悪人

悪人

さてさて、本日はモントリオール最優秀女優賞で何かと話題の

悪人」を観てきました。

評価:(2/100点) – 人間の振れ幅ではなく、恣意的なキャラの振れ幅。


【あらすじ】

解体業の清水祐一は、出会い系サイトで出会った保険外交員の石橋佳乃を激情にまかせて殺してしまう。その後飄々と生活をしていたが、出会い系サイトで出会った別の女性・光代とデート中に家に警察が来ていることを知り、そのまま光代と共に逃亡生活をする。それまで殺人を何とも思っていなかった祐一だったが、光代に本気で恋したことで罪の重大さに気付いていく、、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 石橋佳乃と増尾圭吾
 ※第1ターニングポイント -> 佳乃が殺される。
第2幕 -> 裕一と光代の出会い
 ※第2ターニングポイント -> 裕一の家に捜査が及ぶ。
第3幕 -> 裕一と光代の逃避行


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【感想】

本日は川崎チネチッタが1,000円だったので、あんまり見る気のなかった「悪人」に行ってきました。お客さんはよく入っていまして、ほぼフルハウスだったと思います。本作は先日、深津絵里がモントリオール国際映画祭で最優秀女優賞を獲ったことで話題になっていましたが、そのせいもあるかも知れません。春先の「パレード」よりも観客は入っていました。モントリオール映画祭自体はマスコミをいっぱい連れて行けばくれるモンドセレクションみたいなもんなので価値無いんですが、日本人はこういう謎の横文字に弱いですからね(笑)

大変申し訳ないというか、予告である程度予感はあったんですが、相変わらずな感じでボロカスに書かせていただきます。それも同じ吉田修一原作のパレードみたいに「腹は立つし酷い出来だけどやりたいことはわかるから、点数だけは45点」みたいな事もありません。っていうか満島ひかりと松尾スズキ以外に褒めるところが見当たりません。私の駄文を読んでいただいている奇特な方にはなんとなく察しがついているとおもうんですが、私は好きな俳優や可愛いアイドルがでていると点数が大幅に甘くなりますw 満島ひかりが出ているのに2点を付けたという根拠をこれから一気に書かせていただきます。すなわち私の燃えたぎる怒りのリビドーをw
お約束ですが、以後の文章は多大なネタバレを含みます。まぁ予告を見ただけであらすじは全部分かると思いますが(苦笑)、本作はそれ以上に演出面で本当に怒りを呼ぶレベルの事を平然としてきます。どうしても細部になってしまいますので、これから見ようと思っている映画未見の方はご遠慮下さい。

本作の流れ。

本作の流れをざっとおさらいしましょう。第1幕では、殺される事になる佳乃がいかに最低な女で「殺されても仕方がないか」という描写が続きます。

そして第2幕前半では、裕一が祖父の介護をしたり近所の年寄りの世話をしたりする「良い人」描写があります。そして「将来に希望が持てない閉塞的な人生を送る寂しい女」光代と出会います。裕一はここで光代のあまりの純朴さに惚れてしまいます。そして光代もまたそれまでの人生に居なかった「不良っぽい強引で影のあるイケメン」にコロっといきます。そして当初犯人と思われていた圭吾が実は直接的に事件と関係無いことが明らかになり釈放されます。この段に来てついに裕一に捜査の手が及び、裕一は光代をつれて逃亡します。道中の食事中に裕一が光代に語る回想シーンによって、再度、佳乃がいかに殺されて当然の女かという描写が入ります。一方、裕一の居なくなった実家では、祖母が詐欺にひっかかったりマスコミに追い回されたりして踏んだり蹴ったりな状況になっていきます。また、佳乃の父は、警察の取り調べから釈放された圭吾を逆恨みし、モンキーレンチをもって追いかけ回します。一度は自首を決めた裕一でしたが、光代は逃避行の続行を希望し、再び逃げます。

ついに光代のあこがれの灯台に潜伏した裕一は、買い出しにいった光代の後を付けた警察によって取り押さえられてしまいます。取り押さえられる間際、裕一は光代の首を絞めます。これによって光代はあくまでも犯人に連れ回された被害者として、逃亡援助の罪を免れます。

映画におけるモンタージュ理論の基本

ちょっと話がそれますが、映画にはモンタージュ理論というものがあります。いまや常識としていろいろな表現に使われているもので、この理論を使っていない映像はほとんどありません。ソ連のエイゼンシュタイン監督の「戦艦ポチョムキン」から脈々と続く革命的な理論です。詳しく知りたい方は沢山本が出ていますので読んでみて下さい。

ざっくり説明しますと、これはまったく別々のカメラで撮った映像を編集によってつなげることでそこに意味が付加されるという理論です。例えば建物の映像が10秒ぐらい流れて、次いで居間のような所で夫婦が話している映像に切り替わるとします。これを見た観客は、当然この居間が建物の中にあると思います。でも、実際に最初に写っていた建物の中に居間があるかどうかは本当は分かりません。テレビドラマであれば、外観はロケで実物を撮影して、部屋はスタジオのセットで撮影していることだってあり得ます。ですが、私達はこの並びで映像を見せられると、「写っていた建物の中に居間がある」と認識します。これがモンタージュ理論です。映像は編集によっていくらでも恣意的に観客の心理や感覚を操ることが出来るんです。

