NINE

NINE

本日は二本観てきました。一本目は

NINE」です。

評価:(25/100点) – ドキッ。セレブだらけのカラオケ大会、ポロリもあるよ(※ただし後ろ姿)


【あらすじ】

かつて傑作をいくつも生み出した映画監督のグイドは、近作でスランプに陥っていた。彼は地元のイタリアで再起をかけた映画「イタリア」の撮影を決める。しかしアイデアが浮かんでこず、チネチッタの撮影セットや衣装だけが決まっていく。耐えかねた彼は愛人を呼んで現実逃避をするが、愛人の旦那に見つかり、妻にも愛想を尽かれて逃げられてしまう。さらには脚本が無いことを理由に主演女優にも逃げられ、彼はやむなく「イタリア」の制作を断念する。それから二年後、再会した衣装デザイナーにハッパをかけられ、彼は惨めな自身をモデルにして「愛の復活」を描く「NINE」を撮り始める。


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【感想】

さて巨大バジェットで有名女優をかき集めたある意味大作映画の「NINE」です。ご存じ1950年代を代表する巨匠・フェデリコ=フェリーニのキャリア転換点になった「8 1/2」を原作としたブロードウェイミュージカルをさらに再映画化したという屈折した背景の作品です。監督は傑作・シカゴで一躍映画界に躍り出たロブ・マーシャル。「シカゴ(2002)」と同じく定番ミュージカルの映画化で夢よもう一度といったところでしょうか?

ストーリーについて

このストーリーという部分が相当酷いです。なにせ上記のあらすじが完璧に全てです。「8 1/2」を元ネタにしておいてどうしてここまで駄作が作れるのかちょっと信じられません。実は今確認のためDVDで「シカゴ(2002)」を見ながら書いているのですが、やはり本作であきらかにロブ・マーシャルが失敗している事があります。それはミュージカル・パートの使い方です。

昔のミュージカル映画が好きな方には常識だと思いますが、ミュージカルにおける歌というのは台詞と同じです。例えば会話のシーンであれば二人の掛け合いの歌が流れ、法廷のシーンであれば弁護士がメインで歌って判事や傍聴席が合いの手を入れます。あくまでも台詞の代わりとしての歌なので、間奏で通常の会話が挟まったりします。これがミュージカル映画です。

ところが、、、本作ではミュージカル・パートが単なる歌の機能しか持っておらず、話に何にも寄与していません。歌が始まるとストーリーが止まってしまうんです。そのため、極端な話をすれば、ミュージカル・パートを全てカットしても物語に何の影響もありません。これは大問題です。要はミュージカル映画の体をなしていないんです。とはいえ舞台が専門のロブ・マーシャルがこんな基本を分からないはずが無いと思いシカゴを見直しているんですが、やはりシカゴではきちんとその点は出来ていました。むしろ歌で物語が綺麗にサクサクと進んで行く、ミュージカル映画の理想型でした。ということは、、、ロブ・マーシャルが劣化した!?、、、、というのは冗談として、やはりカラオケ大会的な部分を重視したということなんだと思います。また、ミュージカルパートで物語が進まないせいで、歌がただのキャラクター・ソングになっているように見えます。有名女優が出てきてキャラソンを歌うだけの映画。しかも結構みんな歌が下手。悪夢のようです(苦笑)。

そして今更なんですが、「8 1/2」が何故傑作たり得ていたのかという大きな要因に、「8 1/2」がメタ構造を取っていたという点があります。要は劇中で苦悩するグイドがそのまんまフェリーニの苦悩になっていて、一種の精神治療というか、独白になっていたわけです。しかし本作にその構造はありません。まぁ当たり前ちゃあ当たり前です。だってフェリーニの独白をリメイクしてるのに、ロブ・マーシャルの独白に変えられるわけがないですから。なので、そもそもリメイク企画自体がたぶん失敗なんだと思います。

【まとめ】

残念ですが、「有名人を大勢使えば良い映画になるとは限らない」という見本になってしまっています。見ると分かりますがソフィア・ローレンもケイト・ハドソンもファーギーもニコール・キッドマンも大して物語に絡んできません(苦笑)。せっかく題材がすばらしいのに、ただのカラオケ大会になってしまっていました。
強いて良いところをあげればペネロペ・クルスとマリオン・コティヤール が格好良いってことでしょうか。さすがはゲイの監督だけあって、女性に下品さや色っぽさが無く、格好良さが前面に出てきます。
まぁ、、、映画館で見る価値はないですよ。気になった方はDVDを待つかサントラを買って下さい。私も映画としては最低レベルだと思いますが、たぶんサントラを買います。
劇中でグイドに「みんな脚本脚本って五月蠅い!!!脚本がそんなに大事か!!!」という台詞があるのですが、私は大事だと思います(笑)。ちゃんとしたメタ構造を撮れないのに、本作がつまらない件の言い訳だけ劇中でやられても、、、、(苦笑)。

