ウルフマン

ウルフマン

2本目は「ウルフマン」です。

評価:(70/100点) – 古典的名作をいじるのは良いけど、、、。


【あらすじ】

ある日、ローレンス・タルボットの元に兄の婚約者・グエンから手紙が届く。グエンの要請に応えて実家に戻ったローレンスは、父より兄の痛々しい遺体が発見されたことを聞き、殺人犯を見つける捜査を始める。熊の仕業ではとの噂を聞きジプシーのキャンプに乗り込んだローレンスは、そこで禍々しい獣の襲撃に遭遇してしまう、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ローレンスの帰郷と兄の死。
 ※第1ターニングポイント -> ローレンスが狼男に変身する。
第2幕 -> 狼男としてのローレンスの苦悩
 ※第2ターニングポイント -> ローレンスが実家に再び戻る。
第3幕 -> ローレンスとジョンとグエン。


[スポンサーリンク]

【感想】

本日の二本目は「ウルフマン」です。原題が同じ古典的名作「狼男の殺人」のリメイクです。ベニチオ・デル・トロが狼男を好演していますし、アンソニー・ホプキンスも嫌らしい父親が大変似合っています。
しかし、ウルフマンになるローレンスの二面性を持った苦悩がイマイチ描き切れていないように見えます。ローレンスというキャラクターは、シェイクスピア俳優というインテリ芸術家の側面と理性のない凶暴な怪物という2つの面の間で苦悩する悲劇的な人物です。凶暴な部分はグロい描写も混ぜつつ上手く表現出来ていると思いますが、一方で人間臭い部分の描写が足りません。
もっとも、ベニチオ・デル・トロをキャスティングしている時点で人間的な魅力は十分という制作側の算段もあるとは思いますし、それは十分に成功しています。ですから気にはなりますがそこまでの欠点だとは思いません。
それよりは、本作が旧作から変更している物語の根本部分の方が気になります。本作では物語のテーマに直結する設定を二カ所、旧作から変更しています。
一点目は当然、ローレンスを狼男にしてしまう、彼を噛む狼男です。旧作ではジプシーですが、本作では父親に変更されています。これにより本作に「親と子の因果」「父親越え」というテーマが追加されます。こちらはポジティブな変更です。
一方、ネガティブな二点目の変更点はグエンの設定です。旧作では通りすがりにナンパした美女でしたが、本作では兄の婚約者になっています。そのためロマンス要素に変な障害風味が追加され、非常にクドい印象を受けてしまいます。死んだ兄の婚約者をたらし込もうとしてるという点だけで、あんまりローレンスが真面目なインテリに見えません(苦笑)。いまいちロマンスに乗りづらいため、ラストでもあんまり感情移入できませんでした。
とはいえ、レトロ怪奇映画のテイストは十分にでていますし、なにせリック・ベイカーのモンスター造形はすばらしいです。グロいのが苦手な方にはオススメしづらいですが、ホラーが好きな方には鉄板でオススメです。そして劇場で見たあとにでも、是非レンタルでオリジナルも見ていただくと、本作がより面白く見られると思います。

[スポンサーリンク]
記事の評価
武士道シックスティーン

武士道シックスティーン

本日は2本です。

1本目は「武士道シックスティーン」です。

評価:(65/100点) – 邦画の中では文句なく良作。若干剣道描写が、、、アレか?


【あらすじ】

剣道の中学チャンピオンの磯山香織は、中学時代に唯一敗れた西荻早苗を追って東松高校に入学する。しかし高校で再会した西荻はへっぴり腰で気迫のない情けない少女であった。そこで磯山は西荻の潜在能力を発揮させるために特訓を企画する。剣道一筋の人生だった磯山は、西荻との交流で徐々に心を開いていく。しかしそれは磯山の強さを奪うことでもあった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 早苗と香織の出会い。
 ※第1ターニングポイント -> 香織が放課後に早苗を自宅に誘う。
第2幕 -> 地区大会と香織の苦悩。
 ※第2ターニングポイント -> 早苗が父と再会する。
第3幕 -> 早苗と香織の決闘。


[スポンサーリンク]

【感想】

さて本日は2本見てきました。一本目は武士道シックスティーンです。原作本の人気もあってか、結構混んでました。映画を見てる間中ずっ~と気持ち悪い笑い声を上げてるキテるアイドルオタク風の人が居る一方で、親子連れや年配の男性一人で来てる人など、観客層もさまざまでした。
でまぁ結論から先に言いますと、これがなかなか良い出来の青春スポーツものでした。本作のような内容はおそらく日本でしか成立しづらいものです。そういった意味で十分に邦画として見る価値のある佳作だと思います。