これは映像に限ったことではありません。脚本にも同じ事が言えます。脚本はたとえ個別のシーンが全く同じだったとしても、見せる順番や編集点を変えることでいくらでも恣意的な印象操作をすることができます。これに失敗している映画は、見ててどうでもよくなってきたり、飽きてしまったりします。

本作で怒りを呼ぶ主張。

さて、前置きはこれくらいにしまして、いよいよ本題です。本作は、明らかに監督・脚本家の意図として、佳乃と圭吾を「最低な人間」、裕一と光代を「根は良い人」として印象操作を仕掛けてきています。それはエピソードのつなげ方を見ても明らかです。冒頭から佳乃と圭吾は本当に最低に描かれますし、一方の裕一は地元では世話焼きで無口な純朴青年として描かれます。そして逃避行の最中、駄目押しで犯行シーンを見せて佳乃を決定的な糞女として描きます。

私が一番怒りを感じるのは、この佳乃が完全な最低女として描かれる犯行シーンです。満島ひかりを使ってこれかよってのもあるんですが、それ以上に、このエピソードの入れ方に問題があるんです。いいですか、、、このシーンは、港町っぽい食事処で、裕一が光代に「人を殺してしまった」ことを弁解するシーンに裕一の回想として入れ込まれるんです。これぞまさに前述したモンタージュ理論の最低な悪用です。さんまイカの目のアップから回想に入るという面白演出で見失いがちですが、犯行シーンは真実(=神の視点のカメラ)では無く、あくまでも殺人犯が一緒に逃げてくれる恋人に弁解している都合の良い回想なんですよ? それをこのタイミングで入れてくるんです。そしていかにも同情するような深津絵里の顔を繋いできます。本っっつっっっ当にこういう事をされると腹が立ちます。加えて遺族の父親は指名手配犯の裕一を捜すのではなく、釈放された圭吾に説教しにいきます。おかしいでしょ、どう考えても。作品全体で裕一を全面擁護する方向につなげてるんです。

しかも極めつけは、母が訪ねてくるというエピソードと、夕日を灯台で見ている子供の裕一のカットです。つまり、彼は親に捨てられて寂しくってグレちゃったんだから人ぐらい殺してもしょうがないという繋ぎ方なんです。これに関しては、作り手側の良識を疑います。「重力ピエロ(2009)」で「親が人殺しの子供は人を殺しても仕方が無いから自首しなくてOK」という結論がありましたが、それ以来の衝撃です。今度は「孤児はグれて当然だから人を殺しても仕方が無い」そうです。全国の人を殺したことがない孤児の方は本気で怒ったほうが良いです。

もちろん裕一だけでなくこういった描写は光代にもあります。そもそも光代ってそうとう頭がイっちゃってます。だって出会い系サイトでナンパした男にいきなり「ホテル行こうか」って言われてホイホイついて行ったあげくに「私は本気で好きな人が欲しかったの」とかいうような子ですよ。描写がないですが、たぶんこれ出会い系サイトでナンパしたのは初めてじゃないはずでしょ。これって所謂ひとつの「ヤンデレ」ってやつですか? むしろ怖いんですけど、、、。だけど、その明らかにおかしい子を「理解力と包容力のある優しい純朴な子」みたいに演出してくるのがかなり引きます。要は光代はいままで誰からも相手にされなかったのに、裕一が相手にしてくれたのがうれしくって舞い上がっちゃっただけです。それをいかにも「本当の愛を知った」見たいな描かれ方をされるとツッコミたくなります。だって初めて会った日はホテルに連れ込まれてその場でさよならで、次に会った日の夜にはもう逃避行してるんですよ? いくらなんでも早すぎでしょ。もっとも、作りて側の「女なんて一発やっちまえば言うこと聞くんだよ!」という逞しい信念に基づいた物ならば大変結構なんですが、普通それはちょっとねぇ、、、、、女性を馬鹿にしすぎでしょ。北方謙三あたりが言ってるなら苦笑いで済みますけどね(笑)。

なんかもう全部が雰囲気でずさんなんです。そもそも祖母が詐欺に遭う話だって映画の本筋と全然関係ないじゃないですか。悪人と善人の見分けって話ですが、それはそれで余所でやれって。マスコミはマスコミで加害者の祖母の家には押しかけるのに、被害者の葬式や遺族の家には押しかけ無いんですよ。現実のマスコミは被害者の方にだって節操無くガンガンにアタック掛けるでしょ?さらには被害者の父親が、釈放された元容疑者をモンキーレンチで白昼堂々と襲うんですよ。なんで無実の元容疑者を襲うのかもさっぱりですが、そんなもん写真週刊誌に一発でやられますよ。

