バーレスク

バーレスク

土曜に見たのは

「バーレスク」です。

評価:(40/100点) – クリスティーナ・アギレラのPVそのもの


【あらすじ】

アリは田舎の鬱屈に耐えかねアイオワからロスへの片道切符を買った。彼女は歌手の仕事を探していろいろなバーを訪れる。ある日、偶然入ったクラブ・バーレスクで彼女はセクシーな女性達が往年の名曲に合わせてダンスパフォーマンスを行う光景に釘付けになる。なんとかバーレスクで働こうとする彼女は経営者のテスにあしらわれながらも何とかウェイトレスとして潜り込むことに成功した、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アリがウェイトレスとしてバーレスクで働く。
 ※第1ターニングポイント -> アリがニッキーの代役でステージに立つ
第2幕 -> アリの大躍進とマーカス。
 ※第2ターニングポイント -> アリがジャックの家を出る。
第3幕 -> 結末


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【感想】

昨日は1本、バーレスクを見て来ました。クリスティーナ・アギレラの初主演作という触れ込みですが、意外と客席は中年女性ばかりでした。とはいえそこまで混んではおらず、お客さんを他作品に取られているようです。
非常に簡単にいってしまえば、本作はクリスティーナ・アギレラというアイドルのPV以上のものではありません。とはいえ、アギレラはきちんと実力のある歌手ですので少なくとも日本に入ってきている情報だけ見ればあまりアイドルっぽい感じではありません。よく1歳違いのブリトニー・スピアーズと比べて優等生扱いされることの多いアギレラですが、本作でもアイオワ出身の垢抜けない隙だらけな感じを存分に出しています。それだけで「アイドル映画としては満点!」と言いたくはなります。
ただ映画としてはとても雑です。まずはBECKでもある「歌っただけでみんな感動」というまたもや生まれつき天才パターンです。とはいえ、きちんと歌唱力に説得力はありますから、そこまで目くじらを立てるほどではありません。あくまでも話としてどうかというぐらいのレベルです。
話の筋自体は大きく2つ、「ジャックとの恋愛話」と「バーレスクの身売り話」です。しかしどちらも大変唐突に決着がつきます。伏線らしい伏線もほとんど無く思いつきとひらめきで解決してしまうためまったくワクワクがありません。
そして肝心の音楽シーンも基本的には劇中で本当に舞台で歌っているシーンですので、いわゆるミュージカルの演出ではありません。つまり音楽シーンの度にストーリーが完全に止まります。ですので、ストーリー部分だけならこの映画はおそらく20分くらいにまとめられるはずですw そしてこの音楽シーン達は「クリスティーナ・アギレラ7変化」という類のまさにPVそのものです。音楽シーンに限っては、「アイオワから出てきた田舎者のアリ」では無く、完全に「世界的ポップスター・クリスティーナ・アギレラ」です。まったく役作り等はしていません。
ですのでミュージカル映画を期待して見に行くと大変がっかりすることになると思います。下手をすれば「NINE」以上にがっかり感が強いかも知れません。しかし、クリスティーナ・アギレラのファンであれば、これはもう絶対に見に行くべきです。約1時間程度の彼女のディナーショーを大音響の映画館でたっぷり見ることが出来ます。本末転倒な気がしないでもないですが(苦笑)、映画初主演という触れ込みに嘘偽りなく、これは彼女のファンのためだけに作られた映画です。
個人的にはオススメしたいのですが、あくまでもアギレラのファン限定という部分と、映画としては退屈という部分だけは念頭に置いておいた方が良いと思いますw
また、最近は「女主人の良き相方」としてのキャラが定着してきたスタンリー・トゥッチが本作でもとても良い味をだしていますので、コチラもオススメポイントです。

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記事の評価
ノルウェイの森

ノルウェイの森

2本目はこちらも久々の”危ない橋”

「ノルウェイの森」を見ました。

評価:(6/100点) – 春樹フリークスのみんな!!! ゴメンね!!!!


