メアリー&マックス

メアリー&マックス

日曜日も1本、

メアリー&マックス」をみました。

評価:(65/100点) – マイノリティ達への優しい物語。


【あらすじ】

メアリーはオーストラリアに住む8歳の少女である。働き者で家庭に無関心な父とアルコール依存症の母と暮らし、友達は誰も居ない。ある日彼女は「子供はビール瓶の底から生まれる」という噂の真実を確かめようとアメリカの電話帳から適当に選んだマックス・ジェリー・ホロウィッツに手紙を出してみた。すると数週間後、彼女の元には返事が返ってきた。こうしてメアリーとマックスの国を超えた文通が始まった。

【三幕構成】

第1幕 -> メアリーの家庭事情と最初の手紙。
 ※第1ターニングポイント -> マックスが返事を書く。
第2幕 -> 文通して過ごした時間とメアリーの論文。
 ※第2ターニングポイント -> マックスが怒る。
第3幕 -> 仲直りと渡米。


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【感想】

先週の日曜日は「メアリー&マックス」を見て来ました。監督は前作「ハーヴィー・クランペット」でアカデミー短編アニメ作品賞を獲得したアダム・エリオット。そこまで大々的な宣伝はしていませんが、少ない公開館のマイナー映画な割には結構なお客さんが入っていました。
本作はいままでのエリオットの4作品「アンクル(叔父さん)」「カズン(いとこ)」「兄弟(ブラザー)」「ハーヴィー・クランペット」と同じく、一人の人物の成長・人生を描きます。画面はいつも通り暗いグレースケールで構成されており、精神的な病をもった人間や社会的弱者に焦点を当てて比較的冷めたトーンで描き、その上で人生をポジティブに見せます。
毎度毎度このパターンで来ていますので、これがエリオットの作家性なんでしょう。ちなみに過去の4作品はすべてイマジカ/BIG TIME ENTERTAINMENT版の「ハーヴィー・クランペット(REDV-00306)」に収録されています。気になる方はチェックしてみて下さい。
本作でもメアリーとマックスはそれぞれかなり壮絶な事になっています。夢も希望もないとは正にこのことで、ありとあらゆる不幸が彼女たちを襲います。しかし、それでもエリオットのキャラクター達はめげません。今回はかなり危ない所まで踏み込みますが、それでもメアリーは復活します。そしてそのシーンで流れるのが本作のテーマをそのままずばり歌った「Whatever Will Be, Will Be (ケ・セラ・セラ)」です。ヒッチコックの「知りすぎていた男」の有名な劇中歌です。ちょっと歌詞を載せておきます。

When I was just a little girl
I asked my mother what will I be
Will I be pretty, will I be rich
Here’s what she said to me
私が少女だった頃
お母さんに大きくなったら何になるのって聞いたの
可愛くなれるかな? お金持ちになれるかな?
そうしたらお母さんはこう言ったの
※Que sera sera
 Whatever will be will be
 The future’s not ours to see
 Que sera sera
ケ・セラ・セラ
なるようになるのよ
未来の事なんてわからないから
なるようになるの
When I grew up and fell in love
I asked my sweetheart what lies ahead
Will we have rainbows, day after day
Here’s what my sweetheart said.
大きくなって恋に落ちたとき
愛しい人にこの先なにが待ってるかなって聞いたの
来る日も来る日も、虹を見られるかしら?
愛しい人はこう言ったの
※繰り返し
Now I have children of my own
They ask their mother, what will I be
Will I be handsome, will I be rich
I tell them tenderly.
今は私にも子供達がいるの
子供達は私に「大きくなったら何になるの?」って聞いたわ
格好よくなれるかな? お金持ちになれるかな? って
私は優しくこう言うの
※繰り返し

この歌がメアリーが自分の踏んだり蹴ったりな人生に絶望した崖っぷちの時に流れるわけです。あまりにもベタですが、これはエリオットが前作までで繰り返してきたテーマそのものです。アスペルガー症候群で鬱病のマックスやアル中で万引き常習犯の母親に似ていってしまうメアリーを、決して特別視するわけでもなければ過剰に擁護するわけでもなく、ただ静かに「なるようになる」と見守りそしてそこに人生の素敵さを描いていきます。
テーマとしてはこれ以上ないほど道徳的な正論ですし、じっさい今の日本の状況下で劇場でケ・セラ・セラを聞くと感慨深いものがあります。あるんですが、じゃあ映画としてどこまで完成度があってどこまで面白いかと言われると、それは別問題です。
というのも、エリオットはヒジョ~にアクの強い監督なんです。例えばものすごいナレーションを多用してきたり、あえて悪趣味な下ネタを入れてきたり、同じ変人を描くにしてもヘンリー・セリックとは違います。ヘンリー・セリックはどこか天然にクレイジーな部分が見えるのですが、それに対してエリオットはよく言えば計算されていて悪く言えばあざとく感じる部分があります。そこに乗れるかどうかが本作を気に入るかどうかのかなり大きな分かれ目だと思います。あまりにも「泣きっ面に蜂」を重ねまくってきますので、ちょっと納得しづらいですし、いかにも結論ありきで説教されている気分になります(苦笑)。
もちろんものすごい努力のたまものですし、全体的にはかなり良作の部類には入ります。見て全く損はありませんので、お近くで上映されている場合は是非劇場でご鑑賞下さい。ただ、アニメだからといって子供連れでいったりデートでみたりするような作品ではありません。ものっすごいえげつないものを浴びせられる覚悟は必要な作品です。オススメです。
※ おまけ
気になったのでメルボルンとニューヨークのエアメールの料金を調べてみたら50gまでは2.25ドル=約200円でした。これなら貧乏なメアリーでもギリギリ払えそうです。ところが、お菓子を入れると話しが変わってきます。
 50g~125g   : 4.5ドル=360円
 125g~250g : 6.75ドル=540円
 250g~500g : 13.5ドル=1080円
 500g以上   : 22.5ドル=1800円
う~~~~ん。コンデンスミルクの缶を入れると1,000円を超えそうです。ちょっとメアリーでは無理かも知れません。おそらく切手は全部万引き品です。そういうことにしておきましょう。
参考:オーストラリア郵便局HP

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SOMEWHERE

SOMEWHERE

土曜の2本目は

SOMEWHERE」です。

評価:(100/100点) – 完璧!!!


