ルドandクルシ

ルドandクルシ

本日の二本目は

「ルドandクルシ」です。

評価:(60/100点) – バカ兄弟が調子をこく話


【あらすじ】

ベトとタトはメキシコ郊外のバナナ園で働く兄弟である。ある日彼らの町にサッカー選手のスカウトを仕事とするバトゥータ(指揮者)と名乗る男が訪ねてくる。彼はタトをスカウトし、メキシコシティへと連れて行く。FWととして一軍入りしたタトを見て、バトゥータは兄のGKベトもスカウトする。こうしてベトとタトの兄弟はそれぞれルド(頑丈)とクルシ(自惚れ屋)として人気選手になっていく。しかし兄はギャンブル、弟は女性に嵌り、身を崩していく、、、。


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【感想】

本作はメキシコの新会社「チャ・チャ・チャ・フィルム」の初作品です。この制作会社を立ち上げたのは「アルフォンソ・キュアロン(ハリー・ポッターとアズカバンの囚人の監督)」「アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(バベルの監督)」「ギレルモ・デル・トロ」とメキシコのトップ監督3人です。特に私はヘルボーイとパンズ・ラビリンスでギレルモ・デル・トロの大ファンになっていますので、これはもう駆けつけるしかないというわけです。

本作のプロット

本作のプロットは予告編でほぼ全部流れています。田舎で暮らすバカな兄としっかり者の弟が都会で人気者になって調子に乗りまくり、結局は挫折を味わいます。作品中では兄のルドが本当にどうしようもなく描かれまして見ててイライラするレベルです。一方の弟・クルシは本当に可愛そうで、どっちかというと悪女に嵌って遊ばれてしまう被害者です。ところがそこはメキシコ映画、互いに「母への愛」「家族への愛」が人一倍強くダメダメなのにちょっとハート・ウォームな感じに着地します。
私はカルロス・キュアロン監督を存じ上げていないのですが、描き方で工夫しているなと思う部分が随所にありました。
一番初めに気付くのは、ロクにサッカーのシーンを映さないことです。本作ではルドとクルシは最初から天才という設定です。ところが当然両方とも俳優さんなのでそんなスーパープレーは出来ませんし、すぐにボロが出てしまいます。そこでプレー映像をほとんど映さず、実況や観客席の様子で適当に流します。これは結構良くも悪くもとれる手法で、よく言えば上手いごまかしなんですが悪く言えばサッカーがまったく描けていないとなります。でもCGを使っていかにもな画を撮られるよりはマシだと思います。
次にストーリーの構成です。ルドとクルシは中盤には早くも身を崩し始めるのですが、これが決定的になるのが妹が麻薬王と結婚する場面です。両者の共通の目的だった「愛する母のために家を建てる」というのが婿様にあっさり達成されてしまい、両者が母への愛を証明する機会を奪われてしまいます。そしてこの機会損失と同時に両者が決定的に追い詰められます。この流れは絶妙です。
とまぁ巧さは目立つのですが、最終的には微妙な印象を持ってしまいました。やはりサッカーシーンの弱さがありますし、何より元から天才っていうのがスポ根的な意味で残念な感じです。結局この一連の物語を通して二人に「何が残ったのか」or「何を得たのか」っていうところがあまり分かりません。ただ「調子に乗って挫折した」という事実を見せられるだけなので、ドラマがあんまり残らないんです。ルドもクルシも魅力的なキャラクターなので、もっと転がせたのではないかと思います。

【まとめ】

ルドもクルシも本当にキャラクターが立っていて、役者さんはすばらしい演技を見せてくれます。PKを使った伏線の張り方もベタベタですがちゃんとしています。それだけにあまり突き抜けていない作品というか、安定したエンターテインメント感を強く感じました。ハリウッド的と言ってしまっても良いかもしれません。もっとはじけたメキシコ映画を想定していたので思いのほか普通でビックリしました。オススメはオススメなんですが、単館映画ですのでDVDが出てからでも良いかもしれません。
わざわざ遠出してまで見るほどでは無いと思います。

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記事の評価
パレード

パレード

今日も今日とて二本です、一本目は、

行定勲の「パレード」を見ました。

評価:(45/100点) -架空の問題設定で描く箱庭の世界、、、。


【あらすじ】

世田谷のとあるアパートの一室で、4人の男女がルームシェアをしていた。
映画配給会社勤務の直輝、大学生の良介、イラストレーター志望のフリーター・未来、無職の琴美。ある日彼らの元に謎の金髪少年・サトルが現れ共同生活に加わる。4つの章それぞれで4人の視点を描くことで、徐々にこの共同生活の実態が浮き彫りになってくる、、、。


