マリアンヌ

マリアンヌ

先週末はロバート・ゼメキスの最新作

「マリアンヌ」を見ました。

評価:(40/100点) – オシャレ。以上!


【あらすじ】

時は1942年、モロッコのカサブランカ。RAF(ロイヤルエアフォース=イギリス王立空軍)のマックスは、ドイツ大使の暗殺任務を負ってスパイとして彼の地へ降りたった。マックスに先行して現地社会に潜り込んだフランス人工作員のマリアンヌとともに、マックスは作戦を遂行する。その過程でマックスはマリアンヌに惹かれていく、、、。

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【感想】

さてさて、先週末はロバート・ゼメキスの「マリアンヌ」を見てきました。

ロバート・ゼメキス監督に脚本がイースタン・プロミスのスティーヴン・ナイト、音楽は毎度コンビのアラン・シルヴェストリ。そして主演でブラッド・ピットとマリオン・コティヤール。ガッチガッチに固めてきているこのスタッフ・キャストリストを見ただけで、「こりゃ絶対オシャレないい映画になるんだろうな」という雰囲気をビンビンに出しています。

しかもタイトルが「ALLIED」ですよ。大戦中の連合軍を意味する「ALLIED」の文字間をちょっと開くことで、「ALL LIED = 全部 嘘だった」と「LIED = ドイツ語で”歌”」を掛けてくるというこのオシャレっぷり。

そして実際に見てみますと、、、お、、、オシャレしかない(笑)。

久々に凄いアレな映画がやってきました。雰囲気7割、音楽2割、内容1割。とてもオシャレでオシャレなオシャレ映画です。

前半後半で話が全然違う

本作は良くも悪くも古風な作りをしています。昔は3時間超えの映画だと真ん中に休憩が入ったじゃないですか。私が劇場で見て覚えているのだと、「サウンド・オブ・ミュージック」とか、「十戒」とか、「2001年宇宙の旅」とか。日本映画で最近だと、「愛のむきだし」とか「沈まぬ太陽」とかですかね。本作も、作りはモロにこの「休憩付き前半後半構成」の映画です。

本作の前半1時間はカナダ出身イギリス軍人のマックスがカサブランカで同じく同志マリアンヌと出会い、偽装夫婦としてドイツ大使を暗殺するというスパイものです。マックスがフランス語の訛りをケベック訛からパリ訛に特訓したり、モロッコの風習をマリアンヌに教わったりと、コッテコテのスパイものです。

後半ではうって変わってその18ヶ月後にすっ飛び、マリアンヌがマックスと結婚・引退してロンドン郊外で家庭をもつ話になります。そしてそこで、マリアンヌのダブルスパイ疑惑が浮上し、マックスが真相を探るために奔走します。

そう、この映画は、完全に前半と後半で話が分断されているんです。しかも肝心の中心人物であるマリアンヌが結構な形でキャラ変します(笑)。前半部分では「戦う女」だったマリアンヌは、後半は「子供と家庭の庇護者」としてマックスに守られる”か弱い”存在になります。そしてマックスも、家族を守る男と軍人との間で走り回ります。前半はとっても愉快なんですが、一方の後半は、とっても甘ったるい家族愛ものに変わります。サスペンス・探偵要素も特にありません。

そうなると、当然これはもうストーリーとかほったらかしでベテラン実力俳優の掛け合いを楽しむだけの映画になるわけで、「オシャレだね~」という感想しか出てこないのです(笑)。

とにかくオシャレなんだよ!

舞台となったカサブランカ/ロンドンの背景といい、ジャズ中心の音楽といい、そしてブラピとマリオン・コティヤールの衣装といい、本作にはオシャレ要素がテンコもりです。とにかく画面上の全てがオシャレ。そんななかで火曜サスペンス劇場もびっくりのやっすいサスペンスが展開されたとしても、果たしてそれに文句をいっていいのかというそんな気さえします。言うて見れば荻上ワールドみたいなもんです。だからストーリーを期待してはいけません。とにかくオシャレ。雰囲気命。そして疑いようもなく、オシャレ作りは成功しています。

まとめ

私自身が、何を隠そうオシャレとは正反対の人生を送っていますので、こういう映画の感想を書くのにどうしても語彙が貧弱になってしまいます(笑)。

だってマリオン・コティヤールがセクシーでオシャレじゃん。ブラピだって渋くて軍服が似合っててオシャレじゃん。2人の子供が来てるニットのベビー服だってすごいオシャレじゃん。だからもう映画自体がオシャレじゃん。

ということで、オシャレな方たちのオシャレな昼下がりを彩るのに最適なオシャレ映画です。オシャレにオシャレな時間を過ごしたいオシャレ男子・女子のみなさんにオシャレにおすすめします!

これを見れば、今日から君もオシャレ(ウー)メンだ!

※余談ですが、こういうのを見ると女子高生が「カワイイ!」という単語だけで会話が成り立つという都市伝説がすごい納得できます(笑)。たぶんこの映画をカッポーとかで見て感想を言い合うと、マジで「オシャレ」しか出てこないと思います。

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ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち

週末は1本、

「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」を見ました。

評価:(65/100点) – やる気復活のティム・バートン節


【あらすじ】

ジェイクは、いつもお爺ちゃんから不思議な話を聞かされて育った。空を飛ぶ女の子。奇妙な双子。力持ちの兄弟に、透明な男の子。そしてそんな奇妙な子どもたちの世話をするミス・ペレグリン。お爺ちゃんの話に空想を膨らませ、彼は学校でもちょっと浮いた存在になっていた。
ある日、ジェイクはお爺ちゃんから電話を受ける。心配になったジェイクがお爺ちゃんの家に駆けつけると、そこには家を荒らされ、そして裏の林で両目をくり抜かれたお爺ちゃんがいた。

「島へいけ。1943年9月3日のループへ。鳥が全てを教えてくれる」。

息を引き取ったお爺ちゃんの言葉を頼りに、ジェイクは父親と共にお爺ちゃんの昔話に出てきたケインホルム島へ向かう。

【三幕構成】

第1幕 -> お爺ちゃんが襲われ、ケインホルムへ行く。
 ※第1ターニングポイント -> ジェイクがループへ入る。
第2幕 -> ミス・ペレグリンの屋敷での交流。
 ※第2ターニングポイント -> ペレグリンがバロンに捕まる
第3幕 -> ペレグリン救出大作戦。


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【感想】

さてさて、週末はティム・バートンの最新作「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」を見てきました。

最近--特に「 スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 (2007)」以降のティム・バートンはちょっと中途ハンパというか、「オレに求められてるのはフリークスが出てくるサブカル受けするコメディだろ?」みたいな感じが凄いでていました。 「アリス・イン・ワンダーランド(2010)」しかり、 「ダーク・シャドウ (2012)」しかり、なんというか、思いっきり滑ってるうえにあんまり監督自身も楽しそうじゃない感じが伝わってきて、ちょいといたたまれない感じです。もうやる気なくなっちゃったのかな、、、という寂しさこみで。

本作は、その迷いが晴れたように、ものすごく全力で「ティム・バートン」をしています(笑)。

ちょいとグロテスクだけどキュートな「奇妙な子どもたち」のキャラクター造形。正統派ゴシック・ホラー調の舞台・背景。「こまけぇことはいいんだよ!」っていう言葉が聞こえてきそうなほど雑だけど勢いのある脚本と、そしてたぶんハリー・ハウゼンのオマージュであるカクカクしたCGドクロ兵士やモンスターたち。同じくハリー・ハウゼン・リスペクトのギレルモ・デル・トロとちょっとモンスター造形が似ちゃってるというところも含めて、とっても画面全体から楽しんでる様子が伝わってきます。

そう、たぶん昔からのティム・バートンのファンならばファンなほど、本作はとってもニヤニヤしながら楽しめるはずです。ジョニー・デップ/ヘレム・ボナム=カーター
の呪縛から解き放たれた無邪気なティム・バートンを楽しめる、とても愉快な作品です。

とてもストレートなジュブナイル活劇

本作はとっても古風なジュブナイルものです。私は原作の小説を読んでいないのですが、この本が2011年発表というのを聞いてちょっとびっくりしました。本作は、それこそ70~80年台に流行った一連の「少年冒険映画」そのものです。「お爺ちゃんから”宝の地図”をもらった少年が、悪党たちに追われながらも旅の仲間と共に宝を探しだす」という超王道ストーリー。このド直球な話に、ティム・バートンの為にあるんじゃないかってくらいちょいグロ・悪趣味なモンスターや異能者たちの要素を載っけていきます。ただ、この映画はたぶん昨年のスピルバーグ監督作「BFG」のように現役の子供に向けて作ったものではなく、「昔こどもだったティム・バートンファンへ作ったセルフパロディ」的な要素が強いです。それこそ目玉をくり抜いたり、小学生が見るにはちょっときつめなショッキング描写が所々に散りばめられており、あきらかに楽しんでワザとやってる感じがビンビン伝わってきます。良くも悪くもポリコレとかなんも気にしてないです(笑)。

