乱暴と待機

乱暴と待機

今日は一本、

乱暴と待機」を見て来ました。

評価:(45/100点) – 音楽と役者は良かった。主題歌だけはiPodでヘビーローテーション。


【あらすじ】

番上貴男とあずさの夫婦は妊娠をきっかけに府中の片田舎へ引っ越してきた。同じ長屋に挨拶回りをしていた貴男は異常なほど挙動不審な奈々瀬という女性に出会う。兄と二人で暮らしているという彼女は、偶然にもあずさの高校の同級生だった。いかにも訳ありで突っかかるあずさは、奈々瀬の兄を見て驚愕する。「あいつら、兄妹なんかじゃないよ」、、、。


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【感想】

本日は一本、「乱暴と待機」です。予告で若干エロ要素をアピールしているせいか、一瞬「ヌードの夜」かと思うほど客席はおじさんばかりでした。原作は「劇団、本谷有希子」の舞台です。

概要

本作は登場人物がわずか4人のこじんまりとした話です。舞台ならではのミニマムさで、これまた舞台特有の入り組んだ人間模様を展開してきます。原作者の本谷有希子さんというと私はどうしても「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を思い出してしまいます。「腑抜けども~」ではおとなしいけど策略家の清深を中心に、勘違い馬鹿女の姉とその姉を異常なほど溺愛する兄を配して、頭のイかれた男女の妄想・策謀入り乱れる様子をブラックコメディとして描ききりました。「パーマネント野ばら」の時にも書きましたが、この本谷有希子の人物配置と吉田大八監督の資質が完全にマッチして恐ろしいほどの化学反応を見せたヘンテコで魅力的な映画になりました。
さて、では本作はどうかと言いますと、「腑抜けども~」における清深の位置には今回は奈々瀬が着きます。表面上はおどおどしていても裏では超腹黒で自分だけが楽しめる事を探しているという屈折したパーソナリティです。そしてそこにいかにも駄目人間を絵に描いたようなニートの”番上君(貴男)”とこれまたオタクを絵に描いたような”山根さん”が絡んできます。
本作では本谷有希子のブラックジョーク・センスが演出によって直接的に表面に出てきます。ですので、悪く言えばコントのように見えてしまう場面も多々有り、映画としてはいささかどうかと思うほど安っぽく見えてしまいます。ただその一方で、やはりイかれたキャラクターを作り出すことにかけては天才なのは間違いありませんので、100分間なんか引っ掛かりながらも雰囲気で持って行かれてしまうのは事実です。
とはいえ、結局本作でもやっていること自体は「腑抜けども~」の焼き直しレベルでして、「表面を取り繕った腹黒女が内面を暴露した瞬間に本当の愛が生まれてしまう」というクライマックスはまったく同じです。「腑抜けども~」では姉妹愛だったのが、本作では男女愛になっただけです。
そして、本作が「腑抜けども~」と決定的に違うのはこれはもう監督の真面目さというか”まともさ”としか言いようがありません。良くも悪くも吉田大八監督はマッドな世界を自身で批評しながら世界観に入って撮れるのに対して、今作の冨永昌敬監督は真面目に客観視して構築しようとしてきます。その冨永監督の生真面目さが、本作を妙に普通な感じの映画のルックにしてしまっています。だから結果としてマッドな登場人物達を突き放し過ぎていて、何考えているか分からない本当に頭のおかしな人たちに見えてしまうんです。番上君と奈々瀬がいままさに事に及ぼうとするときにカメラがパンしてあずさが映るシーンは本作でも屈指の爆笑ポイントですが、一方で画面内では妙に登場人物達が冷静過ぎるんです。「真剣に酷い目にあっているほど端から見て面白い」というのはコメディの基本ですが、本作の場合はあまりにも演出が冷静すぎて逆に戸惑ってしまいます。

【まとめ】

どうしても同じ作家で同じプロットの原作ということで比較してしまうのですが、個人的にはちょっとハードルを上げ過ぎてしまったかなと思う次第です。ですが、役者は四人とも本当に面白い演技を見せてくれますし、本作も決してつまらないということはありません。公開館が非常に少ないですが、お近くで上映している方は行って損はないと思います。
冨永監督については、本作で劇伴を担当している大谷能生さんのイベントで対談した様子が「大谷能生のフランス革命」に収録されています。僕自身、菊池成孔・大谷能生コンビの一連の共同仕事(東大講義→TOKYO FM水曜Wanted!→東京大学のアルバートアイラー→M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究→アフロ・ディズニー)に大分影響されていますので、興味のあるかたは是非本屋さんで探してみてください。本当は本よりもトークの方が圧倒的に面白い方達ですので、ネット上を探してラジオ音源があればそちらもオススメです。

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記事の評価
悪人

悪人

さてさて、本日はモントリオール最優秀女優賞で何かと話題の

悪人」を観てきました。

評価:(2/100点) – 人間の振れ幅ではなく、恣意的なキャラの振れ幅。


【あらすじ】

解体業の清水祐一は、出会い系サイトで出会った保険外交員の石橋佳乃を激情にまかせて殺してしまう。その後飄々と生活をしていたが、出会い系サイトで出会った別の女性・光代とデート中に家に警察が来ていることを知り、そのまま光代と共に逃亡生活をする。それまで殺人を何とも思っていなかった祐一だったが、光代に本気で恋したことで罪の重大さに気付いていく、、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 石橋佳乃と増尾圭吾
 ※第1ターニングポイント -> 佳乃が殺される。
第2幕 -> 裕一と光代の出会い
 ※第2ターニングポイント -> 裕一の家に捜査が及ぶ。
第3幕 -> 裕一と光代の逃避行


