SOMEWHERE

SOMEWHERE

土曜の2本目は

SOMEWHERE」です。

評価:(100/100点) – 完璧!!!


【あらすじ】

ジョニー・マルコは映画俳優である。ハリウッドのサンセット通りにあるシャトー・マーモントに部屋を借り、新作映画のプロモーションをしながら自堕落な生活を送っていた。フェラーリを乗り回し、派手なパーティをし、女性と遊んでも、彼の気は晴れない。
ある日目が覚めると妻のレイラと娘のクレオが部屋に来ていた。レイラは一日クレオの世話を頼んでいく、、、。


[スポンサーリンク]

【感想】

土曜の2本目はソフィア・コッポラの最新作「SOMEWHERE」です。昨年のヴェネチア国際映画祭の金獅子賞(グランプリ)作品です。ですが、、、あんまり観客は入っていませんでした。せっかく半年で日本公開されたっていうのに寂しいことです。
さて、本作は本当に心の底からオススメしたいすばらしい作品です。とにかく、演出も、シーンの繋ぎ方も、俳優も、文句の付けようがありません。ですから、いまから書くような細かい事ははっきり言ってどうでもいいので、とにかく見に行ってください。しかも特に小難しい作品ではありませんから誰でも理解出来るはずです。絶対に映画館で見るべきです。

物語の妙

本作のストーリーは大変シンプルです。自堕落に過ごしてきた男が娘と一緒に過ごさざるを得なくなったことで人生を見つめ直します。この物語は娘からすれば「自分の事を構ってくれない父親が反省する話し」であり、父親から見れば「愛する娘の存在を再確認して改心する話し」です。つまりはファザー・コンプレックスが炸裂しているわけで、これはどう考えてもソフィア・コッポラ自身の人生のテーマであるわけです。
偉大すぎる父親を持ち、その親馬鹿っぷりが発揮した「ゴッドファーザーPartIII」ではファンに猛バッシングを食らったソフィアだからこそ撮れるテーマです。しかも彼女はその後映像オタクでダメ人間のスパイク・ジョーンズと結婚・離婚し、同じく映画オタクで足フェチな変態のタランティーノと付き合ってたワケで、どう考えても根が深いファザコンです。しかも今度付き合ってるのは5歳年下のバンドマンです。居るんですよ、こういうファザコンを拗らせて変な母性に目覚めてダメ人間を保護し続けるタイプの女性ってw
本作の場合、この親子にスティーブン・ドーフとエル・ファニングというとてつもない実力派のコンビを送り込んでくるわけです。弁護のしようがない無いダメ人間ながらギリギリで嫌悪感を抱かれないレベルのドーフと、あまりの透明感にちょっと浮世離れしてさえ見えるエル・ファニング。その浮世離れした雰囲気があるからこそ、最終盤でクレオの人間らしさが見えた瞬間にどうしようもなく私達の心を動かしてきます。
私が本作を見ていて一番驚いたのは、クレオがフィギュアスケートを行うシーンまでの展開の巧さです。このシーンは直前のポールダンスのシーンと対応しています。共に「音楽をバックに女性が踊る(回る)」のですが、ポールダンスには彼はほとんど関心を示しません。1回目は寝てしまい、2回目はダンス自体ではなくその後の情事を目当てにしています。ところがスケートは違います。彼はやはり最初関心を示さず本を読んでいますが、次第に娘の踊りにのめりこんでいき、最後には力一杯の拍手を送ります。このシーンが作品内のジョニーの転機です。ここで彼は自堕落な女性遊びよりも娘の方を無意識に選んだわけです。ここから、ジョニーとクレオの幸せな親子の日常が始まります。
それでもなお、彼は娘の見ていないところで女性遊びを続けます。つまり彼は最終盤のあるシーンまで、やはり自分にとって女性遊びよりも娘の方が大事だということに無自覚なんです。スクリーンに映る表情を見ていれば明らかなんですが、彼自身はなかなか気付きません。
ですから妻にまで愛想を尽かされたジョニーが最後に見せる覚悟は、やっぱり美しいわけで涙をさそうんです。
その覚悟っていうのはジョニーの投了宣言なんです。それまで好き勝手に青春を謳歌していた男が、ついに大人の男になって家族と向き合う決意をするんです。その舞台がまた「シャトー・マーモント」っていうのも気が利いています。シャトー・マーモントはハリウッドセレブやロックスター達がどんちゃん騒ぎをして夢をみる場所なんです。ジョニーはそこから抜け出すんです。だからこれは「パーティーは終わり」ってことなんです。

【まとめ】

本作は非常にシンプルですが、間の取り方が絶妙です。おそらくアート系の映画やインディ映画を見慣れていなくても、その品の良さと圧倒的なスクリーンの雰囲気作りは伝わると思います。本作においてジョニーとクレオの過ごした時間は、ダメ人間のジョニーを改心させられるだけの魅力をもっていないと説得力がありません。そして実際に大変魅力的に撮れています。だから、本作に文句は1カ所もありません。全てが素晴らしく、全てが完璧です。
オススメとか緩い言い方ではなく、悪い事は言わないので絶対に見た方が良いです。間違いなくソフィア・コッポラの代表作であり、男の成長物語としてはある種の到達点にあると思います。

[スポンサーリンク]
記事の評価
高校デビュー

高校デビュー

昨日の1本目は

「高校デビュー」に突撃してきました。

評価:(1/100点) – なんかもう酷すぎて言葉が出ない、、、。。


【あらすじ】

長嶋晴菜は中学時代にソフトボール一筋で全国大会を制した。しかし彼女はどうしても恋愛がしたくて仕方が無い。高校デビューを目論みオシャレして街角に立ってみたものの、晴菜はまったくナンパされない。そんな晴菜は、友人の真巳に助言され街で見かけたイケメンの小宮山ヨウにコーチをお願いする、、、。


[スポンサーリンク]