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渇き

渇き

いまさらですが「渇き」を観てきました。

評価:(75/100点) – 変テコながらハイテンション。


【あらすじ】

神父のサンヒョンは己の無力感からエマニュエル・ウィルスの被験者となる。死亡率の高いEV実験の中で、サンヒョンは発症しながらも生き残った初めての被験者として奇跡の象徴となる。しかし彼が生き残ったのは、輸血を受けた謎の血液の効果だった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> サンヒョンがEV実験の被験者となる。
 ※第1ターニングポイント -> サンヒョンがヴァンパイアになる
第2幕 -> サンヒョンとテジュの浮気
 ※第2ターニングポイント -> テジュがヴァンパイアになる。
第3幕 -> 結末


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【感想】

今日はパク・チャヌクの「渇き」を見てきました。観ようみようと思ったまま時間が合わず、気付いたら公開終了だったので滑り込みです。
とても変テコでハイテンションで、そして凄まじいフィルムでした。
大ざっばなジャンルとしてはモンスターホラーものです。神父であるサンヒョンがひょんなことからヴァンパイアとなり、聖職者としてのモラルとヴァンパイアとして生きるのに必要な血の獲得の間で揺れ動きます。そしてその均衡を崩す存在としてのテジュ。崩れるまでの苦悩と崩れた瞬間からの開き直り。まるで前半と後半で別の映画を見ているようで、それでも確実にサンヒョンの価値観だけがまっすぐに芯が通っています。分かりやすいモンスターとして描かずに、まるでヴァンパイアであることを病気か障害のように苦悩する人間像というのは結構珍しかったりします。
ヴァンパイアみたいな怪物は「十字架が嫌い」「神の敵」みたいな位置でキャラ付けをされることが大変多いのですが、本作ではむしろ神に忠実な人間くさい男です。このアイデアは中々です。
演出面ではかなりぎこちないカメラワークを使ってきまして、とても無骨で荒い印象を受けます。それは本作のトーンにばっちりです。
またソン・ガンホのすこしやつれた顔がまるで苦悩が張り付いているように見えてきてとても嵌っていますし、キムオクビンの終盤でがらっと変わる演技も本当に素晴らしいです。手放しで褒められるような脚本ではありませんが、しかし丁寧な人間描写と的確な伏線運びはさすがのパク・チャヌクです。
ゴア描写有りの怪奇映画でここまで人間ドラマを描かれてしまっては、正直そんじょそこらのジャンルムービーでは太刀打ちできません。そういった意味で、文句なくオススメできる良作です。ゴア描写が平気な人にだけですが(苦笑)。

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スイートリトルライズ

スイートリトルライズ

今日は一本です。サービスデーで1,000円でしたので、

「スイートリトルライズ」を見ました。

評価:(10/100点) – 「お家に帰ろう」なメンヘラ雰囲気映画。


【あらすじ】

瑠璃子と聡は結婚三年目のおしどり夫婦である。しかしそれは見た目だけ、夫との生活にドキドキが足りないと感じた瑠璃子はふと知り合った春夫と浮気を始める。一方、夫の聡も大学のサークル同窓会で再開した後輩・しほと浮気をする。しかし春夫が彼女と別れて本気で自分にアプローチしてきたことに尻込みし、瑠璃子は夫の元に返る。その事情を悟り、聡もまた浮気をやめる事を匂わせる、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 夫婦の日常。
 ※第1ターニングポイント -> 瑠璃子の個展に春夫が訪ねてくる。
第2幕 -> 浮気。
 ※第2ターニングポイント -> 春夫が文と別れる。
第3幕 -> 瑠璃子の決心。


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【感想】

本日は江國香織原作の「スイートリトルライズ」です。あんまり見る気は無かったんですが、1000円だったので入ってみました。小さな箱でしたが、女性を中心に結構お客さんが入っていました。ホワイトデーに女性だけで江國香織を見に来てる時点で「お察しください」なわけですが、それを言ったら私もなのであまり言及しません(笑)。