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【感想】

本日は川崎チネチッタが1,000円だったので、あんまり見る気のなかった「悪人」に行ってきました。お客さんはよく入っていまして、ほぼフルハウスだったと思います。本作は先日、深津絵里がモントリオール国際映画祭で最優秀女優賞を獲ったことで話題になっていましたが、そのせいもあるかも知れません。春先の「パレード」よりも観客は入っていました。モントリオール映画祭自体はマスコミをいっぱい連れて行けばくれるモンドセレクションみたいなもんなので価値無いんですが、日本人はこういう謎の横文字に弱いですからね(笑)

大変申し訳ないというか、予告である程度予感はあったんですが、相変わらずな感じでボロカスに書かせていただきます。それも同じ吉田修一原作のパレードみたいに「腹は立つし酷い出来だけどやりたいことはわかるから、点数だけは45点」みたいな事もありません。っていうか満島ひかりと松尾スズキ以外に褒めるところが見当たりません。私の駄文を読んでいただいている奇特な方にはなんとなく察しがついているとおもうんですが、私は好きな俳優や可愛いアイドルがでていると点数が大幅に甘くなりますw 満島ひかりが出ているのに2点を付けたという根拠をこれから一気に書かせていただきます。すなわち私の燃えたぎる怒りのリビドーをw
お約束ですが、以後の文章は多大なネタバレを含みます。まぁ予告を見ただけであらすじは全部分かると思いますが(苦笑)、本作はそれ以上に演出面で本当に怒りを呼ぶレベルの事を平然としてきます。どうしても細部になってしまいますので、これから見ようと思っている映画未見の方はご遠慮下さい。

本作の流れ。

本作の流れをざっとおさらいしましょう。第1幕では、殺される事になる佳乃がいかに最低な女で「殺されても仕方がないか」という描写が続きます。

そして第2幕前半では、裕一が祖父の介護をしたり近所の年寄りの世話をしたりする「良い人」描写があります。そして「将来に希望が持てない閉塞的な人生を送る寂しい女」光代と出会います。裕一はここで光代のあまりの純朴さに惚れてしまいます。そして光代もまたそれまでの人生に居なかった「不良っぽい強引で影のあるイケメン」にコロっといきます。そして当初犯人と思われていた圭吾が実は直接的に事件と関係無いことが明らかになり釈放されます。この段に来てついに裕一に捜査の手が及び、裕一は光代をつれて逃亡します。道中の食事中に裕一が光代に語る回想シーンによって、再度、佳乃がいかに殺されて当然の女かという描写が入ります。一方、裕一の居なくなった実家では、祖母が詐欺にひっかかったりマスコミに追い回されたりして踏んだり蹴ったりな状況になっていきます。また、佳乃の父は、警察の取り調べから釈放された圭吾を逆恨みし、モンキーレンチをもって追いかけ回します。一度は自首を決めた裕一でしたが、光代は逃避行の続行を希望し、再び逃げます。

ついに光代のあこがれの灯台に潜伏した裕一は、買い出しにいった光代の後を付けた警察によって取り押さえられてしまいます。取り押さえられる間際、裕一は光代の首を絞めます。これによって光代はあくまでも犯人に連れ回された被害者として、逃亡援助の罪を免れます。

映画におけるモンタージュ理論の基本

ちょっと話がそれますが、映画にはモンタージュ理論というものがあります。いまや常識としていろいろな表現に使われているもので、この理論を使っていない映像はほとんどありません。ソ連のエイゼンシュタイン監督の「戦艦ポチョムキン」から脈々と続く革命的な理論です。詳しく知りたい方は沢山本が出ていますので読んでみて下さい。

ざっくり説明しますと、これはまったく別々のカメラで撮った映像を編集によってつなげることでそこに意味が付加されるという理論です。例えば建物の映像が10秒ぐらい流れて、次いで居間のような所で夫婦が話している映像に切り替わるとします。これを見た観客は、当然この居間が建物の中にあると思います。でも、実際に最初に写っていた建物の中に居間があるかどうかは本当は分かりません。テレビドラマであれば、外観はロケで実物を撮影して、部屋はスタジオのセットで撮影していることだってあり得ます。ですが、私達はこの並びで映像を見せられると、「写っていた建物の中に居間がある」と認識します。これがモンタージュ理論です。映像は編集によっていくらでも恣意的に観客の心理や感覚を操ることが出来るんです。

これは映像に限ったことではありません。脚本にも同じ事が言えます。脚本はたとえ個別のシーンが全く同じだったとしても、見せる順番や編集点を変えることでいくらでも恣意的な印象操作をすることができます。これに失敗している映画は、見ててどうでもよくなってきたり、飽きてしまったりします。