【感想】

土曜の一本目は「高校デビュー」です。原作の存在を知らずに前知識ゼロで見に行きました。観客席は8割方埋まっていまして、そのほとんどがたぶん中学生~高校生ぐらいの女の子組で男は数人しか居ませんでした。ここまで極端なのは「君に届け」以来だと思います。漫画の売り上げは累計600万部越えということなので、単純に13巻で割っても46万人ぐらいが単行本を買っている計算です。そりゃ劇場に人も入るはずです。
肝心の感想なんですが、正直に言うとこの作品についてはあんまりテンションが高くありません。1点を付けといてなんですが、実は腹も立っていません。
というのも、結局この作品を構成している要素が私にとってはどうでも良いからです。「芸人の寒い一発ギャグ」。一人言を大袈裟に口に出すような「ファンシーセンス」。走っている足下に土煙をCGで足したり、3階(2階?)の階段から地面まで女の子が飛び降りて着地してしまうようなリアリティのカケラもない「コメディセンス」。その全てがどうでも良いです。
でまぁハッキリと書いてしまうと、こういうのが好きだっていう人が居るのは別に良いと思うんです。実際に見ていた女子中学生達は温水洋一のズラが飛ぶところで笑ってるわけですよ。私には面白さのカケラも分かりませんが、でも笑ってるんです。彼女たちにはたぶん「エンタの神様」とか「レッドカーペット」とか、ああいう条件反射の笑いが染み込んじゃっているって事だと思うんです。な~んにも頭を使わないで、ただ「ここは笑うところですよ~」「ほら、ギャグ言ってるから笑ってくださ~い」っていう指示をそのまま素直に受け入れるように教育されちゃってるんです。だから、別にそれはそれで良いんです。つまらないのが分かってるのにこんな映画を見に行った私が悪いんです。すいませんでした。
作品としては本当に褒めるところが1カ所も見当たりません。最初から最後まで、終始オーバーリアクションでファンシーな演出が繰り返し繰り返し同じトーンでスクリーンに映されます。監督が盛り上げたいところではそれっぽい音楽が流れ、悲しげなシーンでもそれっぽい音楽が流れ、唐突に熱く語り出したかと思えば唐突にどうでも良い一発ギャグで外してきます。終始同じトーンのため、盛り上がりが無ければ盛り下がりも無く、一貫してフラットにつまらないシーンが垂れ流されます。
問題点を具体的に挙げればキリがありません。まずカメラワークからしてかなり終わっています。本作は意図的に「書き割り」の雰囲気を出す画面作りをしてきます。つまり奥行きが無い感じ。もっというとジオラマ的(=箱庭的)で無機質な感じです。画面には奥行きが無く、カメラが同一シーンで引いたり寄ったりすることがほとんどありません。強烈に「撮影セットくささ」があります。画面に映っていないところは世界が存在していない感じです。この画面作りが去年の「矢島美容室 The Movie」を強く思い出させます。
さらに話し自体にリアリティがまったくありません。晴菜はセンスが悪いと言うよりはただの頭がイカレた女にしか見えませんし、ヨウもたこ焼き程度で懐柔される「イケメン」という体裁ですが、服装が全身黒ずくめで一番痛いタイプの「自称ビジュアル系」な方にしか見えません。晴菜やヨウの両親を含めて大人が出て来ないという所もとてもファンタジックです。
ファンタジックと言えば、やはり一番の問題は「この作品が何を表現したいのか」というテーマが見当たらないことです。この作品は「見た目なんか気にしなくても、いつかありのままを受け入れてくれる王子様が来るよ」という女性への甘やかしがメインです。しかし冷静に見て下さい。主人公の晴菜がモテなかったのは単純に行動が気持ち悪かったからです。だって、当たり前ですけど最初から大野いとは十分にカワイイですもの。この顔で「ブサイク」扱いしたら日本女性の8割以上はブサイクですよ。あまりにも設定が無茶苦茶すぎます。
結局、本当に本作は存在意味がわからないんです。そもそも漫画の映画化のくせしてここまで芸人をだして下らないギャグで作品世界を壊してどうするんでしょう? すくなくとも劇場で配っていた漫画を読む限り、この映画は漫画のファンに向けたものですら無いと思います。
またTwitterでもちょろっと書きましたが、本作は雰囲気だけで作品を固めた結果、おそらく監督の意志とは無関係に過去の死屍累々の駄作達のコラージュのようになってしまっています。つまりダサいという意味でもブランニューに成り切れていないんです。やれスイート・リトル・ライズだ、やれ踊る大捜査線3だ、やれキラー・バージン・ロードだと書きましたが、おそらくこの監督はそれらにオマージュを捧げるつもりはありません。彼のとてつもなく酷いセンスが、その酷さに於いても中途半端だというだけです。だから、その酷いセンスを笑うことすら出来ません。ただただ下らなく、ただただどうでも良い作品です。

【まとめ】

非常に得体の知れない気持ち悪い映画です。そもそもモテコーチが要らないくらいスポーツが出来て可愛い女の子の話なわけで、こんなものの何所に感情移入して見れば良いのでしょう? ココリコ田中扮する溝端淳平もアゴ出過ぎですしコントに出てくるようなイケメン像でしかありません。学芸会という言葉さえ使いたくありません。忘年会の余興レベルです。
ただ、もしそれでも良いという方が居れば別に止めませんし、見て貰って良いと思います。この作品を楽しめるという方が居るとすればそれはたぶん私とは映画に求めている物が違うんです。あまりにもあんまりなので、私にはこの映像群は判断がつきません。もし気が向いてお金が余っているならば、物は試しで見てみるのも良いかもしれません。

[スポンサーリンク]
記事の評価
わたしを離さないで

わたしを離さないで

ようやく原作を読み終わりました。先週の日曜日に見たのは

わたしを離さないで」です。

評価:(96/100点) – 原作の世界観を利用した極上のラブストーリー


【あらすじ】

キャシー・Hは28歳の介護士である。彼女は提供者の安らかな最期を看取りながら、昔を振り返っていく。それは「ヘールシャム」という幻想的な学校で育った思い出だった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 1978年、ヘールシャムでの思い出。
 ※第1ターニングポイント -> トミーとルースが付き合い始める。
第2幕 -> 1985年、三人のコテージでの思い出。
 ※第2ターニングポイント ->
第3幕 -> 1994年、現在。


[スポンサーリンク]

【感想】

原作を読んでいて一週間遅くなりました。先週の日曜日は「わたし離さないで」を見ました。原作はご存じ日本の生んだイギリス人ブッカー賞作家・カズオ・イシグロ。昨年の東京国際映画祭でも上映されていましたが、当日券目当てで朝8時に窓口にならんだらもう完売してました。当時は「カズオ・イシグロの作品がついに」っていうよりは「若手俳優の有望株が豪華集合!」みたいな扱いだったと記憶しています。公開2日目だったのですが、そこまでお客さんは入っていませんでした。たぶんこの一週間でだいぶ評判にはなっていると思いますが、勿体ない事です。
本作を見ていると、これは確かに俳優力が半端でなく凄いことになっていると分かります。一種のアイドル映画と見られないこともありません。ですが、それ以上に、本作はすばらしい純愛映画に仕上がっています。この「純愛映画」と言う部分がこれ以降書くことのキーワードです。アメリカやイギリスでの評判を見ますと、この「純愛」成分が賛否両論の的になっています。つまり、「原作と全然違うじゃないか」という不満が原作ファンから挙がっているんです。原作付きの作品にはある程度仕方が無いことですが、私は原作を映画の後に読んでみてそれでもこの映画は最高に上手く脚色していると思います。
ここで例によって注意があります。本作はSFラブストーリーですが若干のミステリー要素も含んでいます。個人的には世界観のネタバレについては全く問題ないと思いますし、実際、映画の冒頭2分ぐらいの「匂わせ」でSFファンならすぐ理解できる程度の内容です。原作者のカズオ・イシグロ氏も「ミステリーのつもりで書いたワケじゃないけど、発表後に読者に言われて気付いた。」と語っていますが、やはりネタバレによって幾分か面白さが減ってしまう可能性はあります。肝心の部分については書きませんが、もし完全にまっさらな状態で観たい方は、ここから先はお控え下さい。

