に見た方はお気づきかと思いますが、ラストのあるシーンでクリスティンが泥水の中に沈むシーンがあります。そこから出てくるときの演出も素晴らしいのですが、それ以上にすごいのは泥の質感です。サラッとしつつも顔に薄く土が張り付く感じは、完全に血の描写方法です。ここは本来であれば血の海に沈む描写のはずなんです。でも、それをやらずに泥水でやってるところが中途半端ながらJホラーイズムみたいなものを感じてすごく好感が持てました。

■ そもそもギャガの宣伝がおかしい。
言葉通りです。宣伝が明らかにおかしい。特に宣伝映像は方向性がおかしいです。この物語は単にババァに逆ギレされて不条理にも呪いをかけられたOLが右往左往する話ではありません。もっというと、「逆ギレされた」と解釈してしまっては話を根本から誤読してしまいます。
作品中で何度も出てくるとおり、クリスティンは「自らの意志」で「出世のために」ババァのローン延長要請を断ったんです。そしてそれがもっとも重要です。この物語の原型は「因果応報の話」です。すなわち、クリスティンが自らの出世のためにババァの生活を壊してしまったことの報いを受ける話なんです。ただし「クリスティンがやったこと」と「クリスティンがやられること」のギャップが凄まじすぎるが故にギャグっぽくもなるし道徳的にもなるということです。
皆さんは子供の頃に「指切りげんまん、嘘付いたら針千本飲~ます。指切った。」ってやりませんでした?あれと一緒です。この場合「嘘をつくこと」と「一万回げんこつで殴られる」&「針を千本飲む」というのがトレードオフになっています。普通それは釣り合いがとれないので「嘘をつくの辞めよう」となるわけです。これが道徳です。本作は「ちょっと悪い事をしただけでも、こんなに酷い目に会うんだからやっちゃ駄目だよ」というのを物凄いスケールでやってるという訳です。なんせ命がけ+地獄でずっと拷問ですから。しかもクリスティンは完全に反省してるんですよ。それでもやっちゃった以上は報いを受けるんです。
だから「逆ギレ」「不条理」という風に捉えるとこの道徳教育が成立しなくなってしまいます。クリスティンはあくまでも自分がやった事の責任を取ってるわけで、意味もなく巻き込まれたのではありません。ギャガの宣伝映像を企画した方はこの一番大事なテーマを見落としたみたいです。

とりあえず以上の三点ぐらいでしょうか。あとちょっと気になったのは、上映中にあんまり笑い声が無かったことです。TIFFの時はみんな爆笑してたんですけど、やはり「映画は静かに見る」というマナーが良く行き届いてるんでしょうか?「映画は静かに」っていうのは「知人と雑談するな」っていう意味であって、クスクスしたりはOKですよ。特にホラー映画は隣の人がビクつと飛び起きたり目を覆ったり、ちょっと笑ったりしてるのが雰囲気作りに役立ちますから。TIFFで笑いが起こってたのは、外人がいっぱいいてちょっとぐらい騒いでも良い雰囲気があったのが要因かも知れません。

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