本作で怒りを呼ぶ主張。

さて、前置きはこれくらいにしまして、いよいよ本題です。本作は、明らかに監督・脚本家の意図として、佳乃と圭吾を「最低な人間」、裕一と光代を「根は良い人」として印象操作を仕掛けてきています。それはエピソードのつなげ方を見ても明らかです。冒頭から佳乃と圭吾は本当に最低に描かれますし、一方の裕一は地元では世話焼きで無口な純朴青年として描かれます。そして逃避行の最中、駄目押しで犯行シーンを見せて佳乃を決定的な糞女として描きます。

私が一番怒りを感じるのは、この佳乃が完全な最低女として描かれる犯行シーンです。満島ひかりを使ってこれかよってのもあるんですが、それ以上に、このエピソードの入れ方に問題があるんです。いいですか、、、このシーンは、港町っぽい食事処で、裕一が光代に「人を殺してしまった」ことを弁解するシーンに裕一の回想として入れ込まれるんです。これぞまさに前述したモンタージュ理論の最低な悪用です。さんまイカの目のアップから回想に入るという面白演出で見失いがちですが、犯行シーンは真実(=神の視点のカメラ)では無く、あくまでも殺人犯が一緒に逃げてくれる恋人に弁解している都合の良い回想なんですよ? それをこのタイミングで入れてくるんです。そしていかにも同情するような深津絵里の顔を繋いできます。本っっつっっっ当にこういう事をされると腹が立ちます。加えて遺族の父親は指名手配犯の裕一を捜すのではなく、釈放された圭吾に説教しにいきます。おかしいでしょ、どう考えても。作品全体で裕一を全面擁護する方向につなげてるんです。

しかも極めつけは、母が訪ねてくるというエピソードと、夕日を灯台で見ている子供の裕一のカットです。つまり、彼は親に捨てられて寂しくってグレちゃったんだから人ぐらい殺してもしょうがないという繋ぎ方なんです。これに関しては、作り手側の良識を疑います。「重力ピエロ(2009)」で「親が人殺しの子供は人を殺しても仕方が無いから自首しなくてOK」という結論がありましたが、それ以来の衝撃です。今度は「孤児はグれて当然だから人を殺しても仕方が無い」そうです。全国の人を殺したことがない孤児の方は本気で怒ったほうが良いです。

もちろん裕一だけでなくこういった描写は光代にもあります。そもそも光代ってそうとう頭がイっちゃってます。だって出会い系サイトでナンパした男にいきなり「ホテル行こうか」って言われてホイホイついて行ったあげくに「私は本気で好きな人が欲しかったの」とかいうような子ですよ。描写がないですが、たぶんこれ出会い系サイトでナンパしたのは初めてじゃないはずでしょ。これって所謂ひとつの「ヤンデレ」ってやつですか? むしろ怖いんですけど、、、。だけど、その明らかにおかしい子を「理解力と包容力のある優しい純朴な子」みたいに演出してくるのがかなり引きます。要は光代はいままで誰からも相手にされなかったのに、裕一が相手にしてくれたのがうれしくって舞い上がっちゃっただけです。それをいかにも「本当の愛を知った」見たいな描かれ方をされるとツッコミたくなります。だって初めて会った日はホテルに連れ込まれてその場でさよならで、次に会った日の夜にはもう逃避行してるんですよ? いくらなんでも早すぎでしょ。もっとも、作りて側の「女なんて一発やっちまえば言うこと聞くんだよ!」という逞しい信念に基づいた物ならば大変結構なんですが、普通それはちょっとねぇ、、、、、女性を馬鹿にしすぎでしょ。北方謙三あたりが言ってるなら苦笑いで済みますけどね(笑)。

なんかもう全部が雰囲気でずさんなんです。そもそも祖母が詐欺に遭う話だって映画の本筋と全然関係ないじゃないですか。悪人と善人の見分けって話ですが、それはそれで余所でやれって。マスコミはマスコミで加害者の祖母の家には押しかけるのに、被害者の葬式や遺族の家には押しかけ無いんですよ。現実のマスコミは被害者の方にだって節操無くガンガンにアタック掛けるでしょ?さらには被害者の父親が、釈放された元容疑者をモンキーレンチで白昼堂々と襲うんですよ。なんで無実の元容疑者を襲うのかもさっぱりですが、そんなもん写真週刊誌に一発でやられますよ。

あと、圭吾君はたいして悪くありません。ストーカー気味の女の子に夜中にばったり会っちゃって仕方無くドライブに誘ったらウザイくらいアピールしてくるから車から蹴り出しただけです。まぁ蹴りはやり過ぎですけど。だから被害者の父は完全に言いがかりの八つ当たりです。そんな暇があったら駅前で裕一の似顔絵のビラでも配れ。そもそも、本作のテーマは「悪人にだって人間的な振れ幅はある」って部分でしょう?そのくせに圭吾を類型的な「嫌な奴」に描くのは、これ作品内矛盾じゃないですか。

ラストで「あの人は悪人なんですよねぇ」とか光代が言いますが、私断言します。裕一は悪人だし、おまえも刑法第100条・逃走援助で普通に逮捕じゃ。もっというと被害者の父も障害罪で逮捕じゃ(っていうか普通に通り魔)。ということで、結論としてはみんな悪人です。監督も、脚本も、こんな程度の演技に賞をくれてやったモントリオールの審査委員も、そしてこんなに口汚い言葉で罵ってる私も。

