今日はレイトショーで
「マリア様がみてる」を見てきました。
評価:
– ポスターを見て舐めてました。m(_ _)mペコリ【あらすじ】
お嬢様学校・私立リリアン女学園に通う一年生の福沢祐巳は、ある日学園のアイドル・二年生の小笠原祥子に声を掛けられる。その場面を写真部の蔦子に撮られた事から一転、祐巳は生徒会演劇に巻き込まれていく。
【三幕構成】
第1幕 -> 祐巳と祥子の写真。
※第1ターニングポイント -> 祥子が薔薇様との賭を受ける。
第2幕 -> 演劇の練習と賭け。
※第2ターニングポイント -> 祥子が優との関係を祐巳に告白する。
第3幕 -> 結末
【感想】
本日は「マリア様がみてる」を見て来ました。シネマート新宿は1,000円の日だったからか、公開から一週間経ちますがお客さんは10名ぐらい入っていました。でもほとんど男性ですw
おさらい
今更ですが、一応おさらいをしておきましょう。「マリア様がみてる」は雑誌「Cobalt」に連載されたライトノベルで、1998年開始です。当時はまだそこまでジャンルとして確立していなかった「同性同士だけの閉じた世界の甘やかし合い」の代表格でありブームの火付け役です。とはいえ間違ってはいけないのは、この「マリみて」以降氾濫することになった「ホモソーシャルの馴れ合い」だけを拡大コピーした作品とは違い、少なくとも初期の「マリみて」はきちんとクラシカル少女漫画的な悲壮感・愛憎を描いていたという点です。
舞台は「私立リリアン女学園」という完全に閉じた世界で、ファンタジックな階級社会が形成されています。学園のアイドルとしての生徒会長が3名「赤薔薇」「白薔薇」「黄薔薇」の肩書きと共に君臨し、その見習い2年生が3名、さらにその見習いの1年生が3名で「山百合会」というエリート組織が学園の最上部に構成されます。
そのエリート組織にひょんなことから入ることになる「一般民衆」の福沢祐巳を中心とした「身分ギャップ・コメディ」で物語が展開されます。
作品の中心となるのは「紅薔薇のつぼみ」小笠原祥子とその妹(=見習い)・福沢祐巳の関係性です。片や超お嬢様の優等生で浮世離れした存在。片やリリアンには不似合いなほど庶民的で俗世的な存在(=大半の読者と同じ)。この二人がそういった環境のギャップを越えて友情・信頼を深めるというホモソーシャルが「マリみて」の売りです。
一方作品の構造上、「マリみて」は「レギュラードラマ(=同じ時間を永遠に繰り返す作品。ドラえもん等)」ではなく「ストーリードラマ(=時間が進んでキャラが成長する。)」にならざるを得ません。ですので、いつかはこの「閉じた世界」は壊れてしまうんです。それは祐巳が成長しきった時(=祥子を必要としなくなった時)であり、祥子が卒業する時です。
この構造が限界に達したのが11巻の「マリア様がみてる パラソルをさして」です。この11巻によって、祥子と祐巳の関係性は一種の完成を迎えます。そしてこの時点で作品内での「祥子が卒業するまでの時間」が9ヶ月を切ります。ここに至って、作者・今野緒雪は作品の続きを書けなくなってしまいます。なぜなら、これ以上作品内時間を進めると、世界が壊れてしまうからです。苦し紛れとしてこれ以降は短編が増えていくことになります。短編であれば時間をそこまで進める必要はないですから、限りなく「レギュラードラマ」に近い展開ができるからです。
結局、祥子が卒業する「マリア様がみてる ハロー グッバイ」までに6年間も掛かってしまっています。
ファンとしては残念ですが、少なくとも「マリア様がみてる」の作品寿命は11巻までと考えるのが妥当だと思います。それ以降は、良く言えば「ファンサービス」であり、悪く言えば「蛇足」「延命処置」です。
そして実写版
ようやっと実写映画版の話に行きます。この実写版は原作一巻を元に、「祐巳と祥子」にのみ絞って物語を展開させます。元々が「学校」と「祐巳の家」ぐらいしか舞台の出て来ない話ですが、本作では完全に学園内で完結しています。祐巳の家族は出てきませんし、祐巳の友達もほぼ蔦子のみ。山百合会に至っては祥子と志摩子以外の誰一人、明確に台詞や紹介もありません。白薔薇の二人や令・由乃コンビは原作では相当なファンがついていますが、このあたりの要素は全てばっさりカットしています。あくまでも「祥子が祐巳をスールに出来るか否か」というストーリーのみで転がしています。
私はこの整理は大正解だと思います。というのも、90分程度で話をまとめるのであれば、、、そして映画として3幕構成に落とし込むのであれば、あきらかに祥子の成長をメインに据えるよりほかないからです。原作一巻の肝は、「庶民派の祐巳の影響で、お嬢様の祥子が成長する」という部分にあります。これにより、身分を越えた信頼関係が生まれるからです。最初は「シンデレラをやりたくない(=優と向き合いたくない)」から祐巳を構っていた祥子が、第二ターニングポイントで祐巳に相談することで「私はむしろシンデレラをやりたい(=優と向き合ってケリをつける)」と変化するところが一番大事です。
この実写版ではその肝を中心にして、見事に原作がシュリンクされています。映画化はこの時点で確実に大成功です。
もちろん細かい演出からもきちんと原作を噛み砕いているのが見て取れます。本作における原作からの最大の変更点はラストシーンです。ラストのクライマックスにおける祐巳と祥子の会話が変更され、祐巳の台詞が削られています。本作ではあくまでも祐巳は「自信の無い庶民」として描かれますから、クライマックスのシーンで「あまりのことに声も出ない」というのは映画演出としては正しいです。ここは非常に有名な掛け合いシーンですので変更には相当勇気がいたと思いますが、個人的には良い変更だと思います。
また、BECKの時に書いた「歌を誤魔化す」演出も本作では見事にクリアしています。本作の演劇シーンは「夕暮れ時の教室や生徒会室の風景」と「BGM」と「徐々にフェードアウトする台詞」で誤魔化されます。そしてそのシーンの直後に、蔦子と祐巳の会話で「夢のような日々が終わってしまった」という内容が語られます。つまり、演劇シーンの演出は「祐巳が感じたセンチメンタル/ノスタルジーの表現」になっているわけです。これによって、「誤魔化すため」の演出に作品内で必然性をもたせたることに成功しています。
【まとめ】
大枠では原作に忠実な流れでありながら、きちんと映画にするための整理を行った素晴らしい映画化だと思います。もちろん、キャラクター人気の高い作品ですから、キャストにあれこれ文句は絶対に出ると思います。個人的には鳥居江利子と柏木優のキャスティングは無しですw
冒頭にも書きましたが、ポスターを見るとものすごい地雷の香りがただよってきますw っていうかはっきり書きますと、未来穂香の顔と鼻が丸すぎます。でも本編を見て納得しました。本作では「祥子が祐巳を心より必要とした」のが大事なんです。だから外見がブサイクならブサイクなほど「内面に惚れた」という表現になるわけです。ストーリー上も、「志摩子には外見で判断してスールを申し込んだけれど、祐巳には内面に惚れてスールを申し込んだ」わけですから、志摩子と祐巳は絶妙な顔バランスでキャスティングしないといけないわけですw
もうすでに公開スクリーンが小さくなってきているようですが、お近くで上映している方は是非是非見てみて下さい。かなり意外な掘り出し物です。オススメします!