作品の世界観

本作について書こうと思いますと、やはりまずは世界観と原作について触れなければいけません。正直に申しますと、世界観については本来なら予告編や公式のあらすじでバラしてしまっても良いと思います。というか本作の一番の肝はこの世界観の設定の部分なので、ここを説明しないと面白さがまったく伝わりません。この辺りがいつもの「SF作品はお客さんが入らない」という例の宣伝方針なのかな、、、とちょっと複雑な気分になります。
さて、本作は今現在2011年から見て過去の話しになります。そして映画の冒頭で一気にダイアログによって世界観が説明されます。
1952年、科学技術の発展によってそれまで不治の病とされてきた病気が駆逐され平均年齢が100歳を越えます。そしてその中で、提供者と呼ばれる人々を育てる学校が各所に建てられます。作品はその中の一つ「ヘールシャム」で育った仲良し三人組をメインに語られます。
本作の世界観は「臓器提供のためだけに”造られた”クローン人間達」の人生を描きます。原作にしろ映画にしろ、この世界観を設定したことですでに「勝ち」です。
まったく同じ世界観に大味馬鹿映画でお馴染みマイケル・ベイの「アイランド」があります。しかし本作は「アイランド」とは”人生”についての解釈が180度違います。「アイランド」は不条理な一生を余儀なくされたクローン人間の復讐・逆襲を描きます。つまり「被差別層の最終目標は自身が差別層と入れ替わることである」という価値観をストレートに描きます。一方で本作のクローン人間達は常に達観しています。彼女たちは幼少時より隔離された世界で育てられ、自身の人生を「そういうものだ」という前提として受け入れています。そして受け入れた上で一生を”普通に”送っていきます。
言うなれば、本作におけるクローン人間・臓器移植という設定は「人生をギュッと圧縮するための設定」なんです。本作のクローン人間達は成人すると「通知」と呼ばれる手紙が来ます。そして自身の臓器を提供します。最高でも4回、通常は2~3回目の提供手術でクローン人間は亡くなります。このとき大抵は30歳前後です。一方、その臓器を提供された「普通の人間」は、移植によって100歳近くまで生きることが出来ます。つまり寿命という点では非常に両極端な事態になっているわけです。
肝は、クローン人間達の寿命が極端に短いからといって一生が薄いというワケではないという点です。彼女たちはまさしく普通の人間が送るのと同じような一生を、ギュッと圧縮して送るわけです。幼少時は学校で保護者達に守られた生活を送り、次は同年代の人間達のみで共同生活を送り、そして成人して一人暮らしをしながら仕事をし、通知を受け取ってからは臓器提供を行うことで体が思うように動かなくなり、ついには一生を終えます。これはモロに幼少期→青年期→成人期→老年期のメタファーです。
本作はSF設定を用いることで人間の一生を擬似的に圧縮し、それによって「否が応でも迫ってくる人生の不透明性/不条理性」を浮かび上がらせています。
昨年末の「ノルウェイの森」の時にちょっと書きましたが、これはまさしく1960年代的な純文学要素をもったSFそのものです。原作「わたしを離さないで」は、新しいような古典的なような、懐かしさをいれつつ今風のポップな文体に起こした大傑作だとおもいます。

映画における脚色の妙

さて、前述のように「わたしを離さないで」は人間の一生を圧縮して見せています。原作において、キャシー・Hは一生を多感に過ごします。幼少時には無邪気なグループ間の争いやイジメ的なものも目撃しますし、青年期には一夜の遊びも何度も経験します。成人期には仕事に没頭しつつもストレスや学閥による嫉妬も経験します。まさしく私達が送るであろう人生そのものを経験します。
一方、映画版においてはその描写は恋愛要素に大きく偏っています。キャシー・Hは幼い頃より好きだったトミーをずっと思い続けます。なかなか自分に振り向いてくれないトミーを見ながら、それでもずっと一生を送っていきます。映画版におけるテーマはここです。「人生は怖い」「いつかは終わりが来てしまう」「もしその恐怖に対抗できるとしたら、それは愛だけである」。本作のクライマックスにくるエピソードはまさしくこれを表現しています。そして、クローン人間達の人生が圧縮されていることで、この「愛」が相対的に長くなり、それが「純愛」要素を帯びてくるワケです。ファンタスティックMr.FOX的な表現をするなら、「人間時間で15年、提供者時間で70年の恋愛」です。
これによって、本作はもの凄い大河ロマン的な恋愛ストーリーとなります。私はここの部分において映画版は原作を越えているとさえ思います。大河ロマンになることで、最終盤にふとキャシー・Hが見せる涙が、それまで達観していた人生からふと漏れ出して見えるわけで、これこそ一生の不条理性を強烈に印象づけます。しかもそこに人生の不条理を絞り出すブルース調の「Never let me go」と、まだそれに気付いていない無邪気で無垢な少年少女達による「ヘールシャム校歌」がかぶさってくるワケです。
まぁ泣くなって方が無理です。

【まとめ】

本作はキャシー・Hという内気な女性の一代記になっています。そしてそれがとんでも無いほどの魅力を放っています。ですので、当然演じるキャリー・マリガンのアイドル映画として見ることも出来ます。そう、本作は1年かけて大河ドラマでやるような「女性の一代記」をわずか100分に濃度そのままで超圧縮しているんです。この恐るべき編集力と脚本力はどれだけ褒めても褒めきれません。小説版にでてくる脇役達も大きく削り、メインの三人組に集中したのも上手い脚色です。しかもそれでいて端折っている感じはありません。きちんと100分で完結しています。アンドリュー・ガーフィールドも神経質で多感な少年をすばらしく演じていますし、キーラ・ナイトレイの悪女っぷりも最高です。
これは心の底から是非映画館で見て欲しい作品です。確かに原作をゴリゴリのSFとして読んだ方には若干甘ったるい印象を与えるかも知れませんし、そこで違和感を感じるのも分かります。しかし、ここまですばらしく纏まったラブストーリーはなかなか見られません。かなりのテンションでオススメします。とりあえず、この1本!