【あらすじ】

ジョニー・マルコは映画俳優である。ハリウッドのサンセット通りにあるシャトー・マーモントに部屋を借り、新作映画のプロモーションをしながら自堕落な生活を送っていた。フェラーリを乗り回し、派手なパーティをし、女性と遊んでも、彼の気は晴れない。
ある日目が覚めると妻のレイラと娘のクレオが部屋に来ていた。レイラは一日クレオの世話を頼んでいく、、、。


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【感想】

土曜の2本目はソフィア・コッポラの最新作「SOMEWHERE」です。昨年のヴェネチア国際映画祭の金獅子賞(グランプリ)作品です。ですが、、、あんまり観客は入っていませんでした。せっかく半年で日本公開されたっていうのに寂しいことです。
さて、本作は本当に心の底からオススメしたいすばらしい作品です。とにかく、演出も、シーンの繋ぎ方も、俳優も、文句の付けようがありません。ですから、いまから書くような細かい事ははっきり言ってどうでもいいので、とにかく見に行ってください。しかも特に小難しい作品ではありませんから誰でも理解出来るはずです。絶対に映画館で見るべきです。

物語の妙

本作のストーリーは大変シンプルです。自堕落に過ごしてきた男が娘と一緒に過ごさざるを得なくなったことで人生を見つめ直します。この物語は娘からすれば「自分の事を構ってくれない父親が反省する話し」であり、父親から見れば「愛する娘の存在を再確認して改心する話し」です。つまりはファザー・コンプレックスが炸裂しているわけで、これはどう考えてもソフィア・コッポラ自身の人生のテーマであるわけです。
偉大すぎる父親を持ち、その親馬鹿っぷりが発揮した「ゴッドファーザーPartIII」ではファンに猛バッシングを食らったソフィアだからこそ撮れるテーマです。しかも彼女はその後映像オタクでダメ人間のスパイク・ジョーンズと結婚・離婚し、同じく映画オタクで足フェチな変態のタランティーノと付き合ってたワケで、どう考えても根が深いファザコンです。しかも今度付き合ってるのは5歳年下のバンドマンです。居るんですよ、こういうファザコンを拗らせて変な母性に目覚めてダメ人間を保護し続けるタイプの女性ってw
本作の場合、この親子にスティーブン・ドーフとエル・ファニングというとてつもない実力派のコンビを送り込んでくるわけです。弁護のしようがない無いダメ人間ながらギリギリで嫌悪感を抱かれないレベルのドーフと、あまりの透明感にちょっと浮世離れしてさえ見えるエル・ファニング。その浮世離れした雰囲気があるからこそ、最終盤でクレオの人間らしさが見えた瞬間にどうしようもなく私達の心を動かしてきます。
私が本作を見ていて一番驚いたのは、クレオがフィギュアスケートを行うシーンまでの展開の巧さです。このシーンは直前のポールダンスのシーンと対応しています。共に「音楽をバックに女性が踊る(回る)」のですが、ポールダンスには彼はほとんど関心を示しません。1回目は寝てしまい、2回目はダンス自体ではなくその後の情事を目当てにしています。ところがスケートは違います。彼はやはり最初関心を示さず本を読んでいますが、次第に娘の踊りにのめりこんでいき、最後には力一杯の拍手を送ります。このシーンが作品内のジョニーの転機です。ここで彼は自堕落な女性遊びよりも娘の方を無意識に選んだわけです。ここから、ジョニーとクレオの幸せな親子の日常が始まります。
それでもなお、彼は娘の見ていないところで女性遊びを続けます。つまり彼は最終盤のあるシーンまで、やはり自分にとって女性遊びよりも娘の方が大事だということに無自覚なんです。スクリーンに映る表情を見ていれば明らかなんですが、彼自身はなかなか気付きません。
ですから妻にまで愛想を尽かされたジョニーが最後に見せる覚悟は、やっぱり美しいわけで涙をさそうんです。
その覚悟っていうのはジョニーの投了宣言なんです。それまで好き勝手に青春を謳歌していた男が、ついに大人の男になって家族と向き合う決意をするんです。その舞台がまた「シャトー・マーモント」っていうのも気が利いています。シャトー・マーモントはハリウッドセレブやロックスター達がどんちゃん騒ぎをして夢をみる場所なんです。ジョニーはそこから抜け出すんです。だからこれは「パーティーは終わり」ってことなんです。

【まとめ】

本作は非常にシンプルですが、間の取り方が絶妙です。おそらくアート系の映画やインディ映画を見慣れていなくても、その品の良さと圧倒的なスクリーンの雰囲気作りは伝わると思います。本作においてジョニーとクレオの過ごした時間は、ダメ人間のジョニーを改心させられるだけの魅力をもっていないと説得力がありません。そして実際に大変魅力的に撮れています。だから、本作に文句は1カ所もありません。全てが素晴らしく、全てが完璧です。
オススメとか緩い言い方ではなく、悪い事は言わないので絶対に見た方が良いです。間違いなくソフィア・コッポラの代表作であり、男の成長物語としてはある種の到達点にあると思います。

