ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜

ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜

先月から見逃していた「ヴィヨンの妻」を見てきました。
評価:(72/100点) – 世界の亀山モデルの中では文句なくオススメ


<あらすじ>
大谷は酒遊びの酷い作家である。ある夜、大谷は中野の小料理屋から金5000円を盗む。店の主人にそのことを聞かされた妻・サチは人質として店で働きはじめるが、いつしか働く喜びに目覚め店の人気者になっていく。快く思わない大谷は自分の女遊びを棚に上げ妻の浮気を勘ぐり始める。いつしか夫婦の間にすれ違いが起こり始めた、、、。


<感想>
■ 雑観
まずタイトルを見ても分かるように、この作品は妻である松たか子演じるサチの視点を中心に描かれていきます。非常に簡単にまとめてしまえば「駄目な夫を健気に支える妻を通して見える人生の無常観」の話です。
浅野忠信演じる大谷は完全に駄目人間で、毎日飲んだくれて有り金全部使うかと思えば愛人宅で作家仕事してたり、正直救いようもありません。ただし、いわゆる詩的な駄目人間と申しましょうか、人生を嘆いて口では死にたいと繰り返すのにその度胸もなかったりする女性にモテるタイプの鬱風優男です。これがクセ者で、どんなに駄目な事を繰り返していても母性本能をくすぐればすべて許してもらえると本人が知っているんですね。だから懲りずに繰り返すしそこから成長する気も無いんです。もちろん大谷だけでは話は成立しません。ただのアホですから。そこで登場するのがほとんど菩薩かと思うほどのサチの存在です。
正直な所、サチが大谷を愛しているかどうかはよく分かりません。過去にある事件で大谷に助けられたことがきっかけでサチは大谷と結婚します。それが愛情なのか、助けてもらった引け目で面倒を見てるだけなのかは最後まで分かりません。ただ、とにかくサチは自分を殺してひたすらに大谷を支えます。上記のあらすじでは乱暴に「働く喜びに目覚め」としましたが、小料理屋で働くことは彼女がアイデンティティを獲得する手段でもあります。家庭でひたすら自分を抑えて献身する彼女は、小料理屋でアイドル的な存在になることでついに居場所を見つけ、自己実現を果たします。ただ、裏を返せばそれは「夫の面倒を見る」こと以上に人生の意義を見つけたと言うことです。当然大谷は気に入らないわけで、そこから彼の被害妄想と破滅願望が暴走していきます。
太宰のすごいところは、ひとえに自己を客観的に評価するその視点にあると思います。正直なところ、太宰のような破滅願望をもった人間は現在でも山ほどいます。というより非常に現代的な病で、下手すれば皆が持っているかもしれません。でも普通それを客観的には見られません。誰だって自分は可愛いですから、卑屈にも限度があります。でも太宰は自分に対して殆ど私情を挟まずに断罪できるんですね。この「ヴィヨンの妻」でも、サチという客観(=被害者)を通すことで、より大谷の駄目さが際立っています。最後まで更正する様子すら見せない大谷を、それこそ人間の本質ではないかと思ってしまう所がこの話をなぜだかひどくハッピーエンドに見せています。
ハッピーエンドなんですよ、これ。すごい悲惨でバカに振り回されまくってるだけに見えますが、でもハッピーエンドなんです。もとの鞘に収まってるわけですから。
久々にきちんとした人間ドラマの邦画を見た気がします。
■ 俳優について色々
この映画は期待していた以上に出来がよいです。ただ、、、、ただですね、、、俳優がちょっと、、、。