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【感想】

さて、行定勲の最新作「パレード」です。原作は吉田修一。一応売り文句としては「都会で過ごすゆとり世代の心の闇を描き出す」的な宣伝をしています。これについて、冒頭で書いたようにちょっとどうかという意見があるのですが、それは後述します。
主要登場人物は5人。それぞれ、藤原竜也、小出恵介、香里奈、貫地谷しほり、林遣都です。ぶっちゃけ私の嫌いな人しか出てないんですが(笑)、まぁそこそこ人気があってそこそこ演技も出来そうな雰囲気の人を集めたって感じでしょう。予告も含めて全体の雰囲気もいわゆる「エンタメ全開!!」という感じよりは「知る人ぞ知るウェルメイドな映画」感をビンビン出してきています。この辺りの宣伝手法は上手いと思います。じゃなきゃ監督・キャスト含めて地雷の香りしかしませんから(笑)。
ここでお約束ですが、本作を語る上でやむを得ない範囲で若干ネタバレを含みます。全部書くつもりありませんがニュアンスで伝わってしまう部分もあると思いますので、楽しみで楽しみでしょうがないけど原作未読で1800円払いたくないのでレディーズ・デイ/映画の日を待っているという方は、ご遠慮ください。

物語のプロット

物語のプロットは非常に単純です。一見幸せな共同生活をしているように見える4人が実はそれぞれそれなりに心の闇を持っていて、けれど共同生活を維持するための社交性として上辺を繕って仲良くしている。とまぁこんな感じです。
そして、これが今の現代日本の「東京砂漠感」を良く表しているという評価をする方がいるという事です。
実際に章の冒頭に「伊原直輝 映画配給会社勤務 28歳」みたいなのが黒バック白抜き文字で画面に出てそれぞれの視点が描かれますので、これを見た後で話しが分からないという方は一人もいないと思います。「社会派な重たいテーマをポップに見せる」という意味ではシンプルで良い方法なのかも知れません。
でも、、、僕はこの問題設定そのものと、そしてそれを本当に描けているのかという部分に疑問を抱きます。
そのポイントは、サトルと直輝です。

描き方について

話がややこしくなりますので、まずは問題設定が「あり」だと仮定して描き方を見てみましょう。
一番最初に引っ掛かるのは、少なくともこの映画ではサトルが何の役にも立っていないことです。結局なんなのコイツ。ゲイのオッサン向けの売春とピッキングで生活している住所不定の少年なのですが、プロット上で特に役が与えられていません。予告を見ていててっきりこの「異分子」が安定した共同生活を壊すor暴くのかと思ったのですが、別にそういう描写も無く居ても居なくてもなんの影響もありません。強いて言えばラストのある事件を目撃するためだけの第三者なんですが、でもそれって良介でも未来でも琴美でも問題無いわけで、結局コレって言う存在意義がないんです。
さてそのほかの4人の共同生活者には、そもそも闇があるんでしょうか? 良介は浮気しています。琴美は彼氏を盲信しているメンヘラです。未来は男をとっかえひっかえと言葉では出てきますが、別にそういう描写はありません。幼い頃父から暴力を受けたトラウマを持っている普通のフリーターです。そんでもって実は一番えげつない直輝。
これ、冷静に考えると直輝以外に闇がないんですが、、、。良介は言わずもがなですし、琴美は作品内で成長を見せます。未来なんてトラウマとしっかり向き合って折り合いをつけている立派な自立した大人の女性ですよ。しかも成長まで見せます。だから、「一番まともそうな直輝が実は一番狂ってる。こわ~~い。」みたいな描写に無理があるんです。どっちかというと、「頭がおかしい直輝が、女性に振られて不安定になった自身の精神安定を図るために共同生活を主催している。」というように見えます。
別にそういうスリラーならそれはそれで良いんですが、だとしたらもうちょっと描き方を工夫する必要があります。直輝がもっと頼りになりそうな超好青年で底抜けにいい人に見えないといけないんです。でも藤原竜也では残念ながらその雰囲気は出せません。藤原さんはいかにもなコテコテの「舞台芝居」をする俳優さんなので、映画に出てくるとわざとらしすぎて曲者・小者にしか見えません。非常に惜しいです。最初っから藤原竜也の演技が気持ち悪いので、最後のシークエンスでも全然意外性が無くなんか白けてしまいました。そんなわかりきったことを「これがどんでん返しじゃ!ドーン!!!」みたいな大仰さで見せられても、、、なんだかな。