これ、作戦としてはとても良く機能しています。いうなれば作品全体として「ダブル・スタンダード」を観客にすんなりと押し付けてきてるんですね。ストーリーが雑な部分は「だって子供向けだし」で押し切ってきて、一方悪趣味描写な部分については「だってこういうの見に来たんでしょ?」と急に大人向けになるという(笑)。でもこれこそが、ティム・バートンであり、そしてヘンリー・セリックと組んだ一連の傑作(ナイトメアー・ビフォア・クリスマス (1993)、コララインとボタンの魔女(2009))の一番の肝だったと思います。キモかわいい的な意味でのグロテスク・ファンタジーとして成立している本作は、もうそれだけでファンならば大満足できるはずです。

逆に言うと、ティム・バートンがあんまり好きじゃないっていう人は、この映画はただのトンデモ作品に見えてしまうかと思います。話や設定が結構穴だらけですし、敵のバロンはおちゃめすぎて脇ががら空きですしね^^; 一番気になるのはループとよその世界との繋がりですよね。ループの中の「奇妙な子どもたち以外の人」はどうなってるんだろうとか、時空の穴/特異点みたいな扱いなのに意外とすんなり未来と繋がっちゃってるなとか、変に平行世界ものみたいになってる部分はうまい具合にボヤかして適当に流してたりしてます(笑)。

【まとめ】

ということで、ティム・バートンのファンの方は当然見に行ったほうがいいですし、見たらもう大満足すること請け合いです。久々に「ちゃんとティム・バートンしてる作品」が見られます(笑)。一方、もし彼にあんまりピンと来ないという方は、まずは 「チャーリーとチョコレート工場(2005)」あたりで予習したほうが良いかもしれません。個人的にはティム・バートンは「PLANET OF THE APES/猿の惑星(リメイク版/2001)」より前が最高に好きです。本作は、なんか昔の彼がちょっと戻ってきた気がしてとても楽しめました。是非是非、劇場でお楽しみください。

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BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント

BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント

今日はスピルバーグの最新作

「BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」を見てきました。

評価:(75/100点) – 安定の児童向けファンタジー


【あらすじ】

ソフィーは孤児院暮らしの女の子。不眠症で、監視の目を盗んでは夜な夜な本を読みふけっていた。ある晩の深夜3時過ぎに、ソフィーは窓の外に異様な気配を感じる。窓に近づいてはいけない。カーテンの向こうへ行ってはいけない。ルールを知りながらも興味を抑えきれないソフィーはついに窓の外を覗いてしまう。そこには、暗闇の向こうからのびる巨大な手があった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 真夜中の出会いと誘拐
※第1ターニングポイント -> ソフィーが食べられそうになる
第2幕 -> 夢工房とBFG
※第2ターニングポイント -> 夢工房が襲われる
第3幕 -> 女王陛下とBFG


【感想】

本日は、この三連休一番の話題作、スピルバーグ最新作のBFGへ行ってきました。有楽町の日劇で見たのですが、客入りは寂しく、ほとんど私より上のおじさんと夫婦連ればかり、肝心の子供連れが全くいませんでした。スピルバーグのジュブナイルって言えば、私が子供の時は一番の大作扱いだったんですが、、、なんかちょっと時代を感じます。

これから、極力ネタバレしないように本作のいいところを書いていきたいと思います。本作は完全に児童向けですので、もし幼稚園〜小学校低学年くらいのお子さんがいる方は、ぜひ見に行ってください。100%完璧に道徳的な内容で、かつ子供には心躍るスペクタクルが満載なので、絶対人格形成の役に立ちます。もっとも、かく言う私もグーニーズとETとバック・トゥ・ザ・フューチャーとインディジョーンズで育ってひねくれましたので、あんま説得力はありません(笑)
大人の方には「おじいちゃん萌え」という新境地が待ってます(笑)

概要:父としてのET、祖父としてのBFG

本作は、「チャーリーとチョコレート工場(2005)」や「ファンタスティックMr.FOX(2011)」と同じくロアルド・ダールが原作となっています。その名に恥じぬように、本作にはいわゆる”エグい”描写は一切ありません。

主人公のソフィーは両親を亡くして、孤児院で暮らしています。仲が良いのは猫だけ。友達もいないし、先生は厳しい。そんな時、窓の外に巨人を見てしまい、誘拐されてしまいます。はじめは恐ろしかったものの、徐々に巨人に敵意がないことに気付き、ソフィーは彼の仕事を見せてもらうことになります。するとそこには、まさに子どもたちの夢が詰まった光景が広がっていました。

そう、今回のBFGは一切ソフィーに説教だったり宿題をだしたりしません。完全に甘やかしてくれて、しかも夢のような仕事をしている老人。素敵な洋服をくれる人。これ完全に田舎のおじいちゃんです(笑)。BFGは、他の若い巨人たちにいじめられている気の小さい老人で、ソフィーにとっては気の良いおじいちゃんなわけです。ソフィーはおじいちゃんのためにいじめっ子たちをなんとかしようと立ち上がります。この辺りの孤独な老人と孤独な子供の交流って言うと大傑作「グラン・トリノ(2008)」があります。ただ、本作はあくまでも子供がターゲットですので、グラン・トリノとは逆で子供が老人を助ける方向性です。

その方法というのも、きちんとBFGの「特技」と「人当たりの良さ」を最大限活用します。この辺りは本当に良く出来ています。いじめっ子に対して、殴り返すのではなく、きちんと先生に言いつけて、その上で自分の特技を使って自分なりに乗り越える。
とても教育的で道徳的な話です。

子供だましなのか、子供向けなのか

こういった児童向け映画だと、よく「大人も楽しめる子供向け作品」みたいなフレーズを聞くことがあります。では、本作はどうかというと、、、私はこれはいわゆる「子供向け映画」であり、「大人も楽しめる子供向け作品」だと思います。

実際に、本作にはいわゆる「ツッコミどころ」みたいなものが結構あります。ネタバレにならない程度にいいますと、例えば「なぜ”偉い人”が簡単に納得してくれるのか」とか、「なぜ”あんな隠れ方”で見つからないのか」とか、「なぜBFGは他の巨人とは違うのか」とか、「それができるなら最初からやっとけよ!」とかですね。映画を見ていただいたあとだと、何のことを言っているかわかると思います^^;

本作における上記のような「ツッコミどころ」は、ほとんどは「ご都合主義」的な部分なんですね。ツッコミどころって「矛盾している」「意味がわからない/通じない」「都合が良すぎる」みたいなパターンがあるんですが、この「ご都合主義」の部分については、作品のトーンでいくらでも基準を変えられます。

本作の場合、この「ご都合主義」の基準が作品冒頭からあんまりブレないんです。すなわち、いじわる巨人以外は基本的にみんな善人でみんな真剣に話を信じてくれる世界であり、そして、巨人達はステルス能力が高くて、喋ったり音を立てたりしてもあんまり人間に気付かれません。これは作品中で一貫しています。なので、「この作品はこういうもんなんでしょ」で納得できるんですね。大人だと「いやいやいや。こんな良い人ばっかじゃないでしょ」とどうしても世間ズレするんですが(笑)、でも子供向けなら「みんな基本は良い人なんだよ」でOkなんです。教育上も、道徳的にもですね。

この「納得できる基準」のリアリティラインへ大人も降りていけば、本作はまったく問題なく見られます。私は、これこそが「大人も楽しめる子供向け作品」だと思います。

いわゆる「子供だまし作品」ってこの基準がブレブレだったり、上記で言う「意味が通じない」とか「矛盾してる」箇所がやたら多いんですね。

やっぱり演出が滅茶苦茶上手い!