【あらすじ】

時は1969年、学生運動まっただ中の大学に通うワタナベは自殺した親友・キズキの恋人・直子と再会する。毎週末に直子と会っては無口に東京中を散策して周るワタナベは、徐々に直子に魅かれていく。直子の20歳の誕生日、彼は直子と一晩を過ごすがその後彼女と連絡が取れなくなってしまう。連絡したい一心で直子の実家に手紙を書いたワタナベのもとに、直子からの返事が届く。それは彼女が入院している京都の精神病療養所からであった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ワタナベと直子の再会と交流。
 ※第1ターニングポイント -> ワタナベが療養所に向かう。
第2幕 -> ワタナベと直子と緑。
 ※第2ターニングポイント -> ワタナベが冬に療養所に向かう。
第3幕 -> 結末。


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【感想】

本日の2本目は新作映画「ノルウェイの森」です。ご存じ村上春樹の代表作であり、日本で最も有名な国産小説と言っても良いのではないでしょうか。その割には、お客さんは4割~5割ぐらいの入りでした。若い方もあまり居なかったので、微妙に「若者の活字離れ」という私の嫌いなキャッチコピーが思い浮かんでしまいましたw
一応念のためのお断りです。400万部以上売れている20年前の小説にネタバレも無いと思いますが、一部結末を感づいてしまうかも知れない程度のほのめかしは入ってしまうかも知れません。極力ネタバレをしない方向には致しますが、小説未見でまっさらな気持ちで映画を見たい方は以下の文章はご遠慮ください
また、せっかくの村上春樹作品なので、前置きとしてウダウダ書こうと思いますw 「知るかヴォケ~」という方は中項目「本題:~」からお読み下さい。

前置き1:作品の概要をおさらいとして。

本作の主題を端的に言うならば「生/性と死」です。
学生運動というテンション全開で暴れまくっていた時代背景の中で、本作の初期主要人物であるワタナベ、キズキ、直子は非常にローテンションな生活を送っています。冒頭に語られるキズキの自殺を筆頭に、作中では何人かが自殺します。そのそれぞれが絶望であったり理想とのギャップであったり、そういった今に通じる精神不安からの行動として自殺します。
一方本作ではその「死」の対義として「生/性」が取り上げられます。「愛する」ということと「欲情する」ということの違いで混乱する直子や、「愛する」ことと「欲情する」ことを明確に分けて考えるプレイボーイの永沢先輩、さらにはワタナベの「それでも生きていく」という美意識/決意、そうしたものを全てひっくるめて本作では生きることのタフさを繰り返し説いていきます。
本作ではワタナベと直子と緑の三角関係が物語りの中心になります。ワタナベは直子に自殺した親友の忘れ形見として「支える人間的義務」を感じる一方で、緑とは”普通の大学生として”恋をします。直子は自殺したキズキを想いながらも、一方で「キズキには欲情できなかったのにワタナベには欲情した」という事実に苦悩し精神的に混乱していきます。緑は”普通の大学生として”ワタナベを好きと公言しながらも、一方で別に付き合っている男がいることも公言し、ワタナベを翻弄します。3人が別々の場面で口にする「自分が幸せになる」というキーワードを巡り、物語は進んで行きます。