問題設定について

次に根本の問題設定の部分です。
さて、心に闇をもっていない人間が果たして居るでしょうか?もっというと、自分のプライベートを全てあけすけに公開するような人は世界中でどれだけ居るんでしょうか?
私は、少なくとも文明化した近代社会では皆無だと思います。誰にだって一つや二つ他人に言いたくないことはあるでしょう?むしろ飲み会とかで全部のプライベートを話してくる人間がいたら、ちょっと警戒しますよ。
この「みんな隠し事があるのに上辺だけを繕って共同幻想のもとで社会を運営している」っていうこと自体が、別に当たり前すぎて問題提起になっていないと思うんです。それなら「家族ゲーム(1983)」の方がよっぽどスマートに描いています。そもそもそれが「社交性」ってことですし。
さらに問題になってくるのは最終シークエンスです。
最終シークエンスで「そんな隠し事でも、実はみんな知ってるぜ?」みたいなことをサトルに言わせます。そして最後の最後、直輝が「”共同幻想を守れ!”という圧力」を感じるという場面で終わります。映画だから分かりやすいように極端に描いたと言えなくもないのですが、あまりにも極端すぎてこれを「社会の縮図を上手く表現した問題設定」とは到底思えません。

【まとめ】

実は私が懸念しているのは、本作が「ベルリン国際映画祭・国際批評家連盟賞」を獲得したという先日のニュースです。論評をまだ読んでないんですが、もしこれが「日本の若者の社会観念を抉り出した社会派映画」みたいな受け取られ方をしていたらそちらの方がホラーです。
私は本作は「架空の問題提起から膨らませた空想上の社会派問題遊び」だと思います。
若者としての自分の感覚ですが、私はむしろ自分も含めた若い人は、いわゆる団塊世代とかにある団結性はあまり持っていないと思ってます。アイデンティティの規定において、連帯感みたいなものにはあまり頼っていないのかなと。極度の個人主義というか「一人に一つの携帯・パソコン世代」って感じです。
なので、本作は私の目から見ると「オッサンのグチ」に見えるんです。「最近の若者は~~~」で始まる飲み屋のグチを「極端な空想キャラクターの箱庭」を使ってただただ見せられているような感覚です。まったく乗れません。
今回私が見た劇場は結構な大箱だったんですが、若い方と中年が半々ぐらいでした。こういう作品こそ、ちょっとアンケートを取ってみたい気がします。多分若者の評価が低くて中年が絶賛するんじゃなかろうかと、そんな作品だと思います。
ということで、最近職場で虐げられている中間管理職の皆さんや、お子さんが反抗期でうまくいっていないお父さんにはおススメです!!!
※書き忘れてましたが、音楽の使い方は驚くほどダサイです。ピアノではじまるワンパターンな演出に口あんぐりでした。こんなテーマなんだからバックミュージック無しでいいのに、、、。

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記事の評価
恋するベーカリー

恋するベーカリー

ようやくリアルタイムに追いつきました。

金曜のレイトで「恋するベーカリー」を観ました。

評価:(60/100点) – ついにラブコメはここまで高齢化した。


【あらすじ】

ベーカリーの経営者・ジェーンは10年前に夫・ジェイクの不倫で離婚して以降、女手一つで3人の子供を育て上げた。娘が学校に通うために家を出るにあたり、彼女は念願の自宅の改築工事を計画する。そこで知り合った建築家のアダムに惹かれるが、一方で息子の卒業式で再会した元夫と関係を持ってしまう。不倫相手と再婚した元夫と不倫するという複雑な状況にジェーンは苦悩する。そしてアダムとの恋愛に向かおうとするが、今度はジェイクが熱を上げ急接近してくるのだった、、、。