スピルバーグ監督作ということで、本作はやっぱりちょっと画面の作り方が古いです。古いんですが、ものすごい高度なことをサラっとやってます。

例えば映画冒頭のシーン。夜のウェストミンスター橋を赤い2階建てバスが画面の奥に向かって走って行き、カメラが左によるとビッグベンが見えます。このシーンはわずか20秒ぐらいなんですが、たったこれだけのシーンで、「舞台は真夜中のロンドン」だと一発で分かります。「橋をロンドンバスが通る」→「これはロンドンだな」。「ビッグベンが映る」→「あ、真夜中だ」。これをナレーションや字幕など一切使わずに、たった20秒程度の画で見せるわけです。ちなみに最近の映画では「ロンドンの空撮シーンに字幕で”London,UK -2016″」みたいにするのが流行りです(笑)

映画はみんな暗い中で集中してみていますから、本当は極力説明ゼリフや字幕は出さないほうがいいんですね。特に冒頭は観客の頭を使わせて、スクリーンに集中できるように持っていくべきです。この冒頭20秒たらずのシーンで、スピルバーグ監督は私たちに脳トレをさせています。ロンドンバスが出てきた、時計が写った。この2つの連想ゲームのおかげで、観客はその後のシーンでも細かいアイテムを気をつけて見るようになります。そうすると、後のシーンででてくる「夢がビンの中にはいっている」シーンでも、「あ、ワルツを踊ってるな」「あっちはドラゴンと戦ってるな」とか細かいところまで見えるんですね。この”観客をスクリーンに引き込む”テクニックはとんでもないです。

他には長回しもあります。近年のスピルバーグのアイコンといえば、リドリー・スコットがライバル心をむき出しにした「プライベート・ライアン(1998)の冒頭長回しカット」です。あれも作品冒頭の情報密度をマックスまで上げる事で観客を引き込む手法でした。今回はそのプライベート・ライアンよろしく、カメラがグワングワンに飛び交う長回しシーンが何回も登場します。全てソフィーが逃げまわるシーンであり、これがアトラクション感があってムチャクチャ楽しいです。このあたりは子供向け作品としては凄いポイント高いと思います。

【まとめ】

細かい所を書き始めるとキリがないのでまとめに入ります。本作は、子供向け作品として間違いなく普遍的な完成度をもっています。10年後でも、20年後でも、小さなお子さんに見せれば絶対教育上プラスになりますし、なにより面白いです。そういう意味では、リアルタイムで見る必要があるのかと言われるとちょっと怪しいんですが、、、でも映画界への投資だと思って是非見に行ってもらいたいです。

私なんかが書くのはおこがましいのですが、スピルバーグはこの20年ぐらいずっと「歴史的な映画監督になるにあたってユダヤ人が撮るべき作品」という義務感を背負って作品を作ってきました。そのまんまナチスとユダヤ人を描く「シンドラーのリスト(1993)」、奴隷問題を描く「アミスタッド(1997)」、再びWW2の「プライベート・ライアン(1998)」、ユダヤ人が殺されたミュンヘンオリンピック事件を描いた「ミュンヘン(2005)」、20世紀初頭のヨーロッパ史を馬の一生を通して描く「戦火の馬(2011)」、そしてアメリカの礎リンカーンの伝記「リンカーン(2012)」。これらはエンターテイメントというよりは文芸的な意味での”お堅い仕事”であり、歴史に名を残すために必要な”必修科目”なんです。彼の次回作は再び”お堅い仕事”で、19世紀にイタリアで起きたユダヤ人少年の誘拐事件を描いた「The Kidnapping of Edgardo Mortara」の予定です。スピルバーグも今年で70歳ですから、全力で頑張っても、撮れて残り十数本です。そして、スピルバーグ本人がやりたいのは「陰謀サスペンス」と「ジュブナイル」です。彼の生涯の悲願であった「タンタンの冒険」を映画化し終わった今、残りの作品で是非、超楽しいジュブナイルと、猛烈にハードなSF陰謀サスペンスを見たいんです。そのために、スピルバーグが死ぬまで彼が好きな映画を撮りまくれるように、一映画ファンとしてささやかながらお金を落としたいですし、みんなにも見てもらいたいです。

やっぱり、私の世代には、この人は特別です。

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キング・オブ・エジプト

キング・オブ・エジプト

​今日は

「キング・オブ・エジプト」です。

評価:(60/100点) – 楽しいアイドル珍道中映画!


【あらすじ】

古代エジプト。太陽神ラーは2人の息子にエジプトを託す。オシリスには街を。セトには砂漠を。
それから数千年、オシリス王の治世が終わり、その息子ホルスへの禅譲が行われることとなった。ホルスの戴冠式に多くの神々が訪れる中、叔父のセトは戴冠式のまさにその場で実の兄オシリス王を殺し、ホルスの両目を奪い、王位を簒奪する。愛の神ハトホルの嘆願で一命を取り留めたホルスは、復讐を狙う、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ホルスの戴冠式とセトの反乱
※第1ターニングポイント -> ベックがホルスの右目を取り返す
第2幕 -> セト神殿への珍道中
※第2ターニングポイント -> セトがアポピスを召喚する
第3幕 -> オベリスクの決戦


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【感想】

本日は「キング・オブ・エジプト」の字幕版を見てきました。吹き替えが凄いことになってるらしいという噂は聞いてますが、どうにも字幕派でございまして^^; 監督はエジプト生まれのアレックス・プロヤス。ブルース・リーの長男ブランドンの代表作「クロウ/飛翔伝説(1994)」で有名ですが、個人的には「ダークシティ(1998)」とか「ノウイング(2009)」とかの「オカルトちっくなトンデモ映画監督」って印象の方が強いです(笑)。ちなみに漫画「クロウ」の映像化はTBSで深夜にやってたドラマ版の「クロウ 天国への階段(1998)」のが好きだったりもします。
有楽町のスカラ座ではあんまりお客さんが入っていませんでした。650人の箱で多分40-50人くらいです。公開直後にしてはちょっと寂しかったです。

さて、本作はアメリカでぶっ叩かれまくっておりまして、イギリスでもビデオスルーの憂き目に遭っています。ですが、私はこれから(ちょっと無理やりに)全面擁護します!中身にがっつり触れていきますので、未見の方はご注意ください。欠点もいっぱいある映画ですが、すごいニヤニヤしながら観れる愉快な作品です。ぜひ劇場で!

まずは大枠から

本作に一番近いのは、昨日の「セルフレス 覚醒した記憶(2016)」のターセム・シン監督の「インモータルズ-神々の戦い-(2011)」です。っていうか世界設定はほぼ同じです。世界には太陽神ラーをはじめとして多くの神様がいまして、彼らは人間の姿(と言ってもデカい!身長3mぐらい)と獣の姿を自由に変身できます。そのエジプトの神々が統治する世界で、反乱が起きます。正当な王位継承者ながら人間を軽んじているホルスは、簒奪者セトへの復讐を図る過程で協力者の人間コソ泥・ベックと珍道中を繰り広げ、徐々に王としての責任に目覚めていきます。

本作には2つの大きな話があります。1つはホルスの復讐譚。もう1つはベックが亡き恋人ザヤを生き返らせようとする話です。この2つが良い感じに混ざり、怒涛のオカルトクライマックスへなだれ込んで行きます。

すごいヘンテコなストーリー

上の概要だけ見ると超王道ストーリーに見えるかもしれませんが、本作は実際にはすごい変なことになっています。というのも、話の要素/目的がコロコロ変わるからなんですね。

例えば復讐について。本作の劇場予告では「奪われたホルスの目を盗んで世界を救え!」みたいなフレーズが流れるのですが、実際は本作ではホルスの目は探しません(笑)。
ホルスの目は、片目分だけ2幕目冒頭でサクっと盗みまして、もう片目については「どこにあるかわからんから保留!」となります(笑)。2幕目のメインストーリーは、「ラーの”創造の水”をセト神殿の心臓に垂らすことで、セトを弱体化する」ことです。そしてそのセト神殿へ向かう途中で追っ手に襲われたり、スフィンクスが邪魔してきたりするわけです。そんでもって2幕目が終わり全部のちゃぶ台がひっくり返ると、嫌が応にも世界を救うためにセトへ特攻をかけざるをえない緊急事態が起きます。

すると今度は「実はホルスは王の自覚が芽生えると覚醒ホルスに進化して超強くなる」という話に変わるんです。2幕目はなんだったんだっていう話なんですが、気にしてはいけません^^;

このように話がコロコロ変わるので、せっかく出てきたフルアーマー・セトちゃんが、序盤でボコった片目ホルスにあっさり負けたように見えちゃいます。超弱く見えちゃうんですね(笑)。確かにストーリー上は片目がなくても王の自覚で覚醒したホルスはセトより遥かに強いことになってます。筋は通ってるんですが、プロットの問題で分かりづらくなってしまっており、もったいないかぎりです。

そんなこんなでメインストーリーは徘徊老人並みに彷徨っているわけですが、じゃあサイドストーリーのザヤの件はどうかというと、こっちはこっちで無茶苦茶です(笑)

