キャピタリズム マネーは踊る

キャピタリズム マネーは踊る

日は仕事が早く終わったので「キャピタリズム マネーは踊る」を見てみました。
ちょっと感想としてきちんとまとめる気力がないので、日記としてダラダラ書いてみたいと思います。
降ちょっと乱暴に書くのはご容赦ください。詳しく書き始めると高校時代の卒論がフラッシュバックして寝そうなんで(笑)。あと私は無宗教・民主主義者です。キリスト教の熱心な信者の方はもしかすると気を悪くするかも知れないのでお気をつけ下さい。とはいえ陰謀論とかでは無いのでご安心を(笑)。
どうしてもですね、こういう宗教思想丸出しのドキュメンタリーを見るためには危ないところに踏み込んでいかないといけないんです^^;

プロテスタントと科学/経済

世界の設計図という概念

現代の科学(=サイエンス)を発展させたのは、ルネサンス期の強烈に熱心なキリスト教徒/プロテスタント達です。天文学で有名なケプラーなんかですね。彼らは腐敗したカトリック教会に疑問をもち、そして自らこの世に神様が居ることを証明するために「世界の設計図」を発見することに躍起になりました。

例えば太陽は東から昇って西に沈みます。バカボンの主題歌以外では常識です(笑)。
でも、それって本当ですか?今日までは確かに東から昇っていますが、もしかしたら明日は西から昇るかも知れませんよ?どうして「今日までは東から昇ってたから、明日も東から昇るはず」と断言できるんでしょうか?

この質問に論理的に答えられる人は居ません。なぜなら誰にも分からないからです。未来に行って本当にそうかどうか確かめる以外に、確実に断言できる方法はありません。でも一方で、たぶん明日も太陽が東から昇ることを誰も疑ってはいません。 それは何故でしょうか?

ルネサンス期のプロテスタント達はこれを「世界は神様が設計したから」と考えました。神様は万能ですから、神の作ったこの世界は設計図の通りに今日も明日も同じ動きをすると考えたんです。そしてこの設計図を解明することが神様がいる証明につながると考えます。ケプラーが毎晩毎晩、何十年も星の動きをただひたすらメモしつづけた執念はここから来ています。「実験と観察」という科学の基本は、実際にはこうした非常に特殊なキリスト教の価値観の上に成り立っているんですね。

“神の見えざる手”とは?

こでようやく本題の経済の話しに行きます。このプロテスタント達の「神が作った世界の設計図」という思想は科学だけには収まりません。例えばアダム・スミスの「神の見えざる手」という有名な言葉があります。学校では丸暗記させてロクに説明しませんが、この言葉は比喩ではなく文字通り「神様の行う目に見えない操作」を指しています。

自由競争経済下ではそれぞれがバラバラに個々の利益を追求しますので、過当競争で共倒れするリスクがあります。でもアダム・スミスは「神の見えざる手」によって「自然と調整されて最終的には皆がハッピーになる」と考えます。なぜなら世界は神様が作ったからです。
アホな人間が計画するくらいなら、神様の手に委ねる(=放っておいて成り行きに任せる)ほうが上手くいくと考えたのです。これが自由主義経済(=資本主義)の発想です。ですから自由主義経済においては政府の経済政策・市場介入を愚策と考えます。放っておけば神様が良くしてくれるのに、政府(=人間)が余計な手を出すのはマイナスだと考えるからです。
すなわち、自由主義経済/資本主義はキリスト教の価値観の上になりたっているわけです。これが原因で、アメリカの行う中東や南アフリカの「強制民主化政策」はあんまり成功しません。だってそもそもキリスト教徒じゃないですから(汗

そんなこんなで誕生した自由主義経済ですが、実際には内部矛盾をはらんでいます。競争する以上は勝ち負けがつき、そこに貧富の差が生まれるからです。貧富の差は「神の前では皆が平等」というキリスト教のお題目/基本理念に反します。

この自己矛盾を糾弾したのが、レーニンであり、マルクス主義/無神論者達です。社会主義においては「人間がきちんと計画・計算して、その通りに経済活動をする」のが最良と考えます。彼等に言わせれば「大半の人間はアホなので、放っておいたらロクなことにならない」からです。「神が作った世界の設計図」を真っ向から否定するわけです。だから頭の良い連中(=特権階級)が知恵を振り絞って計画を練って、みんなでその計画を実行します。これが「計画経済」です。
自由主義経済と共産主義、民主主義と社会主義は「神様にどう向き合うか」というポリシーが違うだけで、どちらもキリスト教から端を発したわけです。