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【感想】

さて、ようやく今週の新作に追いつきました。金曜に見たのは「恋するベーカリー」です。「ジュリー&ジュリア」で魅力的な女料理人を演じた彼女が今度はパン屋さんということで二番煎じ感が拭えませんが、またまた素晴らしい演技を見せてくれます。別れた元夫には名優アレック・ボールドウィン。これまた「私の中のあなた」を彷彿させる弁護士役です。こうまで近作と役柄が似てると、もはやわざととしか思えません。魅力的な建築家の役は”キモカワ”のはしり、スティーブ・マーチンです。
主要3人の名前を出したところで、ちょっと年齢を見てみましょう。
 メリル・ストリープ:1949年6月22日(60歳)
 アレック・ボールドウィン:1958年4月3日(51歳)
 スティーブ・マーチン:1945年8月14日(64歳)
恐ろしいことに最年少が51歳、残り2人は還暦越え(笑)。でも内容は下品な下ネタとアップテンポな王道ラブコメ。
ラブコメ自体が絶滅しかけている昨今ですが、ついにラブコメが年寄りをターゲットにしはじめたという記念碑的な作品です。
なにせ、60歳を越えているということが作品内で何のエクスキューズにもなっていませんし何の効果も持っていません。当たり前のように年齢なんぞ関係無くラブコメが展開していきます。せっかくだから「オムツを変えてあげる」とか「入れ歯を洗ってあげる」とか老人力を演出に使えばいいのにとは思うんですが、そんな物は微塵もありません。極端なことを言いますと、脚本をそのままでキャストを20代の男女に入れ替えても問題無く通用する話です。そこが逆に怖いんです。もはやラブコメは新しいステップへ行ったのかも知れません。実際に観客もあまり若いカップルはおらず、中年の夫婦が目立ちました。それこそアン・ハサウェイとか起用すればまだまだ面白いラブコメが撮れると思うんですが、もうそれじゃ若いお客さんが入らない時代なんですね、、、。
ストーリーについては本当にシンプルな三角関係の話ですので取り立ててどうこう言うつもりはありません。3人とも演技力はずば抜けていますから、フィルムの出来としてはかなりの物です。ですので、年齢に抵抗がない方ならばまったく問題なくオススメです。
でも私は20代なので、やっぱり60歳と51歳のベッドシーンはキツいです。

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記事の評価
サベイランス

サベイランス

サクサク行きまして、次は

「サベイランス」です。

評価:(40/100点) – 「カルトの帝王」の困った娘。


【あらすじ】

サンタ・フェの田舎町で5人が無残に殺される事件が発生する。FBI捜査官のエリザベスとサムは警察所に居る目撃者3人から事情聴取を行う。3人は「傷だらけの警官」と「怖がる若い女性」と「無口な女の子」。しかし彼らの証言が微妙に食い違う。果たして彼らに何が起きたのか?そして犯人は誰なのか?


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【感想】

私の大好きな「カルトの帝王」デヴィッド・リンチがプロデューサに名を連ね、長女のジャニファー・リンチが監督・脚本を務めるサスペンススリラー作品です。本国ではおととし公開ですが、ようやく日本に上陸しました。ちなみにジェニファーはすでに去年「蛇女」というボリウッド映画を撮っていますので、ある意味周回遅れでの公開です。
ハッキリ断言しますが、ジェニファー・リンチ監督のファンというのは聞いたことがありません。というのも初監督作品の「ボクシング・ヘレナ」が度を超して最低な映画だったからです(笑)。色男が愛する女の手足を切って所有物として愛でるというサイケな恋愛映画(←いやまじでサスペンスじゃないんです)で、ジェニファーは当然のように映画を撮らせてもらえなくなりました。それから15年、ついにあの問題児が帰ってきた(笑)ってなわけで一部の映画ファンには待望の作品です。
やはりデヴィッド・リンチを思い起こさせるのはサイケなキャラクター達です。一人を除いて出てくるキャラクラー全員が頭イカレてます。情緒不安定なのは言わずもがな、いちいち各キャラの妄想混じりの証言を映像化して見せる物ですから、軽い頭痛を引き起こします。でもそれこそがデヴィッド・リンチの特徴でもあるので、娘に着実に受け継がれているのはうれしい限りです。
ところが、、、ラストが超がっかりで台無しなんです。金返せっていうレベルのオチにもならないオチで、もう本当にどうしようもありません。犯人については中盤あたりで気付きましたので当然もう一ひねりしてくるのかと思いきや、、、結局犯人捜しだけなんです。なんとも言い難いです。
一応「幼い子供だけが物事の真実を見ている」という部分にテーマらしき物はありますし、映画としてまったくダメダメというものではありません。単につまらないだけです。この「単につまらない」というのが割と皆さんが同意できるジェニファーの評価だと思います。これがデヴィッドだったら「単につまらない」なんてならずに訳分からない要素を散りばめて「わかんないし気持ち悪いけどなんか引っ掛かる」というぐらいには煙に巻いてくれるんですが、、、ここいらが限界なんでしょうか?
とはいえ「ツイン・ピークス ローラ・パーマ最後の七日間」でジェニファーの書いた脚本は良かったので、決して才能がないわけではないんです。監督はあきらめて脚本家に専念した方が絶対良いですよ。

【まとめ】

本作もバリバリの単館映画ですが、わざわざ足を運ぶ必要は感じません。正直オススメするのは気が引けます。ただデヴィッドのテイストを感じることは出来ますので、父親の大ファンであればとりあえず押さえておきましょう。
それにしてもきつかったです。

