スノープリンス 禁じられた恋のメロディ

スノープリンス 禁じられた恋のメロディ

今月に入って仕事の関係で全然映画が見られていないので「スノープリンス 禁じられた恋のメロディ」で癒されてみようかと思ってみました。

評価:(5/100点) – 岸恵子の無駄使い

【三幕構成】

第1幕 -> 早代ばあさんの元に封書が送られてくる。
 ※第1ターニングポイント -> 草太が秋田犬を拾い「チビ」と名付ける
第2幕 -> 草太とチビと早代とキタサーカス
 ※第2ターニングポイント -> じいちゃんが倒れる
第3幕 -> じいちゃんの死と草太の最期


【あらすじ】

ある日、一人暮らしの早代の元に封書が届く。そこには早代が子供の頃に好きだった草太との日々が綴られた原稿が入っていた。後日訪ねてきた老人から、原稿は草太の父が書いた物であり老人は草太の異母兄弟だと明かされる。老人は途中で終わっている文章が気になり、登場人物である早代に結末を聞きに来たのだ。
早代の孫娘も催促する中、彼女は草太の最期を語り始める、、、。


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【感想】

K・U・S・O・E・I・G・Aです。いろいろツッコミどころがありますが、まずは個別論に行く前に本作の概要から考えてみましょう。

「スノープリンス」の狙い

本作は、早い話がジャニーズのJr期待の星・森本慎太郎君をいかに売り出すかの一点のみに心血をそそいだアイドル映画です。アイドルにとって銀幕の初主演作というのは大変な意味を持ちます。ウケればアイドルのおかげ、コケればアイドルのせいです。
森本君の相方には「ちりとてちん」で活躍した劇団子役の桑島真里乃ちゃんが起用されています。
話の内容は典型的なお涙頂戴もので、別に「フランダースの犬をモチーフにしました」なんて言わなくても健気で純朴な少年を愛でるだけのよくある話です。ディテールとしては全く悪くはありません。ものすごく人の良い貧乏な少年が犬を拾って育てつつ悲劇に逢う。結構じゃないですか。ついこないだ「なくもんか」で「貧乏、動物、子供は泣けるドラマの三大要素」という苦笑ものの酷いセリフがありましたが、もろにそのまんまです。
逆に言えば、制作者の志もその程度の映画ってことです。

本題のツッコミ所

さて本題に入ります。観ていて一番に気になるのは語り口の混乱です。このロジックは「ゼロの焦点」の時に触れましたのでそちらを見ていただくとして、要は「今スクリーンに映っている映像はなんなのか?」がさっぱり分からないんです。原稿を読んでいるシーンであれば、それは草太の父が書いた物の筈です。だったらサーカス団がくる前の話が書いてあるのは明らかにおかしいです。さらに父の登場しないシーンが山程出てきます。
さらに最終盤で原稿が終わった後は早代の回想になるわけですが、ここでも早代の知るはずが無いことが次々にスクリーン上に展開されます。
これを普通に(=常識的に)解釈すると、序盤~中盤にかけての「父が登場しないシーン」は草太から聞いた話の断片からふくらませた話です。さらに終盤のシーンは早代が美化して都合良くアレンジした思い出話です。
追加するなら、本作に登場する草太の心情表現はすべて父ないし早代というフィルタがかかったものです。
そんなわけで、見ているとどんどん早代が嫌な奴に見えてしまうんです。だって「あの子は貧乏だったけど心は清かった」「貧乏なあの子が好きだったからビスケットをあげた」「あの子はおじいさんが死んだ後は私に絵を渡すことに必死だった」etc。
書いてて腹立ってきたんでこの辺にしますが、草太が純真無垢な素晴らしい少年に描かれれば描かれるほど、それが現実離れしていけばしていくほど、この父or早代のフィルタが露骨に見えてしまいます。残念な話です。
ちなみに森本君と桑島ちゃんはそれほど悪い演技では無いです。すくなくともTAJOMARUに出てた子役3人よりは何倍かマシです。将来楽しみかはともかく、ジャニーズの巨大パワーを遺憾なく発揮していただいて是非次代のスターになっていただければと思います。
あと当たり前ですが岸恵子もすばらしいです。出番は少ないですが、彼女の柔らかく品のある佇まいのおかげで早代への反感は確実に減少しています。
最後に、これは改めて再確認したことですが、私は香川照之さんと浅野忠信さんの演技プランが嫌いです(苦笑)。この2人が出ていた映画で良かったと思った作品が皆無です。「SOUL RED 松田優作」の時に何となく感づいてはいたのですが生理的に無理。両名のファンの皆さんすみません。たぶんこの2人の印象で、個人的な作品の全体評価が相当下がってると思います。

【まとめ】

本作は、ショタコンやロリコンのみならず岸恵子萌えまでカバーするという、あらゆる意味で生粋のアイドル映画です。
はっきり言ってすっごいつまらないですが、でも森本君がこの後も事務所猛プッシュを受けられれば、たぶん10年後に話のネタぐらいにはなると思います。ですので見に行って損はありません。万馬券を買うような気持ちで1800円をどぶに捨てられれば、オススメです!
ちなみに観客は女性ばっかりなのかと思っていたのですが、予想以上に「いかにもオタク」な男性2人組が目立ちました。ロリコン業界には疎いんですが、もしかして桑島ちゃんって結構メジャーなんでしょうか?
いまいち「森本ー桑島 間」のパワーバランスが分かりませんで、、、。
ひょっとするとメジャー・桑島ちゃんが新人・森本君を引き上げている構図だったりして、、、。それだとちょっと話が変わってくるんですよね。完全に森本君に場を持ってかれてるので。


追記(2009/12/16)

なんか興行的にかなり塩っぱいことになっているようです。もしかしたら森本君も見納めでしょうか。ご愁傷様です。
でも大丈夫。ジャニーズに代わりはいくらでもいるもの、、、芸能界は残酷ですね。

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宇宙戦艦ヤマト 復活篇

宇宙戦艦ヤマト 復活篇

昨日のはしご2作目は「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」です。

評価:(10/100点) – 西崎さんよ、、、言ってることとやってることが違いすぎるぜ。

【三幕構成】

第1幕 -> アマールへの第一次・および第二次移民船団の壊滅と古代の現状。
 ※第1ターニングポイント -> 古代進がニュー・ヤマトの船長として第三次移民船団の護衛に発つ
第2幕 -> ヤマトとエトス星艦隊の戦闘。第三次移民船団がアマールに到着。
 ※第2ターニングポイント -> 古代進がSUSに宣戦布告する。
第3幕 -> 地球・アマール連合軍vsSUS、そしてブラックホールが地球を襲来