さて、本作については実はあんまり言及するようなネタもありません。というのも私の大嫌いな「雰囲気映画」だからです(苦笑)。
まず、本作のストーリーは上記の「あらすじ」が全てです。瑠璃子が夫婦生活に満足出来なくなって、ドキドキを求めるために浮気するが、相手が本気になったのにビビって元のサヤに戻る話です。このストーリーなら普通は瑠璃子に変化があるはずです。例えばポジティブ展開なら夫と積極的にコミニュケーションをとるようになったり、ネガティブ展開なら現状に歯を食いしばりながら耐えるようになったり。成長でも諦めでもなんでもいいんですが、必ず何かしら変化しないと物語にならないわけです。

ところが、、、本作ではそういう描写は全くありません。もっというと、そもそも瑠璃子と聡が「愛し合っている」という描写が無いんですね。だから初っ端からまったく乗れないわけです。聡はゲーマーで家に居るときは自室に籠もりがちで、一方の瑠璃子はわけ分からないことをブツブツ言ってる不思議ちゃんです。結局この2人がなんで夫婦なのかという肝心の前提が全っ然見えてこないんです。せめてオープニングの5分ぐらいで結婚前の恋愛状態を見せるとかの「愛し合っている描写」が無い限り、その後の展開がまったく意味の無いものになってしまいます。たぶん本作は「愛し合っていた2人が、結婚3年目にしてお互いに慣れすぎて愛を実感できなくなってしまった」っていう状況のもとで「いろいろあって互いの愛を実感できるようになる」「自分の(精神的な)安息の地としての家族/我が家へ戻る」って話をやろうとしてると思います。でも前提状況が描けていないために、さっぱり意味不明な映画になっています。

そんなわけ分からない話の中でも、本作のテーマを考える上で完全に失敗していると思うのは聡の描写です。聡が夫婦関係に不満を持っている様子が一切描かれませんので、少なくとも映画を見る限りでは聡が浮気したのは単にしほに誘惑されたからです。これってテーマにまったく合ってないんですね。夫婦がお互い浮気するのはいいんですが、一方は夫との恋愛に物足りなさを感じ、一方は単なる浮気(笑)。つまり根本的に浮気した理由がずれています。これじゃあ「互いの愛を実感」するのは無理です(笑)。なにせ、本作のなかで聡は浮気を辞めていません(苦笑)。いいのかそれで、、、。

【まとめ】

え~ここまでの文章であえてストレートな表現を避けてきたんですが、最後に身も蓋もないことを書きます。

 馬鹿いってんじゃないよ 
 お前と俺は ケンカもしたけど 
 ひとつ屋根の下暮らして来たんだぜ
 馬鹿いってんじゃないよ 
 お前のことだけは
 一日たりとも忘れたことなど なかった俺だぜ
 (以下略)

もうお分かりですね。本作は、ヒロシ&キーボーの名曲「3年目の浮気」を再解釈しただけです(笑)。再解釈と言っても、サイフォンやテディベアといったOL風オシャレ要素を足しただけ。ところが、中谷さんの演技の問題か演出家の問題かはわかりませんが、オシャレと言うよりは瑠璃子が単なるサイケな変人にしか見えないんです。しかも聡は普通に浮気。テーマが描けていない以上は結局雰囲気しか無いので、もうどうにもなりません。中谷さん以外の役者さんは結構良かったと思うんですが、、、ご愁傷様です。
作中で聡が瑠璃子を「彼女には実在感が無いんだ」と評しますが、それ言っちゃうと本作の世界全体に実在感がありません(苦笑)。この台詞が出た瞬間に「お、メタ構造の日本版レボリューショナリーロードか?」と期待した自分が恨めしいです。あ~~~8時間前にタイムリープしたい(笑)。
本作が気になった方はレンタルで「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」を借りてきて、本作を無かったことにするのがオススメです!!!