あの世の9つの門をくぐり切ると2度と生き返らないというのをベース設定に、ホルスは「王になれたら生き返らせてやる」とベックに約束します。いろいろあって、ハトホルが死者避けの腕輪というあの世とこの世を行き来できる便利な腕輪をくれることになるんですが、なぜかハトホルはこの世のベックに置いて自分は犠牲になってあの世に行っちゃうんですね。いやいや。犠牲になるならあの世に行ってからザヤに腕輪を渡してくれよってことなんですが、この世に置いて行ってしまったばかりに、ハトホルは無駄死にで終わります。もう、ハトホルったらお茶目なんだから(笑)。そう、本作はですね、登場人物が全員お茶目すぎます。

太陽神ラー、怠慢説

トトだって冷静になればスフィンクスの謎なんてすぐ解けるのに、なぜか超テンパって2度も間違えます。

ベックだってとりあえず創造の水をたらしゃ良いだけなのに、なにを思ったか垂らし損ねます。いやいや、ホルスが嘘つきだろうがなんだろうが、セトが悪なのは確実なんだから垂らせよっていう、、、ね。

さらにはセトちゃんです。セトちゃんは神々の心臓やら脳みそやらを奪って超合神(※いい日本語訳だw)になるんですが、その目的があるならさっさとお目当の神々を襲っとけやって話です。でもセトちゃんはなぜか数ヶ月or数年は泳がしています。なんでしょうね。小悪党特有の余裕ぶっかましでしょうか(笑)。

そして極め付きは太陽神ラーです。本作のラーおじいちゃんは結構マッドサイエンティストなんですが、最後に実はスーパーパワーが使えるのが明らかになります。本人は「借りを返すぞ」とか言ってるんですが、それができるんなら先にオシリスにやれやっていう話です。そうすりゃ映画が15分で終わるのに(笑)。しかも持ってる槍が実はアポピス(キバいっぱいの大蛇)を操れるみたいな設定まで出てきて、いやいや毎晩戦ってたのはなんやねんというおかしなことになってます。ボケ防止のエクササイズだったんでしょうか?

お茶目勢ぞろい=ツッコミ不在のボケ大会

とまぁそんなこんなで登場人物が全員お茶目さん揃いな訳ですが、これがですね、だんだん面白くなってきます(笑)。さながらツッコミ不在のボケ倒し祭りです。劇中にツッコミがいない以上は観客の我々が突っ込まないといけないわけで、だんだんツッコミが忙しくなりすぎて変なテンションになってくるんですね。そうすると、だんだん登場人物たちがキュートに見えてきます。もうね、最後なんて最高ですよ。セトちゃんったらせっかくトトの知識を得たのにそれでもなおボケてますから。元がどんだけ脳筋なんだ(笑)。

ということで、映画が終わると観客のこちらにも、謎の達成感が湧き上がってきてとっても楽しくなります。

【まとめ】

そんなこんなで個人的にはとっても楽しめた映画でした。ちょっとびっくりしたのは、アメリカでの不評の中に結構「デザインがダサい」「CGがしょぼい」ってのがあるんですね。確かに神様のデザインは「牙狼」っぽいというか特撮ヒーローちっくですし、CGの動きはかなりカクカクしてます。でも、このぐらいだと正直言って邦画より遥かによくできてるんですよね^^;やっぱハリウッドのレベルは高いなというべきか、我々が邦画のCGに慣れ過ぎてるのか(笑)、ちょっとカルチャーギャップを感じました。

結構正統派のファンタジーアクション映画ですので、是非劇場へ駆けつけてください!おすすめします。

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君の名は。

君の名は。

大変長らくお待たせいたしました。
本日は新海誠の最新作

「君の名は。」です。

評価:(59/100点) – 新海誠のメジャー・パッケージ化大成功!


【あらすじ】

飛騨のど田舎・糸守町に住む宮水三葉(ミツハ)は、いつもどおり朝起きて学校へ向かった。しかしクラスの皆の様子がどうもオカシイ。みんな口々に「昨日の三葉は変だった」というのだ。疑問に思いながらも授業を受けていた三葉は、ノートに奇妙な落書きを見つける。「お前は誰だ?」。
その夜、彼女は不思議な夢を見る。それは憧れの大都会東京で、男子高校生・瀧(タキ)として生活する、リアリティ溢れるものだった、、、。

【作品構成】

オープニング -> 2021年東京

第一話 -> 三葉と瀧、それぞれの入れ替わり
中間CMタイム -> 瀧としての目覚め
※第一話終了 -> 入れ替わりのルール決め。

第二話 -> 入れ替わりの終わりと飛騨への旅
中間CMタイム -> 一回目のバッドエンド
※第二話終了 -> 瀧が口噛み酒を飲む

第三話 -> 瀧の彗星避難作戦
中間CMタイム -> カタワレドキの邂逅
※第三話終了 -> 隕石が落ちる

エピローグ -> 再び2021年


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【感想】

紳士淑女の皆様、大変長らくおまたせいたしました。本日は、すでに公開から3日も経ってしまいました新海誠の最新作「君の名は。」です。客席はほぼ中高生で埋まっており、明らかに見た目がアレな大人は、私も含めて10人もいませんでした。ものすごい混んでまして、夜の回かつ500キャパの大箱だというのに、最前列でも両脇に高校生っぽい観客がいました。左隣が女の子だったのですが、第3話のラストでガンガン泣き出しまして、何故かなんかちょっと申し訳なくなってしまいました。「悪い大人でゴメンよ、、、」って感じで(笑)。そうなんです。本作は大変悪い大人が作ったとってもあざとい”良い話”です。そんなところも含めまして、書きたいことがいっぱいあるので早速本題に行きましょう。

なお、以降、多大なるネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。

まずは全体の概要から

まず、細かい話に入る前に、全体をざっくりと見ていきたいと思います。そもそもの「新海誠」という監督については「星を追う子ども(2011)」の時のブログ記事を見てください。

本作「君の名は。」は、新海誠の本来の作家性である「中二病的ロマンティックSFファンタジー」が最前面に出ています。相変わらず実写をトレースした高密度背景&CGモデルと、その上ののっぺりしたキャラ達。うざったいほどのモノローグと、かぶさるロキノン系音楽。これぞセカイ系という猛烈に閉じた関係性(今回は文字通り”己に入ってくる他者”との関係性)、そこに絡んでくる世界を揺るがす大規模な事件。すごい適当なシナリオと、めくるめく怒涛のエンディング。もうですね、「これが新海誠だ!」というエッセンスが振り掛かかりまくっており、誰がどう見ても紛れも無い新海誠印がここにあります。

私、前作の「言の葉の庭(2013)」を見ていないのでなんとも言えないのですが、なんかこう”やっちまった”感満載だった「星を追う子ども」から見事に持ち直してきたなというのが率直な感想です。

さらにですね、中身はもう完全に新海誠そのものであるにもかかわらず、外見のルックスはとっても「よく出来た普通のアニメ映画」なんですね。はっきりと、原画やキャラデザインがよく出来てます。さらにいままでのテーマであった「オタクの自己憐憫(ある意味自己完結した一方的な失恋)→大人への成長」から、本作では明確にハッピーエンドっぽい着地になっています。この辺は伊達に天下の東宝が絡んでないなと感心しました。ですから、本作は「新海誠作品の入門編」としては今のところベストです。新海誠という”超アクの強いオタク系監督”をいい感じに包んでメジャー・パッケージ化できてます。

いまから、私はちょいと文句を書きますが、そんなものはこの満員の劇場がすべて吹き飛ばす些細なことです。だって新海誠はメジャー監督への道を選んだんですから。売れた以上はこのアクの強い作家性が受け入れられたってことですから、これはもう大勝利です。

良かった所:中2病的ロマコメ要素がテンコ盛り

まずは良かった所を見ていきましょう。「君の名は。」で一番良かったのはやっぱりこの「中2病っぽさ」だと思うんですね。お互い一度も逢ってないのにお互いを好きだと思ってしまう部分とか、相手に逢うためだけに凄い遠くまで衝動的に行っちゃう感じとか、最後の猛烈に恥ずかしい告白とかですね(笑)。極め付きは三葉が髪を切って瀧と同じ髪型になるとこですね。失恋/好きな人と外見で同化するというペアルック願望。
こういう「オタクや女子学生が好きなツボ=そりゃ無いだろってくらいロマンティックな青春妄想」をことごとく抑えていて、「やっぱ新海誠は妄想力あるな~」と大感心して見ていました。はっきり言ってしまえば、本作は私自身も含めたオタクが好きなもの、そしてたぶん新海誠自身も好きな要素がゴテゴテに乗っかってるんです。そういった意味で、新海誠作品にとっては「キモい」はかなりの褒め言葉です(笑)。40歳すぎたオッサンが真顔で書いてる青春ポエムですからね^^;。