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フローズン・リバー

フローズン・リバー

続いての作品は一転して大真面目な

「フローズン・リバー」です

評価:(90/100点) – 「母は強し」は万国共通。


【あらすじ】

舞台はカナダとの国境沿いの田舎町、レイ・エディの夫はクリスマス直前に貯金を持って蒸発してしまう。二人の息子とともに残されたレイは夫を捜しに賭博ビンゴ場を訪ね、そこでまさにインディアンの女性が夫の車を盗む所を目撃する。追いかけたレイは、その犯人・モホーク族のライラと出会う。彼女は姑に奪われた我が子を引き取って暮らすために大金が必要であった。そのためカナダからの密入国者の運び屋をしており運転席からの操作で後ろのトランクを開けられる車を探していたと言う。
車の譲渡を断ったレイに、ライラは密入国の手伝いと報酬山分けを提案する。どうしても金を工面する必要があったレイはこれに同意する。こうしてライラとレイの犯罪家業が始まった。カナダとのルートは冬にしか現れない「凍った川(フローズン・リバー)」。両端には治外法権のインディアン保留地。それは絶対安全な金稼ぎであるはずだった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 夫の蒸発と長男との確執
 ※第1ターニングポイント -> レイがライラと出会う。
第2幕 -> 密入国家業
 ※第2ターニングポイント -> レイが「最後の仕事」を提案する。
第3幕 -> 最後の国境越え。


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【感想】

本作は二年前のサンダンス映画祭のグランプリ作品です。サンダンスといえば言わずと知れた世界最高クラスのインディ映画祭りです。やはりグランプリ作品は伊達ではなく、本作も主要登場人物がわずかに4人のミニマムな構成でありながら、これ以上無いほどの情緒と圧力を観客に叩き込んできます。
日本では二年前に配給会社がつかずDVDスルーも怪しかった所をアステアが拾ったようですが、素晴らしいことをしてくれました。大正解です。
こんな良作を公開しないとかありえないですよ、本当。

本作の肝

この映画は「田舎で女性が不幸になる話」の極北です。本作の肝は「母は強し」につきます。全部で三組の母子が出てきますが、三組とも全て子供のために必死です。特にレイとライラはほとんど絶望的な状況下から、必死でがむしゃらに家庭を立て直そうとします。
そして母に不満を持ちながらも、やはり自分なりに家庭を支えようとする長男。その家族のもがきの全てが最高潮に盛り上がったクリスマスに事件が起きます。悲惨で救いが無いように見えながらも、本作の最後の瞬間・最後のカットに写るちょっとした希望が、得も言われぬ感情を呼び起こさせます。これぞまさしく「映画的な感動」です。
メリッサ・レオの疲れた顔の中で唯一ギラギラ光る目が印象的で、本当にすばらしい演技をしています。ミスティ・アップハムは、、、この人は何やっても”デブキャラ”で終わっちゃうので何とも言えません。でもメリッサに引っ張られたのか中々の演技を見せます。
ちょっと苦言を呈する部分が見つからないような最高レベルのフィルムです。完全に単館映画ですが、渋谷まで足を運べる方は必見の作品です。是非、映画館で引き込まれてください。
余談ですが、渋谷のシネマライズは床が特徴的で、一番後ろから前5列目ぐらいまで急に下ったあと、前の方は逆傾斜でちょっと昇ります。なので一番前で見てもイス自体が上を向いてるので首が痛くなりません。シネマライズは土地柄なのか何時行っても煎餅食ったり携帯いじってるマナー悪い人が多いので、是非一番前で見るのをオススメします!!!

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ハンナ・モンタナ  ザ・ムービー

ハンナ・モンタナ ザ・ムービー

続いては「ハンナ・モンタナ ザ・ムービー」です。

評価:(70/100点) – リアル・アメリカン・アイドルムービー


【あらすじ】

高校生マイリー・スチュワートはテネシー出身の普通の女の子である。しかし金髪のカツラをつけて化粧をして衣装を身につけると、全米ナンバー1トップアイドルの「ハンナ・モンタナ」に変身する。ハンナとしてハメを外しすぎたマイリーは、父親によってテネシーの田舎へと連れ戻される。父は彼女にハンナを続けるか否かを決めさせようとする。
そんな中、彼女は幼なじみのトラヴィスに再会する。