【まとめ】

映画館で見る価値はありませんが、DVDが出たらレンタルで見る価値はあると思います。確かに日本で出会い系サイトによる売春が普通に行われていて、田舎の閉塞した村社会で切れやすい若者が一杯いて問題視されているとカナダ人が誤解したならば賞の1つぐらいは来てもおかしくはないかも知れません。なぜなら、おそらくこの内容をコンゴとかパキスタンとか日本人に馴染みの薄い国の映画としてやられたら、日本でも文化を誤解して褒める人がいても不思議じゃないと思うからです。
一応マイナス方面でオススメをしておきますが、最後に1つだけ。
見終わった後、30代半ばぐらいの夫婦が「1,000円でよかったね」「いや、これはないでしょ。」という会話をしていたことをご報告いたします。でも後ろの若い女の子2人組は泣いてたんですよね、、、。

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オカンの嫁入り

オカンの嫁入り

本日は二本です。まずは

オカンの嫁入り」です。

評価:(35/100点) – 危ないですから駆け込み乗車はご遠慮下さいw


【あらすじ】

ある日、母子家庭の月子は夜中の三時に玄関の音で起こされる。帰ってきた母・陽子は泥酔しており、なんとヤンキー風の男を連れてきてしまったのだ。朝になって、陽子は連れてきた男・研二との結婚を宣言する。受け入れられない月子は、隣にある大家の家へ逃げ出すのだが、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> オカンが男を連れてくる。
 ※第1ターニングポイント -> 月子の家出。
第2幕 -> 月子の過去と研二の過去。
 ※第2ターニングポイント -> 母が倒れる。
第3幕 -> トラウマの克服と母の結婚


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【感想】

本日の1本目は「オカンの嫁入り」です。結構お年寄りの夫婦連れで賑わっていましたし、上映中も特に犬の仕草に対して笑いが結構出ていました。公開一週経って、ある程度評判が出回っているということでしょうか?
とはいえ、私個人としてそこまで面白い話だとは思いません。ただ、決してグダグダというわけではありません。相変わらず氾濫している「難病で全部解決」パターンではありますが、一応月子の視点できっちり統一はされています。まぁ統一しているにも関わらず心が変化していくポイントが適当という問題はあるんですが、それは物語部分の問題であり、もっというと原作の問題なので仕方無いのかなとは思います。そう、本作で全体をわりと台無しにしてしまっているのがストーリー運びの不味さです。
本作はプロット上はそこまでイベントが入りません。月子が「異物」として邪険にした研二が実は結構良い奴だと言うことに気付いて徐々に受け入れ始め、そして母の余命を知ることで決定的に心変わりします。あとはこの研二と脇役の村上先生のエピソード、そして月子のトラウマを入れるだけです。なので、本来であればそこまで変になるボリュームではないんです。
やはり問題は、研二のエピソードで祖母の死を使って、さらに陽子の部分でも死を使ったことです。そうすると研二が自分の祖母に孝行できなかったことを悔いていて、陽子を代替にしようとしているように見えてしまいます。このおかげで研二が手放しで良い奴に見えなくなってしまいます。さらに月子のトラウマ・パートがあまりにも衝撃的過ぎるため、全っっ然笑えないというかメチャクチャ重い話になってしまい、むしろ後半の陽子の説得が「ちょ、、、そんな簡単なことじゃないでしょ。」とツッコミたくなってしまいます。
そうなんです。これ、ストーリーとキャラクターのトーンがずれちゃってるんです。みんなポジティブ過ぎるというか、エピソードのエグさに対してキャラクターが軽すぎるんです。これは携帯小説の映画化によくある問題でして、起こるイベントに対して反応が鈍すぎるというか、実在感がなさ過ぎるというか、衝撃が過剰すぎるというか、誠実さが無いように見えてしまうんです。
例えば、月子は駅でストーカー男に襲われたことがトラウマで電車に乗れなくなってしまいます。でも男(研二)は平気なんです。本来このレベルでトラウマ化したら、電車はおろか男も自転車も怖くなってもおかしくないんです。そもそも電車は直接関係ないですし、そちらの方がよほど実在感があります。でも実際には電車が怖いだけで、駅も男も自転車も全然OKなんです。こういう細かいところが駄目です。
父親の位牌を持ち出したのにその後で拝むシーンがないとか、犬の尿道結石についてエサが変わったことと関係がないとか、極めつけは散々やっておいて最後まで結局母が生きてるとか、すごく物語の詰めが甘いです。後日談は当然母の死後どうなったかでないと月子の成長物語にならないじゃないですか。だって、月子が「トラウマを負った後は好き勝手にニートを満喫していたけど結局は母親に守ってもらっていたのだ」という事に気付くのがクライマックスなんです。なのに最後まで母親に世話してもらっていたら振り出しに戻って終わりですよ、それ。せっかく俳優が良い仕事をしているのにかなりもったいない事になっています。