[スポンサーリンク]
記事の評価
ランウェイ☆ビート

ランウェイ☆ビート

エイプリルフールだったけどこれだけはガチです。

「ランウェイ☆ビート」でも食らえ!!!!!

評価:(2/100点) – 美糸(びいと)って名前、ホストの源氏名?


【あらすじ】

東京下町の月島高校に通う塚本芽衣は平凡な生活を送っていた。クラスメイトには引きこもりの留年生がいたり、ヤンキーがいたり、大人気のティーンモデルがいたりする。ある日文化祭の出し物を企画していると、昨年と同じくモデル・美姫を大フィーチャーしたファッションショーに決まる。しかし美姫はそれだけではつまらないといい、みんながオリジナルのデザインを持ち寄り自分が気に入るものがあれば、自身の持つファッション雑誌の連載で紹介すると約束する。張り切るクラスメイト達だったがなかなか気に入るデザイン画は書けない。そんなとき、やってきた転校生・溝呂木美糸がいじめられっ子の引きこもり留年生・犬田悟を一晩でイケメンにプロデュースし、さらには素晴らしい出来のデザイン画を複数点見せつける。なんと美糸は有名ファッションブランド・スタイルジャパンの社長の息子だったのだ。そんな美糸の元にクラスメイト達は一致団結する、、、。


[スポンサーリンク]

【感想】

4月1日、映画の日は「ランウェイ☆ビート」を見ました。先々週末公開の松竹/TBS映画ですが、震災の影響で得意のごり押し地上波宣伝が出来ず興行的にはかなり悲惨な事になっています。今日も客席は7人しかいませんでした。1,000円なのに、です。
さて、本作は根本的な部分が駄目すぎます。大きく分けると2つの要素で絶望的に失敗しています。1つは「ダサい」こと。もう1つは「話しがぎこちない」こと。それぞれについて詳しく書いていきたいと思います。
ということで、今回はネタバレをガンガン含めて書きます。公開後2週間経ってますので大丈夫だとは思いますが、もし万が一見に行く気がある方はいますぐブラウザを閉じて下さい。もっとも、本作は話しをネタバレされたからと言ってどうこうなる映画ではありません。話しなんぞ予告である程度分かってますから。そんなことよりも、この作品は細かいディティールが酷い事になっています。

絶望を感じる所その1: ダサい

一言で「ダサい」と言っても、本作には2種類のダサさが入り交じっています。そしてその2種類は切っても切り離せない関係にあります。
本作が始まってすぐ、3~4分ぐらいでしょうか、、、月島商店街での人物紹介シーンがあります。なんてことはないシーンなんですが、ここで頭をハンマーでぶん殴られるような強烈な衝撃を受けます。というのも、いわゆる「コマ落ちエフェクト」が入るんです。急に一時停止して、2~3秒飛ぶものです。どんびきするほどのダサさです。そう、ダサさの1種類目は「演出のダサさ」です。これは最初から最後まで随所で見られます。私もついうっかり使ってしまう言葉なのですが、「ポップ/POP」という単語は非常に危険です。一般的には「ポピュラー/大衆的」の略語ですが、和製英語として特に創作畑では「かわいい/いまどき」みたいな意味で使われることがあります。おそらくですが、本作の演出面でのキーワードはこの「ポップ」だと思います。何故かと言いますと、本作での演出はすべて「スカしたハズシ」を意図されているからです。息抜き的な意味で、あえて少しダサいことをしているという空気をビンビン出してきます。これは大谷健太郎監督の過去作「NANA」「NANA2」でも見られた現象です。直近の「ジーン・ワルツ」では直球でダサかっただけ好感が持てたのですが(苦笑)、本作の様に小細工をしようとして失敗していると見るに堪えません。特にもっとも気になるのは、やはりクライマックスのファッションショーに挟まれる観客席からのカメラ映像です。クライマックスのファッションショーは爆笑ポイントの連続でそれはそれは愉快なシーンなのですが、なんと観客席からのハンディカメラ映像(たぶんSONYのHDハンディカム)に光量不足でデジタルノイズが入っていますw
フィルムから見る限り、最後のファッションショーはある程度進行も実際にやっていると思います。実際にファッションショー・イベントを通しでやって、それを映しています。そうすると当然撮影用のライトを最適化できません。かなり暗い客席から少し明るいランウェイをハンディカメラで撮っても上手くは撮れません。本作ではその失敗した映像をポスプロ段階で白黒レベルをカチ上げることで明るくしようとしています。そこでカチ上げすぎたため、デジタルノイズが乗っちゃっているんです。撮り直せって話しなんですが、そんな失敗映像を入れているということは、これは監督の意図としては「ハズシ」であり「実在感の表現」だっていう事です。
実は超直近で同じ演出を試みている作品があります。「ザ・ファイター」です。「ザ・ファイター」では試合のシーンになると突然画面の解像度が落ちわざとインターレースの映像になります。輪郭にシャギがかかる映像で、テレビの放送波で使われる形式です。これはまさしく実在感の表現であり、テレビ中継の映像を再現することで実際の出来事のように見せる演出です。まぁ「ザ・ファイター」の場合は多分に「ロッキー・ザ・ファイナル」へのオマージュではありますけれど。
なぜ同じことを意図し同じ手法をとりながらこんな悲惨なまでに開きができるのでしょうか? 演出力っちゃあそれまでですが、それはやっぱり真面目さだと思います。つまり、実在感の表現としてなぜハンディカメラを使うのかという大元の部分です。「ザ・ファイター」だったらテレビ放送を真似するため。「ロッキー・ザ・ファイナル」だったらリングの中の視点で臨場感をだすため。「レスラー」だったらドキュメンタリー調にするため。でも本作にはその根拠がありません。「なんとなくハンディカメラを使っとけば本当っぽくみえるだろ?」っていう短絡的で上っ面だけの演出です。映画監督は映像作家でありクリエイターなんだから最低限の頭は使ってください。
ちょっと長くなりすぎました。2種類目のダサさに行きます。これはもう文字通りの見たまんま。そもそも服装がダサいです。
Twitterでは面白おかしく「ロディ・パイパーっぽい」と書きましたが、これは決して大袈裟ではありません。主役のビートはデザイナーとは思えないほどいつもワンパターンの服装をしています。トップスはワイシャツに大きめのレザーブルゾン/革ジャン。右手首には驚くべき事に星柄の皮のベルトをブレスレットのように常に付けています。たとえ制服であってもです。先生は没取しろ。ボトムスはジーンズないしチノパンの上から、常に青か赤のタータンチェックのスカートを穿いています。足下はコンバースのハイカットか革ブーツ。レザーじゃなくキャンバス地です。このパターンをずっーーーーーーと着続けます。以下参考画像です。