前置き2:村上春樹という作家について思うこと。

ここから危ない橋に突入していきますw 私の中学校の卒論の課題作品は村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でした。その際、村上春樹について「ハヤカワSF文庫や創元推理文庫で紹介された近代的アメリカ純文学のエッセンスを日本語ネイティブで書き起こした無国籍文学者」と書いたのを覚えています。中3にして村上春樹に痛烈だったわけですが(苦笑)、決して悪口として書いたつもりはありません。先生には当然細かく聞かれましたけどw
村上春樹の小説はとにかく読みやすいため、一般受けして部数が伸びるのはさもありなんと納得します。熱狂的なファンの方には申し訳ないのですが、私は村上春樹という作家の位置付けは「ライトノベル」の一つ前にあると考えています。つまり、レイ・ブラッドベリやカート・ヴォガネット、ジェイムズ・ティプトリーJr.といった1920年前後生まれの純文学要素をもったSF作家達が50年~60年代にハヤカワSF文庫によって日本で紹介され、その影響を受けたエンターテイメント寄りの現代作家達が続々と誕生した内の一人という位置です。その中には萩尾望都や竹宮惠子のように漫画界で一時代を築く作家がいる一方で、村上春樹のように小説界で活躍する作家もいます。さらにこれらの影響でエンターテイメント色が強くなったのが現代のライトノベルであったり最近の若い作家達の小説群です。そういう意味では村上春樹というのはある種の時代の転換点というか、純文学からエンタメ小説に移りゆく過渡期に誕生した無機質・無国籍な得体の知れない(=これがスタイリッシュな印象につながります)”いまどきの作家”だと思っています。
当然彼の特徴として真っ先にあがるのは、その直訳調の文体です。「おまえは日本語が苦手なのか!?」と突っ込みたくなるほど堅くぎこちない文語体を使い、倒置法や体言止め、さらには極端な擬態語・擬音語を多用します。「やれやれ。」「結局のところ、」「わかったよ。」等々、村上春樹は文章をパロディにしやすい作家としても有名ですw
これはかつての純文学の文法上は完全にアウトですが、一方でアメリカSF小説の翻訳に慣れた読者にとってみればこの上なく取っ付きやすいものとなります。ここが村上春樹という作家の評価がパックリ分かれる大きな要因です。純文学を保守的な文脈で「土着の文化の発露」と捉えるならば、村上春樹はただの得体の知れないエセ文学者です。しかし、彼の小説を「時代の肌感覚をドライに表した進歩的な作品」と考えることも出来ます。後は読み手が考える「文学」の定義次第です。ちなみに、私の友人で小説好きな人の中では村上春樹を擁護する人は皆無ですw 個人的には結構好きですが、私はSFの翻訳本と岩波文庫の政治思想書ばっかり読んでいるため、こと小説眼に関してはまったく当てにはなりません(苦笑)。

本題:今回の映画化について。

既に2200文字も書いてますが(笑)ここからが本題です。 上の文章を読んでいただいた方は、村上春樹を映画化するというのがいかに難しいかというのがなんとなく分かっていただけると思います。つまり、彼は小説界の中での「純文学からエンタメ路線へ」というトレンドの移項という文脈ありきでの作家なんです。ですから、それを映画にする際には、どうにかしてこの「村上春樹の日本文学界における立ち位置」の空気感を映画に移植してやる必要があります。
その移植作業の一つとして、本作の監督にトラン・アン・ユンを起用したのは大正解だと思います。トラン・アン・ユンの持つ暗めのカメラカット・空気感は、村上春樹の持つ無国籍性に通じる物があります。そしてそれは、本作のほとんど唯一の見所となっています。早朝の療養所の森が見せる冷たい感覚、夜の森が見せる不安な感覚、そして冬の海の見せる孤独で厳しい感覚。どれもトラン・アン・ユンとリー・ピンビンが見せるカットの巧さで引き込まれます。
ですがもう一つの部分、すなわち村上春樹の直訳調文体をどう処理するかという部分については、まったく戴けません。よりにもよって、本作ではそのまま直訳調の文語体を俳優が喋ります。この直訳調の文語体というのは、俳優が喋るととたんに嘘くさく安っぽく見えてしまうと言う特徴があります。なぜかというと、それは単に棒読みで大根役者に見えてしまうからです。「わたしが今なに考えているか、分かる?」「わからないよ。」とか普通の会話では言わないでしょう? 口語体であれば、「ねぇ、私が何考えてるか分かる?」「わかんないよ。」となります。「わからないよ。」と「わかんないよ。」の間には、台詞としてはものっっっすごい大きな差があります。
個人的にはあまり好きではありませんが、この酷い台詞達をもってしても自然にみえてしまう菊地凛子はやっぱり凄いです。直子役には合ってないとも思いますけどねw
今回の映画化は、原作に”比較的”忠実にしています。前述の通り台詞はほぼそのままですし、プロットも省略がありこそすれ大幅な改編は(ワタナベと直子の療養所でのワンシーンを除いて)ほとんどありません。非常に意地悪な見方をすれば、これは原作小説のファンに最大限配慮したやり方だと思います。未読の人にとっては肝心な描写が足りないわりにレイコとの後日談のような本筋とあまり関係無い描写が入ってきますし、既読の人にとっては大急ぎで原作の名場面を端折って再現しているだけにも見えます。
結果、単体の映画として見た場合には、ファンには申し訳ないですがそこいらにあるどうしようもない映画と大差ない出来になってしまっています。実在感の無い若者達が無菌室の中で「勝手に人類を代表して悩んでやがる」感じです。小説ではあれほど読み易かった直訳調の台詞も、無機質な映像と相まって観客の感情移入を拒絶してきます。まったく観客のあずかり知らぬ所で勝手に140分過ぎていく感覚。そう、置いてきぼりとはこのことです。