ストーリーについて

本作のストーリーは早苗と香織という2人の似たもの同士が互いに距離を測りながら友情を深めていく青春映画です。先日見た「海の金魚」とほぼ同じフォーマットです。
早苗の父親は、人が良すぎるために企業秘密を漏洩してしまい大借金を背負って蒸発してします。それを見た早苗は「負けること」に強烈な抵抗を示すようになり、逃げ回ってでも「絶対に負けない」事を信念に気迫のない腰の引けた剣道スタイルになっていきます。
一方の香織は母を亡くし、不器用な剣道家の父親に幼い頃から「勝つ剣道」を叩き込まれ続けます。「勝つこと」だけが生き甲斐で、趣味も剣道の鍛錬と剣道関連書の読書など、完全に剣道のみの人生を歩んできています。
このお互い「父親に理解して欲しい」という欲求を心の底にもったーーしかし表面への出方が180度違う2人が出会うことで相互に支え合うようになっていきます。
主演の成海璃子と北乃きいは結構な好演を見せてくれますし、剣道シーンは一部を除いてなかなか良く出来ています。剣道を囓った身としては、ここまで剣道シーンを描写してくれればもう十分及第点です。
しかしですね、実はこの剣道描写でちょいちょいガックリさせられるんです。
まずは北乃きいが勝つ2つのシーンです。両方とも相手が完全に棒立ちなのも酷いんですが、北乃きいが背中を反っちゃってるのがダメダメです。面を打つときは一足一刀から踏み込んで手を伸ばしつつ絞りますので、背中は絶対に反りません。胸は張りますが、背中が反り返ってるのは変です。
次に最後の決闘シーンです。ここは心底がっかりです。ここでは両者が制服姿で剣道をするんですが、2人とも下手なんです(苦笑)。しかもスゴい下手。もしかして他の剣道シーンはスタントマンの吹き替えなのかもと思ってしまって急に冷めてしまいました。

スポーツにおける「道」の問題。

あまり意識されることが少ないかも知れませんが、日本のスポーツや文化には「道」と言う文字が最後に付くものがあります。ちょっと思いつくだけでも、柔道、剣道、茶道、華道なんかがあります。この「道」という文字はそのまま「生き方」を表しています。要は柔道や剣道や茶道や華道は、単なる技術論や勝負論ではなく、そこから「人生とは?」というところまで拡張された価値観・精神を修行するものなんです。
本作で描いている「剣道」もまさにその典型です。「剣道」は相手の3部位を竹刀の先端から中結いまでの37~38センチで打つスポーツです(プラスで突きもあります)。ルールは超単純です。しかし単純過ぎるがゆえに、そこには技術論以上に精神論が大きくなっていきます。本作で描かれる早苗のように細かい横ステップを多用すると、普通はぶっ飛ばされます(笑)。っていうか本作の剣道シーンでは一足一刀の間合いに入っても動かなすぎです。
本作の早苗と香織は剣道を通じて人生について考えさせられます。剣道を続ける意味を互いに悩んだとき、そこには「父と自分の関係」であったり自分の人生観を見つめ直す事になります。
こういったスポーツと人生観を重ねるというのは非常に日本的な発想です。

【まとめ】

本作は剣道を通じて友情を深め合う2人のまっすぐな少女の成長物語です。役者陣はみなさん良いですし、ストーリーもちょっと類型的な嫌いはあるものの十分に及第点です。
必見というほどでもありませんが、もしお時間があれば映画館で見てみるのも良いかもしれません。随所に小笑いが起きるようなギャグも挟んできますので、剣道を知らない方でも全然問題ありません。万人におすすめできる佳作です。

[スポンサーリンク]
記事の評価
タイタンの戦い

タイタンの戦い

本日のレイトショーは

タイタンの戦い」です。

評価:(55/100点) – 名作のリメイクとしては無難な出来。でもちょっと3Dが、、、。


【あらすじ】

漁師の夫婦はある日、海で女性と赤ん坊の入った棺を発見する。幸運にも生存していた赤ん坊はペルセウスと名付けられ漁師として育てられた。それから十数年後、成人となったペルセウスと家族がアルゴス沖で漁をしていると、たまたまアルゴス兵達が巨大ゼウス像を倒す所に遭遇してしまう。そして冥王ハーデスの逆襲に巻き込まれ、ペルセウス一家は彼を除いて全滅してしまう。
さらに、ハーデスはアルゴス王に対し次の日蝕に怪獣クラーケンを解き放つ事を宣言し、止めたければ娘のアンドロメディアを生け贄として差し出すよう要求するのだった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ペルセウスの生い立ちと一家の死。
 ※第1ターニングポイント -> ハーデスがアルゴス王に要求を突きつける。
第2幕 -> クラーケンを倒す方法を探る冒険。
 ※第2ターニングポイント -> 日蝕がはじまる。
第3幕 -> クラーケン襲来。


[スポンサーリンク]

【感想】

さて今週の新作レイトショーは「タイタンの戦い」です。ご存じストップモーションアニメの巨匠レイ・ハリーハウゼンの作品として知られる「タイタンの戦い」のCG実写版リメイクです。
主演は去年のターミネーター4から急に主役級で見かけるようになった期待のサム・ワーシントン、脇には往年のいぶし銀名優が勢揃いという映画ファンならエンドロールだけで御飯2杯はいける作品です。