↑ こちらランウェイ☆ビートの舞台挨拶。真ん中がビート。

↑ こちら往年の名レスラー。”ラウディ”ロディ・パイパー。
「格好良い」タイプではなく、スコットランドからきた飲んだくれというキャラです。
瓜二つです。すごい相似形w でもやっぱパイパーのが渋くて格好良いです。
作中ではビートは「おしゃれさん」で通っているわけです。意味が分かりません。おしゃれではないでしょ、これ。舞台挨拶の衣装なんて本当にコスプレっていうか役者が可哀想。完全に羞恥プレイです。やっぱり本作で一番オシャレなのは田辺誠一演じるお父さんです。彼は常に細身のスーツを着ていてシンプルで格好良いです。一方でビート側の「格好よさ」表現っていうのは、すごくゴテゴテしたものを付けていくやり方なんです。顕著なのは劇中でのワンダの変身です。類型的なオタク・ひきこもりとして登場するワンダは、髪を切って服装を変えることでイケメンとして生まれ変わり、性格まで明るくなり、ついには超人気モデル美姫の恋仲になります。大出世なのですが、彼のイメチェン時の服装は正直無理です。というのも、このワンダ変身後の服装は、ベルトを多用して、革のブーツにデザインYシャツという「渋谷に昔居た勘違いしたヤンキー高校生」そのものなんです。一目見ただけで痛々しさが伝わってくるんですが、劇中では女性陣がみんな見とれてしまいます。こういったセンスにものすごいギャップを感じます。私ももう歳なんでしょうか、、、。
また、中盤でビートのデザインがワールド・モードに盗用されるというイベントがあります。この時の衣装もそんなにみんな騒ぐほど可愛いかが全然ピンときません。たしかに桐谷美玲が可愛いのは間違いないですが、特にパクッたワールド・モードの服はかなりダサいと思います。星いっぱい付けた真っ赤なタイトシャツって、、、小学生のお絵かきじゃないんだから。
ファッションに疎い私が無いセンスを振り絞って考えたんですが(苦笑)、たぶんこれってそもそも「オシャレ」ってものを考えるときのポイントのズレなんだと思います。私なんかが「オシャレ」を考えると、一番最初に気になるのは「シルエット」なんです。例えばボトムスだったら、パイプドなのかテーパーしてるのかとか、太めなのか細めなのかとか。トップスも同じで、細身なのか余裕があるのかとか、シャツの襟の形であるとか、そういうところです。でもこの作品内での価値観は明らかにシルエットではなく装飾なんです。ベルトが一杯あるかとか、星が一杯付いてるかとか、そういうゴテゴテしたオーバーカロリーな感じです。個人的にはそれってジャンクフードに通じるセンスだと思うんですが、でもこの辺は個人差があると思うので一概に否定は出来ません。
唯一言えるのは、「ビートのデザイン・センス」は劇中内での扱いほど万人に受けるすごいものでは無いってことです。

絶望を感じる所その2: 話しの進め方がぎこちない

すでに書き始めてから2時間経過して4600字を突破したのでちょっと先を急ぎますw
本作で絶望的なのはダサさだけではありません。話しの運びも本当にキてます。
Twitterでハナミズキを引き合いに出したのは、実は本作もハナミズキと同様に映画の構成ではなくテレビドラマのフォーマットを垂れ流しているからです。ハナミズキ同様に本作は全5話です。
第一話「転校生ビートとワンダのイメチェン」
第二話「文化祭やるぞ!!!!」
第三話「ミキティの裏切り / 父との和解」
第四話「プロジェクト・ランウェイ・ビートとワールドモードの妨害」
第五話「ファッションショー本番」
しかも本作の問題はフォーマットだけではありません。イベントの進め方にも大きな問題があります。本作では何回か大きなイベントがあります。しかしその一つ一つのエピソードがその後にほとんど影響を与えません。極端な事を言えば、ミキティの裏切り・ワールドモードのパクリのあたりはエピソード自体を丸々削除しても全体に影響がありません。その後のワールドモードの妨害の話しも、大勢に影響がありません。だって、本来この話しは「学校の文化祭でファッション・ショーをやろう!」っていう物なんです。だから、実は本作を整理すると15分ぐらいに収まります。
本作のストーリーには大きく2つの柱があります。1つはファッション・ショーの企画を通じて語られる父と子の和解の話しです。こちらはベタベタで安っぽいもののそれなりにまとめてきています。父を憎んでいた息子が父の思いを知ることで和解し、やがて父と同じ境遇を経験し乗り越えることで成長します。しかし、全体尺の半分ぐらいにはもう父子が和解してしまうため、いまいち興味が続きません。後半は結構どうでも良くなってきます。
もう1つは忍ぶ恋の話し。こちらは「主役(のはずの)塚本芽衣がビートに惚れてしまうがビートにはすでに恋人がいる」という片思いの話しです。こちらも描写がかなり適当で、「ここで惚れたな」っていうポイントが無いまま唐突に好きとか言い出すのでかなりどうでも良いことになっています。しかもわざわざ同じ境遇としてミナミを出してくるあたりも小賢しいです。だってミナミとビート父とビート母の三角関係がまったく同じ構図のまま子供に引き継がれるってそれはちょっと適当過ぎるでしょ。しかも同じイベントの同じタイミングで同じように緊急手術とか、、、これがいわゆる「天丼ギャグ」って奴です。どんなに真面目にやっていても繰り返されると笑いに転化してしまうという恐ろしい現象です。
先ほどもちょろっと出ましたが、これが本作を語る上での2つめのキーワードです。「小賢しい/小手先」。いかにも「企画会議で一生懸命練りました!!!」っていう上っ面だけの人物配置。このいかにもな「やっつけ感」が本作を極めて不愉快で見ていて腹が立つものにしています。それが最高潮になるのがラストのファッション・ショーです。これはもう是非映像でご自身の目で見て下さい。あまりの破壊力に爆笑必至です。でも本来ここって笑われてはいけない場面です。しかし劇中内の観客の少なさもあいまって非常にシュールなコント空間になってしまっています。

【まとめ】

話しダメ、演出ダメ、音楽ダサイ、俳優大根、とかなり極まった作品です。唯一の救いは桐谷美玲の可愛さですが、でも本当にそれだけ。しかもキャラクターの魅力ではなく単に顔が可愛いってだけです。ですから本作を映画館で見る必要は万に一つもありません。どうしても気になる方はレンタルDVDで十分です。
ただやっぱりここまで完成度の低い作品というのもなかなか見られませんので、記念にはなるかと思います。ご自身の忍耐力を試したい、またはゆったりとした空間でポップコーンを食べてウトウトしたいという方にのみオススメです!!!