【まとめ】

ツッコミばかり入れてしまいましたが、難病ものの中では比較的マシな方だとは思います。一応ですが核として月子の成長物語(風味)がありますし、なにより宮あおいと桐谷健太と國村隼はアップだけで画面を持たせる力があります。
俳優のファンであれば文句なしで行った方が良いですが、あくまでも浅いネット小説を良い俳優をつかってちょっとたどたどしく映画化したという事だと思います。
余談ですが、呉美保さんは映画監督2本目だと思いますが場面転換含めて課題山積みだと思います。特にトラウマパートに繋ぐ場面転換の不細工さは結構すごいです。そういったところも見所だと思いますw

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トイレット

トイレット

8月最後の映画は

トイレット」です。

評価:(45/100点) – 見やすくはなった荻上ワールド


【あらすじ】

ある日レイの母親が亡くなってしまう。残されたのはレイと、引きこもりで兄のモーリー、学生の妹リサ、そして母が死ぬ直前に日本から連れてきた祖母・バーチャンだった。4人は一つ屋根の下で暮らしながら、交流を深めていく。


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【感想】

8月の最終日は荻上直子の「トイレット」を見てきました。OLを中心にかなりのお客さんが入っていまして、男の私は若干肩身が狭かったです。
本作を語る上ではどうしても荻上直子という監督に注釈が必要になってきます。荻上監督は「ぴあフィルムフェスティバル」のスカラシップ上がりで独特の世界観を作ってくる個性派です。ここから私が書くことはあくまでも個人的な見方ですので、荻上監督の熱烈なファンの方には先に謝っておきます。
荻上監督が「かもめ食堂(2006)」「めがね(2007)」で行ったのは「なんとなくそれっぽい”雰囲気”だけを積み重ねることで生じる”癒し空間”を観客とスクリーンが共有する」ことです。ファンの方には本当にすみませんが、ハッキリ言います。これは新興宗教のミサと同じです。その独特の”癒し空間”にわらわらとメンヘラなOLの方々が引き寄せられる作品ですから、当然彼女たちの作品の評価・満足度は相当に高くなります。しかしその一方で、これは決して普遍的な何かをメッセージとしているわけではありません。だからその他の観客にとっては退屈だったり意味がわからなかったりするわけです。
私の「かもめ食堂」と「めがね」の感想は、一言で言うと「気持ち悪い」です。あまりにも押しつけがましい”癒し”に逆に身構えてしまいましたし、何より周りの女性達の異様なまでの熱気に本当にマズい宗教行事に紛れ込んでしまったような気分になりました。そういった意味では昨年の「仏陀再誕」と同じとも言えます。
さて、その中で三年ぶりの新作である本作です。当然世界観は全二作を踏襲していまして、本当に気色の悪い共同生活が唐突に始まります。引きこもりを舐めているとしか思えないモーリーのキャラ設定に心底腹がたったり、レイのあまりのステレオタイプの「いけてないギーク」っぷりに心底腹が立ったり、リサのいかにもババァの考える「イケイケな白人女子大生 a.k.a ビバリーヒルズ青春白書」っぷりに心底腹が立ったり、そしてバーチャンの「雰囲気だけミステリアスな奇人」な描き方に心底腹が立ったりしたんですが、そういったことはとりあえず置いておきましょう。
本作で全二作から大きな進歩だとおもうのは、とはいえその雰囲気を説明しようとする努力の跡だけは見えることです。つまりいままでは雰囲気だけで完全に流されていった不思議設定達に、ちょっとは意味らしきものを深読みして汲み取ってやれないこともないくらいにはなっているということです。なので、腹は立ちますが決して「まったく意味不明」というわけでは無く、「意味はあるけど下らない」というぐらいには良くなっています。全然褒めてませんがw

【まとめ】

間違いなく荻上ワールドの中では見易い(=嫌悪感が少ない)作品になっています。前2作を観ていない方は、是非「荻上ワールド入門編」としてご覧になると良いかもしれません。でもくれぐれも「癒し空間」の勧誘にだけは乗らないように注意しましょう。そこはフォースのダークサイドですw

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東京島

東京島

本日は新作1本、

「東京島」です。

評価:(3/100点) – サバイバルしないサバイバル映画。それすなわちピクニック。


【あらすじ】

清子は結婚10周年の記念旅行中に船が遭難し無人島に漂着する。すぐにフリーター男の一群と中国人密航団も不時着する。すぐに清子の夫・隆はガケから転落死し、新たにフリーターの中からカスカベを夫にするも彼も転落死。そんな中で、清子は無人島で唯一の女性として優雅な生活を満喫していく。


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【感想】

今日見たのは新作映画の「東京島」です。宣伝もバリバリやっていますし、結構人が入っていました。個人的にはサバイバルものだと言う点と、敬愛する大友良英さんが音楽をやられていると言うことで楽しみだったんですが、、、、これは無い。あまりにもすごい内容に呆れるよりはちょっと楽しくさえなってしまいました。
ちょっとここでお断りですが、私は原作本を読んでいません。なので、ストーリー部分については100%映画のせいではなく原作がそもそもおかしいということもあるかも知れません。申し訳ございませんが、比較はしていないため原作ファンの方はご勘弁ください。