【まとめ】

村上春樹作品を映像化する際にやってはいけないことをがっつりとやってしまっています。結果、単調で、無機質で、実在感の乏しい、謎のファンタジー世界で繰り広げられる文学的風景の連続写真になっています。原作ファンの方は当然見に行くと思いますが、原作を読んだことが無い方は先に原作を読むことをオススメします。その上で本作を見て頂けると、いかに小説の映画化が難しいのかが良く分かると思います。
村上春樹作品の映画化はまた30年後でいい気がします。

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隠された日記 母たち、娘たち

隠された日記 母たち、娘たち

二本目は

隠された日記 母たち、娘たち」です。

評価:(65 /100点) – 「FLOWERS -フラワーズ-」がやりたかったはずの理想型。


【あらすじ】

カナダで働くオドレイは、妊娠をきっかけに2週間の休暇を取って故郷のフランスに戻る。祖父が死んだ直後だったため母・マルティーヌはいつもぴりぴりしている。居づらくなったオドレイは、亡き祖父の家に滞在することにする。彼女はそこで、かつて母と叔父を捨てて家を飛び出した、祖母の日記を発見する、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> オドレイの帰郷
 ※第1ターニングポイント -> オドレイが乾燥機の裏で日記を発見する。
第2幕 -> 日記と妊娠。
 ※第2ターニングポイント -> 日記をマルティーヌが見る。
第3幕 -> 結末


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【感想】

本日の2本目はフランス・カナダ合作映画「隠された日記 母たち、娘たち」です。文芸系作品にしてはかなりお客さんが入っていました。
本作はいわゆる「母娘もの」の正当な作りをしています。同性の親子3代でまったく同じ悩みを持ち、同じような結末に向かおうとしていきます。本作では祖母の日記と幻と対話することにより、オドレイが祖母に強烈な共感を感じていきます。そして描かれる悩みは「近代的な女性」についてです。いわゆる”働く女性”、結婚をせずやりたいことをやる女性です。かつての保守的なフランス社会の体現者たる祖父に抑圧されていた祖母が残した教えにしたがい、マルティーヌもオドレイも仕事一筋で生きていきます。ここに「ボルベール〈帰郷〉」のようなサスペンス要素が入ります。
っていうか、この作品はまんま「ボルベール〈帰郷〉」です。ボルベールはカンヌの女優賞と脚本賞を取ってアカデミーにもノミネートされた作品ですので、さすがにジュリーロペス=クルヴァル監督が知らないわけは無いです。とはいえ、この形式自体が一種のジャンルムービーですので、そこまで騒ぐことではないとは思います。
面白いのは、こういった「母娘もの」は海外ではわりと定期的にそこそこのものが作られるにも関わらず、日本ではからっきし作れないという所です。 たぶん「FLOWERS -フラワーズ-」だって仲間由紀恵と小雪でコレがやりたかったはずなんです。全然出来てませんでしたがw
ということで、OLの方々にはオススメです!!!!

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ブロンド少女は過激に美しく

ブロンド少女は過激に美しく

本日は3本です。

1本目は「ブロンド少女は過激に美しく」を見ました。

評価:(80/100点) – これぞ男の悲哀ロマン。


【あらすじ】

リゾートへと向かう長距離列車の中。会計士のマカリオは偶然隣り合わせた老女に自身の身の上話を始める。それはかつて愛した女性との悲しくも愚かしい物語だった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 列車での会話。
 ※第1ターニングポイント -> 少女との出会い。
第2幕 -> 少女との恋愛と波乱の人生。。
 ※第2ターニングポイント -> 叔父に結婚を認められる。
第3幕 -> 顛末。


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【感想】

本日の1本目は「ブロンド少女は過激に美しく」です。中高年を中心にかなりお客さんは入っていました。本作はご存じポルトガルの巨匠・マノエル・デ・オリヴェイラ監督の作品です。ここ20年ほどはかなり他作な上に本作撮影中に100歳の誕生日というちょっとどうかと思うほどの健在ぶりに、圧倒されるばかりです。