ストーリーについて

作品の内容としては、まさにそのまんまオリジナルの「タイタンの戦い」です。かつてストップモーションアニメで撮っていた部分をフルCGで作り、そして3D用の演出に書き換えたようなものです。さすがは「アンドロメダ型」とまで言われるほどの「お姫様を救う勇者の冒険譚」の物語原型でして、非常にオーソドックスな骨組みにはなっています。実はそういった意味では限りなく「アリス・イン・ワンダーランド」と同じ話と言えます。
ただ、かなり駆け足な印象はありまして、明らかに描写が足りない部分も多々見受けられました。特に、本作の第2幕(=冒険パート)では大きく4つの有名イベントがあるのですが、その間の移動描写が極端に少なかったり、次のイベントに行くきっかけがかなり省かれたりしています。もし旧作を見たことが無ければ、おそらく最初に森やら砂漠やらをうろついている意味が分からないと思います。グライアイ三姉妹の件も人物関係を説明してくれませんから、ギリシャ神話自体を知らなければ何が何やら分かりません。
そしてこういった駆け足が何故行われているかというと、、、私はこれは3Dのせいだと思います。

3D表現について

本作は2D映画として撮影された映像をあとから3D変換しています。そして(ここが肝だと思いますが)、あらかじめ3Dを前提として撮影していないため、3D用にあとから追加した描写と元からあった物語本編の描写のトーンがあきらかにズレてしまっています。ここが3D変換を前提に2Dで撮影された「アリス~」との決定的な違いです。
3D用の描写は本作では大きく2パターンしかありません。1つはデジタルのコピぺを使った無限遠風景の表現です。要は地平線まで繋がる砂漠や波の表現でまさに奥行き表現そのものです。もう1つはある対象物の周りをぐるっと回る空撮っぽい描写です。これはオープニングの星座やゼウス像、巨大サソリに乗った一行や、冥界の渡し船など、繰り返し多用されます。
一方、作品の本道では、アクションシーンが多いせいか比較的アップで速いパンを連続させる描写を多用します。
そうするとですね、、、3D用のシーンは非常に間延びして冗長に見え、本道のシーンは動きが速すぎて3Dが破綻するという、かなり残念な状態になってしまいます。実際問題、本作はもしかしたら2Dの方が楽しめるかも知れません。あまりに不自然すぎて、3Dが逆にマイナス要素になってしまっています。
そもそも3Dはいわゆる「見せびらかす描写」になりがちです。「ほ~ら、凄いだろ、3D」って感じの長回しがどうしても多くなるので、その分本編に使える時間が少なくなってしまい、結果としてストーリーが駆け足になるという本末転倒な自体が起こってしまっています。

【まとめ】

個人的には、この作品に3Dは要らないと思います。なんでもかんでも3Dにすれば話題になるのかも知れませんが、それにしてもやはり作品によっては3Dの向き不向きはありますし、何より3Dが必ずしもプラス要素とは限りません。
本作をこれから観ようという方には、申し訳ございませんが2D上映をオススメいたします。これを機に、もう少し制作サイドが3D映画にすることによる影響範囲や作品価値の上げ方を考えていただければと思います。
でも面白かったんで、是非是非。ちょっと怖いシーンもありますが、お子さん連れでも十分楽しめると思います。

[スポンサーリンク]
記事の評価
17歳の肖像

17歳の肖像

日曜日は一本。

「17歳の肖像」です。

評価:(85/100点) – キャリー・マリガン、すんげぇ~!!!


【あらすじ】

ジェニーは高校三年生。オックスフォード大学を目指して教育熱心な両親のもと勉強に打ち込んでいた。ジェニーはある日、雨のなかチェロを持って立ち往生しているところを中年のデイヴィッドにナンパされる。初めて接する大人の男のアタックに、いつしか彼女も好意を寄せるようになっていく、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ジェニーの日常。
 ※第1ターニングポイント -> デイヴィッドとの出会い。
第2幕 -> デイヴィッドと付き合い、社会勉強をする。
 ※第2ターニングポイント -> デイヴィッドにプロポーズされる。
第3幕 -> ジェニーとデイヴィッドの結末。


[スポンサーリンク]

【感想】

日曜日は「17歳の肖像」を見ました。ご存じ「彗星」「(オードリー・)ヘプバーンの再来」と絶賛の嵐で、24歳にして英アカデミー賞の主演女優賞をかっさらったキャリー・マリガンの主演作です。私も正直言いまして完全にキャリー・マリガンが目当てで行きました。客席は一人で来ている若めの女性が多く、おそらく世間認知としては「おしゃれ映画」に属すると思われます。とはいえ客入りは2割程度でして、日曜の夕方にしてはちょっと寂しい状況です。
今回は若干ですが雰囲気でネタバレな感じになってしまうかと思いますので、先に感想を要約してしまいます。
とにかく、キャリー・マリガンはとんでも無いバケモノです。そしてこの話の筋である「少女が大人一歩手前まで成長する」という部分を完全に体現しています。超一級のアイドル映画として、そして超一級の青春映画として、今後数年はちょくちょく名前が挙がるような作品になると思います。映画ファンなら間違いなく観るべきです。もしかしたらこの先50年後まで、「私はキャリー・マリガンの出世作を劇場で見た」と自慢できるかも知れません。もちろん彼女がグレなければですが(笑)。

