今日も今日とて二本です、一本目は、
行定勲の「パレード」を見ました。
評価:
-架空の問題設定で描く箱庭の世界、、、。【あらすじ】
世田谷のとあるアパートの一室で、4人の男女がルームシェアをしていた。
映画配給会社勤務の直輝、大学生の良介、イラストレーター志望のフリーター・未来、無職の琴美。ある日彼らの元に謎の金髪少年・サトルが現れ共同生活に加わる。4つの章それぞれで4人の視点を描くことで、徐々にこの共同生活の実態が浮き彫りになってくる、、、。
【感想】
さて、行定勲の最新作「パレード」です。原作は吉田修一。一応売り文句としては「都会で過ごすゆとり世代の心の闇を描き出す」的な宣伝をしています。これについて、冒頭で書いたようにちょっとどうかという意見があるのですが、それは後述します。
主要登場人物は5人。それぞれ、藤原竜也、小出恵介、香里奈、貫地谷しほり、林遣都です。ぶっちゃけ私の嫌いな人しか出てないんですが(笑)、まぁそこそこ人気があってそこそこ演技も出来そうな雰囲気の人を集めたって感じでしょう。予告も含めて全体の雰囲気もいわゆる「エンタメ全開!!」という感じよりは「知る人ぞ知るウェルメイドな映画」感をビンビン出してきています。この辺りの宣伝手法は上手いと思います。じゃなきゃ監督・キャスト含めて地雷の香りしかしませんから(笑)。
ここでお約束ですが、本作を語る上でやむを得ない範囲で若干ネタバレを含みます。全部書くつもりありませんがニュアンスで伝わってしまう部分もあると思いますので、楽しみで楽しみでしょうがないけど原作未読で1800円払いたくないのでレディーズ・デイ/映画の日を待っているという方は、ご遠慮ください。
物語のプロット
物語のプロットは非常に単純です。一見幸せな共同生活をしているように見える4人が実はそれぞれそれなりに心の闇を持っていて、けれど共同生活を維持するための社交性として上辺を繕って仲良くしている。とまぁこんな感じです。
そして、これが今の現代日本の「東京砂漠感」を良く表しているという評価をする方がいるという事です。
実際に章の冒頭に「伊原直輝 映画配給会社勤務 28歳」みたいなのが黒バック白抜き文字で画面に出てそれぞれの視点が描かれますので、これを見た後で話しが分からないという方は一人もいないと思います。「社会派な重たいテーマをポップに見せる」という意味ではシンプルで良い方法なのかも知れません。
でも、、、僕はこの問題設定そのものと、そしてそれを本当に描けているのかという部分に疑問を抱きます。
そのポイントは、サトルと直輝です。
描き方について
話がややこしくなりますので、まずは問題設定が「あり」だと仮定して描き方を見てみましょう。
一番最初に引っ掛かるのは、少なくともこの映画ではサトルが何の役にも立っていないことです。結局なんなのコイツ。ゲイのオッサン向けの売春とピッキングで生活している住所不定の少年なのですが、プロット上で特に役が与えられていません。予告を見ていててっきりこの「異分子」が安定した共同生活を壊すor暴くのかと思ったのですが、別にそういう描写も無く居ても居なくてもなんの影響もありません。強いて言えばラストのある事件を目撃するためだけの第三者なんですが、でもそれって良介でも未来でも琴美でも問題無いわけで、結局コレって言う存在意義がないんです。
さてそのほかの4人の共同生活者には、そもそも闇があるんでしょうか? 良介は浮気しています。琴美は彼氏を盲信しているメンヘラです。未来は男をとっかえひっかえと言葉では出てきますが、別にそういう描写はありません。幼い頃父から暴力を受けたトラウマを持っている普通のフリーターです。そんでもって実は一番えげつない直輝。