併映の「シャルロットとジュール」

最初に本作の話に行く前にTOHOシネマズ・シャンテで二本立てになっている「シャルロットとジュール」から書いてしまいましょう。といっても、さすがにジャン=リュック・ゴダール作品にどうこう言う根性は私にはございませんw
このシャルロットとジュールは1961年の作品でゴダールの4作目です。出て行った恋人・シャルロットがふらっと部屋に戻ってきたことで、ジャンが一方的に「いかにシャルロットが馬鹿か」と「いかに自分がシャルロットを愛しているか」をまくし立てるだけの10分くらいのフィルムです。とはいえ、この10分でジャンのマヌけっぷりと愚かしさを通じて恋する男の悲哀をストレートに描いたコメディとなっていまして、今でも十分に楽しめる傑作です。ゴダールの歴史的傑作「勝手にしやがれ」のクライテリオン版DVDに特典で入っていますので、興味のあるかたはこちらも見てみて下さい。
本作とのからみで言いますと、おそらく併映の理由はテーマ部分にあると思います。非常に乱暴に言ってしまえば、この「シャルロットとジュール」と「ブロンド少女は過激に美しく」は同じ話です。共に、恋に盲目的な男が”一方的に女性を理解した気になって”愛してしまった事の愚かしさを描きます。そういった意味ではゴダールが普遍的すぎるとも言えますしオリヴェイラが古風だとも言えるのですが、何にせよヘタレな男なら共感せずには見られないロマン溢れる題材なのは間違いありません。

本題

肝心の「ブロンド少女は過激に美しく」です。本作はフィルムグレインがたっぷり乗った古風な絵作りが真っ先に目を惹きます。音楽もほとんど使われませんし、何より極力セリフを廃した「映画らしい映画表現」のど真ん中を直球で攻めてきます。「映画らしい」という定義は難しいですが、そんな問題も本作を見ればすべて吹き飛ぶこと請け合いです。
ストーリー自体は前述したような悲恋話です。本作はそのストーリー部分もさることながら、風景を使った場面転換の仕方であったり、ほとんど固定カメラのようなかっちりした構図であったり、そういった映画としての圧倒的なまでの説得力=正しさが大変魅力的な作品です。なので、非常に教科書的と言いましょうか、優等生的と言いましょうか、ほとんど文化遺産レベルでの職人芸を堪能することができます。
こういう言い方をすると反発を招くかも知れませんが、本作を見れば映画のすばらしさは全部分かります。もちろん後述する「エクスペンタブルズ」でも全部分かるんですが(笑)、格調ある「文芸系作品」という意味ではほとんど上限レベルの作品ではないかと思います。
小規模な公開のされ方をしている作品ですので見るのは大変かも知れませんが、間違いなく一見の価値はあります。
是非是非映画館でご覧ください。いまどきゴダールを映画館で見られるだけでも駆けつける価値があります。

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メッセージ そして、愛が残る

メッセージ そして、愛が残る

9月最後の映画は

メッセージ そして、愛が残る」です。

評価:(20/100点) – 予告編の前提がドンデン返しのネタバレという衝撃!


【あらすじ】

ネイサンは幼い頃、車に撥ねられ生死の縁を彷徨った。大人になったネイサンは弁護士となり、かつて病院を熱心に見舞ってくれたクレアと結婚し子供を二人持つが、長男を突然死で失ってしまう。それがきっかけで不仲となり離婚したネイサンの元に、謎の男・ケイが現れる。ケイは大学時代の知人のアンナの居所をネイサンに告げ、会いに行くよう勧める、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ネイサンと娘。
 ※第1ターニングポイント -> ネイサンの元にケイが現れる。
第2幕 -> ネイサンとアンナ
 ※第2ターニングポイント -> ネイサンがクレアの元に行く。
第3幕 -> ネイサンとクレアとトレイシー。


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【感想】

昨日は一本、「メッセージ そして、愛が残る」を見ました。レディースデイでしたので、かなりの数のOLで客席が埋まっていました。癒しを求める方の多さに驚きますw
最上段の通り、以下ネタバレが含まれていますのでご容赦ください。っていうか予告をネタバレ前提で作るなっていうツッコミなんですけどねw