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時をかける少女(2010年版)

時をかける少女(2010年版)

2本目は

「時をかける少女」です。

評価:(85/100点) – これこそアイドル映画。


【あらすじ】

ある日、酒屋の吾郎が芳山和子に一枚の写真とラベンダーの花を手渡す。それを見た和子は放心状態で歩き車に轢かれてしまう。事故の昏睡から目覚めた和子は、かつて深町によって消された記憶を取り戻す。そして娘のあかりに自身の代わりに彼女が開発したタイムリープの薬を使って深町に会いに行くよう頼む。しかし、あかりはタイムリープする日付を間違えてしまった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 和子が記憶を取り戻す。
 ※第1ターニングポイント -> あかりがタイムリープする。
第2幕 -> 深町を探す。
 ※第2ターニングポイント ->深町に出会う。
第3幕 -> 1974年、最後の一日。


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【感想】

さて、二作目はもちろん「時をかける少女」です。夜の回で見てきましたが、すごい人の入り方でした。その後、つい今しがたまで「大林版・時をかける少女(1983)」と「細田アニメ版・時をかける少女(2006)」を見返してました。そうしないと本作を褒めるための理論武装が出来ません(笑)。
本作は「大林版・時をかける少女」の直接的な続編となっています。「大林版・時をかける少女」は原田知世の神懸かり的な可愛さと大林監督のカルトな表現技法が使われている、ものすごくイビつで変わった歴史的大傑作です。この大林版の時をかける少女への心酔度によって、おそらく本作の評価は180度変わります。私はこれから本作を絶賛いたしますが、ちょっと言い訳がましくなるのをご了承ください(笑)。
また前提として、私は大林版をリアルタイムでは見ていません。
時をかける少女に触れた順番は
「内田有紀版」→「筒井康隆小説」→「大林版」→「安倍なつみ版」→「アニメ版」→「本作」
となります。
なお、以後の文章では「大林版・時をかける少女(1983)」のことを「前作」と呼ばせていただきます。

ストーリーテーマについて

本作には二つのストーリーがあり、それが同時並行で進んでいきます。一方はおそらくほとんどの方が絶賛するであろうストーリーであり、もう一方は賛否が180度分かれるであろうストーリーです。まずは前者を見てみましょう。

□ ストーリー1:ラブストーリー

ストーリーの一つは、新キャラクターの芳山あかりがタイムリープした事で起こる過去人・涼太との恋愛話です。非常にオーソドックスでして、過去に影響を与えてはいけない未来人が過去の人間に惚れてしまうことから起こる悲恋話です。ここに若い頃の両親との出会いが合わさり、疎遠だった自分を捨てた父との関係にも影響を与えます。このパートでは仲里依紗の顔のアップショットが多用されます。これぞアイドル映画の醍醐味。とにかくいろいろな表情の仲里依紗がスクリーンに映し出され、それがものすごく魅力的に撮れています。
また未来人を”拾ってしまう”涼太の造形もオーソドックスで、ボンクラなダメ人間で映画や特撮に心酔しているオタクです。ですが彼が熱心に撮影する自主映画「光の惑星」の撮影を手伝ううちに、段々とあかりは涼太に惚れていきます。そして「ある事件を阻止しようとするが、過去を変えてはいけないために阻止できない」というお約束もあります。この全ての恋愛話の最後に、前作の和子と同様に記憶を消されて恋心も失われてしまいます。しかし、前作には無かった”救い”が本作には用意されています。安直に見えるかも知れませんが、私はこの救いのシーンで完全に号泣モードに入りました。
私はこちらのストーリーが本作のメインだと思います。