【あらすじ】

西暦2220年、古代進が深宇宙貨物船「ゆき」の船長として地球を離れて三年が経過していた。その頃地球は巨大ブラックホールの衝突の危機にさらされており、アマール星への緊急避難を決行していたが、第一次および第二次移民船団は正体不明の艦隊の攻撃で壊滅してしまう。第一次移民船団「ブルーノア」の生き残りである上条を救出した古代は、地球への帰還を決意する。地球連邦科学局長官として移民計画の責任者となった真田より、古代は新生ヤマトの艦長と第三次移民船団の指揮を任される。こうして古代進は再びヤマトに乗り込み、人類の危機を救う旅へと出かけることとなった、、、。


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【感想】

ついに来てしまいました。いままでで一番本音を書きづらい問題作品でございます。なにせ相手は鉄砲持ったヤク中です(笑)。
角川春樹以上の強敵ですが、やってみましょう!!!
まずはヤマトの超書きづらい&説明しづらい「経緯」をざっとおさらいしつつ本作について書いていきたいと思います。覚悟はよろしいでしょうか?(笑)
おそらく超絶長くなると思いますのでご容赦を。

「宇宙戦艦ヤマト」という作品のこれまでの経緯

宇宙戦艦ヤマトは言わずとしれた松本零士の代表作ですが、厳密にはテレビシリーズがオリジナルで、マンガは先行マルチ展開という扱いです。ということで原点は1974年のテレビシリーズ第一作となります。舞台は2199年、ガミラス帝國の侵攻を受けた地球は放射能汚染によって人が住めなくなってしまいます。そんな中で、イスカンダルからメッセージ入りカプセルが届きます。人類は中に入っていた波動エンジンの設計図をもとに戦艦大和を宇宙船としてリニューアルし、イスカンダルへ空気清浄機(=コスモクリーナー)をもらいに行きます。これがテレビ版一作目で、1977年に劇場版として再編集されます。
続いてが1978年の劇場アニメ「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」です。舞台は2201年、謎の救難信号を受け取った人類は、発信源の捜索にヤマトを向かわせます。そしてテレザード星のテレサから白色彗星帝国が地球を侵略しようとしていると告げられます。地球を救うべく奮戦するヤマトですが、乗組員の大半が戦死、艦長となった古代進は数少ない生き残りを救難艇に乗せ、自らは恋人・森雪の遺体を抱いてヤマトで特攻を仕掛けます。
この結末を松本零士が気に食わず、TVシリーズ「宇宙戦艦ヤマト2」が同年に作られます。ここで「さらば~」から結末が変更され、乗組員の戦死と古代の特攻が無くなって白色彗星帝国を普通に倒してハッピーエンドになります。そしてこのテレビシリーズの続編として特番「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」が放送されます。新たな敵は暗黒星団帝國で、ガミラス残党軍とヤマトが共闘するファンサービス的な作品です。
翌年の1980年、新作劇場アニメとして「ヤマトよ永遠に」が公開されます。この作品では「新たなる~」で交戦状態になった暗黒星団帝國が本格的に侵攻してきます。小惑星イカルスにて真田によるパワーアップ改造を受けた宇宙戦艦ヤマトは、ついに暗黒星団帝國の本拠地に殴り込みをかけます。
この続編がテレビシリーズ3作目「宇宙戦艦ヤマトIII」です。ボラー連邦とガルマン・ガミラス帝国との戦争によってダメージを受けた太陽が暴走、太陽の核融合がものすごい加速をはじめ地球が超温暖化の危機に直面します。そこで地球防衛軍司令長官の藤堂の命令を受け、万が一地球が住めなくなったときのためにヤマトは第二の地球探しに出かけます。
最後に1983年公開の劇場版「宇宙戦艦ヤマト 完結編」です。神出鬼没の水惑星「アクエリアス」を鍵として、母星を追われ行き所を無くしたディンギル星人たちが、地球人類を全滅させたあとで地球に移住しようと計画することから人類対ディンギル星人の戦いが始まります。なぞのご都合主義で復活した初代艦長・沖田十三の元で、再びヤマトとオリジナルメンバーの最後の戦いが繰り広げられます。完結編の名にふさわしいフルキャストのお祭り映画で、話はあんまり重要ではありません(笑)。
そしてこの後、「宇宙戦艦ヤマト」の企画立案に参加した西崎義展と松本零士の泥沼の著作権争いが起きます。これがものっすごいゴタゴタでしてこのシリーズのムック本や雑誌の特集が作りづらい環境が長らく続きました。っていうか今でも続いています。
さらに裁判後も西崎が東北新社に一部権利を”勝手に”譲渡したり、覚醒剤で逮捕されたり、さらにその保釈中にグレネードランチャーをフィリピンから持ち込んで再逮捕されたり、面白い話題が目白押しで誰も語りたがりません(笑)。
ハッキリしてるのは、「宇宙戦艦ヤマト」というシリーズが、劇場版2作目の「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」で一度完全終了した.にも関わらず、商業的な理由なのか何なのか、死んだキャラ達がパラレルワールド扱いで次々に生き返って何事もなく続編が作られ続けたと言うことです。そして原案立案者の西崎と松本の権利争いで、その続編すら作られなくなったと、まぁそういう流れです。
ちなみに死んだ人たちが生き返ったのは、私的には「金儲けのため」だと思いますが、公式には「特攻を美化するエンディングが嫌だったから作り直した」となっています。ここを良く覚えておいてください。「特攻を美化するのは嫌」です。ノートにメモって赤線引いてください。「特攻を美化→禁止」です。

本作「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」について

さて、ようやく話の本題です。いや、前項が長くなったのはきちんとした理由がありまして、それは先ほど赤線を引いた点を良くご理解いただくためだったんです。
じゃないと私の怒りが伝わらないので。
ふざけんな西崎さんよ!!!
おまえ特攻美化しまくりじゃねぇか!!!