無人島ということ。サバイバルということ。

無人島ものと聞きますと、最近では「LOST」を思い浮かべる人が多いかも知れません。私もテレビを全然見ないくせに「LOST」はDVDで全部見てるんですが、あれはどんどんソープオペラになっていきはするものの、サバイバルものとして最低限のお約束は守っていました。
さて、無人島サバイバルでの最低限のお約束とは何でしょう?
・ 外部との交信が困難であること。ただし不可能ではない。(←このわずかな交信で最後脱出するため)
・ 食料は工夫次第で採れるが、決して潤沢でないこと。
・ 武器は限られていること。
・ 全員が脱出することが困難であること。
・ 政治力と武力・知力を駆使して派閥が出来ること。
こんな所でしょうか。大切なのは、無人島で助けが来ないかも知れないという「極限状態」に直面して、登場人物達が追い込まれて「人間の本性」が浮き彫りになってしまうことです。だから私たち(と断言しますがw)はサバイバルものが大好きなんです。

本作の最低な所。

本作で最低なのは、このサバイバルという緊張感や危機感がまったくすっぽり抜けていることです。つまり、こいつら楽しそうなんです。あのね、、、楽しかったら脱出しなくていいじゃんw 暮らせよ、そこで。
まぁ本当に住んじゃって困るんですがw
本作では食料がわりと潤沢に採れているんです。一応セリフでは「豚肉なんて滅多に食べられないのよ。」とか言うんですが、そのわりにスクリーン上では年中食べてます。だから食料の取り合いがありません。つまり「食料の枯渇」=「生命の危機」が存在しないんです。だから崖から落として殺した後放置したりするんです。本当のサバイバル環境では、人間という高カロリー高タンパクの肉を捨てることはしません。大岡昇平の「野火」とか武田泰淳の「ひかりごけ」をちゃんと読んでください。
この食料問題からはじまり、本作では一切人間の狂気が描かれません。描かれるのは超良い人ぞろいの漂流者達と、その中であくまでも自己中心的で独善的に振る舞い続ける勘違い女のやりたい放題さです。
清子を除いて良い人たちすぎるんですよ、皆さん。だから秩序の保たれた生活を営めちゃってるんです。すなわちサバイバルではないんです。生き残るための努力が描かれないんです。この時点で、これはもうピクニックでしかないんです。
それは恐ろしい事に劇中に登場する「日本人vs中国人」にも現れます。そもそも対決してないですし。まったくいがみ合うことがないんです。なぜなら、日本人側は魚と果実を採って元気いっぱいですし、中国人側は豚を養殖して不自由なく生活しているからです。
このように根本的なこと(=生命の危機)ができていないから、イベントがスムーズに起きないんです。その結果、全てのイベントは清子の身勝手さから発生するという目も当てられない展開を生みます。そしてそれをやっちゃうと、どんどん清子は嫌な奴に見えてくるわけです。

本作の最低な所2 窪塚という狂気を生かせていない。

本作でほとんど唯一の曲者として存在するワタナベ(窪塚)は、しかしその狂気を一切生かすことなく脱出してしまいます。
本作の構造をおさらいしましょう。東京島には3派閥が存在します。日本人、中国人、そしてワタナベです。ワタナベは一人我が道を行く人間で、途中で中国人に荷担したりもします。彼は東京島の秩序におさまらない人間であり、唯一の”異物”なんです。だから構造上は彼が脱出の鍵を持っているはずなんです。そして実際に彼は鍵を持っていていち早く脱出します。ところが、彼の脱出がその後、残された人間に何の役にもたたないんです。本来であれば清子は彼の脱出方法を解き明かして、その方法で最後脱出しないといけないんです。ところが、彼女が脱出できるのは完全な運です。その時点でもう話を積み重ねる気が無いんです。
残念ですがこのストーリーはサバイバルとしても映画作品としても最低限の起伏が書けていません。

【まとめ】

サバイバル・スリラーかと思って見に行ったらババァが調子こく話だったという、、、もうね。やはり現代の邦画界でまともなスリラーは作れないんでしょうか? もしまともなスリラーを期待していくならば絶対に止めた方が良いです。というか何かを期待していくならば絶対に止めた方が良いですw ということで無かったことにしましょう。
※ 余談ですが大友さんは相変わらず良い音楽を作っています。ちょっといつもより手抜きっぽいですが、まぁこの映画じゃ仕方無いかなぁと。完全に無駄使いです。