話の大筋

話のキーワードは、ずばり原題そのものである「An Education(=教育)」です。本作の中でジェニーは3種類の「教育」を受けます。
1つは「学校教育(=学問)」です。教育熱心な親の元、ジェニーはオックスフォード大学に入るために学問に打ち込みます。序盤、彼女が親の薦めでオーケストラ部に入っているのに、チェロの練習をしようとすると怒られる場面があります。このシーンで、ジェニーの父の「高校教育や部活は大学に進むためのツールでしか無い」という価値観が明らかになります。
2つめは「社会勉強」です。ジェニーは大人のデイヴィッドと付き合うことで、オークションやジャズ・バーやクラシック・コンサートといった「学校で教えてくれない実地の文化学習」を行います。もちろんフランス旅行もその一環です。そしてこの文化学習の魅力にジェニーはすっかり嵌ってしまいます。
3つめは「挫折を味わう」ことです。最終盤にジェニーの元に訪れるあるイベントによって、彼女は大人になることが必ずしもポジティブな事ばかりでは無いことを知ります。
そしてこの一連の流れを通じて、彼女は学問の大切さを実感します。それは単にテストの点がどうこうという両親の薄っぺらい価値観とは別の、「社会を生き抜くためには学が必要だ」という切迫した要請から来るものです。これが彼女の成長であり、本作のテーマでもあります。

キャリー・マリガン

このテーマを完全に体現しているのがキャリー・マリガンです。本当に恐ろしいことですが、彼女は第一幕では「素朴な田舎の真面目な少女」にしか見えません。ちょっとそばかすがあって、スキがありそうで、服装にも無頓着な感じの女の子です。やがて第二幕に入ってデイヴィッドと付き合い始めると、ジェニーは髪をアップにしてドレスアップします。そうするとこれはもうヘップバーンとしか言いようのないほど、凜とした意志が見える美女にしか見えません。アカデミー賞の授賞式を見ているとこちらが女優・キャリー・マリガンに近いようです。そして色々あって第三幕、再び髪を下ろして田舎少女スタイルに戻るんですが、しかし明らかに目だけはちょっと怖いんです。そしてこれが少し世間ズレしてしまった大人になりかけのジェニーです。そして最終盤のラストカットで彼女は再び「素朴な田舎の真面目な少女」時の笑顔を取り戻します。
この一連の流れをキャリー・マリガンは完璧にこなしています。ものすっごい難しい役だと思いますが、お世辞抜きで完璧です。彼女は日本だと宮崎あおいとか蒼井優とか栗山千明とかの世代なわけですが、ちょっとレベルが違いすぎます。

【まとめ】

本作はキャリー・マリガンのためにあるといっても過言ではありません。ユアン・マクレガーをフライパンで正面から殴ったような顔のピーター・サースガードなんてどうでもいいです(←失礼)。
作品自体が成立するか否かがマリガンの力量に全て掛かってるというすごいプレッシャーの中でこれだけの演技を見せてくれるわけですから、これはもう絶賛せざるをえません。是非、劇場でご鑑賞下さい。個人的には「幸せの隠れ場所」のサンドラ・ブロックや「ジュリー&ジュリア」のジュリアン・ムーアより数段上だと思います。必見です。

[スポンサーリンク]
記事の評価
オーケストラ!

オーケストラ!

昨日の二本目は

「オーケストラ!」です。

評価:(75/100点) – 役者と音楽の魅力で脚本をカバー。


【あらすじ】

ボリショイ管弦楽団の天才指揮者・アンドレイは、共産党のユダヤ人排訴運動から楽団員を守った結果、楽団の解散に追い込まれてしまう。それから30年、いまや新生ボリショイ管弦楽団の掃除係に落ちぶれたアンドレイは、オーナー室を掃除中に一枚のFAXを見つける。それはパリからのコンサート依頼であった。彼はそのFAXを盗み、かつての仲間と共にボリショイ管弦楽団に成りすましコンサートに向かおうとする、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アンドレイの日常。
 ※第1ターニングポイント -> イヴァンが交渉役としてパリと連絡を取る
第2幕 -> 仲間集めとパリでの出来事。アンナ・マリー・ジャケとのあれこれ。
 ※第2ターニングポイント -> アンドレイとアンナの会食
第3幕 -> アンナがコンサートに出てくれるかどうか。そして本番。


[スポンサーリンク]