ゴルイ艦長は武士道精神に則って特攻。
パスカル将軍はヤマトを守るために自ら盾となって名誉の戦死。
大村副艦長はSUS超巨大要塞のバリアを破るために特務艇シナノで特攻。
死ななかったものの古代艦長率いるヤマトは「生き残るべきはヤマトではない。地球である!」の演説の後、死を覚悟して巨大ブラックホールに特攻。
特攻。特攻。特攻。特攻だらけですよ。しかも全部が信念をもった熱い男の生き様を貫いた格好良い「特攻」です。
ねぇ西崎さん、あなた特攻が嫌だったんでしょ?
だから「さらば宇宙戦艦ヤマト」という超傑作を無かったことにしたんでしょ?
なんで今更「復活篇」とか言って特攻を美化する作品を作ったの?
それだけは一番やっちゃ駄目でしょ?
それやったら、「さらば~」以降の作品は全て「金儲けのためでした」って言ってるようなものですよ?
最低です。マジで最低です。
来年に沢尻エリカと木村拓哉で第一作の実写版をやるとか言ってますが、そんなもんの前にすでに破綻してますよ、このヤマト再始動ビジネス。
ちなみに、本作の脚本は単体で見ても穴だらけです。全人類がアマールへ移住するっていってるのに、アマールの女王は迷惑がってて許可取ってないみたいです。さらにSUSが支配する星間国家連合だっていってるのに、アマールとエトス以外の国家が出てきません。連合ってショボ過ぎじゃね?しかもSUSをつぶしたら大ウルップ星間国家連合の議決も無かったことになるっておかしくないですか?他の国は抵抗しないの?ぜ~んぜん意味が分かりません。
しかもラスボスは自ら正体や弱点をベラベラ教えてくれる超良い人(苦笑)。
「全世界が注目」を表現するのが、サバンナで空を見るライオンやキリンと、チベット仏教徒が空を拝むところと、北欧風の老夫婦が羊の横で空を見上げるところ(苦笑)。
古すぎる!
表現が「オヤジくさいダサさ」なんですよ。いま劇場版の1作目や2作目みても、ここまで古くさい感じはしません。あきらかに西崎さんの演出力が落ちてるんです。



いや、あんま言うと怖いんですよ。なにせグレネードランチャー持ってるヤク中なんで(笑)。

【まとめ】

ヤマトのファンなら何も言わなくてもとりあえず行くでしょう。それはたぶん正解です。でも、「ヤマトって有名じゃん。空いてるし観てみよっかな」とか思ってフラっと入るのはオススメ出来ません。まず意味が分からないですし、面白くもないです。それならまだ「劇場版マクロスF」に行くか、レンタルで「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」を観てください。
あと続編の具体的な予定もないのに「第一部完」とか最後に出すのはやめてください。商売根性みえすぎで萎えます。さらにエンディングテロップで言えば、一番大きなフォントで「西崎義展」って何度も出過ぎ(苦笑)。ホント、ナルシストというか老害って怖いですね。

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劇場版 マクロスF 虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~

劇場版 マクロスF 虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~

劇場版マクロスF 虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~」をレイトショーで見てきました。
お盆のサマーウォーズ以来のアニメ映画です。

評価:(60/100点) – 3DCGは素晴らしいがドラマパートに難あり。


【あらすじ】

西暦2059年、第25次新マクロス級超長距離移民船団マクロス・フロンティアは、1,000万人規模もの居住民を乗せて銀河の中心を目指す航海をしていた。ある日、近隣宙域を航行中の第21次新マクロス級移民船団マクロス・ギャラクシーより、トップアイドル・シェリル=ノームがコンサートツアーのため来訪する。しかしコンサート中に巨大生物バジュラがマクロス・フロンティアに襲いかかってくる。アクロバット飛行要員としてコンサートに参加していた早乙女アルトは、混乱の中でシェリルと知人のランカ・リーを助けるために可変ロボットVF-25に乗りバジュラを迎え撃つ。この事件をきっかけにシェリルと親交を深めるアルトであったが、シェリルにはスパイ容疑がかけられていた。そんな状況の中マクロス・ギャラクシーがバジュラの大群に襲われる。ギャラクシーのSOS信号を無視するフロンティア政府を尻目に、シェリルは自己資金で民間軍事サービス・S.M.S.を雇いギャラクシーへ派遣、残存艦の救助を命じた、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> シェリルのコンサート
 ※第1ターニングポイント -> マクロス・フロンティアがバジュラに襲われる
第2幕 -> アルトとシェリルの交流
 ※第2ターニングポイント -> マクロス・ギャラクシーがバジュラに襲われる
第3幕 -> S.M.Sのギャラクシー救助作戦とフロンティアでの戦い


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【感想】

私は学生時代にものすごい分量のアニメを見てまして、70年代・80年代のクラシック作品も体系立てて見まくっておりました。ところが大学在学中に急に飽きまして、というか正確には萌えアニメの氾濫と作品レベルの低下に嫌気がさしまして、全く見なくなってしまいました。その代わりに映画の比重が上がりまして、いまでは年間三〇〇本とか映画館で見る映画ジャンキーになっております。とはいえアニメが嫌いなわけではなく、話題になった作品については後からレンタルDVDで追いかけています。
そんなこんなでマクロスFについても当然追いかけていました。TV版を見た感想は「イビつな作品だな」という物です。もともとマクロス・シリーズ自体が「男の子の好きな物はアイドルとロボットと飛行機!」という分かりやすいアホ・コンセプトです。それをとことん推し進めたというか、ドラマはどうでも良くてアイドルとロボットが格好良いから全部OK!ってな感じです。TV版は、はっきりとアルトとランカのキャラクターが混乱・崩壊していました。

■ テレビ版と比べて

まず本作のターゲットという部分ですが、順当に考えて9割方がテレビシリーズのファンだと思います。あきらかにテレビ版をミスリードの材料に使っている演出が目立ちます。ストーリーについては、テレビ版の煩雑なソープオペラ要素を極力抑えて、可能な限り最短距離で直進していっています。これは非常に素晴らしいと思います。特にアルトとランカの関係を「昔から知人」で片付けて、その分シェリルとの関係性に当てているのは好感が持てます。ただ正直に言ってストーリーテリングが上手いとは思えません。日本のSFアニメの悪い癖で、台詞で解説している間にストーリーが止まってしまうんですね。それに加えてどうでもいい単語にまで薀蓄がついてくるので、どうしても間延びしてしまいます。本作は120分ですがもう一声で90分程度までスリム化出来たように思います。