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記事の評価
シルビアのいる街で

シルビアのいる街で

本日も2本です。1本目は

シルビアのいる街で」です。

評価:(60/100点) – ザ・単館なおしゃれ雰囲気映画。


【あらすじ】

男はカフェで女性客をスケッチ中にシルビアに似た女性を見つけ尾行する、、、。


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【感想】

本日の1本目は「シルビアのいる街で」です。2007年のヴェネチア映画祭のコンペ作品であり、2008年の東京国際映画祭でもワールドシネマ枠で上映されました。あいにく東京国際で見逃してしまっていたので、2年越しの初見です。話題の作品という事もあり、かなりお客さんが入っていました。とはいえ、渋谷のイメージフォーラムでは併映の「ザ・コーヴ」の方が入っていたようです。
実は本作は非常に感想が書きづらい作品です。というのも、いわゆるアート系の作品でして、話の内容自体がほとんど無いからです。それどころか台詞もほとんどありません。
話の骨格は、画家っぽいイケメンの青年が昼間からビールを飲んでオープンテラスで女性を物色中に、思い出のシルビアに似た女性を見つけストーキングするだけです。イベントとしては本当にそれだけ。一応3幕構成をしてはいるんですが、限りなく物語性が排除され想像に委ねるようになっています。映画として面白いのは、本作の過剰なまでの間(ま)の取り方です。極端な話、本作をまとめようと思えば5分の短編にすることも出来ます。しかしその稀薄な物語に対してほとんど無駄とも思えるほどの間を取ることで、観客は嫌でもスクリーンに引き込まれ想像を膨らませてしまいます。
そこで写されるのはカフェの様々な会話の断片であり、雑踏における生活の断片です。この物語はすべてが断片で出来ています。主人公の男の生活も、シルビアを捜す理由も、そして追いかけられる女性も、全て断片しか見せません。だからこそ観客は嫌でもそこに自分の思いを投影してしまいます。ですから、本作は夢見るおしゃれ志向の人であればあるほどすばらしい傑作に見えると思います。いうなれば「物語を語る映画」ではなく「物語を観客に作らせる映画」です。
なので、もしあなたが「片思い」「思い出の人」「おしゃれな街並み」「孤独なイケメン」といったキーワードにビビっと来るようであれば、本作はあなたの心を映して大傑作になってくれるはずです。まさしく正しい意味でのアート系映画であり90年代に流行った「ザ・単館映画」だと思います。
※余談ですが、もしよければ本作について書いている評論家さんや個人ブログを漁ると面白いかも知れません。上記のように本作を語ることは自分の内面・嗜好を晒すのとイコールです。書き手の性格がにじみ出てしまうはずですw 稀にある「書いたら負け」な映画ですw

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記事の評価
小さな命が呼ぶとき

小さな命が呼ぶとき

2本目は

小さな命が呼ぶとき」です。

評価:(25/100点) – 淡々として温度の低いプロジェクトX


【あらすじ】

製薬会社に勤めるジョン・クラウリーには子供が3人居る。しかし内2人がポンペ病に罹っており、長女のメーガンは余命1年程度と目されていた。ある日、ジョンは筋ジストロフィー研究の権威・ストーンヒル博士を訪ねる。大学からの冷遇に不満を抱えていたストーンヒル博士は製薬のベンチャー企業設立をジョンに持ちかける、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> メーガンが呼吸困難を起こす。
 ※第1ターニングポイント -> 製薬会社を起こす。
第2幕 -> 薬の開発競争と買収。
 ※第2ターニングポイント -> 4チームのコンペが始まる。
第3幕 -> 子供達が臨床試験を受けられるかどうか。


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【感想】

本日の2本目は「小さな命が呼ぶとき」です。あまり大々的に宣伝している作品ではありませんが、中高年を中心にそこそこ観客が入っていました。予告やポスターを見ると完全に「難病もの」のジャンル映画かと思うのですが、ところがどっこい。本作はドキュメンタリーものです。エンドロールで監修としてジョン・クラウリー本人がクレジットされていましたように、本作は実話を元に脚色した「子供が難病に罹った父親が、薬を手に入れるまで」のストーリーです。
いきなり結論を書きますと、本作はジョン・クラウリーの暴走をどこまで許せるかが評価の分かれ目です。演出はあくまでもドキュメンタリータッチで、劇的に盛り上がる場面が1カ所もない退屈なものです。ストーリー自体もまったく盛り上がらず非常に淡々とただただイベントを消化していきます。ですので、ジョンに乗れなければ単なる退屈な映画です。極端な話、「世界丸見えテレビ特捜部」とか「奇跡体験アンビリーバボー」の30分枠の再現ドキュメンタリーと大差ありません。
その肝心のジョン・クラウリーですが、早い話が結構嫌なヤツなんですw
ストーンヒル博士を利用するだけしておいて裏切ったり、ベンチャーを売って60万ドルほど手に入ったら調子に乗って湖畔の豪華な一件家を買ってみたり、かといって娘の容体がちょっと悪化したらテンパって会社の重役にケンカ売ってみたり、人間としては限りなく最低な男です。ところが、これらは全てアメリカ映画にありがちな「家族愛」によって正当化されます。劇中でストーンヒル博士が「私が君の立場だったら、子供のために私など虫けらのように踏みつぶしていくだろう」とお墨付きめいたものを受け取るんですが、全然解決になってないというか、単に監修に入っているジョン本人に気を使っているようにしか見えません。
結局、今作は「家族愛に溢れた男が科学者達の尻を猛烈に叩いて薬を作らせる話」です。恐ろしいのが、肝心のジョンが努力している様子がまったく描写されないことです。序盤の資金集めの部分はともかく、買収されて以降の後半は単に研究者達をかき回しているだけです。あげく最後の最後には、他の病気の子供達を出し抜いて、見事自分の子供達を臨床テストの対象にするんです。自分の子供さえよければなんでもいいの? ストーンヒル博士のために支援してくれた「ポンペ病の子供達のための基金(※すみません。うろ覚えです。)」のメンバー達は無視? なんぼなんでも酷すぎるでしょう。これって美談なのか!?しかも結局ストーンヒル博士と関係ないチームの薬を採用してるし。