【感想】

昨日の二本目は「オーケストラ!」です。あんまり書くこともないくらい平凡な内容のヒューマンドラマなんですが、結構ズルい構成をしています。
話の内容は至ってシンプル。負け犬であり燻っているアンドレイ達が、唯一自信の持てる音楽でもって自己実現を果たす話です。いうなれば「少林サッカー」の音楽版です。ですから、少林サッカーが大好きな人にはたまらん物があると思います。特に、死んでしまった大事な仲間の穴埋めにその子供が合流するというベタベタな展開は、思わず親指を立てざるを得ません。
とはいえ、やはり使い古されたフォーマットであることには代わりがありません。その平凡な内容でありながら本作がとても良く纏まって見える”勝算”は間違いなくチャイコフスキーの音楽力です。そりゃ、チャイコフスキーを映画館の音響でフルに聞かせてもらえれば嫌でも気持ちよくなります。
もちろんストーリーはツッコミどころが満載です。でもそのツッコミどころですらコメディタッチなトーンに回収されてしまい、そこまで気になりません。そんなに文芸文芸している作品ではありませんが、軽いタッチで面白い映画が見られるということでは格別の物があります。
あまり公開館が多くは無いですが、是非是非、お近くで上映している方は観てみて下さい。「20世紀少年最終章」とは違った意味で、音楽の力を借りたフィルムの成功例を目の当たりにすることが出来ると思います。
負け犬万歳!!!

[スポンサーリンク]
記事の評価
アリス・イン・ワンダーランド

アリス・イン・ワンダーランド

今日の一本目は期待の新作、

「アリス・イン・ワンダーランド」です。

評価:(55/100点) – つまらなくはないが、、、中途半端。


【あらすじ】

19歳になったアリスは、ある日大勢の前でヘイミッシュにプロポーズをされる。しかし困惑した彼女は見かけた白ウサギを追いかけて逃げ出し、ウサギの穴に落ちてしまう。目が覚めるとそこは子供の頃から夢に出てきたワンダーランドだった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アリスがパーティーに出席する。
 ※第1ターニングポイント -> アリスがアンダーランドに迷い込む。
第2幕 -> アリスとハッターとの再会。アリスと赤の女王の城。
 ※第2ターニングポイント -> アリスがヴォーパルの剣を持って城の女王に合流する。
第3幕 -> アリスとジャバウォックの決闘。


[スポンサーリンク]

【感想】

さて、本日はディズニー期待の大作実写映画・アリス・イン・ワンダーランドです。宣伝は去年の11月頃から散々見せられてきましたから、話の内容はあらかた想像がついていました(笑)。監督はティム・バートン。おなじみジョニー・デップとヘレナ・ボナム・カーターがメイン級ででており、鉄板のバートン組って感じでしょうか?

話のディティールについて

本作の話自体は、よくある類の異世界に迷い込んで独裁者を倒すファンタジー・アドベンチャーです。最近ですと、ナルニア国物語第一章/第二章あたりが全く同じ話ですし、古くは「ネバーエンディングストーリー」や「オズの魔法使い」など山程ある話です。
そんな中で本作がアリスとしてギリギリ成立出来ているのは、一重にキャラクター造形の巧さです。特に見た目に関しては本当にジョン・テニエルが描いたオリジナル挿絵にそっくりです。ジャバウォックなんてそのまんまで3Dで動きますから、感激とまでいかないまでも感心はしました。
しかし、キャラクターの性格については正直に言ってほとんど原作と関係ありません。っていうかハッターが真面目かつヒロイックすぎますし、原作での最重要キャラ・白ウサギもキャラが薄すぎます。
結局ですね、本作はルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」にある単語やエピソードやキャラクター造形を使って、ティム・バートンが(ディズニーの制約の中で)好き放題やっているという印象がします。この「ディズニーの制約」というのが結構微妙だったりします。

ティム・バートンという監督の資質

いまや日本でも一般認知度の高い人気監督になりましたティム・バートンですが、当ブログで彼の作品を扱うのは初めてです。ということで、そもそもこの監督の資質というものについて考えてみたいと思います。
ティム・バートンの代表作といえば、バットマンシリーズやシザーハンズ、マーズ・アタックあたりが有名でしょうか? 彼の作品に共通するキーワードは「弱者に対する優しさ」と「カルトな描写」です。例えば「シザーハンズ」では生まれつき人とふれあうことが出来ない孤独なエドワードの悲哀を描いていますし、「バットマン・リターンズ」では親に捨てられた孤独なペンギンの悲哀が前面にでてきます。「チャーリーとチョコレート工場」では貧乏な少年が正直さと真面目さで評価されるようになりますし、「スウィーニー・トッド」では悪徳判事にハメられた一小市民の反撃を描きます。
そしてこれらの「弱者に対する優しい視点」がカルトな雰囲気を混ぜて倒錯した描かれ方をします。
では今回の「アリス・イン・ワンダーランド」はどうでしょうか?
「アリス・イン・ワンダーランド」はまさに赤の女王の圧政で虐げられた人々の復讐劇です。その意味ではこれ以上ないほど「弱者の味方」そのままです。ところが、、、本作を見ていてイマイチ物足りないのはここに「カルトな描写」が入ってこないことです。具体的にはマッド・ハッターがまったくマッド(=気狂い)じゃないんです。せっかくジョニー・デップなのに、全然変人ではありません。マッドなのは服のセンスぐらいです(苦笑)。
本作で私が一番ワクワクしたシーンはずばり言って、赤の女王城のお堀に浮いた顔(生首)を飛び石にしてアリスが渡るシーンです。あとはアン・ハサウェイ演じる「白の女王」のエドワード・シザーハンズを連想させる変な動きぐらいでしょうか?
逆に言うとですね、、、そこ以外はきわめて普通で、「毒気」を抜かれたティム・バートンの抜け殻のように見えてしまいます。とてもディズニーっぽいと言った方が良いかもしれません。ディズニーなので赤の女王を処刑するわけにはいかないですし、人間の形をしたクリーチャーは殺せないんです。
でもそれってティム・バートンの魅力の大部分を削いでしまっているわけです。じゃあカルト表現を削いだ分だけファミリー向けになっているかというと、そうでもありません。生首が出てきたりしちゃうわけで、100%ファミリー向けにはなっていません。とっても中途半端です。