■ 3D・CGについて

本作の見所はなんと言ってもシェリルのコンサートシーンとヴァルキリーの戦闘シーンのCGの使い方です。シェリルのコンサートについては、音楽コンサートと言うよりはイリュージョン・ショーでありCGのプロモです。特に序盤のコンサートで歯車と小型ロボットを使った組み立てはとてもよいです。シェリルの歌自体が人を選ぶヘンテコな曲調ですが、映像との組み合わせが本当に良くできていて、単体でも十分に鑑賞に堪えます。
一方の戦闘シーンですが、これがまたとても良くできています。いわゆる「板野サーカス」をCGで再現しているわけですが、良い感じに歪んでいってます。
CGでロボットの映画というとマイケル・ベイのトランスフォーマーがあります。そして間違いなくトランスフォーマーの方がお金は掛かっていますが、演出(見せ方)によって本作の方が映像的にゴージャスに見えます。というのもマイケル・ベイはパン(カメラ視点の横移動)とカットバック(カメラ位置の切り替え)を頻繁に行ってスピード感をあげる方法をとりますが、河森正治は戦闘機やロボットの後ろを追う長回しのカメラフレームを使うことで臨場感をだします。前者は画面上の物体の位置関係が分からなくなるという欠点があり、後者は臨場感を出すために空間を歪ませる必要があります。この歪みというのがモデリングされたCGには難しい点です。そこで本作では爆発エフェクトやロケット軌道を利用して上手く歪む場面(=物理法則を無視した変な場面)を隠しています。この戦闘シーンについては当代随一のクオリティと言って差し支え無いと思います。ここだけでも1,200円の価値があります。

【まとめ】

個人的にはテレビ版よりも良くできていると思います。ストーリーが駄目でCG演出がすごいという点は共通ですが劇場版の方が話が整理されています。なかなか良く風呂敷を広げていますので、これを次作でどうやって上手く畳むかがポイントかなと思います。なんといっても劇場の大音響でロボットの戦闘シーンを見るとテンションがあがりますしね。オススメできる作品だと思います。



でもやっぱりドラマパートが退屈なんですよね~、、、。

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なくもんか

なくもんか

「なくもんか」を玉砕覚悟で見てみました。

評価:(25/100点) – うすら寒いッス。


【あらすじ】


下井草祐太は幼い頃母親と別れ、さらに父親に逃げられてハムカツ屋「山ちゃん」で育てられる。その生い立ちから心を閉ざし誰にでも笑顔を振りまきながら、無類のお人好しとして善人通り商店街の名物となっていく。父親代わりの山岸正徳から「山ちゃん」を継いだ祐太は、山岸の娘・徹子と結婚するも、戸籍謄本で生き別れの弟・祐介の存在を知ることになる、、、。

【三幕構成】


第1幕 -> 祐太の生い立ち
 ※第1ターニングポイント -> 山ちゃんに徹子が帰ってくる
第2幕 -> 祐太と徹子の日常と、弟の発見
 ※第2ターニングポイント -> 父親が祐介の前に現れる
第3幕 -> 祐太と祐介の関係修復と沖縄


【感想】


「舞妓Haaaaan!!!」「少年メリケンサック」「カムイ外伝」と宮藤官九郎とは相性が悪い(笑)私ですが、本作も見事に撃沈しました。とにかく作品全体に流れるうすら寒いギャグと、これでもかと言うほど畳みかけてくる内容の伴わないお涙頂戴に、130分間ずっと心の中で舌打ちが止まりませんでした(笑)。

■ 宮藤官九郎のギャグ

私、ブッチャーブラザーズは大好きです。学生の頃「ゲームWAVE」でぶっちゃあさんが出てる回は全部見てましたし、伊集院光の深夜の馬鹿力でフィーチャーされるたびに録音していました。でも、、、でもですね、、、本作のコント・シーンはひどすぎます。
本作は「笑う警官」の角川春樹のように、宮藤官九郎の「僕ってインテリでしょ。オサレでしょ。」というオーラが節々に出てきます。水田監督・宮藤脚本・阿部主演といえば「舞妓Haaaaan!!!」が思い浮かびますが、あの作品も肝心の舞妓修行の動機等がロクに描かれずにテキトーなギャグが散りばめられた酷いものでした。随所で言われているように、宮藤脚本の特徴はこの畳みかける小ネタギャグにあります。
本作で最もどうかと思うのは、劇中に出てくる「売れっ子お笑い芸人の弟」がまったく面白くないことです。画面内では爆笑されてモテモテなのに実際には全然面白くないため、猛烈な乖離感に襲われます。僕の笑いのセンスが悪いんでしょうか?でも劇場内でもまったく笑い声が起きていなかったので、客観的にもスベってると思います。この「宮藤ノリ」という猛烈なアクに乗れるかどうかが本作の全てと言って良いと思います。
クライマックスのコント・シーンなんて、最も安直な笑いである「下ネタ」ですよ?もはやストーリーテリングを放棄しているとしか思えません。カタルシスが起こるわけ無いじゃないですか。

■ ストーリーについて

ストーリーは安直で捻りが無く、よく言えば王道であり悪くいえば平板で退屈です。本作の中心になっているのは「親と子/兄弟のかたち」です。本作にはいろいろな家族関係が出てきます。父子関係で「健太と祐太(バカ親父と捨てられた子)」「山ちゃんと祐太(育ての親)」「祐太と徹子の連れ子」「大臣と認知した子」の4パターン、兄弟では「祐太と祐介(実の兄弟)」「祐介と大介(仕事上の兄弟)」と2パターン、描こうと思えばいくらでも展開できる材料はそろっています。しかし「真の家族とは?」とか「家族の形って?」みたいな所まではテーマが及びません。ただ単に連れ子が祐太を受け入れて大団円になってしまいます。残念ですが、本作の兄弟関係・親子関係は状況のハードさとは裏腹に大変浅薄に描かれてしまいます。

【まとめ】


見ている最中にいろいろと映画について考えさせられました。宮藤さんはおそらく舞台演劇ではすばらしい評価を得ているのでしょうが、やはり映画には向いていません。くだらない小ネタを重ねても、暗い中でスクリーンに集中している映画観客はあんまり笑えません。それよりは脚本でのテーマ設定だったり時間配分だったり、そういった所をもう少し丁寧にやっていただかないとやっぱり駄目映画なんです。
家族や親子関係についての映画であれば、今年「湖のほとりで」というすばらしい映画がありました。まだ掛かっている映画館もありますので、「なくもんか」よりも「湖のほとりで」をオススメします!
二時間見るには正直に厳しい内容でした。徹子が祐介に「おまえがそこまで言う笑いを見せてみろ」と詰め寄る場面がありますが、私も宮藤さんにそっくりそのまま伝えたいです。
「くだらない小ネタはいらないから、あなたが本当に面白いと思う全力の笑いを見せてくれ!」