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わたしを離さないで

わたしを離さないで

ようやく原作を読み終わりました。先週の日曜日に見たのは

わたしを離さないで」です。

評価:(96/100点) – 原作の世界観を利用した極上のラブストーリー


【あらすじ】

キャシー・Hは28歳の介護士である。彼女は提供者の安らかな最期を看取りながら、昔を振り返っていく。それは「ヘールシャム」という幻想的な学校で育った思い出だった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 1978年、ヘールシャムでの思い出。
 ※第1ターニングポイント -> トミーとルースが付き合い始める。
第2幕 -> 1985年、三人のコテージでの思い出。
 ※第2ターニングポイント ->
第3幕 -> 1994年、現在。


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【感想】

原作を読んでいて一週間遅くなりました。先週の日曜日は「わたし離さないで」を見ました。原作はご存じ日本の生んだイギリス人ブッカー賞作家・カズオ・イシグロ。昨年の東京国際映画祭でも上映されていましたが、当日券目当てで朝8時に窓口にならんだらもう完売してました。当時は「カズオ・イシグロの作品がついに」っていうよりは「若手俳優の有望株が豪華集合!」みたいな扱いだったと記憶しています。公開2日目だったのですが、そこまでお客さんは入っていませんでした。たぶんこの一週間でだいぶ評判にはなっていると思いますが、勿体ない事です。
本作を見ていると、これは確かに俳優力が半端でなく凄いことになっていると分かります。一種のアイドル映画と見られないこともありません。ですが、それ以上に、本作はすばらしい純愛映画に仕上がっています。この「純愛映画」と言う部分がこれ以降書くことのキーワードです。アメリカやイギリスでの評判を見ますと、この「純愛」成分が賛否両論の的になっています。つまり、「原作と全然違うじゃないか」という不満が原作ファンから挙がっているんです。原作付きの作品にはある程度仕方が無いことですが、私は原作を映画の後に読んでみてそれでもこの映画は最高に上手く脚色していると思います。
ここで例によって注意があります。本作はSFラブストーリーですが若干のミステリー要素も含んでいます。個人的には世界観のネタバレについては全く問題ないと思いますし、実際、映画の冒頭2分ぐらいの「匂わせ」でSFファンならすぐ理解できる程度の内容です。原作者のカズオ・イシグロ氏も「ミステリーのつもりで書いたワケじゃないけど、発表後に読者に言われて気付いた。」と語っていますが、やはりネタバレによって幾分か面白さが減ってしまう可能性はあります。肝心の部分については書きませんが、もし完全にまっさらな状態で観たい方は、ここから先はお控え下さい。

作品の世界観

本作について書こうと思いますと、やはりまずは世界観と原作について触れなければいけません。正直に申しますと、世界観については本来なら予告編や公式のあらすじでバラしてしまっても良いと思います。というか本作の一番の肝はこの世界観の設定の部分なので、ここを説明しないと面白さがまったく伝わりません。この辺りがいつもの「SF作品はお客さんが入らない」という例の宣伝方針なのかな、、、とちょっと複雑な気分になります。
さて、本作は今現在2011年から見て過去の話しになります。そして映画の冒頭で一気にダイアログによって世界観が説明されます。
1952年、科学技術の発展によってそれまで不治の病とされてきた病気が駆逐され平均年齢が100歳を越えます。そしてその中で、提供者と呼ばれる人々を育てる学校が各所に建てられます。作品はその中の一つ「ヘールシャム」で育った仲良し三人組をメインに語られます。
本作の世界観は「臓器提供のためだけに”造られた”クローン人間達」の人生を描きます。原作にしろ映画にしろ、この世界観を設定したことですでに「勝ち」です。
まったく同じ世界観に大味馬鹿映画でお馴染みマイケル・ベイの「アイランド」があります。しかし本作は「アイランド」とは”人生”についての解釈が180度違います。「アイランド」は不条理な一生を余儀なくされたクローン人間の復讐・逆襲を描きます。つまり「被差別層の最終目標は自身が差別層と入れ替わることである」という価値観をストレートに描きます。一方で本作のクローン人間達は常に達観しています。彼女たちは幼少時より隔離された世界で育てられ、自身の人生を「そういうものだ」という前提として受け入れています。そして受け入れた上で一生を”普通に”送っていきます。
言うなれば、本作におけるクローン人間・臓器移植という設定は「人生をギュッと圧縮するための設定」なんです。本作のクローン人間達は成人すると「通知」と呼ばれる手紙が来ます。そして自身の臓器を提供します。最高でも4回、通常は2~3回目の提供手術でクローン人間は亡くなります。このとき大抵は30歳前後です。一方、その臓器を提供された「普通の人間」は、移植によって100歳近くまで生きることが出来ます。つまり寿命という点では非常に両極端な事態になっているわけです。
肝は、クローン人間達の寿命が極端に短いからといって一生が薄いというワケではないという点です。彼女たちはまさしく普通の人間が送るのと同じような一生を、ギュッと圧縮して送るわけです。幼少時は学校で保護者達に守られた生活を送り、次は同年代の人間達のみで共同生活を送り、そして成人して一人暮らしをしながら仕事をし、通知を受け取ってからは臓器提供を行うことで体が思うように動かなくなり、ついには一生を終えます。これはモロに幼少期→青年期→成人期→老年期のメタファーです。
本作はSF設定を用いることで人間の一生を擬似的に圧縮し、それによって「否が応でも迫ってくる人生の不透明性/不条理性」を浮かび上がらせています。
昨年末の「ノルウェイの森」の時にちょっと書きましたが、これはまさしく1960年代的な純文学要素をもったSFそのものです。原作「わたしを離さないで」は、新しいような古典的なような、懐かしさをいれつつ今風のポップな文体に起こした大傑作だとおもいます。