話のプロット上で気になる点

物語で気になる点は結構あります。まず一番は、そもそもアリスが救世主であることの根拠の薄さです。「預言に書いてあるから」ってだけだとちょっと、、、。おそらく実際には「アンダーランド(ワンダーランド)はアリスの夢なのだから自分が最重要人物になるのは当然」って辺りの事情だと思いますが、ちょっと微妙です。しかも終盤では、いくら「ヴォーパルの剣が戦ってくれるから握ってるだけで良い」とはいえ、ちょっと驚くほどのアクションを見せてくれます。せめて白の女王に合流した後で剣術の練習ぐらいはして欲しかったです。
第二に、この物語の着地の仕方です。本作は最終的には「ダウナー系の不思議ちゃん」だったアリスが「物事をハッキリ自己主張する大人の女性」に成長する物語になります。でですね、、、この自己主張の仕方に問題があると思うんです。特に姉とおばちゃんに対しての態度は自己主張っていうよりは冷や水をぶっかけてるようにしか見えません。もしかしたらアメリカ人の感覚では問題無いのかも知れませんが、ちょっとどうなんでしょうね?

【まとめ】

ここまで書いていない重要な事があります。
原作の「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」が何故ここまで名作として普及しているかという理由は、もちろん1951年のディズニーアニメの影響もありますが、その原作の持つ暗喩性によるところが大きいと思います。早い話がアリス・キングスレーが少女から女性に成長する過程をワンダーランドのメタファーに置き換えて語っているわけです。
ですから、私個人としては「千と千尋の神隠し」で宮崎駿がやったような「倒錯した自分流の不思議の国のアリス」をティム・バートンがやってくれることを期待していました。その意味ではちょっとがっかりです。
しかし、決してつまらない話ではありません。手放しでは喜べないものの、最近のファンタジーアドヴェンチャーとしては手堅い出来です。小さいお子さんを連れて行くのは考えものですが、友人や恋人と気軽に見るには最適ではないでしょうか? ディズニーのエンタメ・ファンタジーとしては十分に及第点だと思います。

[スポンサーリンク]
記事の評価
ダーリンは外国人

ダーリンは外国人

昨日見てちょっとツイートしちゃいましたが、

「ダーリンは外国人」です。

評価:(6/100点) – ダーリンは団体職員。私は夢見る漫画家志望!(のニート)


【あらすじ】

小栗左多里は漫画家志望の女の子である。左多里はイラストを人権団体に持ち込んだ際に知り合ったアメリカ人のトニーと恋仲になり同棲を始める。
そんな中、姉の結婚式で両親にトニーを紹介した左多里だったが、父から交際を反対されてしまう。父に認めてもらうため、自身が漫画家になって自立できるよう、左多里は漫画に打ち込んでいく。しかしそれはトニーとのすれ違いを生んでしまった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> トニーとの三回目のデート
 ※第1ターニングポイント -> 姉の結婚式。
第2幕 -> 左多里、漫画家への道。
 ※第2ターニングポイント -> 父が死ぬ。
第3幕 -> 左多里の渡米と結婚。


[スポンサーリンク]

【感想】

さて一日遅れですが本日は「ダーリンは外国人」です。小栗左多里の自伝的マンガの映画化で、原作には無い恋愛要素を拡大して劇映画にしています。
で、いきなり結論を言いますが、私は本作を見て怒りも悲しみも湧いてきませんでした。代わりにあったのはものすごい虚無感と放心です。というのも、本作の心底くだらない内容もさることながら、あきらかに適当にテイクをつないだカットとなんとなく適当に撮った構図に辟易したからです。