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笑う警官

笑う警官

「笑う警官」を見てきました。
観客動員150万人いかなかったら角川春樹引退とか言ってるので協力してやってください(笑)。
評価:(20/100点) – もう何も言えません。


<あらすじ>
ある朝、生活安全課の婦人警官が分署で死体となって発見される。本庁から介入があり不自然な形で追い出された大通署の面々。さらに直後には同僚警官の津久井に逮捕状と射殺命令が出る。不振に思った面々はすすき野の喫茶・ブラックバードに集まり、真相解明のため独自捜査を開始した。
<三幕構成>
第1幕 -> 事件の勃発
 ※第1ターニングポイント -> ブラックバードに津久井が現れる。
第2幕 -> 事件捜査
 ※第2ターニングポイント -> 浅野が自殺する(殺される)
第3幕 -> 百条委員会への護送


<感想>
見終わって最初に感じるのは「間違いなく角川春樹監督作だ」という疲労感です(笑)。音楽から画角から台詞回しまで、あらゆるところから「俺ってオシャレだろ」というオーラがびんびん伝わってきて、何ともいえない気分になります。それもそのはず。だって角川春樹なんですから。怖いんであんまり言及できませんが、、、いろいろお察しください。
私は小説未読ですので、あくまでもこれから書くのは映画版「笑う警官」についてであるとお考えください。
■ 役者陣の健闘について
まず役者の方々は相当良いです。絶対的なレベルで良いわけではないですが、かなり健闘しています。というのも本作自体がもう完全に角川春樹の顔しか見えないくらい全ての要素に角川春樹印がついているからです。その時点でアクが強すぎて他の要素なんて吹き飛んでしまいます。、、、キツイっす。
本作は間違いなく大森南朋と松雪泰子で持っています。また、若干一名ほど腐敗体制側でスーパー役者魂を見せている猛者がいますが(笑)、あれはもはや反則の飛び道具です。笑うなっていう方が無理。シリアスな場面なのであんまり笑っちゃいけないんですが、絶対わざとやってるだろっていう役者根性、感服いたしました。
私は大森南朋がかなり好きなんですが良くも悪くも織田裕二の域に達してきてしまっていて少々心配です。重たい顔して俯いてればOKみたいな型に嵌らないで、是非ともすばらしい演技を続けていただければと思います。他の面々はいうことありません。非常に堅実に荒ぶる監督(笑)のオーダーをこなせていると思います。中川家だけがちょっとなんだかなぁという感じですね。宮迫さんがキチンとチンピラに見えていたので、中川さんももうちょい小物チンピラ感を出せれば大変良かったのではないでしょうか。でも角川演出自体がある意味で意図的に全員を大根役者にさせているような所がありますから、仕方ないでしょう。というか何を書いても結局角川春樹に行き着いてしまうというこのキツさ(笑)。
■ 角川春樹流の荒ぶる回顧権威主義
作品を通じて流れ続けるジャズの何ともいえない感じであったり、全ての台詞回しが「台詞舞台劇」調の説明体であったり、極めつけは全ての要素からビンビン伝わってくる警察への恨みだったり(笑)、一観客の僕にどうしろっていうんですか!?。
角川春樹御大が警察嫌いなのはよくわかります。でも肝心の「腐った組織に反抗して正義を貫く人間達」みたいな芯がなくて、「笑う警官」の面々も正義感っていうよりは好奇心で動いているように見えてしまいます。でもそこがエンターテインメントだったりするので良いのかもしれませんが、、、ねぇ。
作品の根底に流れているのは、間違いなく角川春樹監督自身の「かくあるべし」という信念です。「邦画は1960~70年代が黄金期だ」「ジャズ喫茶は漢(おとこ)の溜まり場」「国家権力は腐っている」「若者は正義感に燃えるくらいがちょうどいい」などなど。なんと言いましょうか全共闘の亡霊がフィルムに焼き付いている感覚です(笑)。2時間ずっと説教されてる気分(笑)。私はその荒ぶる魂を華麗にスルーしながらお茶を飲んで耐えてました。がっぷり四つは無理ですよ、いくら何でも。20代のペーペーと角川御大では気合いというか情念が違いすぎます。とはいえ客席は結構若めだったので、純朴にふらっと映画でも見に入ったカップルがどう思ったかはちょっと聞いてみたかったりします。
<まとめ>
すごいものを見させていただきました。ありがたく拝承いたします。敬礼!!!
でもつまんないから20点!!!



ごめんなさい、本当にごめんなさい。マゾっ気がある方にはおすすめです、ごめんなさい。

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ゼロの焦点

ゼロの焦点

ゼロの焦点」を昨日見てきました。TOHOシネマズデーと初日効果で激混みです。
評価:(10/100点) – 電通+テレビ朝日+韓国ロケ=????


<あらすじ>
見合いで結婚したばかりの禎子は夫・鵜原憲一が出張から戻らないことを不審に思い単身新潟へ捜索に向かう。そこでは禎子の知らない鵜原憲一のもう一つの顔が見え隠れした。やがて彼女の周りで起こる2つの殺人事件と2人の女から、夫のもう一つの顔が明らかになる、、、。
<三幕構成>
第1幕 -> 憲一が新潟出張から戻らず、禎子は新潟に捜索へ向かう。
 ※第1ターニングポイント -> 禎子が室田耐火煉瓦で室田佐知子に会う
第2幕 -> 新潟での捜索と殺人事件。そして東京に戻り捜査続行。
 ※第2ターニングポイント -> 禎子が集合写真に佐知子を見つける。
第3幕 -> 解決編


<感想>
ザ・電通。そしてザ・テレ朝。130分がここまで苦痛だったのは「20世紀少年・最終章」以来です。沈まぬ太陽でももうちょと盛り上がりました。全編通じて映像描写よりも言葉で説明することを優先しながら、あまつさえその語り口さえも混乱するという非常にカオティックな作品です。どこからツッコんで良いかよくわからないので、大枠のところから攻めてみたいと思います。
なお、なんとなく点数と冒頭でお察しのことと思いますが、今回はネタバレ込みで広末さん中谷さん犬堂監督の悪口と取られてしまうかと思います。彼女達のファンの方は今すぐブラウザを閉じて、幸せに過ごしていただければと思います。