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【感想】

知っている人はみんな大好き、知らない人は名前すら聞いたことがない(笑)でおなじみの、「ハンナ・モンタナ」劇場版です。オリジナルは2006年にディズニー・チャンネルで放送してまして、日本ではテレ東でも抜粋版をやっていました。現在第3シリーズを放送中で、放送開始時には無名だったマイリー・サイラスを一躍全米トップアイドルまで押し上げた超人気シリーズです。
いわゆるディズニー・ミュージカル作品では近年一番のヒット作で、ジョナス・ブラザーズ(米オタク女子に大人気の3人組アイドル)と並んでディズニーには無くてはならない存在です。
その要因の一つが、マイリー・サイラスが「マイリー・スチュワート」役を演じ、実の父ビリー・レイ・サイラスが「ロビー・レイ・スチュワート」役を演じるという、実世界と混同するような設定です。マイリー自体がディズニー・チャンネルに子役で出演していましたから、まさに彼女のためのドラマシリーズといった様相です。
そして平凡な女子高生が実はアイドルという、日本でも昔からある「変身アイドルもの」の現在型です。
そんな超人気ドラマの劇場版なんですが、どちらかというとクラシカルなシチュエーション・コメディ色の強いドラマシリーズとは対称的に、ティーンエイジャーの青春の悩みをストレートに描いてきます。こういった無害なドラマを作らせるとディズニーは本当にハイレベルです。出てくる悪役も全然悪くないですし、みんな道徳的で話せば分かってくれる人ばかりです。そして超楽しいミュージカル・ダンスシーンの数々。決して映画的に上手いとか良くできているというわけではないのですが、ただただ楽しいという意味では無類です。
ど田舎のテネシーで近代的ショッピングモール建設に反対するというこれ以上なく道徳的で情緒的な展開と優しい視線の家族描写は、完全に安心して見ていられます。悪く言えばハラハラが無いのですが、どちらかというと安心という言葉の方がしっくり来ます。
また、マイリーも決して美人ではないんですが(←失礼)ハンナに変身したときのハジけっぷりがとても魅力的です。そしてイケメンで超いい人の父親。これまたイケメンでさわやか系ナイスガイのテネシー・カウボーイのトラヴィス。もう文句のつけようがないくらい平和で優しい、まさにディズニー的な世界です。
いや~スプラッタとかホラーとかサスペンスとかカンフー映画ばっかり見ている人間としては、本当に心が洗われます(笑)。
唯一難点があるとすれば、字幕版をやっていないことです。もちろんディズニーですから変な素人芸人を起用して作品価値を急落させるような愚行はしていませんが、ミュージカル映画で会話シーンと音楽シーンで声が明らかに変わるのはやっぱり違和感があります。私が幼稚園生の時に吹き替えでオズの魔法使いを見たときから思ってます(笑)。やっぱジュディ・ガーランドじゃないと。一応断っておきますが、白石さんには何の他意もございません。普通に上手いですし、仕事ですれ違っても挨拶してくれるとても良い人ですんで(笑)。
ということで、本作は文句なくオススメです! お子様連れでもまったく問題無く楽しめますので、是非どうぞ。ただしその場合、特に小学校低学年以下のお子様は、途中の「Hoedown Throwdown」で踊り狂ってしまう危険性があることだけは明記しておきます(笑)。
私のiPodでも絶賛ヘビーローテーション中です。
※ちなみにコレ → 「Hannah Montana- Hoedown Throwdown Music Video (Youtube)」

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記事の評価
バレンタインデー

バレンタインデー

「涼宮ハルヒの消失」以後に見た映画をまとめて書いていきたいと思います。
面倒なのでイマイチだった映画はサラッと流す方向で(笑


まずは「バレンタインデー」です。

評価:(45/100点) – バレンタインデー特化型デートムービー


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【感想】

これは公開初日に見ました。なんと言いますか、、、決してダメダメではないんですが、詰め込みすぎててすっちゃかめっちゃかになっています。これならオムニバス形式で各エピソード間をすっぱり断絶しても良かったのかなという印象です。15分x8本でスッキリ。
メインとなる花屋を中心として「友達の友達」的な関係の連鎖でキャラが次々と登場してカップル話を繰り広げるのですが、もはや最後の方はギャグかネタ切れかと思うほど強引な関係になっていきます。下手につながっている分おかしな所が目立ってしまってノイズになっています。
とはいえ、本作はタイトルどおり「バレンタインデーに恋人と見に行く」ことだけに特化していると考えれば、決して失敗はしていません。実際、なんとなくセンスのヨサゲに感じる(※実際には一昔前のポップスでちょっとダサいんですが)音楽と、延々と繰り返される痴話げんか・ノロけ合いは雰囲気作りに一役買っています。デートで行った映画が面白くって見入ってしまうようではデートにならないので(笑)、適度につまらないのに雰囲気だけは作ってくれる本作はデートムービーに最適です。DVDの発売後なら、目的なく家で恋人と見るにはベストチョイスでしょう。
でもそれだけ。キャストはとんでもなく豪華なんですが、別に好演している訳でもないですし皆さん適度に力が抜けています。私の大好きなアン・ハサウェイとアシュトン・カッチャーが気が抜けた演技をしているのは日本ではなかなか見られません(笑)。きちんと幅広い恋人達に対応するためにゲイカップルまで出てきますので、その筋の方にも十分にオススメできます。
ということで、カップルでいくなら文句なくオススメ、一人で行くなら俳優ファン限定でオススメです!