本作の適当ポイント

まず誰もが思うであろう事をツッコませていただけば、そもそもこの物語自体が「ダーリンは”外国人”」になっていません。
ハッキリ言って、トニーが外国人である必要がまったく無いんです。だって、本編の中でカルチャーギャップコメディはただの一度も成立していません。洗濯物の表示が分からないのは外国人に限りませんし、食器を適当にゆすぐのは外国人だからではありません。もっというと、父親が反対した理由は「外国人だから」ではなく「同棲開始時に挨拶に来なかった」からです。本編の中で、ただの一度も、本当に一瞬ですら、トニーが外国人である事が原因で喧嘩するシーンはありません。
はっきり言います。
本作は「ダーリンは外国人」ではなく「私は夢に恋するニート」です。
全ての喧嘩や仲違いの原因は、左多里の八つ当たりおよび常識の欠如であり、トニーの適当な性格に起因するものです。そこに日本人だの外国人だのといった文化論の入り込むスキは1ミリたりともありません。全て、個人の性格・性質のせいです。
本作で本気で呆れかえったのは、最終盤で左多里が母に「やっぱりトニーが外国人だから上手くいかないのかな」とボヤくシーンです。
400人収容の映画館で私含めて3人しか見ていなかったせいもあるのですが、思わず声に出してツッコんでしまいました。
ちげぇ~よ。オメェがワガママで無神経だからだ!外人関係ねぇし。
ホントに関係ないんですよ。カルチャーギャップ皆無。トニーが日本語ペラペラすぎるため、まったく左多里が異文化交流をしません。冒頭のパーティシーンで孤立する描写が良い例です。もし、彼女が異文化交流をしたがるタイプなら、パーティシーンでは英語が分からなくても身振り手振りだけで飛び込まないといけません。ところが実際には壁際でオロオロしてるだけです。だから、そもそも左多里は異文化交流に興味が無いんです。
ではここで問題です。異文化交流に興味の無い女が、日本語ペラペラの外国人と付き合いたがって、いきなり同棲を始める理由はなんでしょう?
もちろん本気で好きだからもあるんでしょうが、しかし彼女はことあるごとに「トニーは外国人だから」という言い訳/こだわりを持ち込みます。



と言うことで、私の考える答えはコレです。
外国人の彼氏とつきあえる私が大好きだから。
少なくとも本作を見る限りにおいて、左多里はトニーをブランドバッグか何かと勘違いしているようです。可愛そうなトニー。ちょっと間抜けで気が利かないだけなのに、外国人というレッテルで特別視されるなんて、、、。

本作の適当ポイント・その2

さて、カルチャーギャップコメディになっていないという問題もさることながら、次に挙げる点はある意味もっと深刻です。
左多里とトニーは何して食べてるの?
要は二人とも社会生活を営んでいるように見えないんですよ。二人が同棲している家はすごい広いですし、左多里の実家は石垣付きの大豪邸です。もちろんトニーの実家もアメリカでもかなり広い方の一戸建てです。
さて、冷静に考えてみましょう。左多里は漫画家志望で、バイト等している様子はありません。ほぼ収入ゼロです。一方のトニーは、人権ボランティア団体の勤務らしいですが、作中では一日中家に居ます。本物のトニー・ラズローの政治活動は一端脇に置いといて、この作中のトニーはそんなに儲かってるんでしょうか?
二人に全然生活感がないんです。トニーはいつも同じTシャツ着てますし、この二人がどうやって生活しているかがさっぱり見えないんです。少なくとも作中を見る限り、左多里は親からの仕送りのみで生活しているように見えます。
ニートに「私の彼氏って外国人なの。いいでしょ?」って自慢されても、そんなん知るかってことですよ。別にアンタが幸せならいいんじゃない?って。
でも自分と夫の馴れ初めをこんなファンタジー世界に脚色されて全国公開されたら、普通の”日本人”なら恥ずかしくなると思いますよ?
あ! これってカルチャーギャップコメディとして成立してるじゃないですか!?
観客と監督と脚本家と原作マンガ家のカルチャーギャップ(苦笑)。
全員日本人だし、、、どんだけメタ構造のアバンギャルド映画だよ、、、。

【まとめ】

原作ファンの方には怒られるかも知れませんが、この映画を見る限りに於いて、左多里には人種差別主義者の匂いがプンプンします。だってトニーが何をやっても「外国人だから」と思ってるような奴ですよ。根本的に左多里の精神構造では「外国人」を馬鹿にして(=特殊視して)見下してるんですよ。個人個人として向き合いたいとか言っておきながら、その心中ではものすごい差別意識があるわけです。しかもブランドバッグ扱い。最低ですね。左多里の両親の態度の方がよっぽど誠実です。
結局ですね、、、この作品はカルチャーギャップコメディにもなっていなければ、恋愛映画にもなっていません。ただワガママな女の見当違いな自慢話を見せられるだけです。
別にこれで良いと思うならいいんじゃないでしょうか?
ただし、こういった精神構造の人間が勢いづいて自己愛が肥大していくと、待っているのは辻仁成や押尾学のラインしかありませんので是非お気をつけ下さい(苦笑)。