いきなりですが、本作で一番のツッコミ所はその「ドンデン返しのネタバレが前提の予告が流れている」点ですw あまりの事に実は見ている間中、ずっと戸惑っていました。というのも、本作の劇場予告では「幼い頃事故にあって生死の境を彷徨ったネイサンは、他人の”死”が見えるようになった、、、。」って言ってるんですね。で、そこにネイサンとクレアが抱き合う映像がながれて「最後に残るのは愛、、、。」見たいなのが出てくるわけです。これを見ると当然「これは、人の死が見えてしまう男が、最愛の人の死を見てしまい悲しみに打ちひしがれながらも愛を貫こうとする話なのだ。」と思うわけです。当たり前ですよね。でも、コレがドンデン返しなんですw はいっ~!????

実際に本編を見てみると「他人の死が見える」のはマルコビッチ扮するケイで、まるでネイサンの死が近いような流れで話が進むんです。まぁ当然予告と違いますので「あれ???」って思いながら見るんですが、1時間20分くらいその流れなので段々と「これは昔よくあった予告詐欺か???」とか思い始めるわけです。で、衝撃のラスト10分を迎えますw いきなり「実は死ぬのは元嫁で、ネイサンはケイの後継者だったのだ!!!!」ってドンデン返しがあるわけです。でも見に来てる人はみんなその前提で来ているわけで(苦笑)、全然ドンデン返しではないというか、むしろ違う意味でショックを覚えますw そしてズッコケます。思わずアゴが外れました。

ストーリー自体は言うなれば「ものすごく甘ったるい”ファイナル・デスティネーション”」です。死ぬ運命にある人は何をやってもその運命からは逃れられず、偶然が積み重なって死んでしまいます。なので私、実はアンナが死ぬ感動の展開で思わず笑ってしまいそうになりましたw 笑いかけて「おっといけね。ホラー・コメディじゃなかった。」と思いとどまりましたが、それくらいB級感漂う愉快な設定です。

でも、そのB級感を徹底的にオシャレでイカした”ラブ・癒し空間”に取り込もうとしてくるため、そのギャップがかなり歪な事になっています。これは言ってみればケイとネイサンの「師弟もの」でもあるわけで、その師弟の修行シーンの一歩手前までを見せられるわけです。ですから必然的に盛り上がりには欠けます。だって本作で一番見せなければいけない「ネイサンが元嫁の死を受け入れ、乗り越え、メッセンジャーとして生きる決意をする」シーンがないんです。その一歩手前の寸止めで映画が終わってしまいます。結果として、成長物語未満の”成長の予兆・雰囲気”だけが残されます。
肝心なところが描かれていない本作は、決して出来の良い映画ではありません。予告で十分ですw。

もし気になっている方が居ましたら、レンタルDVDが出てからでも良いと思います。

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オカンの嫁入り

オカンの嫁入り

本日は二本です。まずは

オカンの嫁入り」です。

評価:(35/100点) – 危ないですから駆け込み乗車はご遠慮下さいw


【あらすじ】

ある日、母子家庭の月子は夜中の三時に玄関の音で起こされる。帰ってきた母・陽子は泥酔しており、なんとヤンキー風の男を連れてきてしまったのだ。朝になって、陽子は連れてきた男・研二との結婚を宣言する。受け入れられない月子は、隣にある大家の家へ逃げ出すのだが、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> オカンが男を連れてくる。
 ※第1ターニングポイント -> 月子の家出。
第2幕 -> 月子の過去と研二の過去。
 ※第2ターニングポイント -> 母が倒れる。
第3幕 -> トラウマの克服と母の結婚