話のフォーマットはもろに「オーロラの彼方へ(2000)」ですし、二人の関係性は「ラーゼフォン(2002)」やその元ネタの短編「たんぽぽ娘(1961)」(※共に未来から恋人がやってきて片方を救う話)、彗星が降ってきて世界が滅ぶっていうのだと「トリフィド時代(1951)」とか「メランコリア(2012)」なんかもあります。入れ替わりとタイムスリップは言わずもがなの「転校生(1982)」と「時をかける少女(1983)」。思い出せないんですが、「祭りの日にデカイことが起きる」ってのもなんかよく見た覚えがあります。ラストシーンはみんな大好きな「バタフライ・エフェクト(2004)」ですよね。こういう好きだったものをコラージュして見せられると、その同世代感だけでもう細かいアラはいいかなってくらい優しい気持ちになれます(笑)。

もちろん、こういう青春妄想ストーリーって、まさに青春真っ只中の人にはビンビンに響くはずです。冷静に考えると結構無茶苦茶な話しなんですが、そんな事は気にならないくらい、後半は妄想要素の乱れ撃ちで無理矢理感動させにかかります。実際「泣いた!」「感動した!」っ子供達がいっぱいいるみたいなので、これは大成功だと思います。ツイッターに書きましたが、やってる事自体はパチンコ店やキャバクラが4つ打ち音楽で無理やり客のテンションを挙げるのと同じ原理で、「感動、カンドっ、感動、カンドっ(※”ドン・ちっ・ドン・ちっ”と同じリズムで)」ってやると何故か感動するという結構雑な手口です(笑)。予告にもあった「忘れたくない人!」「忘れちゃいけない人!」みたいなセリフの反復なんかはモロにこの典型です。
ただ、これなんか悪口みたいですが、全然悪い意味ではありません。万人受けを狙った結果だと思ったら個人的には全然許容範囲です。「あぁ、こういう事やるやる。」ってテンションです。

良くない所:作品構成について

私が見ていて一番驚いたのは、映画が始まってすぐにまんまTVアニメなオープニングが流れたところです。しかも本編のダイジェスト/見せ場の抽象イメージとしてのオープニングになっており、100%TVアニメでの作り方です。本作ですね、なんと作品構成が完全に30分アニメのフォーマットなんです。全体で110分くらいの作品なんですが、およそ1話20~30分で、エピローグだけ15分くらいの全3+1話で構成されています。なんか昔「ハナミズキ」でごちゃごちゃ書いた覚えがあるんですが、映画としてはあんまり好ましい構成ではないですね。とくに本作の場合は「テレビアニメ化」が徹底されていまして、わざわざ毎話15分目くらいに場面展開まであります。第1話だと、三葉側の視点が最初の15分で、瀧側の視点が残り15分です。ど真ん中でちゃんとシークエンスが変わります。さらにきっちり30分経つと急に入れ替わりルールの説明セリフがダーーーーーっと入りまして、エンディングのRADWIMPSが流れます。CMが入るんじゃないかと思ってハラハラしました(笑)。

CMってのは流石に冗談ですが、ではこの構成で何がまずいかというと、話が途切れちゃうところなんですね。本作での3話分は、わざわざ1話毎にストーリー/イベントが独立した仕様になってます。例えば、1話目は「二人の入れ替わりの面白さとルールを伝える回」、2話目は「急に入れ替わりが起きなくなって焦る回」。この両方共が独立しており、各話ごとにきちんと起承転結があります。これ、全体としてみると、結構無駄な描写が多いのに話が進まないのでイライラします。しかもそのしわ寄せが最後にきます。クライマックスの住民避難大作戦がすごい唐突に感じられるんです。作品の真ん中あたりから徐々にストーリーを展開させてけば良かったんですが、3話目の30分だけで作戦立案→準備→実施→結果とすべて完結させようとしているため明らかに時間が足りません。「テッシーやさやちんがよく協力してくれるな」とか、「いきなり爆破はおかしくないか」とか描写不足がそのままノイズになるんですね。これわざわざこんなTVアニメ形式の構成にしないで、普通に三幕構成に落とせば十分処理できる情報量だと思いますし、もっとスムーズに出来たと思います。正直な所なんでこんなにしたのか、あんまり意図がわかりません。1年後くらいに「3夜連続テレビ放送」とかする想定なんでしょうか?

※ 完全に余談ですが、変電所の爆破は、本作のベース元ネタ「オーロラの彼方へ」のオマージュです。

※ 2016年9月6日追記:監督インタビューを見ていたら、今回ターゲットを「学生向けにしてる」という話がありました。これ映画慣れしてない人が理解しやすいようにテレビアニメ3話連続形式にしたのかなと邪推しました。それならそれで子供舐め過ぎなので違うかもしれませんが、あくまで邪推で。

一応細かいツッコミをば

とまぁ構成にツッコミを入れたところで、次は細かいツッコミに入ります。

一番厳しいノイズは、話の根幹である「入れ替わる二人の時代が実は3年ずれてる」事にふたりとも全く気が付かないところです。二人ともiPhoneっぽい携帯電話を使っています。学校にも通ってます。そして少なくとも両方の家にはテレビがあります。バイトのシフトに入るのにカレンダーも見てます。この状況で、二人共が年号が違うって気付かない可能性がありますかね?ちょっと無理があります。教科書には必ず〇〇年度って入ってますし、そもそもなんかiPhoneの日記帳アプリみたいなのつけてますしね。ここはそもそもの話の核になる部分なので、それがガバガバなのは流石にちょっとどうかと思います。

付随するところで行くと、「三年前の日本全土で話題沸騰の天体ショー&大事故」をまったく知らない高校生ってどうなんでしょう。一回ミキ先輩とのデートで入った変な写真展でわざわざ特集コーナーまで見てるのに、まったく分からないんですね。これもちょっと無理があります。

最終盤で名前は忘れるくせに隕石が落ちることは忘れない三葉とか、アプリ上の日記は消えるのにマジックでかいた「ある言葉」は消えないとか(※たぶん消えるまでタイムラグがある設定)、初めて入れ替わった直後になんで学校へいったり電車に乗ったり日常基本行動ができるんだとか、わりとこの入れ替わり周りのところが雑な印象があります。

あとは肝心の巨大隕石ですよね。巨大隕石が落ちてきて数百人規模の被害者が出るってある意味爆弾みたいなものですから、自衛隊が迎撃しないのかな〜って言うのもちょっと思いました。分裂してから実際に落下衝突するまで結構時間ありますしね。しかも見た感じ1200年周期で落ちる恒例シリーズの第3弾っぽいので、少なくとも村長レベルで手に負える事態じゃないなと。
(※ちなみに第1弾は御神体のあるクレーター、第2弾はもとからある隕石湖。隕石同士が引かれ合うってのも一種の「結び」ですね。)
もともと真面目にSF考証をするつもりが無い作品なので別にいいんですが、お話本筋のノイズになるレベルではなんかちょっと引っかかります。

でもそんなのどうでもいいんだよ!って話。

ただ、この辺のアラは「細かいストーリーなんてどうでもいいんだよ!」で済んじゃう部分でもあります。本作ではキーワードとして「結び」というのが出てきます。劇中ではかなり便利に使っていて定義が怪しいんですが、「運命の糸」「超常的なパワーによって人やモノが結びつくこと」「時間そのもの」みたいな万能な意味で使われます。これは結構逃げワードとしての破壊力がありまして、なんでもかんでも「だって結びだし」「結びの神様が適当にやってくれたんでしょ」で終わらせる力技が可能です。運命には過程も理屈も無いですからね。作品内でこういうエクスキューズを用意しておくっていうのは本当は反則なんですが、本作に限って言えば、「“理屈”より”情(じょう)”を優先させる」という宣言にもなっているので効果的だと思います。そして、この「”理屈”より”情”を優先させる」事自体が、まさに「セカイ系」の王道ど真ん中なわけです。

基本的にいままでの新海作品も、クライマックスの「盛り上げ」をやりたいだけでそれ以外はただの前振り・舞台設定です。「秒速5センチメートル(2007)」が公開された時に、「イントロが50分ある山崎まさよしのPV」と言われましたが、相変わらずやってることは一緒です。ただ今回は「イントロが90分あるRADWIMPSのPV」にはなって無くて、ちゃんと「前振りを90分したうえでの感動の乱れ撃ち!」として抽象・一般化されています。より作家性がマイルドに表現されているわけです。実際、「秒速5センチメートル」は山崎まさよしにがっつり乗れないと厳しいですが、本作は別にRADWIMPSが好きじゃなくても大丈夫です。ただ、その分、強烈なロマンチシズムに乗る必要があります。