[スポンサーリンク]
記事の評価
海の金魚

海の金魚

昨日は「海の金魚」を観ました。

評価:(55/100点) – 青春ドラマの佳作。内容詰めすぎ。


【あらすじ】

天才ヨット少女のキヨミは、事故でパートナーを亡くしてしまい傷心のもと鹿児島に帰ってきた。無気力に過ごすキヨミだったがある日海辺のヨットで暮らすミオと出会い、徐々に心を開いていく。そんな中で、ミオは亡き父の遺した宝の地図を頼りに、キヨミにヨット操縦を依頼する。こうしてキヨミとミオの冒険が始まった、、、。

【四幕構成】

第1幕 -> キヨミの転校とミオとの出会い
 ※第1ターニングポイント -> ミオが宝探しと火山めぐりヨットレースにキヨミを誘う。
第2幕 -> 宝探し。
 ※第2ターニングポイント -> キヨミが父の遺品を発見する。
第3幕 -> ヨットレースに向けての準備・練習
 ※第三ターニングポイント -> 火山めぐりヨットレースの開幕
第四幕 -> ヨットレースと結末。


[スポンサーリンク]

【感想】

昨日見てきましたのは「海の金魚」です。鹿児島で行われる火山めぐりヨットレースを舞台に、二人の女子高校生の再起を描きます。私は結構楽しんで見ていたのですが、全体的にエピソードを詰め込みすぎで映画としては結構ブサイクな出来になっています。
本作には大きく二つの主題があります。一つはメインとなるキヨミの復活物語です。事故で親友を亡くしてヨットを離れた少女が、それでもヨットに惹かれて再起を果たす様子が描かれます。こちらのパートは非常にベタベタな展開でして、お約束となるトラウマ再現とその克服話があったり、敵対するイケメンが登場したりします。特に書くことも無いほど類型的です。
二つめはミオが父の死を乗り越えて生きる希望を取り戻す話です。こちらのパートはあまりにもトンデモな内容過ぎて、正直な所、劇中の真面目なトーンで見ることは難しいです。ミオは高校生で学校をサボって水族館のバイトをしてるんですが、それでヨットが維持できるとは到底思えません。なにより両親の居ない女子高生が、一人で鍵も掛からない不法係留したヨットの上で住んでること自体が不自然過ぎます。途中で鹿児島県の職員が不法係留の警告に来る場面があるんですが、ミオを養護施設にでも保護するのが先だと思うんですが、、、。当然キヨミの家でミオを引き取るのかと思ったんですがそんな様子もなく、結局この人はなんだったのか最後までさっぱり分かりません。さらに父が失踪する際のエピソードにしても非現実的ですし、ミオの背景をきちんと描かないとまったく感情移入できません。
本作で全体的に情緒に寄り過ぎな演出なのにそれでも淡泊に感じる一つの原因は、このキヨミとミオのエピソードのボリュームです。本作は全体が通常の三幕構成ではなく四幕構成になっています。それは「ミオの宝探し」と「キヨミの復活としてのヨットレース準備」が同じボリュームで詰め込まれるからです。ダブルヒロインと言うと聞こえは良いですが、単体でも十分に一本の映画が撮れるエピソードを二つも詰めた結果、両方が中途半端に駆け足になってしまいました。
作品の流れからすればあくまでもキヨミがメインで、ミオは「キヨミと似たもの同士」という位置のキャラクターです。ところがどうしても入来茉里さんの方が田中あさみさんよりも存在感があるために、ミオがキヨミを”食っちゃう”んです。特に練習風景でヨットに熱中しすぎて周りに当たるキヨミの描写の後では、完全にミオの方が魅力的に見えてしまいます。
さらに面倒なのが、本作のラストがミオの一人語りで終わる点です。ここが最も混乱する所です。ミオが父との思い出&遺言としての短編小説で映画を締めてしまうと、どうしても構造上ミオの話がメインに見えてしまうんです。でも実際はキヨミの復活劇がメインなわけです。
おそらく入来さんと田中さんの両者があっての映画企画なのでしょうが、2時間映画としてはどちらか一方のエピソードに絞って丁寧に描いた方が面白くなったのではないでしょうか?。
またこれは余談ですが、ある意味では裏テーマである「鹿児島の町おこしとしてのヨットレース」の描き方が雑なのはちょっと問題です。鹿児島市が公式に後援しているのですから、もっと盛り上がってる感じを見せてもらえないと観光としては逆効果になってしまいます。レースの終盤でも、ゴールデンフィッシュ号は馬鹿の一つ覚えのようにひたすらタックのみで攻めていきます。
はっきりいって相当ショボく見えましたから、この映画を見てヨットに興味を持つのはちょっと厳しいように思えます。

【まとめ】

青春映画としてはそこそこ楽しめる方だと思います。何せ入来さんが溌剌としていて可愛いですし、男性陣も魅力的な俳優がそろっています。中でも柄本時生さんのヤンキー漁師役は完璧です。見ておいて損はないですが、どうしても同じ「絶望からの復活物語」ですと「半分の月がのぼる空」の方が2・3枚は上です。
インディ映画ですので、あまり気張らずにフラっと劇場に入って見る分には文句なしの佳作だと思います。

[スポンサーリンク]
記事の評価