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【感想】

本日の1本目は「オカンの嫁入り」です。結構お年寄りの夫婦連れで賑わっていましたし、上映中も特に犬の仕草に対して笑いが結構出ていました。公開一週経って、ある程度評判が出回っているということでしょうか?
とはいえ、私個人としてそこまで面白い話だとは思いません。ただ、決してグダグダというわけではありません。相変わらず氾濫している「難病で全部解決」パターンではありますが、一応月子の視点できっちり統一はされています。まぁ統一しているにも関わらず心が変化していくポイントが適当という問題はあるんですが、それは物語部分の問題であり、もっというと原作の問題なので仕方無いのかなとは思います。そう、本作で全体をわりと台無しにしてしまっているのがストーリー運びの不味さです。
本作はプロット上はそこまでイベントが入りません。月子が「異物」として邪険にした研二が実は結構良い奴だと言うことに気付いて徐々に受け入れ始め、そして母の余命を知ることで決定的に心変わりします。あとはこの研二と脇役の村上先生のエピソード、そして月子のトラウマを入れるだけです。なので、本来であればそこまで変になるボリュームではないんです。
やはり問題は、研二のエピソードで祖母の死を使って、さらに陽子の部分でも死を使ったことです。そうすると研二が自分の祖母に孝行できなかったことを悔いていて、陽子を代替にしようとしているように見えてしまいます。このおかげで研二が手放しで良い奴に見えなくなってしまいます。さらに月子のトラウマ・パートがあまりにも衝撃的過ぎるため、全っっ然笑えないというかメチャクチャ重い話になってしまい、むしろ後半の陽子の説得が「ちょ、、、そんな簡単なことじゃないでしょ。」とツッコミたくなってしまいます。
そうなんです。これ、ストーリーとキャラクターのトーンがずれちゃってるんです。みんなポジティブ過ぎるというか、エピソードのエグさに対してキャラクターが軽すぎるんです。これは携帯小説の映画化によくある問題でして、起こるイベントに対して反応が鈍すぎるというか、実在感がなさ過ぎるというか、衝撃が過剰すぎるというか、誠実さが無いように見えてしまうんです。
例えば、月子は駅でストーカー男に襲われたことがトラウマで電車に乗れなくなってしまいます。でも男(研二)は平気なんです。本来このレベルでトラウマ化したら、電車はおろか男も自転車も怖くなってもおかしくないんです。そもそも電車は直接関係ないですし、そちらの方がよほど実在感があります。でも実際には電車が怖いだけで、駅も男も自転車も全然OKなんです。こういう細かいところが駄目です。
父親の位牌を持ち出したのにその後で拝むシーンがないとか、犬の尿道結石についてエサが変わったことと関係がないとか、極めつけは散々やっておいて最後まで結局母が生きてるとか、すごく物語の詰めが甘いです。後日談は当然母の死後どうなったかでないと月子の成長物語にならないじゃないですか。だって、月子が「トラウマを負った後は好き勝手にニートを満喫していたけど結局は母親に守ってもらっていたのだ」という事に気付くのがクライマックスなんです。なのに最後まで母親に世話してもらっていたら振り出しに戻って終わりですよ、それ。せっかく俳優が良い仕事をしているのにかなりもったいない事になっています。

【まとめ】

ツッコミばかり入れてしまいましたが、難病ものの中では比較的マシな方だとは思います。一応ですが核として月子の成長物語(風味)がありますし、なにより宮あおいと桐谷健太と國村隼はアップだけで画面を持たせる力があります。
俳優のファンであれば文句なしで行った方が良いですが、あくまでも浅いネット小説を良い俳優をつかってちょっとたどたどしく映画化したという事だと思います。
余談ですが、呉美保さんは映画監督2本目だと思いますが場面転換含めて課題山積みだと思います。特にトラウマパートに繋ぐ場面転換の不細工さは結構すごいです。そういったところも見所だと思いますw

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キャッツ&ドッグス 地球最大の肉球大戦争

キャッツ&ドッグス 地球最大の肉球大戦争

本日は2本です。1本目は

キャッツ&ドッグス 地球最大の肉球大戦争」です。

評価:(15/100点) – 犬可愛い。猫可愛い。でもそれ以上では、、、。


【あらすじ】

猫の秘密組織「ミャオ」に所属していたキティ・ガロアはミッション中に番犬に襲われて除毛液に落ち全身の毛を失ってしまう。飼い主からも捨てられたガロアは犬への復讐のため、独自の音波を作成、衛星を通じて全世界の犬を狂わせようと計画する。
キティ・ガロアの謀略を阻止するため、今、仇敵であった犬と猫が手を組む、、、。ついでに鳩も、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ディグスの失敗。
 ※第1ターニングポイント -> ディグスが全世界犬司令部に招かれエージェントになる
第2幕 -> シェイマスとガロアの捜索
 ※第2ターニングポイント -> ガロアの居所が分かる。
第3幕 -> 遊園地での決闘。