この映画は、2021年の東京で、三葉と瀧が喪失感を感じながら目覚めるところから始まります。本編はほぼ全てが(忘れてしまった)回想で、最終的には再び2021年に戻ってきます。ですから、この映画はあくまでもこの2人の喪失感が何かを明らかにし、そしてそれが埋まるまでの話なんですね。

結局、本作のロマンチシズムって「僕達が一目惚れをした時、または運命の人だと思った時、実は記憶を亡くしているだけで物凄い大宇宙的なバックボーンがあるかもしれない」ってとこなんです。

“運命の二人”というロマンチックなシチュエーションに乗れるかどうかだけ。そりゃバイブスに乗っかれた人は熱狂しますよね。「なんか良くわからんけど感動した!超傑作!」って。テーマ自体は普遍的といってもいいかも知れません。逆にこれに乗っかれなかった場合、どうしてもアラが気になっちゃって「なんじゃこれ?無茶苦茶じゃんか」となるわけです。

【まとめ】

本作は、本当に「新海誠作品の入門編」として最適な一本です。彼のフィルモグラフィの総決算でありながら、一方でちゃんと”大衆向け”にメジャー・パッケージ化されており、そりゃ大ヒットしてもまったく不思議ではありません。大人が真面目にみるにはちょっとアレですが、少なくともティーン・エイジャーには間違いなく記憶に残る作品になるんじゃないでしょうか?

こういう作家性の強い=アクの強い監督って、「いかにアクを損なわずに大衆化するか」っていうのが一番苦労する所です。「星を追う子ども」は大衆化を狙いすぎてただ気持ち悪くなっちゃったわけですが(笑)、本作はそのバランスが完璧だと思います。

そういった意味でも、今後の新海作品が非常に楽しみです。次作も引き続き「スレ違い続ける青春妄想ほろ苦SFラブファンタジー」をやるのか、それともまたジュブナイル的なものにリベンジするのか。監督としては次がキャリア勝負の分かれ目です。ティーン・エイジャーは是非是非、夏休みの間に御覧ください。猛プッシュオススメします。大人は夏休みが終わって落ち着いてからですかね(笑)。アルコール入ってるといい感じにアラをスルーできると思います。おすすめします。

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ハリーポッターと死の秘宝 PartII

ハリーポッターと死の秘宝 PartII

どんどん行きましょうw やっつけ仕事パート4は

ハリーポッターと死の秘宝 PartII」です。

評価:(60/100点) – ヴォルデモートってそもそも弱くね、、、。


【あらすじ】

なんやかんやあってヴォルデモートが魔法省を席巻してからしばらく。ハリー・ポッターと愉快な仲間達はヴォルデモートの分霊箱を探す旅をつづけていた。次なる分霊箱はベラトリックスが金庫に預けている。3人はゴブリンを連れて金庫へと向かう、、、。


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【感想】

さて後半戦で加速していきますw 7月16日に見たのはハリー・ポッターシリーズ完結編、「ハリー・ポッターと死の秘宝 PartII」です。シリーズ8作目にして堂々の完結編です。いままで10年、7作品、のべ16時間を使って広げまくってきた風呂敷をついに畳む作品ですので、そりゃ盛り上がらないわけはありません。
本作は最初こそいつもの「変装→潜入→見つかっちゃった→脱走」という微妙な展開ですが、中盤以降はヴォルデモート軍vsホグワーツ軍の全面戦争に突入してそれはそれはハイテンションで楽しい展開が待っています。ということで、シリーズファンはニヤニヤしながら楽しめると思います。
ただ見終わって思うのは、やっぱりヴォルデモートが弱すぎるというか、ちょっとお茶目より過ぎるのではないかということです。ヴォルデモートの置かれた状況と小者っぽい立ち振る舞いにアイドル性がありすぎますw
ちょっとネタバレになりますが、今回の作品で明らかになったのは、ヴォルデモートって実は最初から「詰んでた」ってことなんです。ヴォルデモートはハリー・ポッターを驚異として1作目から追い駆けますが、しかしヴォルデモートは構造上ハリーを殺せないんです。だからどう頑張ってもハリーが勝っちゃうんです。そんな圧倒的に不利な状況の中にあって、彼は文字通り命より大事なヘビちゃんと別行動をしてハリーを追いかけてしまいます。
しかも殺したと思ってみんなの前で勝利宣言したあげくに「ワーハッハッハッ!!!!! ナヌっ!? 死んだふりだと!?」というツッコミ所満点のスキを見せてきます。
脇ががら空き過ぎw 萌えキャラかw
一方の主人公ハリーはどうかというと、今度はこちらにはアイドル性がなさ過ぎます。結局今回もハリーは本質的には活躍しません。ピンチからの脱出は全てハーマイオニー任せですし、ラストも結局はオトリをやっていただけで彼が直接ヴォルデモートを倒すわけではありません。しかも彼は努力するというよりはダンブルドア校長やスネイプからプレゼントを貰ってただ使うだけです。終始しかめっ面で事務的に周りからの指示に従って行動するだけなので、すごく”がらんどう”です。
本当のところは分かりませんが、これはおそらくRPGゲームの影響なのかなとは思います。しゃべらない主人公といいますか、主体的に動かずに周りの話を聞いて動く主人公というのは、ゲームとしてプレーするには大変有用です。でも感情移入にはあんまり向きません。なんか今回もハリーがどうこうというよりは、ヴォルデモートのお茶目さとハーマイオニーの強さ、スネイプの不器用な純情さだけが目立ってしまったように思います。あとは美味しい所を全部持って行ったネビルでしょうか。なんにせよ、ちょっと理屈が無理矢理すぎてハリーが勇者様でなおかつヴォルデモートを倒せる(※倒してないですけど)理由が良く分かりませんでした。
とりあえず今まで観てきた方は惰性で観るには十分ですし、最後だけ見ないのも気持ち悪いので仕方無いかと思います。私も文句言いつつもBDは買います。
オススメデス。
ちなみに、、、おそらく映画シリーズファンへの配慮なのか、ハリーの結婚相手はサラっと流されています。これもちょっとどうかと思うんですが、、、あんまり”彼女”との絡みは描かれて居なかったのしょうがないかも知れません。
なんか「しょうがない」とか「仕方無い」とかばっかりになってしまいましたが、、、、まぁ仕方無いですよねw

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パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉

パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉

久々の金曜のレイトショーはThat’s ハリウッド大作、

「パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉」です。

評価:(35/100点) – パート4だからキャラのファンさえ喜べばOK。


【あらすじ】

バルボッサにブラック・パール号を奪われたジャックは、自分の名を騙って船員を集めているものが居るという酒場を目指してロンドンに戻ってきた。彼はそこでかつての恋人・アンジェリカと出会う。なんとか警察の追っ手を振り切ったジャックは、しかしアンジェリカに嵌められて史上最恐の海賊・ブラックビアード(黒ひげ)の船に乗せられてしまう。なんとアンジェリカはブラックビアードの船・クイーン・アンズ・リベンジ号の一等航海士だったのだ。そしてブラックビアードの死期が間近に迫ったという預言を信じ、ジャックが地図を持っている「若さの泉」を探していた。
こうして、「若さの泉」と泉での儀式に必要な「人魚の涙」と「ポンセ・デ・レオンの二つの杯」を探す冒険が始まった、、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ギブスの救出とアンジェリカとの再会
 ※第1ターニングポイント -> ジャックがクイーン・アンズ・リベンジ号に乗る
第2幕 -> 「若さの泉」を目指す冒険
 ※第2ターニングポイント -> ジャックが杯を持ってブラックビアードの元に戻る
第3幕 -> 若さの泉