映画における脚色の妙

さて、前述のように「わたしを離さないで」は人間の一生を圧縮して見せています。原作において、キャシー・Hは一生を多感に過ごします。幼少時には無邪気なグループ間の争いやイジメ的なものも目撃しますし、青年期には一夜の遊びも何度も経験します。成人期には仕事に没頭しつつもストレスや学閥による嫉妬も経験します。まさしく私達が送るであろう人生そのものを経験します。
一方、映画版においてはその描写は恋愛要素に大きく偏っています。キャシー・Hは幼い頃より好きだったトミーをずっと思い続けます。なかなか自分に振り向いてくれないトミーを見ながら、それでもずっと一生を送っていきます。映画版におけるテーマはここです。「人生は怖い」「いつかは終わりが来てしまう」「もしその恐怖に対抗できるとしたら、それは愛だけである」。本作のクライマックスにくるエピソードはまさしくこれを表現しています。そして、クローン人間達の人生が圧縮されていることで、この「愛」が相対的に長くなり、それが「純愛」要素を帯びてくるワケです。ファンタスティックMr.FOX的な表現をするなら、「人間時間で15年、提供者時間で70年の恋愛」です。
これによって、本作はもの凄い大河ロマン的な恋愛ストーリーとなります。私はここの部分において映画版は原作を越えているとさえ思います。大河ロマンになることで、最終盤にふとキャシー・Hが見せる涙が、それまで達観していた人生からふと漏れ出して見えるわけで、これこそ一生の不条理性を強烈に印象づけます。しかもそこに人生の不条理を絞り出すブルース調の「Never let me go」と、まだそれに気付いていない無邪気で無垢な少年少女達による「ヘールシャム校歌」がかぶさってくるワケです。
まぁ泣くなって方が無理です。

【まとめ】

本作はキャシー・Hという内気な女性の一代記になっています。そしてそれがとんでも無いほどの魅力を放っています。ですので、当然演じるキャリー・マリガンのアイドル映画として見ることも出来ます。そう、本作は1年かけて大河ドラマでやるような「女性の一代記」をわずか100分に濃度そのままで超圧縮しているんです。この恐るべき編集力と脚本力はどれだけ褒めても褒めきれません。小説版にでてくる脇役達も大きく削り、メインの三人組に集中したのも上手い脚色です。しかもそれでいて端折っている感じはありません。きちんと100分で完結しています。アンドリュー・ガーフィールドも神経質で多感な少年をすばらしく演じていますし、キーラ・ナイトレイの悪女っぷりも最高です。
これは心の底から是非映画館で見て欲しい作品です。確かに原作をゴリゴリのSFとして読んだ方には若干甘ったるい印象を与えるかも知れませんし、そこで違和感を感じるのも分かります。しかし、ここまですばらしく纏まったラブストーリーはなかなか見られません。かなりのテンションでオススメします。とりあえず、この1本!

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ザ・ファイター

ザ・ファイター

今日は1本、

「ザ・ファイター」を見て来ました。

評価:(85/100点) – 魅力的な駄目家族達のアンセム


【あらすじ】

ミッキー・ウォードは8人の兄弟を持ち母親も再婚を繰り返す豪快な家庭に育った。彼はかつて「ローウェルの英雄」として知られた兄ディッキーの後を追ってプロボクサーとなる。しかしそんな兄も今やドラッグにおぼれ、姉妹達も自堕落に生活し、家計は全てミッキーの拳に掛かっていた、、、。

【四幕構成】

第1幕 -> ミッキーの練習とシャーリーン。
 ※第1ターニングポイント -> ミッキーvsリッキー・メイヤーズ。
第二幕前半 -> ミッキーの苦悩。
 ※ミッドポイント -> ディッキーが逮捕される。
第二幕後半 -> ミッキーの決意と再起。
 ※第2ターニングポイント -> ミッキーvsアルフォンソ・サンチェス。
第3幕 -> タイトル戦へ向けての練習とディッキーの出所。
 ※第三ターニングポイント -> タイトル戦開始。
第四幕 -> ミッキーvsシー・ニアリー。