まず、伊武雅刀と室井滋と広末涼子はすばらしかったです。特に広末涼子。彼女はゼロの焦点でも「昭和の女」を演じますが見事です。結婚前に現代劇ばかりやってた時はクドくてうっとうしいと思っていましたが、この「ちょっと昔」の舞台にはベストマッチです。アイドル的な可愛さではなく、ちゃんと苦労してきた女が演じられるようになったなんて、、、同世代として感無量です。実生活で苦労したんですね、色々と。眼力や口元の表情の作りなど本当に素晴らしいです。また、伊武さんと室井さんはもはや何も申しますまい。はっきり言って本作の演出は特に台詞回しが下手です。なんでもかんでも言葉に出すテレビ的な演出が随所に見られて、「見てれば分かるわ!」とイラっとする事がしばしば。でも、伊武さんと室井さんはきっちり背中で演技ができるんです。画面の端や奥に見切れてる時でも、彼らが何を考えているか分かります。私のような若輩者が恐縮ですが、本当に良かったです。
一方、浅野忠信、堤真一の両名は本当に勘弁してください。松たか子は惜しい感じでイマイチでした。とくに浅野さん。演技派で売ってる方だと思いますが、剣岳の時もそうだし、つくづく時代物には向きません。ファンには申し訳ないですが「演技が安い」んです。薄っぺらい。台詞回しなんて棒読みで酷すぎます。本作では大谷は駄目人間だけどそれを補って余りあるぐらいの魅力が無いといけないんですよ。残念ですが、浅野=大谷が女性にモテるという人間的魅力にまったく説得力がありません。それは台詞が口から出る前にその人物の中で作られる様子が見えないからです。台詞から感情が見えません。ご愁傷様です。
松たか子にも同じ事が言えますが、彼女の場合は台詞ではなく表情です。本作のサチは前半の「自分を殺す献身的な妻」が話を追うごとにどんどん「表情豊かに」人間性を獲得していかないといけません。本作は結局元の鞘に収まる「行って帰ってくる話」ですが、唯一サチだけが人間的に成長(変化)します。そのクライマックスが「他人には言えない手段」を使って大谷を救うところです。だからクライマックスに向かって、菩薩然としていた女神様みたいなサチがある意味で俗世に紛れて人間になっていく課程を演じないといけません。これはもの凄くハードルの高い役です。非常に残念ですが、松さんには少々荷が重かったように思います。
浅野さん松さんの両名に共通することですが、演技が非常に舞台的です。舞台演劇と映画では声の出し方だったり表情の作り方だったりが全然違います。例えば宝塚出身の女優さんが現代劇に出たとき妙にわざとらしく見えてゲンナリすることがありますが、その感覚です。そりゃ舞台だったら後ろの方の席まで届けないといけませんからどうしてもオーバーリアクションになりますし、腹式発声が基本です。でも映画は暗い中で観客がスクリーンに集中してるんです。それこそ、小さい音一つ、眉の動き一つ、瞬き一つを凝視してます。だから、広末涼子が口元をほんのちょっとつり上げただけでも、「私は勝った」「私は大谷にこの世で一番必要とされている」という表現が成立するわけです。別に高笑いしなくても良いんです。その辺の文化的な違いが悪い方に出てしまったかなと思います。浅野さんと松さんはミュージカルとかトレンディ・ドラマが良いのでは無いでしょうか。
最後に堤真一ですが、本当に映画にでない方が良いですよ。テレビドラマの二時間枠に行ったほうが絶対に本人のためになります。彼は人間が演じられていません。決められたスクリプトどおりに動くサイボーグのようです。端的に言って会話してるシーンでも相手の言葉に対して一切リアクションがないんです。だから映画のように画角が広くて自分のメイン・カット以外の演技を強く求められる媒体には不向きです。テレビドラマのように顔のアップが基本で、話してる人だけが画面に映る媒体ならバッチリです。是非そちらに注力してください。
<まとめ>
長々と書いてきましたが、本作は今年の邦画の中では文句なく良作です。DVD鑑賞でも全然問題ない作品ですが、途中で抜けられない・一時停止できないという映画館ならではの拘束力がとても作品に合っています。ですので是非映画館で見てください。オススメです!

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