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記事の評価
涼宮ハルヒの消失

涼宮ハルヒの消失

ようやく原作で消失まで読み終わりました。ということで、満を持して

「涼宮ハルヒの消失」です。

評価:(85/100点) – 萌えアニメの皮を被った上質なヒューマノイドSF。


【あらすじ】

12月18日、もうすぐ終業式が来るクリスマスの準備も慌ただしい師走のただ中、キョンが目覚めると世界が変わっていた。
居ないはずのクラスメイトが居て、居るはずのクラスメイトが居ない世界。キョンは自分以外の全てが自然に生活する奇妙な世界に迷い込んだ。混乱の中で訪ねた文芸部室で彼は見知った長門有希を見つけるが性格は似てもにつかない。翌日、手詰まりながらも再び訪れた文芸部室で書棚の本を手に取ると、そこには元の世界の長門が残した手書きメッセージ付のしおりが挟まっていた。「プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限・二日後」。プログラムとは何か?そして鍵とは何か?
そしてキョンは元の世界に帰れるのだろうか?


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【感想】

満を持して「涼宮ハルヒの消失」です。原作未読の状態で二度見に行ったのですが、それは別に一度目で分からなかったからではありません。とにかく面白かったからです。
映画文法としてはイマイチなところもあるのですが、そんなアラは全て吹き飛ばすほどの圧倒的な展開と圧倒的なテンションで画面が迫ってきます。三時間近い上映時間ですが、まったくダレることなく二度ともあっという間でした。
サスペンス調なのでネタバレを控えようとも思ったのですが、どうせ見たい人は全員見てるだろうということでオチを含めて全開で書かせていただきたく思います。
この作品にはそれをするだけの価値があると思いますし、それは非常に偏愛を生みやすい作品だと言うことです。
なお、現在私は原作を六巻(涼宮ハルヒの動揺)まで読んだ状態でこの文章を書いています。

原作・涼宮ハルヒシリーズを読んで。

涼宮ハルヒ・シリーズは、傍若無人でツンデレで世界を再構築する能力を持った涼宮ハルヒ、どじっこ萌えキャラで未来から来た朝比奈みくる、無口で無表情なヒューマノイドの長門有希、優等生で少しイヤミな超能力者の古泉一樹、そして主人公のキョンを構成員とするサークル・SOS団を中心にしたドタバタコメディです。早い話が、非常にオタク的な要素を詰め込んだ典型的なキャラもの作品です。原作の熱狂的なファンには怒られるかも知れませんが、はっきり言ってオリジナルな要素はありません。涼宮ハルヒの機嫌が悪くなると世界が変質し涼宮ハルヒが願うとそれが実体化してしまうという、これ以上無いほど「セカイ系」のど真ん中です。
正直な話、原作を読んでいて特に「涼宮ハルヒの退屈」まではハッキリと微妙な感じでした。私自身が元々アニメオタクなので苦ではないんですが、一昔前のギャルゲーのテキストを読んでいる感じといいますか、ただただ類型的で没個性なキャラがワイワイやってるだけのどこにでもあるオタク向け文章という印象しかありませんでした。
ところが「涼宮ハルヒの消失」が面白いんです。今現在六巻までしか読んでいませんが、ここまでで唯一「萌えキャラ設定に頼らない正当な人間ドラマ」を描いています。実際、ここまで娯楽的なカタルシスを詰め込みつつもヒューマノイドの悲哀を描けている作品はなかなかありません。涼宮ハルヒというシリーズを無視してでも、作品単体で十分に評価されうる作品です。