[スポンサーリンク]
記事の評価
ザ・ファイター

ザ・ファイター

今日は1本、

「ザ・ファイター」を見て来ました。

評価:(85/100点) – 魅力的な駄目家族達のアンセム


【あらすじ】

ミッキー・ウォードは8人の兄弟を持ち母親も再婚を繰り返す豪快な家庭に育った。彼はかつて「ローウェルの英雄」として知られた兄ディッキーの後を追ってプロボクサーとなる。しかしそんな兄も今やドラッグにおぼれ、姉妹達も自堕落に生活し、家計は全てミッキーの拳に掛かっていた、、、。

【四幕構成】

第1幕 -> ミッキーの練習とシャーリーン。
 ※第1ターニングポイント -> ミッキーvsリッキー・メイヤーズ。
第二幕前半 -> ミッキーの苦悩。
 ※ミッドポイント -> ディッキーが逮捕される。
第二幕後半 -> ミッキーの決意と再起。
 ※第2ターニングポイント -> ミッキーvsアルフォンソ・サンチェス。
第3幕 -> タイトル戦へ向けての練習とディッキーの出所。
 ※第三ターニングポイント -> タイトル戦開始。
第四幕 -> ミッキーvsシー・ニアリー。


[スポンサーリンク]

【感想】

本日は1本、「ザ・ファイター」を見て来ました。先日のアカデミー賞でクリスチャン・ベールが助演男優賞、メリッサ・レオが助演女優賞を獲得しています。そのわりにというと何ですが、お客さんはあんまり入っていませんでした。こんな面白い映画がすぐに打ち切られるのは惜しいので、もし映画を見る余裕がある人は是非来週の映画の日にでも見てみて下さい。
さて、もういきなり「面白い」とか書いてしまいました。本作は実話ベースでありながら上手く脚色してハリウッド式物語に落とし込んでいます。そういった意味では最近でいうと「イップ・マン2」に近いかも知れません。
本作ではミッキーがしょうもない家族達に翻弄されながらも、家族愛と共にボクシングに邁進していきます。かつての栄光にしがみつくヤク中の兄、自己中心的で強権的(というか野村サ○ヨ)な母、そして何をするでもなく集団で騒ぐだけの姉妹達。こういった癖がありすぎる家族のノイズの一方で、彼は恋人や父親に助けられ頭角を現していきます。
本作の要素は「ダメ人間が努力と根性でのし上がる話し」+「癖のある家族達への愛」+「ボクシング」というロッキーそのものな内容です。ですのでつまらないワケがありません。ただそれ以上に、本作はとにかくクリスチャン・ベールの存在感が圧倒的です。完全にイっちゃってる見開いた目で終始ヘナヘナと動くベールは、とてもいつもの彼には見えません。相変わらずのメソッド演技で度を超した移入を見せてくれます。そしてそんなイちゃってる兄と対照的に、ミッキー役のマーク・ウォールバーグはとっちゃん坊や感を遺憾なく発揮しています。まぁ実際にプライベートではウォールバーグもベールもどちらもどっこいな暴れっぷりですが、、、だからこそこの役作りの仕方は素敵です。
実在という面で言いますと、本作におけるミッキーはテーマのためにかなりキャリアを省略しています。本作は最初と最後をテレビのインタビュー取材が挟んでおり、回想の形で語られます。回想の冒頭は1991年の10月で、物語のラストのタイトルマッチは2000年です。実際のミッキーはメイヤーズに負けた後で一時的に引退し3年後に復帰します。しかし本作の中では姉妹から「三週間姿を見ていない」とだけ語られ、その後は時間の経過については明示されません。当然兄の警察沙汰等があるのである程度時間が経っているのはわかりますが、かなり思い切った省略の仕方です。実話をもとにする時はどうしても日付表示を入れたくなるものですが、そういった部分をばっさり切ってテーマに対して最短距離でとても上手く描いています。
とはいえ、この省略によってたとえばミッキーとシャーリーンの関係が急展開すぎたり、ミッキーののし上がり方が早すぎたり見えてしまうかも知れません。この辺りは難しい部分です。かなり気を付けて描いてはいるものの、ミッキーが実は結構強いというのが戦績や勝ち方でチラチラ見え隠れしています。ですが、本作は家族愛がメインのテーマですのでこれは仕方がないと思います。ディッキーが出所してからの一連の流れはそれだけで御飯3杯いけるぐらい素晴らしい兄弟愛ものです。兄の影で生きてきた男が、ついに自分が主役になれるシチュエーションになって兄から認められるわけで、それはもう涙無しには見られません。
ロッキーのような熱血ものを期待していくと肩すかしをくらうかも知れませんが、イかれた兄と真面目な弟の兄弟愛映画としてはかなりの出来です。若干試合のシーンはアレな感じがしますが、「あしたのジョー」のように下手に格好を付けずに真面目で丁寧に取り組んでいるのが分かるので全然気になりません。かなりオススメな作品です。

[スポンサーリンク]
記事の評価
トゥルー・グリット

トゥルー・グリット

月曜の春分の日は1本、

トゥルー・グリット」を見ました。

評価:(90/100点) – 小規模ながら屈指の出来。


【あらすじ】

マティ・ロスはまだ14歳の少女である。彼女の父・フランクは酒場の喧嘩に巻き込まれ殺されてしまった。マティはアーカンソーのフォートスミスに父の遺体を引き取りに訪れる。しかし彼女にはもう一つの目的があった。悲嘆にくれる母や兄弟を見た彼女は、父の仇討ちを出来るのは自分だけだと決心していたのだ。彼女はフォートスミスで屈指の暴力保安官”ルースター”・コグバーンを50ドルで雇い、父の仇トム・チェイニーが逃げ込んだインディアン・チョクトー族居留地へと向かう、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> マティとコグバーン、ラボーフとの出会い。
 ※第1ターニングポイント -> マティが川を渡る。
第2幕 -> チョクトー族居留地での旅。
 ※第2ターニングポイント -> ラボーフが追跡を諦める。
第3幕 -> トム・チェイニーとの遭遇と仇討ち。


[スポンサーリンク]