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【感想】

本日は1本、「ザ・ファイター」を見て来ました。先日のアカデミー賞でクリスチャン・ベールが助演男優賞、メリッサ・レオが助演女優賞を獲得しています。そのわりにというと何ですが、お客さんはあんまり入っていませんでした。こんな面白い映画がすぐに打ち切られるのは惜しいので、もし映画を見る余裕がある人は是非来週の映画の日にでも見てみて下さい。
さて、もういきなり「面白い」とか書いてしまいました。本作は実話ベースでありながら上手く脚色してハリウッド式物語に落とし込んでいます。そういった意味では最近でいうと「イップ・マン2」に近いかも知れません。
本作ではミッキーがしょうもない家族達に翻弄されながらも、家族愛と共にボクシングに邁進していきます。かつての栄光にしがみつくヤク中の兄、自己中心的で強権的(というか野村サ○ヨ)な母、そして何をするでもなく集団で騒ぐだけの姉妹達。こういった癖がありすぎる家族のノイズの一方で、彼は恋人や父親に助けられ頭角を現していきます。
本作の要素は「ダメ人間が努力と根性でのし上がる話し」+「癖のある家族達への愛」+「ボクシング」というロッキーそのものな内容です。ですのでつまらないワケがありません。ただそれ以上に、本作はとにかくクリスチャン・ベールの存在感が圧倒的です。完全にイっちゃってる見開いた目で終始ヘナヘナと動くベールは、とてもいつもの彼には見えません。相変わらずのメソッド演技で度を超した移入を見せてくれます。そしてそんなイちゃってる兄と対照的に、ミッキー役のマーク・ウォールバーグはとっちゃん坊や感を遺憾なく発揮しています。まぁ実際にプライベートではウォールバーグもベールもどちらもどっこいな暴れっぷりですが、、、だからこそこの役作りの仕方は素敵です。
実在という面で言いますと、本作におけるミッキーはテーマのためにかなりキャリアを省略しています。本作は最初と最後をテレビのインタビュー取材が挟んでおり、回想の形で語られます。回想の冒頭は1991年の10月で、物語のラストのタイトルマッチは2000年です。実際のミッキーはメイヤーズに負けた後で一時的に引退し3年後に復帰します。しかし本作の中では姉妹から「三週間姿を見ていない」とだけ語られ、その後は時間の経過については明示されません。当然兄の警察沙汰等があるのである程度時間が経っているのはわかりますが、かなり思い切った省略の仕方です。実話をもとにする時はどうしても日付表示を入れたくなるものですが、そういった部分をばっさり切ってテーマに対して最短距離でとても上手く描いています。
とはいえ、この省略によってたとえばミッキーとシャーリーンの関係が急展開すぎたり、ミッキーののし上がり方が早すぎたり見えてしまうかも知れません。この辺りは難しい部分です。かなり気を付けて描いてはいるものの、ミッキーが実は結構強いというのが戦績や勝ち方でチラチラ見え隠れしています。ですが、本作は家族愛がメインのテーマですのでこれは仕方がないと思います。ディッキーが出所してからの一連の流れはそれだけで御飯3杯いけるぐらい素晴らしい兄弟愛ものです。兄の影で生きてきた男が、ついに自分が主役になれるシチュエーションになって兄から認められるわけで、それはもう涙無しには見られません。
ロッキーのような熱血ものを期待していくと肩すかしをくらうかも知れませんが、イかれた兄と真面目な弟の兄弟愛映画としてはかなりの出来です。若干試合のシーンはアレな感じがしますが、「あしたのジョー」のように下手に格好を付けずに真面目で丁寧に取り組んでいるのが分かるので全然気になりません。かなりオススメな作品です。

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記事の評価
トゥルー・グリット

トゥルー・グリット

月曜の春分の日は1本、

トゥルー・グリット」を見ました。

評価:(90/100点) – 小規模ながら屈指の出来。


【あらすじ】

マティ・ロスはまだ14歳の少女である。彼女の父・フランクは酒場の喧嘩に巻き込まれ殺されてしまった。マティはアーカンソーのフォートスミスに父の遺体を引き取りに訪れる。しかし彼女にはもう一つの目的があった。悲嘆にくれる母や兄弟を見た彼女は、父の仇討ちを出来るのは自分だけだと決心していたのだ。彼女はフォートスミスで屈指の暴力保安官”ルースター”・コグバーンを50ドルで雇い、父の仇トム・チェイニーが逃げ込んだインディアン・チョクトー族居留地へと向かう、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> マティとコグバーン、ラボーフとの出会い。
 ※第1ターニングポイント -> マティが川を渡る。
第2幕 -> チョクトー族居留地での旅。
 ※第2ターニングポイント -> ラボーフが追跡を諦める。
第3幕 -> トム・チェイニーとの遭遇と仇討ち。


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【感想】

月曜日は話題の西部劇トゥルー・グリットを見て来ました。監督はお馴染みのコーエン兄弟。日本では先月に前作「シリアス・マン」が公開されたばかりで立て続けの新作となります。今年のアカデミー賞では「英国王のスピーチ」に次ぐ10部門でのノミネートでしたが、結局一つもタイトルを取れませんでした。しかしアメリカでの評判は素晴らしく、私が見た回も7~8割は埋まっていました。月曜は繁華街の人通りが少なかったので、これは結構な入りだと思います。
本作は同名の映画「トゥルー・グリット(1969: 邦題「勇気ある追跡」)」のリメイクです。基本プロットは同じですが、本作ではよりマティをメインにしてキャラクターが立つようになっており、またラストも単純なハッピーエンドでは無く情緒を前面にだすようにアレンジされています。
さて、本作の何が凄いかというと、これはもう主演のジェフ・ブリッジスの溢れんばかりの人間力と、ほぼ無名ながらジェフを食ってすらいるヘイリー・スタインフェルドです。もともとの「勇気ある追跡」自体も言ってみればジョン・ウェインのアイドル映画だったわけですし、だいたい50年代・60年代の西部劇は大きくはアクション映画の一ジャンルでありアクション・スターを見るためのアイドル映画だったわけです。このあたりの事情はまったく日本の時代劇と同じで、例えば市川雷蔵だったり勝新太郎だったりのように数ヶ月に一度は主演映画が公開されるようなスターがおり、そのための薄味で定型的なストーリーが量産されていきます。「勇気ある追跡」もそういった作品の中の一つですが、他の有象無象との違いは役者達の掛け合いの凄さでした。トム・チェイニー役に名脇役ジェフ・コーリー、トムのボス・ラッキー=ネッドにはロバート・デュバル、さらには重要な情報を漏らす下っ端ムーン役でデニス・ホッパー。錚々たる悪党を向こうに回して豪傑を絵に描いたようなジョン・ウェインが突撃します。これに加えて「古き良きウェスタン」という言葉がぴったり来るような分かりやすい話と分かりやすい構図、そしてエンターテイメントとしての恋愛未満の恋の予感も入れてきます。まさにオリジナル版は「これぞ入門」と太鼓判を押せるほどオーソドックスな西部劇です。
そしてそんな古典をリメイク(正確には同一原作の再映画化)するわけですから、ここには当然「西部劇復興」「エンターテイメントの王道としての古き良きアメリカ映画」というものが入ってくるしかありません。それを象徴するのが、劇中でオーケストレーションされて何度も流れる1887年の賛美歌「Leaning on the everlasting arms(=永遠の/神の腕に抱かれて)」です。この歌の歌詞は以下のようなものです。