物語の根幹・迷い込んだ異人の話

本作はキョンの独白から始まり、全編を通じて合間合間でキョンの独り言がナレーションで挟まり、ラストもキョンの独白で終わります。元々、涼宮ハルヒシリーズ自体の構造として「SOS団で唯一普通の人間」であるキョンは読み手の感情移入先として用意された器のような存在です。そして映画でも視聴者は完全にキョンの視点のみから世界を見せられます。これが非常に効果的に働いています。本作においてキョンは終盤まで「巻き込まれた善意の第三者」という立場を崩しません。唯一終盤の長門有希の台詞を除き、キョンが作中で得た情報は例外なく視聴者にも提示されます。これにより視聴者はキョンを利用して不思議な世界と時空修正中のタイムパラドックスのハラハラドキドキに完全に同調することが出来ます。非常に丁寧な作りで、上手く感情移入させています。
実はこのナレーションの時制がおかしいという問題はあるのですが、それも作品の勢いに圧されてそこまで気になりません。
不思議な世界に迷い込んだキョンの行動も非常に理にかなっています。目立ったご都合主義的強引さも無く、非常にスムーズにタイムリミットが迫り、そして嵐のように傍若無人なハルヒによってあっという間に問題が”勝手に”解決します。それもそのはずで、キョンは本当に普通の無力な人間なんです。なので問題を解決するような超人的活躍は一切しません。彼は終始オドオドしているだけで実質的にはたいしたことは何にもやっていません。でも、だからこそ視聴者は感情移入できるわけです。あくまでもこれは一般人が巻き込まれて体験してしまった不思議な世界を描いた作品です。

長門有希とタイムパラドックス

そして本作を私が気に入った一番の理由は、この長門有希の存在です。彼女を通してヒューマノイドの悲哀がシンプルに描かれます。
本作では、非常に独特な人生観・世界観がまかり通っています。それは未来至上主義と言っても良いほど、「予定調和」を大事にする世界です。本作には朝比奈さんが居てタイムトラベルが可能です。そこで未来で何かが起こっていると言う事それ自体が、「必須イベント・ノルマ」として過去に求められます。例えば、本作では最初からハッピーエンドに終わることは分かっているわけです。なぜなら、未来から朝比奈さんが来ているからです。これがすなわち「未来が存在する」ことの証明になり、「世界が終わらないこと」の証明になっています。長門も三年後に自身が暴走する未来を知っておきながら、そのイベントを起こすために振る舞います。すでに未来というのが決定していて、それに向かって行動をしていくだけという何とも地獄のような世界観です。しかしそんな世界観の中で、長門は「感情らしきバグ」を発現させます。これも予定調和の一つではあるんですが、それを十分に理解した上で「予定調和」として受け入れる長門の姿に「ヒューマノイドは心を持ちうるのか」というありがちな問題提起がすんなりと回答されます。
心を持つかも知れないが、その心ですら一種の計算結果であり予定調和であるという発想。この世界には人間に自由意志がほとんどありません。終盤にキョンが変革後の世界と変革前の世界のどちらを選択するかで葛藤するシーンがありますが、それですらこの世界観の中では予定調和なのです。「全てが起こるべくして起きている。」という冷たい舞台の中で、それでも自由意志のような物を見せるキョンの姿が、そのまま「心を持ってバグってしまった長門有希」の姿と重なります。
2人とも定められた枠組みの中で必死にもがいているわけです。でもその”もがき”ですらこの世界では「予定されたイベント」になってしまいます。
タイムパラドックスの論法をそのまま世界観にまでシフトさせてしまった作者の発想にはただただ脱帽します。
巨大な運命に対して無力と分かっていながらもがいて自己証明をしようとする人間達が図らずも描かれているわけです。
これが本作をただの「キャラもの作品」ではない一級品のSFにしています。

【まとめ】

最後になりましたが、本作では大きく二カ所が原作から変更されています。一カ所は、変革後の世界でハルヒ・古泉・キョンが東中に入り込むシーン。もう一カ所はラストのキョンと長門の会話シーンです。前者はキョンが教室と外を往復する場面をカットして話のテンポをスムーズにしています。後者はおそらく雪が降るシークエンスをやりたいためだけに屋上に舞台を移しています。両場面とも変更した効果は十分に出ていると思いますし、監督および脚本家の方が十分に原作を租借している様が全編から伝わってきます。
実は私は原作の「涼宮ハルヒの消失」以外はそこまで好きではありません。というのもあまり読み返す気が起きないほど内容が薄く、萌えキャラものに偏重しているからです。しかし、少なくとも「涼宮ハルヒの消失」は傑作ですし、映画も大変面白くできています。なにせシリーズ未読の私がリピートするほどでした。是非シリーズ未読の方も劇場に足を運んでみてください。
「アイ、ロボット」を見るぐらいなら、本作を見る方が何倍もヒューマノイドに心揺らされることでしょう。
日本のアニメ映画に抵抗が少ない方であれば、全力でオススメいたします。

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