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【感想】

金曜は久々に新作レイトショーで「パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉」を見てきました。初日のレイトショーですが、金曜にしては6~7割ぐらい人が入っていたので結構多い方です。
本作はお馴染み「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズの4作目です。1作目の「呪われた海賊たち」は本当に良く出来た冒険活劇でしたが、「デッドマンズ・チェスト」と「ワールズ・エンド」の連作がかなり微妙な出来で、新作のハードルは下がっています。4作目は前3作の根幹にあった「エリザベスとウィルの身分違いの恋物語」が一段落し、仕切り直しとなっています。
極端な話しをすれば、4作目ですのでシリーズのファンさえ喜べればなんの問題もありません。そういった意味では本作は3作目でベビーターンしたバルボッサが大活躍しますし、ジャックはいつもの軽いふざけたノリ全開で来ますので、十分に楽しめると思います。思いますが、、、ちょっと全体的にはすごいことになっています。
一番ずっこけるのは、本作には迷ったり謎を解いたりという「冒険要素」が一つも無いことです。ジャックは最初から「若さの泉」への地図を持っていますし(というか前作の最後で手に入れてましたし)、人魚は最初からホワイトキャップ湾にいるのが分かっています。「ポンセ・デ・レオンの二つの杯」も何故かホワイトキャップ湾のある島にあります。ということで、本作はお宝に向かって最短距離で進みますw
結局アンジェリカがなんなのかは良く分かりませんし、ブラックビアードも「最恐の海賊」というのが納得出来ないほど全然活躍しません。スペイン軍も最後の最後まで目的がわかりませんし、それすらもなんとなくの宗教観・原理主義っぽさで動いています。ブラックビアードのクルーのゾンビも良く分かりません。全体的にすべてがとても記号的です。
本作はそういった薄いストーリーの上で記号的なキャラ達がワイワイキャキャとやるだけなので、これは作り手側がもう完全なファンムービーとして割り切っています。言い方を変えれば、本作を見て喜んでくれるファンが少しでもいれば全く問題ありません。私自身もちょいちょいズッコけながらも全体としては楽しく見られました。ジェフリー・ラッシュは「英国王のスピーチ」の先生役も良かったですがやっぱりバルボッサ役が一番イキイキと輝いています。
ということで、シリーズのファン限定でとりあえずオススメします!
ちなみに、本作では3Dはたいして意味がありませんのでどうでもいいです。暗すぎて全然3Dに見えませんし、最初から3Dカメラで撮ったわりにはあんまり有効に使われていません。私が言うのもなんですが、3Dブーム自体がもう終焉ですのでとりあえず記念に見ておくのは手だと思います。

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星を追う子ども

星を追う子ども

今日は3本見ましたが、一番面倒なコレを最初に書きます。
そう、新海誠の最新作

「星を追う子ども」です。

評価:(9/100点) – みんなジブリが好きね、、、。


【あらすじ】

アスナは山の上で一人鉱石ラジオを聞くのが好きだった。父は他界し、医者の母親はいつも夜遅くまで帰ってこない。
ある日、彼女は山でケモノに襲われたところをシュンという少年に助けられる。はじめて秘密のラジオを共有できる仲間が出来たが、彼は数日後に忽然と姿を消し、川縁で遺体が発見される。アガルタという遠い所から来たというシュンの手がかりを探すため、彼女は新任教師のモリサキから話しを聞く。
その後暫くして、彼女の元にシュンとそっくりの少年が現れる、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アスナとシュンの出会いと別れ。
 ※第1ターニングポイント -> アスナがシンと出会う。
第2幕 -> アスナとモリサキの「生死の門」への旅。
 ※第2ターニングポイント -> アスナとモリサキが別れる。
第3幕 -> 生死の門


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【感想】

土曜の1本目は「星を追う子ども」です。知ってる人には超有名、知らない人は全く知らない新海誠監督の最新作です。完全に狭いマーケットの監督ですので客席も似たような雰囲気の20代~30代ぐらいのオタク系男子ばかりでした。結構みなさん大人数で連れ立って来ていまして、かなり埋まっていました。
さて、twitterでちょろっと書きましたが、ここから先は結構デリケートなことを書きます。ネタバレも含みますので未見の方はご注意ください。またアリバイを作るために(苦笑)、先ほどまで新海誠監督のDVD化された作品をすべて見返しました。「彼女と彼女の猫」「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」。まずはそもそも新海誠監督が歴史的にどういう位置にあって、そこから本作でどうなるのかという所を書いていきたいと思います。

前提:そもそも新海誠監督って、、、という話し

では面倒な話しに行きましょう。「新海誠」の名前を一躍有名にしたのは「ほしのこえ」です。2002年制作のこのアニメはほぼ全ての工程を当時まだ20代だった日本ファルコム社員・新海誠が制作した「同人アニメ」です。この作品は決して真新しいことはやっていませんでしたが、石原慎太郎のぶち挙げた「第1回新世紀東京国際アニメフェア21(いまの東京国際アニメフェア)」で一般公募部門の優秀賞を獲ることで歴史的な「象徴」となりました。なぜこの「ほしのこえ」が象徴になったかを説明するには、時代背景を理解する必要があります。以下3つのキーワードで新海誠を探っていきましょう。

新海誠を考える上でのキーワードの1つ目は「パソコン時代の自主制作アニメ」です。
自主制作フィルムというのはかなり昔からありました。1960年代にはNHK主催で一般公募の8mmフィルムコンクールがありましたし、例えば自主制作アニメという意味では80年代の関西SFオタクコミュニティを牽引したダイコンフィルム/ゼネラルプロダクツなんかもあります。ちなみにゼネプロは元々は輸入プラモデルやフィギュアを扱うグッズ屋でしたが、後にアニメ制作会社・GAINAXになります。
こういった状況がありつつ、90年代に入ると劇的な変化が始まります。それまで自主制作の現場ではあくまでも8mmフィルムが主体でしたがWindows98によってパソコン編集が使われるようになります。特に重要だったのは「Lightwave」「StrataVision 3D」という3Dモデリング・レンダリングのソフトと「Adobe Premiere」という編集ソフトの存在です。それまではパソコンを動画編集で使うとなるとAmigaみたいな100万円越えのワークステーションを用意するか、OpenGLに特化したグラフィックボードを数十万で用意する必要がありました。要はすっごいお金が掛かったんです。それがWindows98の登場で劇的に安上がりになりました。
この自主制作映像のパソコン編集の流れを決定づけたのが2000年に放送を開始したNHK衛星第一の番組「デジタル・スタジアム」です。
デジタル・スタジアムは毎週一般公募によって投稿された30秒~1分程度の映像をひたすら紹介・批評しつづけるというかなりチャレンジな30分番組でした。ここでいわゆる常連投稿者が誕生し、3Dモデリングのノウハウや編集方法がテレビで大々的にレクチャーされるというものすごいアグレッシブな内容になります。つまり、前述した2002年というのはパソコンを使った自主制作3D動画が一番盛り上がりを見せていたときだったんです。実は私も相当嵌っていまして、CGモデリングのためだけにLinuxマシンを自作してBlenderを回しまくっていました。
そこで登場したのが「ほしのこえ」だったんです。「ほしのこえ」は全編がパソコンを使って制作されており、まさしく2002年当時の自主制作シーンのど真ん中でした。しかもそれをほぼ一人で制作しているわけで、まさしく「21世紀の引きこもり型自主制作映画」の最先端だったんです。「ほしのこえ」はパソコン1台とガッツがあれば誰でもアニメ作品が作れるという夢に満ちていました。
「ほしのこえ」の作品自体はまったく新しいものではありません。宇宙と地球で離ればなれになった恋人達がお互いに携帯メールを送るものの、何光年も離れた2人のメールはとてつもない時差を伴って2人を引き裂いていきます。この作品の概要・世界観は前述のダイコンフィルム→GAINAXの代表作である「トップをねらえ!」からの影響と思われます。ヒューゴ賞・ネピュラ賞・ローカス賞のアメリカ3大SF賞を総ナメにした1974年の傑作「終りなき戦い」をモチーフにした「トップをねらえ!」のウラシマ効果を大々的にフィーチャーし、そこに恋愛と「セカイ系」の要素を入れてきます。

新海誠のキーワードの2つめは「GAINAX」です。
新海誠の作風は直接的にGAINAXの影響を受けています。新海誠の最大の特徴である「ウジウジした男が延々と一人言をつぶやくモノローグ」は「新世紀エヴァンゲリオン」の影響で、これが「セカイ系」、つまりキャラクター個人の感情・事情が直接セカイと結びつくという「狭く閉じた自己中心的な世界観」に繋がります。プラスして、彼はカメラワーク・画面構成も庵野秀明から影響をうけています。人が映っていない自然風景からキャラクターに頻繁にパンしたり、廊下や線路といった奥行きのある背景を広角レンズ式の歪みで俯瞰で描いたり、こういった特徴的な画面構成です。これらは実際には庵野秀明の発明品ではなく実相寺昭雄監督の特徴的なカメラワークです。しかし新海誠はおそらく実相寺昭雄から持ってきたわけではなく、庵野秀明を経由した孫参照です。それは全体的に庵野流の演出・セリフ回しを多用していることから伺えます。