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【感想】

本日の1本目は「キャッツ&ドッグス 地球最大の肉球大戦争」です。これもお客さんがほとんど入っていませんで、私以外は子連れ親子が2組居ただけでした。
非常に簡単に言いますと、これは動物を使ったスパイ大作戦のパロディです。のみならず、タイトルはスターウォーズのパロディ(原題の副題がThe Revenge of Kitty Galore = SW ep3の「The Revenge of Sith」)だったり、オープニングが「カジノ・ロワイヤル(2006年版)」以降のボンド映画のパロディだったり、除毛液に落ちるところは「バットマン(1989/ティムバートン版)」でジャック・ニコルソンが漂白液に落ちてジョーカーになる所のパロディです。そのほかにも「羊たちの沈黙」のレクター博士もどきの猫だったり、空中戦はちょっとロボコップorアイアンマンっぽさもあります。
ということで、本作の話自体は行き当たりばったりで下らないのですが、犬や猫が有名作品を再現してくれるという動物好きにはたまらない作品です。逆に言えば、映画として見に行くと痛い目を見ますw あくまでも犬猫が名場面を再現するだけの動画集です。
見も蓋もないことを言いますと、これ要は「親指スターウォーズ」とか「最終絶叫計画」とかと同種の映画で、それの物凄く出来が悪いものです。
なので、犬好きにのみオススメいたします。猫はかなり悪く描かれますので、猫好きには耐えきれないかも知れません。

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シルビアのいる街で

シルビアのいる街で

本日も2本です。1本目は

シルビアのいる街で」です。

評価:(60/100点) – ザ・単館なおしゃれ雰囲気映画。


【あらすじ】

男はカフェで女性客をスケッチ中にシルビアに似た女性を見つけ尾行する、、、。


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【感想】

本日の1本目は「シルビアのいる街で」です。2007年のヴェネチア映画祭のコンペ作品であり、2008年の東京国際映画祭でもワールドシネマ枠で上映されました。あいにく東京国際で見逃してしまっていたので、2年越しの初見です。話題の作品という事もあり、かなりお客さんが入っていました。とはいえ、渋谷のイメージフォーラムでは併映の「ザ・コーヴ」の方が入っていたようです。
実は本作は非常に感想が書きづらい作品です。というのも、いわゆるアート系の作品でして、話の内容自体がほとんど無いからです。それどころか台詞もほとんどありません。
話の骨格は、画家っぽいイケメンの青年が昼間からビールを飲んでオープンテラスで女性を物色中に、思い出のシルビアに似た女性を見つけストーキングするだけです。イベントとしては本当にそれだけ。一応3幕構成をしてはいるんですが、限りなく物語性が排除され想像に委ねるようになっています。映画として面白いのは、本作の過剰なまでの間(ま)の取り方です。極端な話、本作をまとめようと思えば5分の短編にすることも出来ます。しかしその稀薄な物語に対してほとんど無駄とも思えるほどの間を取ることで、観客は嫌でもスクリーンに引き込まれ想像を膨らませてしまいます。
そこで写されるのはカフェの様々な会話の断片であり、雑踏における生活の断片です。この物語はすべてが断片で出来ています。主人公の男の生活も、シルビアを捜す理由も、そして追いかけられる女性も、全て断片しか見せません。だからこそ観客は嫌でもそこに自分の思いを投影してしまいます。ですから、本作は夢見るおしゃれ志向の人であればあるほどすばらしい傑作に見えると思います。いうなれば「物語を語る映画」ではなく「物語を観客に作らせる映画」です。
なので、もしあなたが「片思い」「思い出の人」「おしゃれな街並み」「孤独なイケメン」といったキーワードにビビっと来るようであれば、本作はあなたの心を映して大傑作になってくれるはずです。まさしく正しい意味でのアート系映画であり90年代に流行った「ザ・単館映画」だと思います。
※余談ですが、もしよければ本作について書いている評論家さんや個人ブログを漁ると面白いかも知れません。上記のように本作を語ることは自分の内面・嗜好を晒すのとイコールです。書き手の性格がにじみ出てしまうはずですw 稀にある「書いたら負け」な映画ですw

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