■ 語りの視点
問題点の第一に、語り口の混乱があげられます。この作品は広末涼子演じる鵜原禎子の独白から始まります。そして作中なんども独白によって禎子の感情が吐露されます。この作品は新婚である禎子の視点で「夫が突然いなくなって、捜索していくうち夫の裏の顔が見えてくる」というサスペンスが根幹にあります。ですから独白で始まるのは非常に正解というか必然的なもので、ここに関しては何の違和感もありません。問題はその語り口と映画視点の混乱です。
まずは一般論ですが、どの作品にも必ず視点というものがあります。言い換えるならば、観客の目線・カメラマンの立ち居地です。映画やドラマは、役者が演じている何らかのイベントをカメラマンが撮影します。ですからカメラマンはある「立場」「役柄」を持って作品を録画します。これが映画の視点です。
たとえば、何気ないテレビドラマの場合、そのほとんどは「神の視点」を採用します。これは「誰が」「どこで」「どんなイベントを」行っていても撮影できる万能でオーソドックスな視点です。たとえば風呂のなかで溜息をついてるところだったり、便所で顔を洗ってたり、密室殺人の殺人現場でさえ撮影できます。なにせカメラマンは「神」なので、どこにでも入れるし、ワープだってタイムスリップだってできます。なんでもありです。
一方カメラマンが登場人物として作中に登場すると、いわゆるフェイクドキュメンタリーになります。この場合、カメラマンは役名を持ってハンディ・カムなんかを使い撮影します。当然登場人物たちはカメラマンに話しかけますし、カメラマンも人間なので彼が居るその場しか撮影できません。いわゆる空撮みたいなものもできません。場合によっては死んでしまうこともあります。ブレア・ウィッチ・プロジェクトやクローバー・フィールドあたりが有名だと思います。
「ゼロの焦点」においてカメラ自体は匿名の第三者視点を持っていますが、禎子の独白(心の声)から始まることでわかるように禎子の視点となっています。この作品は禎子に感情移入することによって「夫が何者だかよくわからない」という乗り物に観客を乗せて進んでいきます。ところが終盤、もっとも大事なクライマックスで破綻と混乱が起きてしまいます。それは崖沿いのハイウェイで行われる佐知子と久子のやり取りのシーンです。まさにクライマックスで、音楽も話も最高潮に盛り上がる場面です。ところが本作は禎子の視点で描かれています。ですからイベントのまさにその場に存在できない禎子にはこの場面は知りようがありません。そこで、おそらく意図的だとは思いますが、犬堂監督はこの佐知子と久子のやり取りを禎子が列車の中で眉間に皺を寄せるカットで挟みます。つまり、最高潮に盛り上がる物語のクライマックスが「禎子の空想」として描かれているんですね。ここにものすごい違和感というかガッカリ感があります。
メインストーリーの人物相関からすれば禎子は「善意の第三者」であり「巻き込まれる人」です。そしてサスペンスは憲一と佐知子と久子の関係性であり、禎子はあくまでも観客の移入先/語り手です。だからこそ、余所者である禎子を「佐知子と久子のシーン」に登場させるのは非常に難しいのです。でも登場しなければ撮影ができません。そこでちょっとだけ禎子の苦い顔で挟むことで「空想であること」を気付きにくくしたのは、犬堂監督のせめてもの工夫だと思います。たぶん私のように映画を見すぎて捻くれた(笑)見方をしていなければ、すんなりあのシーンが事実だとミスリードされたかもしれません。演出としては巧みなんですが、視点が混乱しているのは否めません。これは非常に根深い問題で、ストーリー全体にも実は影響を及ぼします。それは次項で見ていきましょう。
■ 物語の構成について
前項で触れたように、本作は新妻・禎子の視点でサスペンスが描かれます。観客は禎子とともに事件を体験していくわけです。一部・憲一の兄が殺されるシーン等で視点の混乱はあるものの、第二幕までは概ね禎子の視点のみで、「素人探偵もの」が展開されていきます。
ところが、第二ターニングポイントで佐知子がマリーだと分かった段階から、カメラの視点が突如佐知子にフォーカスされます。前述のとおり、描き方としてはあくまでも禎子の主観で「空想シーン」ではありますが、カメラは完全に佐知子に飛びます。すなわち観客は急に「禎子」という乗り物から「佐知子」という乗り物に強制乗り換えさせられるんです。そして佐知子の過去から動機から現在の心情・状況まで、まるでテレビの再現ドラマのように完全な説明口調で情報を畳みかけられます。もうここまでくると、禎子なんてどうでもよくなってしまいます。中谷美紀のまるで宝塚かシェイクスピアのような大仰で威圧的な「熱演」も相まって、これでもかというほどの佐知子の”業”が観客に叩きつけられます。難しいのは、ここでほとんどの人は佐知子に感情移入してしまうことです。旧映画版のように禎子の視点で通していれば佐知子は単なる「独善的な犯罪者」なのですが、佐知子の事情を観客が知ることで情状酌量の余地というか「見知った人」になってしまいます。だからこそ、佐知子と久子のシーンが物語上で一番盛り上がるクライマックスになってしまいます。
これがすでに混乱しているんです。本来、この物語のクライマックスは「佐知子と禎子の対決」でなければいけないはずです。だって禎子の物語なんですから。ところが、実際の佐知子と禎子のシーンはまったく盛り上がりません。それは佐知子への観客の移入度が上がりすぎて、クライマックスがずれてしまっているからです。
これが原因で、佐知子と久子のシーン以降がまったく盛り上がらず蛇足に見えてしまいます。禎子が佐知子に一太刀浴びせても、なんのカタルシスもないんです。なぜならすでにその一太刀は久子がやっちゃってるからです。これは脚本・構成の根本的なミスだと思います。本来の「傍観者たる禎子がひょんなことから怖い世界を覗き見ちゃった」というフォーマットではなくなっているわけです。
そんなわけで、おそらく映画を見終わった後は誰しも中谷美紀の印象が残ると思います。それは中谷美紀が上手いからではなく、脚本がそうなっているからです。これを良しとするか駄目とするかは難しいところです。
■ 広末さんと中谷さんについて
広末さんの役は完全にはずれでした。というのも、この人の声は舌っ足らずというかアホに聞こえるんです。子供っぽいと言っても良いです。ヴィヨンの妻では好演してたので残念です。「善意の第三者」にしては恐怖とか怯えとか好奇心とか、そういう部分がまったくナレーションに表れないので、何を考えてるかわからないアホの子にしか見えません。できれば広末さんはもうちょい悪女とか頭悪い子とか世間知らずの役の方が良いと思います。ご本人の悪口ではなく得手不得手の部分ですよ。本人はそれこそたくさん社会の裏を見て世渡りしてきてるはずなので(笑)。
また中谷さんですが、悪い意味で主役を食ってしまい作品を混乱させてしまっています。犬堂監督の意向でしょうが、いくらなんでも大仰ですし、とくに最後の柱に頭を打ち続けるところとか演説のところなんかはヒロイック過ぎます。棒立ちで後ろに倒れるところなんかは完全にコントでした。ショックで放心した場合、人はああは倒れません。膝が落ちてその場で腰を抜かします。格好良いんですがやりすぎです。中谷さんというよりは演出家の問題でしょうか?
最後に木村多江さんは出番が少ないながら非常に良い感じだったと思います。正直あのクライマックスが成立してるのは木村さんがいればこそです。中谷さんだけだと、それこそ舞台演劇になってドン引きしてしまいますから。
<まとめ>
え~~~~良いんじゃないでしょうか(笑)。本作はサスペンスとして頭を使いながら見てると失望します。でもぼけ~っと見てる分にはそれなりに盛り上がって、それなりに社会派っぽくて、それなりな出来に見えます。でもちょっと考えたとたんに破綻がいっぱいで突っ込みたくなります。そもそもこのテーマと内容で130分使っている時点で脚本がおかしいです。残念ですが、物語をせめて100分前後にして語り口を整理・統一するべきだったと思います。そうすればサスペンスとしてのスピード感がもう少し出て、勢いで破綻がごまかせたと思います。ただ、何にせよ火曜サスペンスで十分な内容です。私は昨日TOHOシネマズで1,000円で見ました。1,000円でももったいないと思います。ということで、タダ券をもらってから見に行くのがオススメです!