□ ストーリー2:大林版・時をかける少女の続報・回収

二つ目のストーリーは、芳山和子と深町一夫を巡る再会の話です。もう文字で書くだにセンシティブな話題です(笑)。本作では吾郎が持ってきた和子と一夫の2ショット写真と交通事故のショックで、和子が消された記憶を取り戻します。そしてそこから、和子と一夫の再会ストーリーが始まります。
あかりが過去に戻ると、和子はいきなり尾道(本作では東京?)から横浜に引っ越しています。そして新キャラ・長谷川政道に恋をしています。作品単体としては「娘が若い頃の母に出会いその恋愛観を見ることで、母も人間であることを少し理解する。」という比較的良い話です。ただですね、ここに前作の熱狂的なファンが拒絶反応をしめすであろう「引っかかり」が数点あります。
そもそも「原田知世 役」の石橋杏奈が原田知世と比べて可愛く無いというのが一点目です。2010年パートの和子は前作では出てきてませんから、安田成美については何の問題もありません。
おそらく石橋さんやスタッフは嫌だと思いますが、「時をかける少女」を制作し学生時代の芳山和子を演じる以上は、今後未来永劫、原田知世との比較は避けられません。そして前作の活発なショートヘアの芳山和子が、かなりおとなしめの長髪少女に変わっています。これは前作のファンとしてはわりとショックです。尾道という世界観が無くなったのもかなり大きいです。
二点目は深町君の未来描写です。前作では「緑の少なくなった未来からラベンダーを見つけるために来た」のが深町君です。本作の中盤で未来の深町君が映るんですが、なんというか、、、、SFとして致命的なまでに夢の無い手抜きな未来世界がCGで広がっています。これがセンスが皆無でダサ過ぎます。また石丸幹二というのもちょっと違和感があります。深町君はもっと無邪気で好青年なイメージがあったので、石丸さんはあんまり合ってないような気がします。
三点目は吾郎の扱いです。前作では吾郎と深町君と和子で仲良し3人組だったのに、本作では和子が引っ越した関係でほとんど出てきません。前作や原作をみて和子と吾郎がくっつくと思っていた人にとっては、いきなり新キャラが和子と結婚するのは納得が出来ません。
四点目が和子と深町君の再会です。前作は好きなのにすれ違うしか無いというシチュエーションが悲恋だったわけで、記憶を無くしてしまったのに偶然すれ違うことが肝だったと思います。再会させたら前作から27年にわたる余韻が台無しです。
そんなわけで、こちらのストーリーをどう評価するかはかなりパッカリ分かれると思います。いままで「時をかける少女」を見たことが無い人には普通に問題のないストーリーですが、大林版のファンであればあるほど、上記のようなノイズが猛烈に気になります。

そのほか。

本作で絶賛モードの私でもどうしても納得出来ないことがあります。
それは、エンディングを仲里依紗が歌っていないことです。
なんで「いきものがかり」なんじゃ!!!このタイアップで誰が得をするんだ!!!アイドル映画なんだから、最後は大林版のオマージュとして倒れてた仲里依紗がムクッと起き上がっておもむろに「時をかける少女」を歌うべきでしょ!!!
この点に関しては私は一切擁護の言葉を持ちません(笑)。完全に失策です。「なくもんか」を許した私でも、これでいきものがかりが嫌いになりました(笑)。

【まとめ】

前作との関連ではネガティブな部分ばかり取り上げましたが、もちろんポジティブな部分もあります。桜並木を歩くシーンや最後に深町とすれ違うシーンは明らかに大林版へのオマージュとして成功している部分です。
冒頭で85点としたのは、あくまでも仲里依紗のアイドル映画としての点数です。本編が100点で、エンディング曲無しなので-15点(笑)。ここに前作への心酔度が加わって、人によっては100点になったり-100点になったりします。
ですから、確かめる意味でも是非劇場で見てみてください。大林版を見たことが無い方は、まずレンタルDVDで大林版の鑑賞をオススメします。私も大林版が結構好きだったという意外な発見がありました。

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ハート・ロッカー

ハート・ロッカー

今日はある意味で一番の話題作、

「ハート・ロッカー」を観て来ました。

評価:(60/100点) – これがアカデミー監督賞の最有力候補なのか!?


【あらすじ】

ジェームズ軍曹はイラクの爆弾処理班「ブラボー部隊」のリーダーとして赴任する。マッチョで冷静なサンボーン軍曹と気の弱いエルドリッジ技術兵と共に、ジェームズは数々の爆弾を処理していく、、、。


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【感想】

本日観ましたのは「ハート・ロッカー」です。おそらくこのエントリーを書いている6時間後には女性初のアカデミー監督賞受賞作として歴史に残るのではないでしょうか?そういった意味では今もっともホットな作品です。
皆さんご存じの通り本作は全米映画批評家協会賞の作品賞・監督賞・主演男優賞を獲って一躍アカデミーの有力候補に躍り出ました。キャスリン・ビグローとジェームズ・キャメロンの元夫婦対決というキャッチーなコピーも相まって、その知名度が急上昇しています。
実際に私が見に行った際も、夕方の回は完全に満員完売で、夜の回も最前列以外は全席埋まっていました。元がインディ映画なので箱が少ないという問題はあるものの、それにしても物凄い入り方です。マナーが悪い客が結構いましたので、それだけアカデミー賞の話題によって普段映画を観ない人まで来ているという事だと思います。
もちろん前評判の高さから、私の期待値も相当高かったです。それ故に観ている最中はちょっと信じられませんでした。これが数々のマイナーなものからメジャーなものまで映画賞を獲っているという事実。そしてアカデミーでも作品賞(プロデューサー賞)と監督賞で最有力候補に挙げられるという事実。その事実こそが本作を読み解くキーワードであり、そして現在のアメリカが抱える病理のようなものだと思います。それを順を追って考えてみましょう。