【感想】

月曜日は話題の西部劇トゥルー・グリットを見て来ました。監督はお馴染みのコーエン兄弟。日本では先月に前作「シリアス・マン」が公開されたばかりで立て続けの新作となります。今年のアカデミー賞では「英国王のスピーチ」に次ぐ10部門でのノミネートでしたが、結局一つもタイトルを取れませんでした。しかしアメリカでの評判は素晴らしく、私が見た回も7~8割は埋まっていました。月曜は繁華街の人通りが少なかったので、これは結構な入りだと思います。
本作は同名の映画「トゥルー・グリット(1969: 邦題「勇気ある追跡」)」のリメイクです。基本プロットは同じですが、本作ではよりマティをメインにしてキャラクターが立つようになっており、またラストも単純なハッピーエンドでは無く情緒を前面にだすようにアレンジされています。
さて、本作の何が凄いかというと、これはもう主演のジェフ・ブリッジスの溢れんばかりの人間力と、ほぼ無名ながらジェフを食ってすらいるヘイリー・スタインフェルドです。もともとの「勇気ある追跡」自体も言ってみればジョン・ウェインのアイドル映画だったわけですし、だいたい50年代・60年代の西部劇は大きくはアクション映画の一ジャンルでありアクション・スターを見るためのアイドル映画だったわけです。このあたりの事情はまったく日本の時代劇と同じで、例えば市川雷蔵だったり勝新太郎だったりのように数ヶ月に一度は主演映画が公開されるようなスターがおり、そのための薄味で定型的なストーリーが量産されていきます。「勇気ある追跡」もそういった作品の中の一つですが、他の有象無象との違いは役者達の掛け合いの凄さでした。トム・チェイニー役に名脇役ジェフ・コーリー、トムのボス・ラッキー=ネッドにはロバート・デュバル、さらには重要な情報を漏らす下っ端ムーン役でデニス・ホッパー。錚々たる悪党を向こうに回して豪傑を絵に描いたようなジョン・ウェインが突撃します。これに加えて「古き良きウェスタン」という言葉がぴったり来るような分かりやすい話と分かりやすい構図、そしてエンターテイメントとしての恋愛未満の恋の予感も入れてきます。まさにオリジナル版は「これぞ入門」と太鼓判を押せるほどオーソドックスな西部劇です。
そしてそんな古典をリメイク(正確には同一原作の再映画化)するわけですから、ここには当然「西部劇復興」「エンターテイメントの王道としての古き良きアメリカ映画」というものが入ってくるしかありません。それを象徴するのが、劇中でオーケストレーションされて何度も流れる1887年の賛美歌「Leaning on the everlasting arms(=永遠の/神の腕に抱かれて)」です。この歌の歌詞は以下のようなものです。

なんという一体感 なんという神が与え給うた喜び
永遠の腕に抱かれて
なんという祝福 なんという平穏
永遠の腕に抱かれて
全ての危機から安全で安心な
永遠の腕に抱かれて
なにを心配することがあろうか なにを恐れることがあろうか
永遠の腕に抱かれているのに
我が主のすぐ側で 平和に恵まれているのに
永遠の腕に抱かれて

拙訳ですみません。まさに本作のマティにぴったりな賛美歌の古典です。
本作のストーリーは非常にシンプルな復讐劇です。父の仇を追いかけて、曲者の凄腕保安官とちょっと間抜けなテキサスレンジャーとしっかりものの少女が珍道中を繰り広げます。そんなシンプルな話しだからこそ、こういった音楽であったり、道中の会話であったり、そういう細部が非常に重要になってきます。
このストーリーの大きなテーマは「復讐」と「正義」です。酔っ払って人を殺したトム・チェイニーは当然悪ですし、仇討ちをするマティに理があるのは明らかです。しかしその仇討ちのためにマティがやることは、例えば死体を引き渡して取引したり、直接悪ではない下っ端を死に追い詰めることです。そして全てのエンディングで彼女に残される物はなんでしょう?そういったものを全て踏まえた上での前述の「Leaning on the everlasting arms」なんです。彼女はラスト直前で誰かに抱きかかえられていませんでしたか?そしてそれは彼女にとってどういう意味があったのでしょう?
そう考えると、エンドロールでこのテーマが流れた時、これはやっぱりちょっぴり泣いちゃうわけです。
ラボーフの笑いあり、コグバーンの熱血単騎突撃あり、そしてマティの執念あり。これで文句を言ったらバチがあたるぐらい盛りだくさんのエンターテイメントです。そこにきちんと古典西部劇の情緒まで入れてくるわけですから、これを褒めずして何を褒めるかってぐらいの出来です。
とりあえず絶対見た方が良いですし、見なければ後悔すること請け合いです。大大プッシュでおすすめします!
※それとサントラも買った方が良いです。これ本当にいいですよ。

[スポンサーリンク]
記事の評価
ファンタスティック Mr.FOX

ファンタスティック Mr.FOX

3連休の2本目は

ファンタスティック Mr.FOX」です。

評価:(75/100点) -面白い!!! けど、、、ファンタスティックか!?


【あらすじ】

お父さんキツネは運動神経抜群でかつてニワトリ泥棒として名を馳せた。しかし今は新聞コラムニストとして働き、暗い穴蔵のマイホームで妻と反抗期の一人息子の3人で暮らしている。
ある日、新聞の不動産情報を見たお父さんキツネは、弁護士の反対を押し切って格安の木の家をローンで買うことにする。しかし格安にはワケがある。木の前にはボギス、バンス、ビーンという3人の性悪な農場主が住んでいたのだ。
お父さんキツネはよりによってその3人の農場から盗みを働くことにする。盗みは成功したものの、お父さんキツネは命を狙われることになってしまう、、、。


[スポンサーリンク]

【感想】

3連休の2本目は「ファンタスティック Mr.FOX」です。アメリカでは2010年のお正月映画で、日本にやっと入ってきました。先日のアカデミー賞でも長編アニメーション部門でノミネートされています。その割にはお客さんはあまり入っていませんでした。結構話題作だっただけに意外です。
本作は1970年出版の同名の童話の映画化です。人形を使ったストップモーションアニメにしては約1時間半という結構な長さがあります。いくつかの章に分けられており、かなり小気味良く物語りが進んで行きます。ストーリーには大きく2つの柱があります。一つは「大人になって社会に適応せざるを得なくなってしまったもの達が自分たちの本能を取り戻す話」。もう一つは「家族から浮いていたお父さんが家族の絆を取り戻す話」です。そこはやはり童話なので、教育的な内容にきっちり着地します。
書くこともあんまりないくらい良く出来たお話しですし、素晴らしい努力の結晶ではあります。ただ、どうしてもイマイチな感じが拭えないのは、ひとえに結局お父さんキツネが散々周りを巻き込んで悪さしたのに一回も謝らないからです。盗みが最初から最後まで「野生の本能だ」で片付けられてしまうので、なんか喉の奥にひっかかりを感じます。基本的には「お父さんキツネが何かする」→「事件が起きてまずい事になる」→「お父さんキツネが乗り越える」というマッチポンプの繰り返しなので、ファンタスティックっていうよりは自業自得って感じしかしません。基本的な流れは本当に面白いんです。終盤のハンパもの達が自分たちの特技を持ち寄って作戦を組み立てていくところなぞ超熱血な展開ですし、「人間なんてやっちまえ!!!!」と感情移入しまくりです。なので、どうしても細かい部分が気になってしまいました。
また、ヘンリー・セリックの頭がおかしいんじゃないかと思うぐらいの狂気の人形劇「コララインとボタンの魔女」と比べてしまうと、ストップモーションアニメの技術的な部分も一枚劣ってしまいます。これは比べるのが可哀想で、ちょっと近々の相手が悪すぎました。
十分にオススメできる内容ではありますので見に行って損はありません。まだ全国で3館しかやっていませんが、子供でも楽しめますので是非連休最後の休みは親子連れでどうぞ。人形だけあって登場キャラクターは本当にみんな可愛いですよ。