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僕らのワンダフルデイズ

僕らのワンダフルデイズ

「僕らのワンダフルデイズ」を見てきました。
評価:(50/100点) – どこを切っても竹中直人


<あらすじ>
胆石で入院していた藤岡徹は、ある日リハビリ中に主治医が「末期の胆のうガン。もって半年」と言うのを聞いてしまう。生きる気力を失った藤岡だが、息子の学園祭でバンド演奏を目撃し自身の学生バンド時代を思い起こす。彼は人生の最後にバンドを再結成することを決意する、、、。
<三幕構成>
第1幕 -> 藤岡が自身を末期の胆嚢ガンと思い気力をなくす。
 ※第1ターニングポイント -> 息子の学園祭でバンド演奏を目撃する。
第2幕 -> シーラカンズの再結成と練習風景
 ※第2ターニングポイント -> 練習後に山本が倒れる。
第3幕 -> 演奏会とエンディング


<感想>
本作は竹中直人が主演する他の映画と同じくどこを切っても竹中直人です。シリアスな話の内容とは裏腹に、彼の「面白い」「いつもどおりの」「ふざけた」演技が炸裂します。本作の評価は彼の演技を「うざい」「しつこい」「くどい」と感じるかどうかが全てといっても過言ではありません。
前半の気力を無くした藤岡と、バンド結成後に命を燃やし尽くそうとする藤岡を、竹中直人は非常に上手く表現します。彼が心の中の絶望をまったく表に出さずにハジけまくる様子は、竹中のオーバーリアクションと相まって悲痛な中にもすがすがしさすら感じます。お涙頂戴は前半も前半のみで、中盤からは仕事や私生活の悩みに翻弄されながらも趣味に打ち込む中年の青春活動を描きます。決して巧みなエンターテインメント映画ではないですが、かなり丁寧に作られている良作だと思います。
惜しむらくは、クライマックスであるバンド演奏会が終わった後の「後日談」が長すぎるため、見終わった後の「竹中直人がくどい」という印象を加速してしまっている点です。演奏会のバンド演奏をバックにエンドクレジットが出るか、せめて結婚式の演奏開始と同時にエンドロールでも良かったのではないでしょうか?10分は「後日談」としては間延びしすぎです。
またこの手の音楽物で一番難しい「音楽の説得力」の部分ですが、私はかなり良かったと思います。さすが奥田民生監修と言いましょうか、良い意味で素人バンド感がでていました。素人のわりに観客を煽りすぎではありますが、そこは竹中直人なので、、、諦めましょう(笑)。
<まとめ>
不覚にも、私は前半で一回泣きました。まさか竹中直人に泣かされる日が来るとは思わなかったです。本作は決して大絶賛できる内容ではありません。脚本もわりと雑ですし、観客の予想を超える展開はありません。でも安心して楽しめる良作だと思います。前売り券も安いですし、もし時間がある方は行ってみてください。なかなか良い2時間を過ごせると思います。オススメです。

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ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜

ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜

先月から見逃していた「ヴィヨンの妻」を見てきました。
評価:(72/100点) – 世界の亀山モデルの中では文句なくオススメ


<あらすじ>
大谷は酒遊びの酷い作家である。ある夜、大谷は中野の小料理屋から金5000円を盗む。店の主人にそのことを聞かされた妻・サチは人質として店で働きはじめるが、いつしか働く喜びに目覚め店の人気者になっていく。快く思わない大谷は自分の女遊びを棚に上げ妻の浮気を勘ぐり始める。いつしか夫婦の間にすれ違いが起こり始めた、、、。