本作の大枠について

いきなりですが、本作の冒頭である文章が表示されます。ニューヨークタイムズが出版している「War Is a Force That Gives Us Meaning(戦争は我々に存在意義を与える力)」というベストセラー本からの一節で、「The rush of battle is a potent and often lethal addiction, for war is a drug.」という文です。直訳しますと「戦いの連続は良薬であり、時に中毒を引き起こす。戦争とは麻薬だ。」となります。これが本作で描かれる全てです。
テーマをそのまま言葉で表すのは最も避けるべき演出の一つですが、恐ろしいことに本作は冒頭でいきなりテーマをそのままずばりの文章で説明してしまうわけです。なんか演出そのものをいきなり放棄しているというか、映画であること自体を放棄しているように見えます。ところがこの「映画演出としての致命的な下手さ」が、観ている内にだんだん実は意図的なのでは無いかと思えてくるわけです。
本作にはいわゆる三幕構成のようなものはありません。もっというと、話の展開すらロクにしません。ただひたすらジェームズ軍曹とブラボー部隊の爆弾処理を淡々と描くだけです。ですので率直に言って退屈です。物凄く退屈です。その退屈っぷりはかなり度を超していまして、はっきりと観ていてイライラしてくるレベルです。しかしですね、、、どうもこの反応こそが監督の意図のような気がするんです。
というのも、この作品は常にグラグラと揺れるカメラでドキュメンタリータッチな映像が流されるわけです。ここに先ほど書いた「映画としての演出の放棄」が加わり、それがドキュメンタリー感を補強する効果を持ちます。そして別に劇的な事がおこらないというのもある意味では現実的です。
要はですね、本作は観客に戦場を疑似体験させているわけです。そのために意図的に映画を退屈にして、観客に緊張とストレスを与え続けるわけです。結局二時間近くスクリーンには緊張する爆弾処理の様子が映されているわけで、そもそも面白くなんてなりようがないんです。であればこそ、おそらくこの観客のイライラは意図的なものの筈です。すなわちこの「ハート・ロッカー」という映画そのものが、実はアバターと同じく「アトラクション」なんです。ただし、アバターが「楽しいパンドラ観光ツアー」だったのに対して、ハート・ロッカーは「悲惨な戦場ストレス体験ツアー」です。
私が先ほど「現在のアメリカが抱える病理」と書いたのはまさしくこの部分です。つまり、あれだけ「世界の警察」面してイラク戦争を強行しておきながら、実はアメリカ人の大半が戦場のなんたるかを映画アトラクションにしないと理解できないほど薄っぺらにしか考えていなかったということです。そしてこの作品が高い評価を受けているということは、このアトラクションをみんな良くも悪くも気に入ったということです。
注意しなければならないのは、本作には特別政治的な描写は無いということです。というよりも、舞台がイラクであるという必然すらありません。劇中に出てくるイラク人・イスラム教徒は、はっきり言ってゾンビと大差ない描かれ方ですし、限りなく抽象化された「驚異となる敵」以上の存在ではありません。そして、本来であれば爆弾を800個以上解体した英雄のジェームズは、しかし全く英雄的には描かれません。むしろ狂人(=戦争中毒者)として描かれます。妻と子供と暮らす平凡な日常に嫌気が差し、彼は自ら危険な戦場へ志願し続けます。
この作品は救いのない要素で埋め尽くされていて、ただただ緊張とストレスを観客に与え続けます。そういった意味ではもしかしたら反戦映画なのかも知れません。少なくとも本作を観て「超面白かった。サイコー!!!」とか感じる人とは友達になれないと思います(苦笑)。

【まとめ】

タイトルの「ハート・ロッカー(The Hurt Locker)」は「棺桶」を表すジャーゴンで、転じて戦場そのものを表現しています。
そのままずばり、これはこのアトラクションの名前なわけです。
ここまで長々と書いておいてなんですが、、、これって映画として果たして出来が良いのでしょうか? アトラクションとしてはOKだと思うんですが、これがアカデミー作品賞・監督賞の有力候補と言われるとちょっと考えてしまいます。これなら「イングロリアス・バスターズ」の方が数倍面白いですし、なんなら「しあわせの隠れ場所」だってコレよりは面白いです。
「アバター」と「ハート・ロッカー」という両極端なアトラクションがアカデミー賞を争うという構図が、ハリウッドの現状を如実に表しているように思えます。
もし極限のイライラを体験したいという方は止めませんが、エンターテインメントでは無いことを十分にご理解の上でのご鑑賞をオススメします。きっと今週末はアカデミーの影響で入ったカジュアルな観客が、呆然としながら劇場を後にする様子を多く見ることになると思います(笑)。