なんという一体感 なんという神が与え給うた喜び
永遠の腕に抱かれて
なんという祝福 なんという平穏
永遠の腕に抱かれて
全ての危機から安全で安心な
永遠の腕に抱かれて
なにを心配することがあろうか なにを恐れることがあろうか
永遠の腕に抱かれているのに
我が主のすぐ側で 平和に恵まれているのに
永遠の腕に抱かれて

拙訳ですみません。まさに本作のマティにぴったりな賛美歌の古典です。
本作のストーリーは非常にシンプルな復讐劇です。父の仇を追いかけて、曲者の凄腕保安官とちょっと間抜けなテキサスレンジャーとしっかりものの少女が珍道中を繰り広げます。そんなシンプルな話しだからこそ、こういった音楽であったり、道中の会話であったり、そういう細部が非常に重要になってきます。
このストーリーの大きなテーマは「復讐」と「正義」です。酔っ払って人を殺したトム・チェイニーは当然悪ですし、仇討ちをするマティに理があるのは明らかです。しかしその仇討ちのためにマティがやることは、例えば死体を引き渡して取引したり、直接悪ではない下っ端を死に追い詰めることです。そして全てのエンディングで彼女に残される物はなんでしょう?そういったものを全て踏まえた上での前述の「Leaning on the everlasting arms」なんです。彼女はラスト直前で誰かに抱きかかえられていませんでしたか?そしてそれは彼女にとってどういう意味があったのでしょう?
そう考えると、エンドロールでこのテーマが流れた時、これはやっぱりちょっぴり泣いちゃうわけです。
ラボーフの笑いあり、コグバーンの熱血単騎突撃あり、そしてマティの執念あり。これで文句を言ったらバチがあたるぐらい盛りだくさんのエンターテイメントです。そこにきちんと古典西部劇の情緒まで入れてくるわけですから、これを褒めずして何を褒めるかってぐらいの出来です。
とりあえず絶対見た方が良いですし、見なければ後悔すること請け合いです。大大プッシュでおすすめします!
※それとサントラも買った方が良いです。これ本当にいいですよ。

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記事の評価
ファンタスティック Mr.FOX

ファンタスティック Mr.FOX

3連休の2本目は

ファンタスティック Mr.FOX」です。

評価:(75/100点) -面白い!!! けど、、、ファンタスティックか!?


【あらすじ】

お父さんキツネは運動神経抜群でかつてニワトリ泥棒として名を馳せた。しかし今は新聞コラムニストとして働き、暗い穴蔵のマイホームで妻と反抗期の一人息子の3人で暮らしている。
ある日、新聞の不動産情報を見たお父さんキツネは、弁護士の反対を押し切って格安の木の家をローンで買うことにする。しかし格安にはワケがある。木の前にはボギス、バンス、ビーンという3人の性悪な農場主が住んでいたのだ。
お父さんキツネはよりによってその3人の農場から盗みを働くことにする。盗みは成功したものの、お父さんキツネは命を狙われることになってしまう、、、。


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【感想】

3連休の2本目は「ファンタスティック Mr.FOX」です。アメリカでは2010年のお正月映画で、日本にやっと入ってきました。先日のアカデミー賞でも長編アニメーション部門でノミネートされています。その割にはお客さんはあまり入っていませんでした。結構話題作だっただけに意外です。
本作は1970年出版の同名の童話の映画化です。人形を使ったストップモーションアニメにしては約1時間半という結構な長さがあります。いくつかの章に分けられており、かなり小気味良く物語りが進んで行きます。ストーリーには大きく2つの柱があります。一つは「大人になって社会に適応せざるを得なくなってしまったもの達が自分たちの本能を取り戻す話」。もう一つは「家族から浮いていたお父さんが家族の絆を取り戻す話」です。そこはやはり童話なので、教育的な内容にきっちり着地します。
書くこともあんまりないくらい良く出来たお話しですし、素晴らしい努力の結晶ではあります。ただ、どうしてもイマイチな感じが拭えないのは、ひとえに結局お父さんキツネが散々周りを巻き込んで悪さしたのに一回も謝らないからです。盗みが最初から最後まで「野生の本能だ」で片付けられてしまうので、なんか喉の奥にひっかかりを感じます。基本的には「お父さんキツネが何かする」→「事件が起きてまずい事になる」→「お父さんキツネが乗り越える」というマッチポンプの繰り返しなので、ファンタスティックっていうよりは自業自得って感じしかしません。基本的な流れは本当に面白いんです。終盤のハンパもの達が自分たちの特技を持ち寄って作戦を組み立てていくところなぞ超熱血な展開ですし、「人間なんてやっちまえ!!!!」と感情移入しまくりです。なので、どうしても細かい部分が気になってしまいました。
また、ヘンリー・セリックの頭がおかしいんじゃないかと思うぐらいの狂気の人形劇「コララインとボタンの魔女」と比べてしまうと、ストップモーションアニメの技術的な部分も一枚劣ってしまいます。これは比べるのが可哀想で、ちょっと近々の相手が悪すぎました。
十分にオススメできる内容ではありますので見に行って損はありません。まだ全国で3館しかやっていませんが、子供でも楽しめますので是非連休最後の休みは親子連れでどうぞ。人形だけあって登場キャラクターは本当にみんな可愛いですよ。