カトリック/プロテスタントそれぞれの経済思想/価値観

熱心なプロテスタント達は働いて富を増やすことが「生めよ、増やせよ、地に満てよ(旧約聖書:創世記)」につながると考えます。そして稼ぎまくった後でそれを全て寄付でバラマキます。こうすることによって徳(=Virtue)が溜まり、最終的に死んだ後で「正義の女神(レディ・ジャスティス=日本における閻魔大王の美女ver.)」が持っている天秤によって自身の徳が計られ、そして天国に行けると信じています。
だからビル・ゲイツのように財産を腐るほど荒稼ぎした人間でも、引退すると福祉団体に寄付しまくるわけです。プロテスタントにとっての「お金」とは「死んだ後に天国へ行くための”徳”を買うもの」なんですね。ビル・ゲイツは自身の信仰に則って天国に行くために慈善活動をやっているわけです。決して「無償の愛」みたいなものすごい上品なことではありません。もっとも、無宗教の私から見ると、結果的に助かる人達がいっぱいいるなら動機はなんでも良いと思います。
資本主義における「金儲け」は、金の亡者になって現世でウハウハするためではなく、死後に天国に行くための1つの手段にすぎません。

どうでもいい余談ですが、こんな価値観が一番わかりやすく表れるのは、各国のご飯のおいしさです(笑)。キリスト教圏において、プロテスタントの国ほどご飯がまずく、カトリックの国ほどご飯が美味しいという傾向があります。これは完全に「現世」における価値観の違いです。プロテスタント達は、ご飯なんてどうでもいいんですね。そんな美味しいご飯を作ってる暇があったら、その時間でお金儲けをして「徳ポイント」を溜めたほうがいいんです(笑)。一方のカトリックは、「ご飯を作る才能は神様からの祝福である」と考えて、才能を使わないのは神への冒涜だと考えます。ですから、料理の才能がある人は一生懸命、美味しくて見た目も綺麗でお上品で、なにより手間のかかる料理を開発しようとします。

ざっと列挙してみても、スペイン料理、フランス料理、イタリア料理、おいしそうな所は大体カトリックです(笑)。一方のプロテスタント優勢国というと、イギリス料理、アメリカ料理、ドイツ料理。なんかみんな「とりあえず焼いとけ!」「とりあえず揚げとけ!」みたいな雑な感じがしませんか(笑)? 「わざとそういう国を選んでるだけじゃねぇか」って気もするんですが、その国がどっちが優勢かわからなくなったら、「ご飯が美味しいとカトリック。マズそうだとプロテスタント」と覚えておくと、結構当たります(笑)。


やっとこさ「キャピタリズム~」の話になります。マイケル・ムーアは資本主義を非難します。でも彼は神様を否定するわけではありませんし、共産主義に走るわけでもありません。むしろムーアは神様を熱狂的に信じていて、ウォールストリートやゴールドマンサックスという「人間の介入」「金の亡者」を悪であると断罪します。ほとんど陰謀論か妄想かと思うほど、再三再四、ムーアはゴールドマンサックスと金持ち連中をフィルムで罵倒します。
そしてインタビューとして神父さん(=カトリック)のところに話を聞きに行きます。当然神父さんは「金の亡者」を批判します。経済学者ではなく宗教家に聞くところが、ムーアの出来る男たる所以です(笑)。

この映画は、博愛主義(=福利厚生主義)的なカトリックであるマイケル・ムーアが、プロテスタント的な市場主義(=金儲け至上主義)である大手ファンド/金融市場をがっつり非難しているわけです。つまり、キリスト教内におけるカトリックとプロテスタントの喧嘩を映画でやってるわけですね(笑)。完全に宗教戦争です。

字幕では分かりにくいですが、ムーアが「キャピタリズム~」において非難しているのは「資本主義」そのものではなく「アメリカのやったプロテスタント的な資本主義の運用」です。だって資本主義はキリスト教的価値観に忠実に乗っ取っているんですもの。事実、劇中でも日本やドイツを例にして、「いままで日本・ドイツは資本主義で成功したけど、アメリカの真似して規制緩和した(=プロテスタント的な方向に梶を取った)からもうダメだ」という意見をだします

そして「キャピタリズム~」でおもしろいのは、ムーアがかなりの愛国者でもあるという点です。
彼が「いまこそ革命をおこそう!」と言ってるのを見て短絡的に「共産革命主義者」「学生運動と一緒」と思ってはいけません。むしろ彼は民衆による革命を通して、「カトリック的な良心的資本主義の運用」を求めています。というか、「リメンバー宗教戦争!」ですね(笑)。「いまこそマルティン・ルターを倒せ!」っていう方向の革命です。
その結果が、ルーズベルトの礼讃です。ルーズベルトの演説は理想的な「神様の前では皆平等」宣言です。ムーアはルーズベルトを引用した上で、富を増やすだけ増やして寄付しない連中達に「それじゃ地獄におちるぞ!」と罵っているわけです。これが転じて、銀行に対して「借金の取り立てばっかりやってないで、困ってる人に家ぐらい寄付しろ!」と言ってるわけです(笑)。ムーアの要求は法的には無茶苦茶ですが、カトリック的には至極妥当です。