新海誠のキーワードの3つめは「サウンドノベル」です。
新海作品を注意深く見ていると、カメラフレームが静止することがほとんど無いことが分かります。キャラクターの動きとは関係無く、常にゆっくりとカメラフレームが縦・横にスライドしていきます。そして、画面の中央にキャラクターが居ることもほとんどありません。こういった手法はアニメーションにおいてはかなりイレギュラーといいますか、はっきりいって駄目出しされる手法です。少なくともアニメ制作会社で下積み勉強をした人間には出来ません。
これはアニメと言うよりは紙芝居・サウンドノベルの手法です。サウンドノベルはスーパーファミコンの名作「弟切草」が発明したジャンルで、名前の通り「音がでるゲームブック」です。(※最近は「ゲームブック」も見かけませんがw) このジャンルはカセットやディスクの容量との戦いなので、いかに挿絵を減らして音を入れるかというのが大切になります。ですので必然的に細かいエフェクトを多用することになります。これが前述のゆっくりスライドするカメラフレームであったり、中心よりずれたキャラクター配置です。つまり、新海誠はアニメ作品としてはかなり異端な事をしていて、どちらかというとビデオゲームに近い構図をとっているということです。逆に言うと、こういう構図を取るアニメ監督はあまりいないので、それが個性に繋がっています。

だらだらと書いてきましたが、一旦まとめましょう。新海誠監督は21世紀のはじまりに、パソコンによる映像自主制作の象徴として登場しました。彼の作風は直接的にGAINAX作品やビデオゲームから影響を受けています。つまり文脈上「いまどきの監督」というポジションで語られる人だということです。

本題:あれ、参照元を変えたの?

とまぁ延々と言い訳と予防線を張りつつ本題にいきますw
ジブリすぎ。さすがになんぼなんでもジブリすぎ。
本作はいままでの新海誠の特長・作風とはまったく違います。まず一見してわかるのが、うざったいほどのモノローグが無くなっている点です。単純にすっきりしています。そして画面の作り方もまったく違います。これまでは庵野演出 a.k.a. 実相寺昭雄演出だったのが、宮崎駿タッチにかわっています。宮崎駿演出の最大の特徴はフェティッシュなまでの「実動作のアニメ化」です。「水が流れるとはどういうことか」「草が風になびくとはどういうことか」。そして「空から女の子が落ちてくるとき、スカートはどういう風になびいてパンチラになるか」。彼は、スロービデオで研究したのかと思うほど、溜めと抜きによってデフォルメされた「実物よりも実物っぽい動き」をアニメーションで再現して見せます。今回の新海誠はこの宮崎駿演出を参照しています。いるんですが、あんまり出来てません。上っ面だけそれっぽい感じになってるだけです。

これまでの新海作品は背景を実際の風景写真からトレースした高密度の線で埋め、一方の人物は線の少ないアニメアニメした陰影で構成されています。そうすると背景から人物が浮き上がって見えますので、それが”素人っぽさ”に繋がり、結果的には新海誠の「インディ界の大物」という雰囲気にマッチしていました。ところが、今回は背景の線が減り、より「普通のアニメ」っぽくなっています。

今回の作品を総括すると、「いままでの新海誠節を捨てて”より普通のアニメ”を目指した結果、下手な上に参照元とおぼしき”ジブリ調”が露骨に出過ぎた」ということに尽きます。何度も書きますがジブリすぎ。
ムスカっぽい先生・モリサキが最後ちゃんと「目が~~~目が~~~!!!!」な展開になったり、ミミ(猫)のデザインや仕草はナウシカのテト(キツネリス)だし、クラヴィスのペンダントはそのまんまラピュタの飛行石と同じデザインだし、ちょっとこれは酷すぎます。そもそも「自然(=生死)を受け入れる」「ボーイ・ミーツ・ガール(少女と出会うことで少年が成長する)」ってのは宮崎駿のお家芸なワケで、絵柄から小物のデザインからテーマから一緒にして「知りません」はさすがに無理でしょう。
でも、別にパクるのがいけないというつもりはまったくありません。参照は大いに結構。だって全ての作品は大なり小なり他作品からの引用で出来ているわけで、本当にブランニューな革新的作品なんてまずありません。だから参照行為それ自体によって作品がマイナス評価になることはありません。
問題は、本作の完成度が参照元に遠く及ばないってことです。
例えば終盤近くの殺陣のシーン。チャンバラをやっているのに絵がほとんど動いていません。集中線の止め絵とカットエフェクトだけで構成されています。これは宮崎駿オマージュでは絶対にあり得ません。宮崎駿はこういった動きをアニメーションに起こすところに労力を傾ける人です。でも本作では新海誠はいままでどおりの「サウンドノベル」のやり方を使って、少ない枚数でいかに乗り切るかという方法論でやっています。
例えば前半の渓谷橋からバケモノが落ちるシーン。ただ漫然と同じスピードで落ちています。でも本来の物理法則からしたらそうはなりません。現実では、始めに溜めがあり、そこから徐々に加速して最後は一気に川に突っ込んで、そして突っ込んだ水面が落下点だけ最初一気にへこみ、次に周りの水が戻ってきて真ん中で高く舞い王冠型になります。こういった現実世界の動作/現象を、宮崎駿は徹底的にデフォルメ/再現してみせます。しかし、本作にはこういった細かいフェティッシュな表現はまったくといっていいほど出てきません。
本作に出てくる宮崎演出/ジブリっぽさというのは、本当に絵面だけです。なんとなくそれっぽい記号としてのジブリだけです。
その薄っぺらさを象徴するのが本作のストーリーのずさんさです。本作はストーリーが彷徨いまくっています。「モリサキ先生が亡き妻を蘇らせるためにアガルタにある生死の門を目指す」という軸はありますが、それに対してシンとアスナの行動原理がまったくはっきりしません。てっきりアスナはシュンに会いたくてアガルタに行ったと思ったのですが、終盤には死んだお父さんの話にすり替わっていて、あげく「さびしかっただけ」とか元も子もないことを言い出す始末です。友達に「一緒に帰ろう!」って誘われてるのに断ってたじゃん。
シンはシンで「異種族交流」みたいな無難な線に着地するんですが、「アガルタにも地上にも居場所がない」件はいつの間にか無かったことになってハッピーエンドっぽくなっています。
そもそも本作のフォーマットは「行って帰ってくる話」であって、「アスナが異世界に迷い込むけど成長して戻ってくる」という最近多いパターンの作品です。で、、、、アスナってなんか成長してましたっけ??? アスナってほとんど主体的に行動して無いと思うんですけど。ものすごい勢いで周りに流されまくってるだけでは、、、。アスナが主体的に行動したのは「アガルタから出ない」と決断したときと「モリサキ先生を追って生死の門に行く」って言った時だけです。そしてその二つとも理由がよく分かりません。
これらは駄目な作品の典型で、「興行上の必要はあるけど物語内での必然性がない」ということなんです。つまり、アスナが「じゃあ帰ります。お母さんが心配してますので。」って言うと映画が30分で終わりますし、「モリサキ先生は行ってしまいました。私達は帰りましょう。」っていうと盛り上がらないままシンミリと終わってしまいます。でも、作品内でのアスナの性格を考えれば帰って良いんですよ。だって家で洗濯物があるから友達の誘いを断る人物なわけでしょ。お母さんが心配してるんだから帰れよ、、、、、とかいってるとエピローグで母親がまったく心配していないという驚愕の事実が浮き彫りになるんですけどね。万事が万事これです。「誰がどうしたからどうなった」っていう因果関係がグチャグチャなので、見ててかなりどうでもよくなります。
前作までの新海監督は、基本的にはGAINAX作品のテイストを参照しながらも、そこに「現代の若者達の社会性/関係性」というテーマを入れてきていました。だから多少嘘くさかったり中2病っぽく見える恥ずかしい部分もなんとか「作家性」としてカバーできていました。
ところがいわゆる「普通のファンタジー」みたいな所に挑戦した結果、脚本も演出もガタガタで、素人っぽいというより、ただ下手なだけのトンデモ作品になってしまいました。

【まとめ】

相変わらずグダグダと愚痴ってきましたが(苦笑)、結論は前述したとおりです。
「いままでの新海誠節を捨てて”より普通のアニメ”を目指した結果、下手な上に参照元とおぼしき”ジブリ調”が露骨に出過ぎた」
あえて書きますが、見終わった後の感覚は「ゲド戦記」に近いです。本家に似ても似つかない妙なパチモノ感だけが残ります。
いやぁ、、、、、「作家性」って本当に難しいですね。ということで、オススメDEATH!!!!!

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