<感想>
■ 雑観
まずタイトルを見ても分かるように、この作品は妻である松たか子演じるサチの視点を中心に描かれていきます。非常に簡単にまとめてしまえば「駄目な夫を健気に支える妻を通して見える人生の無常観」の話です。
浅野忠信演じる大谷は完全に駄目人間で、毎日飲んだくれて有り金全部使うかと思えば愛人宅で作家仕事してたり、正直救いようもありません。ただし、いわゆる詩的な駄目人間と申しましょうか、人生を嘆いて口では死にたいと繰り返すのにその度胸もなかったりする女性にモテるタイプの鬱風優男です。これがクセ者で、どんなに駄目な事を繰り返していても母性本能をくすぐればすべて許してもらえると本人が知っているんですね。だから懲りずに繰り返すしそこから成長する気も無いんです。もちろん大谷だけでは話は成立しません。ただのアホですから。そこで登場するのがほとんど菩薩かと思うほどのサチの存在です。
正直な所、サチが大谷を愛しているかどうかはよく分かりません。過去にある事件で大谷に助けられたことがきっかけでサチは大谷と結婚します。それが愛情なのか、助けてもらった引け目で面倒を見てるだけなのかは最後まで分かりません。ただ、とにかくサチは自分を殺してひたすらに大谷を支えます。上記のあらすじでは乱暴に「働く喜びに目覚め」としましたが、小料理屋で働くことは彼女がアイデンティティを獲得する手段でもあります。家庭でひたすら自分を抑えて献身する彼女は、小料理屋でアイドル的な存在になることでついに居場所を見つけ、自己実現を果たします。ただ、裏を返せばそれは「夫の面倒を見る」こと以上に人生の意義を見つけたと言うことです。当然大谷は気に入らないわけで、そこから彼の被害妄想と破滅願望が暴走していきます。
太宰のすごいところは、ひとえに自己を客観的に評価するその視点にあると思います。正直なところ、太宰のような破滅願望をもった人間は現在でも山ほどいます。というより非常に現代的な病で、下手すれば皆が持っているかもしれません。でも普通それを客観的には見られません。誰だって自分は可愛いですから、卑屈にも限度があります。でも太宰は自分に対して殆ど私情を挟まずに断罪できるんですね。この「ヴィヨンの妻」でも、サチという客観(=被害者)を通すことで、より大谷の駄目さが際立っています。最後まで更正する様子すら見せない大谷を、それこそ人間の本質ではないかと思ってしまう所がこの話をなぜだかひどくハッピーエンドに見せています。
ハッピーエンドなんですよ、これ。すごい悲惨でバカに振り回されまくってるだけに見えますが、でもハッピーエンドなんです。もとの鞘に収まってるわけですから。
久々にきちんとした人間ドラマの邦画を見た気がします。
■ 俳優について色々
この映画は期待していた以上に出来がよいです。ただ、、、、ただですね、、、俳優がちょっと、、、。
まず、伊武雅刀と室井滋と広末涼子はすばらしかったです。特に広末涼子。彼女はゼロの焦点でも「昭和の女」を演じますが見事です。結婚前に現代劇ばかりやってた時はクドくてうっとうしいと思っていましたが、この「ちょっと昔」の舞台にはベストマッチです。アイドル的な可愛さではなく、ちゃんと苦労してきた女が演じられるようになったなんて、、、同世代として感無量です。実生活で苦労したんですね、色々と。眼力や口元の表情の作りなど本当に素晴らしいです。また、伊武さんと室井さんはもはや何も申しますまい。はっきり言って本作の演出は特に台詞回しが下手です。なんでもかんでも言葉に出すテレビ的な演出が随所に見られて、「見てれば分かるわ!」とイラっとする事がしばしば。でも、伊武さんと室井さんはきっちり背中で演技ができるんです。画面の端や奥に見切れてる時でも、彼らが何を考えているか分かります。私のような若輩者が恐縮ですが、本当に良かったです。
一方、浅野忠信、堤真一の両名は本当に勘弁してください。松たか子は惜しい感じでイマイチでした。とくに浅野さん。演技派で売ってる方だと思いますが、剣岳の時もそうだし、つくづく時代物には向きません。ファンには申し訳ないですが「演技が安い」んです。薄っぺらい。台詞回しなんて棒読みで酷すぎます。本作では大谷は駄目人間だけどそれを補って余りあるぐらいの魅力が無いといけないんですよ。残念ですが、浅野=大谷が女性にモテるという人間的魅力にまったく説得力がありません。それは台詞が口から出る前にその人物の中で作られる様子が見えないからです。台詞から感情が見えません。ご愁傷様です。
松たか子にも同じ事が言えますが、彼女の場合は台詞ではなく表情です。本作のサチは前半の「自分を殺す献身的な妻」が話を追うごとにどんどん「表情豊かに」人間性を獲得していかないといけません。本作は結局元の鞘に収まる「行って帰ってくる話」ですが、唯一サチだけが人間的に成長(変化)します。そのクライマックスが「他人には言えない手段」を使って大谷を救うところです。だからクライマックスに向かって、菩薩然としていた女神様みたいなサチがある意味で俗世に紛れて人間になっていく課程を演じないといけません。これはもの凄くハードルの高い役です。非常に残念ですが、松さんには少々荷が重かったように思います。
浅野さん松さんの両名に共通することですが、演技が非常に舞台的です。舞台演劇と映画では声の出し方だったり表情の作り方だったりが全然違います。例えば宝塚出身の女優さんが現代劇に出たとき妙にわざとらしく見えてゲンナリすることがありますが、その感覚です。そりゃ舞台だったら後ろの方の席まで届けないといけませんからどうしてもオーバーリアクションになりますし、腹式発声が基本です。でも映画は暗い中で観客がスクリーンに集中してるんです。それこそ、小さい音一つ、眉の動き一つ、瞬き一つを凝視してます。だから、広末涼子が口元をほんのちょっとつり上げただけでも、「私は勝った」「私は大谷にこの世で一番必要とされている」という表現が成立するわけです。別に高笑いしなくても良いんです。その辺の文化的な違いが悪い方に出てしまったかなと思います。浅野さんと松さんはミュージカルとかトレンディ・ドラマが良いのでは無いでしょうか。
最後に堤真一ですが、本当に映画にでない方が良いですよ。テレビドラマの二時間枠に行ったほうが絶対に本人のためになります。彼は人間が演じられていません。決められたスクリプトどおりに動くサイボーグのようです。端的に言って会話してるシーンでも相手の言葉に対して一切リアクションがないんです。だから映画のように画角が広くて自分のメイン・カット以外の演技を強く求められる媒体には不向きです。テレビドラマのように顔のアップが基本で、話してる人だけが画面に映る媒体ならバッチリです。是非そちらに注力してください。
<まとめ>
長々と書いてきましたが、本作は今年の邦画の中では文句なく良作です。DVD鑑賞でも全然問題ない作品ですが、途中で抜けられない・一時停止できないという映画館ならではの拘束力がとても作品に合っています。ですので是非映画館で見てください。オススメです!

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