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アメイジング・グレイス

アメイジング・グレイス

本日の2本目は

アメイジング・グレイス」です。

評価:(85/100点) – 気品ある歴史ものの傑作。


【あらすじ】

時は18世紀後半。イギリスの政治家・ウィルバーフォースは従兄弟の家に静養に訪れる。彼は長年にわたり奴隷廃止運動に注力するあまり心身共に疲弊していた。従兄弟に紹介された美女・バーバラは彼の運動の支持者で、すぐに意気投合する。彼女を部屋に招いたウィルバーはバーバラに催促され、彼の運動の歴史を語り始める。それは信仰と尊厳を巡る物語であった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ウィルバーの静養とバーバラとの出会い。
 ※第1ターニングポイント -> ウィルバーがバーバラと出会う。
第2幕 -> ウィルバーの回想。
 ※第2ターニングポイント -> ウィルバーとバーバラが結婚する。
第3幕 -> 奴隷廃止運動の結末。


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【感想】

本日の2本目は「アメイジング・グレイス」です。イギリスでは2007年の春休み映画で、4年遅れで日本に上陸しました。川崎のチネチッタで見ましたが、年配のお客さんでそこそこ埋まっていました。
本作は植民地政策全盛期の大英帝国が舞台になります。ご存じ賛美歌の名曲「アメイジング・グレイス」の作詞家ジョン・ニュートン牧師や英国史上最年少の首相ウィリアム・ピットとウィルバーフォースとの出会いからはじまります。
いわゆる史実もののスタンダードなフォーマットを使いつつ、本作では気力を使い果たし無力感に囚われるウィルバーがバーバラと出会い復活し、ついには本懐を遂げるまでを丁寧に描きます。歴史物としての圧倒的な正しさにプラスして、挫折したヘタレの復活劇に落とし込むわけです。つまり私の大好物ですw
もうとにかく「見て下さい!」としか言いようがないぐらい、ものすごい説得力とカタルシスが詰まった作品です。冒頭のウィルバーは信仰に厚く「女性になんか興味無い」というオーラビンビンで使命感に囚われています。それが若いのに物事をハッキリ言うバーバラに出会い、まるで懺悔をするように自らの失敗を吐露するわけです。お互い好きあってる男女が同じ部屋に夜通し居るのに、やることが徹夜で政治話という超真面目さ。そしてこの真面目さと真剣さがあるからこそ、後半に出てくる法案を通す「チート(=ずる)作戦」に「その手があったか!」と膝を打ち、そしてそこからはじまる歴史物としては稀に見るサスペンス展開にハラハラするわけです。
もちろん格調をだすために犠牲にしている部分もあります。一番大きい点でいえば、もし本作をもっと突き抜けた物にするのであれば、奴隷達が劣悪な奴隷船で運ばれている様子や農園で酷使されている様子を映像的に見せれば良いのです。そうすればもっと真に迫って「奴隷制度は本当に酷い」という感覚を観客にも植え付けられます。でもそこは奴隷廃止200周年記念のイギリス作品ですので、あんまり当時のイギリス人を悪く描くわけにもいきません。この「非人道的であるから廃止すべきである」という主張の根幹である「非人道的っぷり」を描かないというのは、テーマを考えれば随分ヌルい手法です。
本作での「非人道的っぷり」の描写は見た限り3カ所だけです。一つは最初の奴隷解放運動者との晩餐で鎖を見せられるシーン。次に、実際の奴隷船を見学するシーン。最後に議員達をクルージングに招いて奴隷船の前に付け、わざと悪臭をかがせるシーンです。この3シーンとも、直接的な描写はしません。ここが本作の上品さでもあり、そして不満点でもあります。
もしかしたらアフリカの人から見たら「イギリス人の自己憐憫」と思われてしまうかもしれません。ウィルバーは昔のイギリスの価値観(=奴隷を使って植民地で富を増やすのは当たり前)を真っ向から否定した人物ですので、ウィルバーの視点にするとどうしても「昔のイギリス」を否定しないといけなくなってしまいます。そこをギャグパートを挟んでやんわりと回避しつつ最終的には人道的な所に落ち着くという無難な方向で逃げたのはとても上手いと思います。
結果として本作は説教臭くないギリギリのバランスでのヒストリカル・ヒューマンドラマとして、大変すばらしい出来になっていると思います。

【まとめ】

「奴隷貿易」という歴史上の負の部分に立ち向かう男を丁寧に描いた傑作だと思います。それもただ歴史を追っていくのではなく、あくまでも挫折した男の復活劇という一般的な作劇に落とし込んでエンターテイメントにまで昇華しています。
おしゃれ映画の雰囲気でちょっと躊躇うかもしれませんが、まちがいなく見ておいたほうが良い作品です。公開規模が少ないですが、お近くで上映している場合は是非見てみて下さい。見た後にあらためてアメイジング・グレイスの和訳を見れば感無慮になること必至です。かなりオススメな作品です。
※余談ですが、本作で唯一がっかりしたのが最後に流れるアメイジング・グレイスのバグパイプ楽隊バージョンの映像です。ウィルバーが眠るウェストミンスター寺院の広場での演奏っぽいんですが、完全に合成で楽隊の輪郭が浮いてますw 世界遺産ですので観光客を避けて撮影するのが難しかったのかもしれませんが、ちょっと萎えました。せっかく上品な映画なのに、最後でちょっとずっこけますw