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記事の評価
しあわせの隠れ場所

しあわせの隠れ場所

2本目は

「しあわせの隠れ場所」をみました。

評価:(75/100点) – 嘘のような本当の話の脚色。


【あらすじ】

マイケルはスポーツの才能を見込まれ、ブライアクレスト・クリスチャンスクールというお坊ちゃん高校に入学する。家族も生活する家も持たない彼は、大富豪のリー・アン・トゥヒーに招かれトゥヒー家の居候となる。父は生後一週間で居なくなり母親はドラッグ中毒という環境で幼い頃から州の保護を受けていたマイケルにとって、トゥヒー家は初めて味わう優しい家族であった。やがて彼はトゥヒー家のバックアップでアメフトの才能を開花させ、数々の名門大学からのスカウトを受けることになる。


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【感想】

さて、二本目はアカデミー賞ノミネート作品の「しあわせの隠れ場所」です。原題は「The Blind Side(=死角)」。チームの大黒柱であるクォーターバックの死角を守るオフェンシブタックルのポジションを表しています。
本作はとても丁寧な描き方でもってマイケルが家族を得て心を開いていく課程が描かれます。ちょっと劇的過ぎるのとどう考えてもリー・アン・トゥヒーが聖人として描かれすぎてるように見えるんですが、それは脚色部分として置いておきましょう。サンドラ・ブロックの大根演技を差し置いても十二分に面白い人間ドラマです。
そして彼が心を開く課程とアメフトで才能が開花する課程がほとんどシンクロして描かれるのも上手いです。
フローズンリバーほどではないですが、さらっと見られる良い話という意味では近作では一番かも知れません。
実は本作で一番不思議なのはサンドラがゴールデングローブ賞・ドラマ部門の主演女優賞を取ったことです。放送映画批評家協会賞はメリル・ストリープとの同時受賞なのでまだ分からなくはないのですが、正直なところ演技ではなくてキャラクターの魅力だけでとってるんじゃないかと思う部分です。たしかにドラマ部門の多作品が微妙だったのはあるんですが、それにしてもどうかなと。2007年のプロレス大賞MVPで、本来なら受賞者無しの所を過去の功績で三沢さんにあげた時のような微妙な感じがします。
もちろん嫌いじゃないですし、45歳にしては驚くほど綺麗ですけどね。
本作はインビクタスと一緒に見るのがオススメです。インビクタスで描いていなかった試合の部分が、本作ではかなり上手く描かれています。

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記事の評価
ニューヨーク、アイラブユー

ニューヨーク、アイラブユー

今日も二本です。

一本目は「ニューヨーク、アイラブユー」です。

評価:(35/100点) – 雰囲気オムニバス地獄


【あらすじ】

なんかいろいろ。


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【感想】

今日はニューヨーク、アイラブユーを見てきました。でまぁこれがなんとも言えない感じのオムニバスでして、とにかく何が言いたいか良くわからない美談っぽい話が延々続くという地獄のような内容でして、面白くなさ過ぎて腹も立たないという壮絶な内容でした。
どこがダメと逐一具体的にツッコむのは出来るんですが、そういう事よりももっと根本的な問題、すなわちこの映画(というか映像の羅列)が果たして何のために作られて何を目的としてるかがまったく分からないわけです。
一応オムニバスの中では岩井俊二監督のパートとシェーカル・カプール監督のパートは楽しめました。でも別にこのオムニバスに入っている意味が分からないですし、そもそもニューヨークと全然関係無い話なので何とも言えません。いっそのこと最初から「ショート・ショート」として映画祭とかに出せばいいのかなとか思ったりしました。
正直なところ、実際には点数もつけられません。というか、この映画自体が一つの作品として成立しているとは思えません。
なのでちょっと書きようが無くてこんな変な駄文を徒然と書いてみました。
あとこれは作品とは直接関係ないのですが、私の座った列の端っこの中年3人組が、開始直後に缶チューハイを音たてて開けて酒盛りを初めて騒ぎ始めたときはちょっと驚きました(笑)。いままでいろんな面白い観客を見たことがありますが、酒盛り宴会はかなり上位です。ちなみに私が見た過去最強の客は、上映中に携帯電話で仕事の話を始めて、カバンからノートPCを取り出しておもむろにメールし始めたナイスミドルです。
こういうおしゃれ系の映画は面白い客に遭遇する確率が高いので、そういった不思議体験をしたい方には断然オススメです!!!