ですから、本作の原題は「Capitalism ~a love story~」なわけです。ここでいう「love」は当然神様からの無償の愛であり、つまりは金儲け至上主義の連中たちの寄付=博愛行動なわけです。

まぁこんなもん日本人に見せられてもコメントしようがないですよね。僕ら仏教文化圏なんで(笑)。南無三(-人-)。
日本人で良かった(笑)。

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ファッションが教えてくれること

ファッションが教えてくれること

今年最後の映画は「ファッションが教えてくれること」です。

評価:(60/100点) – 事実は小説より奇なり


【あらすじ】

アナ・ウィンターは米国版ヴォーグの編集長である。そしてヴォーグで働く元モデルにしてクリエイティブ・ディレクターのグレイスは、アナとかれこれ40年のつきあいである。この物語はファッション界のカリスマにしてファッション・ムードを作り続けるアナと、その理不尽な感性に振り回されながらも仕事に魅せられるグレイスの物語である。


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【感想】

大変面白いドキュメンタリーです。原題「The September Issue(9月号)」の名のとおり、ヴォーグの年間最大の見せ場「ヴォーグ・9月号」の制作過程を通じて「仕事って何?」という根幹が浮かびあがってきます。
アナが「氷の女(Ice Woman)」と呼ばれて冷静にグレイスの特集ページを削っていく過程も、ただただ雑誌の完成度を上げることに一直線に進む彼女なりの「プロの仕事」です。そして文句を言いながらも常に最高の仕事を返すグレイスもまた「プロの仕事」を行います。
本作に出てくる女性たちは本当にプロ意識の高い、そして自身の能力と仕事に絶対の自信を持った超一流の人々です。
一方で、シエナ・ミラーのイタリアロケを敢行するカリスマ・マリオ=テスティーノのなんとも酷い描かれ方。ビジョンを求めるアナに対して、ただただ自分を売り込むかのようなセールストークを繰り返しあきれられます。さらにイタリアロケで具体的なシチュエーションを指定されたにもかかわらず、自己判断で勝手にコッロッセオでの撮影をキャンセルするばかりか、成果物のほぼ全部がアナに却下されます。それと対比するように、穴埋めの突貫撮影を最高の結果でフォローするグレイスの能力。
この圧倒的なまでのグレイスの魅力とそれを信頼しきっているが故に厳しいことを言い続けるアナ。友情にも似た奇妙な信頼関係が、しかし確実に「完璧な仕事を目指す」という一点にのみ集約するカタルシス。最後に訪れるちょっとしたサプライズ。
事実は小説より奇なりとは良く言ったもので、「プラダを着た悪魔」でフォローし切れなかった「それでも仕事をする意味」「なぜヴォーグが最高であるのか」という部分が大変明確に表現されています。
是非とも「プラダを着た悪魔」とセットで見てほしいすばらしいドキュメンタリーです。
上映館数はすくないですが必見です。

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SOUL RED 松田優作―生きているのは、お前か俺か

SOUL RED 松田優作―生きているのは、お前か俺か

SOUL RED 松田優作―生きているのは、お前か俺か」を見てきました。最近ドキュメンタリー多いですね。
評価:(75/100点) – 丁寧に語るカリスマのフィルモグラフィ


<概要>
松田優作生誕60年および没後20年の記念ドキュメンタリー。早世したカリスマ松田優作とゆかりの深いゲストスピーカー達へのインタビューを通して、人物・松田優作を考える。