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英国王のスピーチ

英国王のスピーチ

東京マラソンを横目に今日も2本です。1本目は

「英国王のスピーチ」を見て来ました。

評価:(80/100点) – 正調ハリウッド式の師弟もの


【あらすじ】

キングジョージ5世の次男・ヨーク公は吃音症に悩まされていた。将来を考え治療をしなければならないと考えてはいるがどの医者もなかなか成果を上げらない。困ったヨーク公の妻・エリザベスは言語障害を専門とするライオネル・ローグを訪ねる。彼は王子であるヨーク公本人に自分を訪ねるよう要求し、対等な立場での治療を求める。不敬と思いながらも治療を一度試したヨーク公はその成果に驚き正式に治療を受けることとなる。こうして王子の特訓が始まった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ヨーク公アルバート王子の吃音症とローグとの出会い。
 ※第1ターニングポイント -> 正式にローグの治療を受けることにする。
第2幕 -> 父王の死と兄・キングエドワード8世。
 ※第2ターニングポイント -> ヨーク公がキングジョージ6世として即位する。
第3幕 -> 第2次世界大戦の開戦


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【感想】

本日の1本目は「英国王のスピーチ」です。ご存じ今年のアカデミー賞の最有力候補です。たぶんこのブログエントリーをアップした数時間後には作品賞と主演男優賞を持って行っているでしょう。個人的には「ソーシャル・ネットワーク」の方が遙かに好きだし出来も良いと思いますが、「アスペルガーの天才ナード」と「吃音症の善良王」のどっちがアカデミー会員向きかって言われたらそりゃあ、、、、ねぇw 特にアカデミー会員は映画を見もしないで投票しやがる人たちが一杯いますので、こういう「レッテル貼り」はかなり結果に響きます(苦笑)。
とはいえ、その評判と話題性からか劇場は9割方埋まっていました。

王道的な「カンフー映画」

本作は大変分かりやすく出来ています。見た直後のTwitterで「カンフー映画」と書きましたが、本作は本当にカンフー映画の「師弟もの」のフォーマットをそのまま使っています。しゃべりが下手な(=弱い)主人公が、変わり者の異端者だけどしゃべりについては天下一品な(=超強い)師匠と出会い、ユニークな修行でもって成長し、全国民への開戦ラジオスピーチ(=強敵)に打ち勝つまでのストーリ-です。きちんと途中には小ハードルも設定され、より段階を踏んで修行の成果が見えるようになっています。この喋りを空手にすれば「ベストキッド」ですし、フォースにすれば「スターウォーズEP4 新たなる希望」です。

本作は史実をそういったベタで王道的なストーリーに当てはめて描きます。

ですから、これはもうエンターテイメントのど真ん中でありキングジョージ6世とエリザベスの夫婦愛という非常に当たり障りのない感動話と相まって気品たっぷりな作品になっています。なので、あんまりツッコミを入れるのも野暮です。これは「カンフー映画」というジャンルムービーを「歴史もの」と足して一般向けにアレンジした「マッシュアップ作品」なわけですから。もちろんカンフー映画好きとしては大いに不満や物足りなさはあります。

まず第1の不満は修行シーンが明らかに短すぎることです。前半に横隔膜を鍛えたり、転がりながら発声したり、ルックス的に面白い修行がいくつか出てきます。とはいえ結構ダイジェストでさらっと流されてしまうため、いまいち修行によって強くなった感じがしません。もちろんFワードや下品な言葉を連呼するところは多いに笑わせていただきましたw コリン・ファースの堅い雰囲気で笑いを持って行くのはさすがです。

不満の2点目はライオネル・ローグの「異端っぷり」があまり描かれないことです。特に作品の冒頭で「王道的な医者」がやる治療が「ビー玉を口にほおばって喋る」という見た目が十分に変なものなので、その後のライオネルの治療がどこまで「当時の常識として変なのか」が良く分かりません。史実として難しいのかもしれませんが、やっぱりここは「正式な医者がやる治療」と「ライオネルがやる異端な治療」を明確に対比して貰わないと後半の熱血展開が半減してしまいます。ミヤギさんしかり、オビワンしかり、それこそ丹下段平しかり。私達は「そのジャンルのど真ん中から厄介払いされた変人師匠」が大好物です。ジェフリー・ラッシュの優しい顔と相まって、いまいちライオネルの変人っぷりが足りないような気がしました。とはいえ、きちんと「極度のシェイクスピア・マニア」という変態性を描いてはいますので、魅力的なのは間違いないです。ちょっと物足りないぐらいの感覚です。

不満点を書こうとしたらやっぱ面白かったっていう方が先に立っちゃってますが(苦笑)、全体的に「もう半歩足りない」という喉の引っかかりみたいな気持ち悪さはありました。いまいち突き抜けるカタルシスが無いんです。もちろんカンフー映画としての「燃え」の代わりに「感動」させに掛かってきているので仕方が無いんですが、エンタメ映画としてはもうチョイです。

【まとめ】

好きか嫌いかで言えば間違いなく好きですし、事実私は2回ほど泣いてますw 本音を言うとアカデミーは「ソーシャル・ネットワーク」にあげたいですが、本作がとっても去年みたいに「え~~~~っ」って感じにはなりません。これならアカデミーを持って行っても仕方がないです。
アカデミー賞後だと劇場が今以上に混んでしまうかも知れませんが、一見の価値があるのは間違いないですし2時間の間微笑ましく見られる良心的な作品なのもたしかです。とりあえず押さえておきましょう。オススメです。
※随所で指摘されていますが、日本の宣伝コピーの「内気な王」っていうのは変です。「内気」と「吃音症による自信喪失」はまったく別物ですのであしからず。

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