[スポンサーリンク]
記事の評価
ランナウェイズ

ランナウェイズ

3連休の1本目は

「ランナウェイズ」です。

評価:(60/100点) – 初期衝動だけで突っ走る青春物語


【あらすじ】

ロサンゼルスに住む16歳のシェリー・カーリーと双子の姉マリーは奔放な母とアルコール依存症の父の離婚でぐれていた。タバコや酒は当たり前。夜な夜なディスコに繰り出し自堕落な生活を送っていた。
時を同じくして、1歳上のジョーン・ジェットはロック・スターに憧れギターを勉強していた。ある日ジョーンがクラブを出ると、そこに有名な音楽プロデューサーのキム・フォーリーを見つける。キムに声を掛けたジョーンはその場で女性ドラマーのサンディ・ウェストを紹介される。キムはこの二人がモノになると考え、当時男の物だったロックの世界に「女性ロック・バンド」というギミックで乗り込む事を考える。必要なのはブリジット・バルドーのようなセンターを飾るセックス・シンボルである。スカウトに出かけたキムは街のクラブでシェリー・カーリーに声をかける。こうしてシェリーとジョーンは出会い、そして「ザ・ランナウェイズ」を結成する、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ジョーンとキムの出会い。
 ※第1ターニングポイント -> キムがシェリーに声を掛ける。
第2幕 -> 「ザ・ランナウェイズ」結成とドサ周り。そしてメジャー契約。
 ※第2ターニングポイント -> 日本ツアー
第3幕 -> 仲違いとその後。


[スポンサーリンク]

【感想】

3連休の1本目は「ランナウェイズ」です。70年代にスポット的に活躍した「ザ・ランナウェイズ」のボーカル・シェリー=カーリーの自伝「ネオン・エンジェル」の映画化です。トワイライト・シリーズのクリステン・スチュワートとご存じ天才ダコタ・ファニングのダブル主演で昨年話題になった映画で、由緒正しきアイドル映画です。アイドル映画にしては珍しく結構お客さんが入っていました。
私、実はザ・ランナウェイズは名前しか知りませんでした。っていうか「ジョーン・ジェットの最初のバンド」ぐらいの認識しかなかったので、てっきりジョーンがメインだと思って映画も見に行きましたw
本作は原作の著者であるシェリー・カーリーを中心に進んで行きます。彼女が初期衝動を爆発させ、そして駄目な日常から抜け脱しロックスターとなり、でも結局挫折して駄目な日常へと戻っていきます。本作ではその初期衝動を一過性の青春として描きます。
ただーーこれはシェリーの自伝なので仕方がないことですがーーどうしてもシェリーの言い分が前面に出てきてしまうためストーリーにはイマイチ乗り切れない物があります。本作を客観的に見ると、どう考えてもシェリーが自分勝手にジョーンの夢・情熱の具現化であるバンドをブチ壊したようにしか見えません。アルコール・ドラッグ中毒で、短気で、そしてロックへの情熱もそこまで無いシェリーが、奔放に振る舞えば振る舞うほど周りとの軋轢が生じていき、ついにバンドは空中分解してしまいます。本作では随所にそれを「他人のせい」にする描写が出てきます。初期には自分勝手な母親のせいであり、中盤ではアルコール中毒で自堕落な父親のせいであり、後期ではプロデューサであるキム・フォーリーの無理解のせいです。特に後半は「キムは自分たちを商品としてしか見てない」ばりの事を平気で言ってきます。どん底だったシェリーをフック・アップしてくれた恩人に向かってそれは無いだろ、、、とか思うんですが、どうにも要領を得ません。
ただ本作がズルイのは、そういったシェリーのワガママな部分すらダコタの愛嬌を使って「青春だから仕方ないんですよ」と説得してくる所です。結局、本作におけるシェリーは奔放で手に負えない女王様であり、そしてそのセクシーさ=小悪魔っぷりでもってそれすら周りにあきらめさせてしまうような魅力的な人間として描いてくるわけです。そんな離れ業は普通の子役ではまず無理なんですが、それをよりによって当代一のダコタ・ファニングを使って彼女自身の魅力でねじ伏せてくるという、、、ここまで行くとはっきり言って反則です。
早い話がシェリー役にダコタをブッキングした時点でこの映画は勝ちです。酷い話しです、、、(汗
もちろん本作のもう一人の主役であるクリステン・スチュワートもかなり頑張っています。トワイライトの1作目の頃から「たくましいアゴ」「目つきが悪い」と言われ続けてきた彼女に、まさかこんなハマリ役があるとは思いませんでした。まずそもそもジョーン・ジェットと顔がそっくりですし、ケツアゴが男らしさの表現とマッチして本当にロックスターに見えてきます。たたずまいは完璧です。是非今後もこの路線で行って欲しいです。
ストーリー自体はいたってシンプルですが、それでも役者の魅力だけで120分持たせるというのは相当なものです。もちろん歌に関しては「お察し下さい」レベルですが、元ネタのザ・ランナウェイズ自体も上手いわけでは無いのでそこは全然問題無いでしょう。とにかく全編通じて、シェリーの「私達はイロモノじゃない」「ちゃんとやってた」「無理解なキムが全部悪い」「今はちゃんと薬物から更正して良くなった」というメッセージがビンビンに伝わってきます。ダコタが不良メイクから始まって最後は清純派メイクになるところがポイントですw最後のシーンなんてちょっとぼかしが入ってますしw
ですからシェリーが挫折したロック道をジョーンがまだ突き進んでいるっていうノスタルジックな着地にしたのは素晴らしいまとめ方だと思います。青春を過ぎて大人になった自分が居る一方で、年を取ったのにまだ青春のまっただ中にかつての仲間が居る。それだけで十分に素敵な映画です。
ダコタやクリステンが好きな人は絶対に押さえておいた方が良いですし、なにより青春物語として普遍的なものは持っている作品です。上映館がかなり少ないですが、お近くで上映している方にはオススメです。劇場で「I Love Rock’n Roll」を聴くと本当にテンション上がりますよ。

[スポンサーリンク]
記事の評価