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記事の評価
ルドandクルシ

ルドandクルシ

本日の二本目は

「ルドandクルシ」です。

評価:(60/100点) – バカ兄弟が調子をこく話


【あらすじ】

ベトとタトはメキシコ郊外のバナナ園で働く兄弟である。ある日彼らの町にサッカー選手のスカウトを仕事とするバトゥータ(指揮者)と名乗る男が訪ねてくる。彼はタトをスカウトし、メキシコシティへと連れて行く。FWととして一軍入りしたタトを見て、バトゥータは兄のGKベトもスカウトする。こうしてベトとタトの兄弟はそれぞれルド(頑丈)とクルシ(自惚れ屋)として人気選手になっていく。しかし兄はギャンブル、弟は女性に嵌り、身を崩していく、、、。


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【感想】

本作はメキシコの新会社「チャ・チャ・チャ・フィルム」の初作品です。この制作会社を立ち上げたのは「アルフォンソ・キュアロン(ハリー・ポッターとアズカバンの囚人の監督)」「アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(バベルの監督)」「ギレルモ・デル・トロ」とメキシコのトップ監督3人です。特に私はヘルボーイとパンズ・ラビリンスでギレルモ・デル・トロの大ファンになっていますので、これはもう駆けつけるしかないというわけです。

本作のプロット

本作のプロットは予告編でほぼ全部流れています。田舎で暮らすバカな兄としっかり者の弟が都会で人気者になって調子に乗りまくり、結局は挫折を味わいます。作品中では兄のルドが本当にどうしようもなく描かれまして見ててイライラするレベルです。一方の弟・クルシは本当に可愛そうで、どっちかというと悪女に嵌って遊ばれてしまう被害者です。ところがそこはメキシコ映画、互いに「母への愛」「家族への愛」が人一倍強くダメダメなのにちょっとハート・ウォームな感じに着地します。
私はカルロス・キュアロン監督を存じ上げていないのですが、描き方で工夫しているなと思う部分が随所にありました。
一番初めに気付くのは、ロクにサッカーのシーンを映さないことです。本作ではルドとクルシは最初から天才という設定です。ところが当然両方とも俳優さんなのでそんなスーパープレーは出来ませんし、すぐにボロが出てしまいます。そこでプレー映像をほとんど映さず、実況や観客席の様子で適当に流します。これは結構良くも悪くもとれる手法で、よく言えば上手いごまかしなんですが悪く言えばサッカーがまったく描けていないとなります。でもCGを使っていかにもな画を撮られるよりはマシだと思います。
次にストーリーの構成です。ルドとクルシは中盤には早くも身を崩し始めるのですが、これが決定的になるのが妹が麻薬王と結婚する場面です。両者の共通の目的だった「愛する母のために家を建てる」というのが婿様にあっさり達成されてしまい、両者が母への愛を証明する機会を奪われてしまいます。そしてこの機会損失と同時に両者が決定的に追い詰められます。この流れは絶妙です。
とまぁ巧さは目立つのですが、最終的には微妙な印象を持ってしまいました。やはりサッカーシーンの弱さがありますし、何より元から天才っていうのがスポ根的な意味で残念な感じです。結局この一連の物語を通して二人に「何が残ったのか」or「何を得たのか」っていうところがあまり分かりません。ただ「調子に乗って挫折した」という事実を見せられるだけなので、ドラマがあんまり残らないんです。ルドもクルシも魅力的なキャラクターなので、もっと転がせたのではないかと思います。

【まとめ】

ルドもクルシも本当にキャラクターが立っていて、役者さんはすばらしい演技を見せてくれます。PKを使った伏線の張り方もベタベタですがちゃんとしています。それだけにあまり突き抜けていない作品というか、安定したエンターテインメント感を強く感じました。ハリウッド的と言ってしまっても良いかもしれません。もっとはじけたメキシコ映画を想定していたので思いのほか普通でビックリしました。オススメはオススメなんですが、単館映画ですのでDVDが出てからでも良いかもしれません。
わざわざ遠出してまで見るほどでは無いと思います。

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