【まとめ】

話としては全く駄目な上、倫理的にもちょっとどうかと思いました。先日の「ザ・ロード」とも被るのですが、この倫理面は自分に子供が居るかに賭かっているように思えます。キャストだけは豪華ですので、あまり期待せずにテレビの再現映像をみる感じでフラっと入る分にはオススメできるかも知れません。

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記事の評価
ザ・ロード

ザ・ロード

今日は有楽町で2本見てきました。1本目は

「ザ・ロード」を見てきました。

評価:(10/100点) – ドラマの薄い単調な終末ロードムービー


【あらすじ】

天変地異で文明が崩壊したアメリカで、親子はひたすら南を目指す。


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【感想】

本日の1本目は「ザ・ロード」です。公開から結構経っていますが、お客さんはかなり入っていました。とはいえ有楽町シャンテの小さな箱でしたのでせいぜい20~30人と言ったところでしょうか。結構良い評判を耳にしていましたので期待して見てみました。が、、、、確かに好きな人がでそうな雰囲気は分かるのですが、私にはまったく合いませんでした。

本作の基本プロットと引っ掛かる所

本作は、何らかの事情で文明が崩壊してしまったアメリカが舞台となります。母親は気がふれて自殺してしまい、残された父と子は母の遺言である「暖かいところを目指して。」という言葉を守り、ひたすら南へ向かいます。生き延びた人間達は、ギャングのような集団を作って人を襲っては人肉を食べるならず者と、ひたすら彷徨うだけの善良な市民に別れています。親子は時に残虐な連中とニアミスしながらも、ただただ南に向けて歩き続けます。
はっきりと言いますが、本作にドラマはありません。あるのはシチュエーションだけです。上記のような世界で、ひたすら親子が悶えあっているだけです。恐ろしい、、、。
しかも時折挟まれるイベントも2パターンしかありません。1つは、ならず者達に見つかりそうになって逃げるイベント。もう1つは善良そうな不審者にあって、息子が施しを与えようとするのを父が窘めるイベント。以上です。後は何もありません。
私は本作を見ていてほとんど怒りに近い感情をもってしまったんですが、その大きな要因が息子の存在と世界観の適当さです。
本作の世界は、人食い連中がうようよいる危険な環境のはずなんです。ところが、例えば物音がして隠れなきゃいけないシーンですら、明かりや焚き火をつけっぱなしで大声で親子が怒鳴り合うんです。おまえら10秒で見つかって瞬殺だよ!!!しかもナイフがあるのに堂々と銃声を響かせたり、敵のアジトからこっそり抜け出すときに階段をブーツでドタドタ駆け下りたりするんです。どういうリアリティなんでしょう?
それにプラスして、息子がほとんど頭がイカレてるんじゃないかと思うほど危機管理能力がなく、学習もしません。延々と泣き言を言っているだけで、不審者にホイホイついていって勝手に危険になったり、大声で喚きチラしたり、腹減ったとか駄々こねる癖に浮浪者に缶詰をあげて同行させたりします。
フォーマットとしては、「頭の足りない息子をかばいながら南を目指すお父さんの苦労話」としか見えません。それはエンディングまでつづきます。エンディング手前のある重要な事件で成長したのかと思いきや、結局この息子は知らない人にホイホイついていくんです。たまたま良い人だったからいいものの、普通なら即死ですよ、本当。
本作はルックスだけは「ザ・ウォーカー」に似ています。しかし、あちらが西を目指す明確な理由があるのに対して、こちらには何もありません。だから、極端な話、いつまででも話が転がるしいつ終わってもいいんです。画面を持たせるためなのか、時折母親との思い出が回想として差し込まれますが、それすら単なる雰囲気作りにしかなっていません。せめて何かの伏線にでもなっていれば良いんですが、雰囲気以上の何者でもないため、まったく乗りようがありませんでした。
個人的に駄目な映画には「ツッコミをいれてニヤニヤできる映画」と「ただただつまらない興味の続かない映画」と「不愉快な映画」があるんですが、本作は「不愉快な映画」の部類でした。

【まとめ】

本作の評価は、一重に自分に子供がいるかどうかに掛かっているような気がします。自分に子供が居るひとなら、「子供は理屈がとおらない事をするしワガママ放題言うし時折ウザイ」というのを許せると思います。現に、作中の父親は手を焼いてはいるものの、その世話焼きも含めて子供を愛してるのが伝わってきます。
でも、どうしても第3者として客観で見てしまうと、申し訳ないですが「早く死ねば?」としか思えないほど息子がウザくて仕方がありませんでした。特に途中で食料を山ほど見つけて調子に乗るシーンなんぞは、いきなり子供の態度がでかくなってスナック菓子を食い散らかしはじめて物凄い腹立ちますw 「あんだけ食い物で苦労したのに食い物の大事さも学べないのか!!!」と怒り心頭です。
お子様が居る方は、子供を連れずにお一人か夫婦で見に行かれると楽しめるかも知れません。が、それ以外のかたには結構博打な作品だと思います。

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