これ、冷静に考えると直輝以外に闇がないんですが、、、。良介は言わずもがなですし、琴美は作品内で成長を見せます。未来なんてトラウマとしっかり向き合って折り合いをつけている立派な自立した大人の女性ですよ。しかも成長まで見せます。だから、「一番まともそうな直輝が実は一番狂ってる。こわ~~い。」みたいな描写に無理があるんです。どっちかというと、「頭がおかしい直輝が、女性に振られて不安定になった自身の精神安定を図るために共同生活を主催している。」というように見えます。
別にそういうスリラーならそれはそれで良いんですが、だとしたらもうちょっと描き方を工夫する必要があります。直輝がもっと頼りになりそうな超好青年で底抜けにいい人に見えないといけないんです。でも藤原竜也では残念ながらその雰囲気は出せません。藤原さんはいかにもなコテコテの「舞台芝居」をする俳優さんなので、映画に出てくるとわざとらしすぎて曲者・小者にしか見えません。非常に惜しいです。最初っから藤原竜也の演技が気持ち悪いので、最後のシークエンスでも全然意外性が無くなんか白けてしまいました。そんなわかりきったことを「これがどんでん返しじゃ!ドーン!!!」みたいな大仰さで見せられても、、、なんだかな。
問題設定について
次に根本の問題設定の部分です。
さて、心に闇をもっていない人間が果たして居るでしょうか?もっというと、自分のプライベートを全てあけすけに公開するような人は世界中でどれだけ居るんでしょうか?
私は、少なくとも文明化した近代社会では皆無だと思います。誰にだって一つや二つ他人に言いたくないことはあるでしょう?むしろ飲み会とかで全部のプライベートを話してくる人間がいたら、ちょっと警戒しますよ。
この「みんな隠し事があるのに上辺だけを繕って共同幻想のもとで社会を運営している」っていうこと自体が、別に当たり前すぎて問題提起になっていないと思うんです。それなら「家族ゲーム(1983)」の方がよっぽどスマートに描いています。そもそもそれが「社交性」ってことですし。
さらに問題になってくるのは最終シークエンスです。
最終シークエンスで「そんな隠し事でも、実はみんな知ってるぜ?」みたいなことをサトルに言わせます。そして最後の最後、直輝が「”共同幻想を守れ!”という圧力」を感じるという場面で終わります。映画だから分かりやすいように極端に描いたと言えなくもないのですが、あまりにも極端すぎてこれを「社会の縮図を上手く表現した問題設定」とは到底思えません。
【まとめ】
実は私が懸念しているのは、本作が「ベルリン国際映画祭・国際批評家連盟賞」を獲得したという先日のニュースです。論評をまだ読んでないんですが、もしこれが「日本の若者の社会観念を抉り出した社会派映画」みたいな受け取られ方をしていたらそちらの方がホラーです。
私は本作は「架空の問題提起から膨らませた空想上の社会派問題遊び」だと思います。
若者としての自分の感覚ですが、私はむしろ自分も含めた若い人は、いわゆる団塊世代とかにある団結性はあまり持っていないと思ってます。アイデンティティの規定において、連帯感みたいなものにはあまり頼っていないのかなと。極度の個人主義というか「一人に一つの携帯・パソコン世代」って感じです。
なので、本作は私の目から見ると「オッサンのグチ」に見えるんです。「最近の若者は~~~」で始まる飲み屋のグチを「極端な空想キャラクターの箱庭」を使ってただただ見せられているような感覚です。まったく乗れません。
今回私が見た劇場は結構な大箱だったんですが、若い方と中年が半々ぐらいでした。こういう作品こそ、ちょっとアンケートを取ってみたい気がします。多分若者の評価が低くて中年が絶賛するんじゃなかろうかと、そんな作品だと思います。
ということで、最近職場で虐げられている中間管理職の皆さんや、お子さんが反抗期でうまくいっていないお父さんにはおススメです!!!
※書き忘れてましたが、音楽の使い方は驚くほどダサイです。ピアノではじまるワンパターンな演出に口あんぐりでした。こんなテーマなんだからバックミュージック無しでいいのに、、、。