<感想>
人物ドキュメンタリーの場合にはまず立場をはっきりさせる必要があります。優作が亡くなったとき、私は小学生でした。ただ記憶にはありません。私がはじめて優作の作品を見たのは、日テレで夕方再放送していた「探偵物語」です。次いでテレ東の深夜放送で「蘇える金狼」を見ました。たぶん1998年のリメイク版「蘇える金狼」の宣伝枠だったと思います。そのほかの作品については後にDVDでフィルモグラフィを追いました。
おそらく松田優作に熱狂した方々とは二世代くらい離れているかも知れません。私にとっての松田優作はそれこそブルース・リーのような「映画史には欠かせない偉大な俳優」という認識でした。ただ、いまでも「ねぇジュピターには何時につくの?」を聞いたときの衝撃は頭から離れません。
このドキュメンタリーは、一世代上の黒澤満プロデューサー(=育ての親)、仙元誠三や丸山昇一といった同世代の仕事仲間(=戦友)、浅野忠信・香川照之・仲村トオルといった一つ下の世代(=後継者)、そして龍平・翔太という実の息子(=血脈)と全四層のそれぞれから人物・松田優作を語ります。とても分かりやすい人もいれば、酔っぱらいかと思う人や何故か正統後継者を自称してヒートアップする人もいて、まさに三者三様です。誰がどのタイプかは劇場でお確かめください(笑)。
私はこの映画を見ていてクリント・イーストウッドと松田優作を重ねてしまいました。歳は違えど優作もイーストウッドも、日米それぞれの「映画黄金期」にギリギリ間に合わなかった方々です。そして間に合わなかったが故にそれを生涯追い求め続けて”最後の守護者”となった方々です。優作は旧来の映画会社とスター俳優の「専属契約・主演作量産」体制に間に合わなかったが故に、個人の情熱と努力と才能と技量によって自らスターにのし上がり、最後には「松田組」とも言うべき制作体制を作り上げました。そして、テレビ局や広告代理店が主導の「クオリティを無視したマーケットビジネス商材としての映画」が氾濫する現在から見れば、まさに「陽炎座」から「華の乱」までの異様でいびつな優作のフィルモグラフィこそが「日本映画が燃え尽きる直前の最期の輝き」に見えるのです。前半生の狂気を身体で表現できるカリスマ・アクションスターから、後半生の姿や仕草で人間味と陰を表現する超演技派時代まで、非常に幅広い松田優作を系統立てて見ることが出来ます。そしてまるで「一人黄金期」と言っても差し支え無いほどの強烈なカリスマ性と自分勝手さによって、どんな役であったとしても鮮烈な印象を残していきます。
松田優作はもはや映画の教科書にでてくる「歴史的人物」になりつつあります。しかし、彼の情熱や映画に対する真摯な態度、そして何よりも圧倒的なまでの威圧感と存在感は今なおまったく色褪せていません。むしろ現在の邦画が酷くなりすぎて、優作の生きた当時よりも輝きを増しているかも知れません。ビッグバジェットのスポコン邦画なんて見てる場合ではありません。是非、映画館で「RED SOUL~」を見て、そして帰りの足でレンタルショップに行って「蘇える金狼」「野獣死すべし」「華の乱」を借りてください。まったく古びない感動を味わえること請け合いです。全力でオススメします!

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保護中: アンヴィル!~夢を諦めきれない男たち~

保護中: アンヴィル!~夢を諦めきれない男たち~

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心の森(TRÄDÄLSKAREN:スウェーデン)

心の森(TRÄDÄLSKAREN:スウェーデン)

本日も東京国際映画祭に行ってきました。
「心の森」

評価:(60/100点) – スウェーデンのぼんくら三人組の奮闘記


<あらすじ>
スウェーデンは森が国土のほとんどを占めながら平地に人口の九割が住む国である。
そこで、スウェーデンのぼんくら三人組は木の上に小屋を造ることを考える。一夏三ヶ月をかけた建築をドキュメンタリーで送る。
<感想>
まず木の上に小屋を造ると聞いて一番最初に浮かぶのは、トム・ソーヤ的な冒険感覚です。そしてそれはあってます。いい歳して間違いなく「頭悪い(褒め言葉)」ですし、なんというか中2病(笑)な感じがプンプンします。でも面白いんですこれ。やってることはただ小屋を造ってるだけなので、別にドラマとか無いです。しかしそれだけで90分も画面がもつわけはないので、合間合間に森や自然をテーマにした専門家のインタビューが流れます。たとえば、キリスト教の神父さんが失楽園の知恵の実について語ったり、ジェンダー学者が森を母性にみたてて語ったりします。これは監督の意図とは違うかもしれないのですが、この「真面目な語り」と「ぼんくら三人組の中二病感」が見事に対比されていて、そのギャップがギャグとして成立する要因になっているのは否定できません。そして、ラストの小屋が完成した時の達成感と景色の美しさ。まさにFEEL THE NATURE。すっごいくだらない、そして半笑いが起こるようなことが、この最後の景色と合間の森語りによって、まるで人間が大自然に上手く協調したように見えるんです。言うなれば、GO BACK TO AFRIKA。でも「自然に帰れ」という歯の浮くようなメッセージをここまで柔らかくーしかし明確に表明したものはなかなかありません。「自然に優しくしろ。なぜならば地球が破壊されるからだ」という良くある(偽善的な)論法では無く、「自然と協調すると気持ちいいよ。オススメ。」という論法なんです。すばらしいフィルムでした。なかなか劇場配給するのは厳しいでしょうが、NHKで是非放送して欲しいですね。とてもオススメです。

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