あと、圭吾君はたいして悪くありません。ストーカー気味の女の子に夜中にばったり会っちゃって仕方無くドライブに誘ったらウザイくらいアピールしてくるから車から蹴り出しただけです。まぁ蹴りはやり過ぎですけど。だから被害者の父は完全に言いがかりの八つ当たりです。そんな暇があったら駅前で裕一の似顔絵のビラでも配れ。そもそも、本作のテーマは「悪人にだって人間的な振れ幅はある」って部分でしょう?そのくせに圭吾を類型的な「嫌な奴」に描くのは、これ作品内矛盾じゃないですか。

ラストで「あの人は悪人なんですよねぇ」とか光代が言いますが、私断言します。裕一は悪人だし、おまえも刑法第100条・逃走援助で普通に逮捕じゃ。もっというと被害者の父も障害罪で逮捕じゃ(っていうか普通に通り魔)。ということで、結論としてはみんな悪人です。監督も、脚本も、こんな程度の演技に賞をくれてやったモントリオールの審査委員も、そしてこんなに口汚い言葉で罵ってる私も。

【まとめ】

映画館で見る価値はありませんが、DVDが出たらレンタルで見る価値はあると思います。確かに日本で出会い系サイトによる売春が普通に行われていて、田舎の閉塞した村社会で切れやすい若者が一杯いて問題視されているとカナダ人が誤解したならば賞の1つぐらいは来てもおかしくはないかも知れません。なぜなら、おそらくこの内容をコンゴとかパキスタンとか日本人に馴染みの薄い国の映画としてやられたら、日本でも文化を誤解して褒める人がいても不思議じゃないと思うからです。
一応マイナス方面でオススメをしておきますが、最後に1つだけ。
見終わった後、30代半ばぐらいの夫婦が「1,000円でよかったね」「いや、これはないでしょ。」という会話をしていたことをご報告いたします。でも後ろの若い女の子2人組は泣いてたんですよね、、、。

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ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士

土曜の3本目は

「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」です。

評価:(45/100点) – あれ?ちょっ、、、、、え!?


【あらすじ】

ザラチェンコを襲い瀕死の重傷を負ったリスベットは、強靱な生命力で大学病院へと運ばれ一命を取り留めていた。しかし対するザラチェンコもやはり生き延びてしまい、ニーダーマンに至ってはまんまと逃げ延びて潜伏してしまう。
一方その頃、ザラチェンコが裁判で過去を暴露することを恐れた秘密結社・特別分析班の創設者・エーヴェルト・グルベリは、ザラチェンコとリスベットの口封じを企む。そしてかつての捜査資料を元に国家の暗部へと近づくミカエル。首相からの勅令を受け公安内部の非公式結社の存在を捜査するトーステンとモニカ。特別分析班の息の掛かった検察をも巻き込み、舞台はリスベットの裁判へとなだれ込む、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 特別分析班の登場。
 ※第1ターニングポイント -> フレドリック・クリントンが特別分析班に復帰する。
第2幕 -> ミカエルとリスベットの調査
 ※第2ターニングポイント -> 裁判が始まる。
第3幕 -> 裁判とニーダーマン。


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【感想】

さて、昨日の3本目は「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」です。原題は「Luftslottet som sprangdes」なので「打ち砕かれた空虚な城」って感じなのですが、なんでこんな邦題になったかは良く分かりません。さすがに第2作が公開してすぐの続き物第3作ですので、そんなにお客さんは入っていませんでした。とはいえ、2作目がかなり良いところでぶった切られるので、見たら絶対に続きが気になる作品ではあります。
細かい前提はミレニアム2と同じなので割愛させていただきまして、いきなり本題に行きます。本作ではついに、ザラチェンコの所属していた組織が登場します。前作では思わせぶりで終わっていたんですが、今回でそれが国家ですら把握できていない秘密結社であることが分かります。そして、この”班”の連中達がリスベットをあの手この手で社会的に抹殺しようと企んできます。もちろん最凶ロリコン変態・テレボリアン医師も組織の手先です。そこをリスベットがどう切り抜けていくのか? そしてミカエルはどう援護していくのか? 壮大なリスベットの復讐劇の完結編です。
とか書くと面白そうに聞こえるんですが、、、正直ちょっと拍子抜けというか、、、なんかカタルシス不足を感じてしまいます。というのも、これは仕方が無いことなんですが、実は原作自体が作者の急死により中途半端に終わってしまってるんですね。原作では伏線を張りまくったのに続編が無いという大変微妙な事態が起きていますが、映画ではその伏線部分が綺麗さっぱりカットされています。その分、内容はリスベットと”班”との対決に絞られていてシンプルにはなっているんですが、一方でリスベットという稀代の名ヒロインの復讐劇としてはかなりショボイことになっています。いうなれば「僕らの旅がこれからだ!」エンドでして、ラストで晴れて自由の身となったリスベットがこれからミカエルと組んで大活躍するんだろうな、、、というちょっとした期待で終わってしまいます。本当に静かな終わり方でして、カタルシスはほとんどありません。リスベット物語の第一章で終わってしまったような感じです。もちろん、陰謀仕立ての法廷サスペンスとしては中の上ぐらいの出来ではあります。でも、やはり1作目で「現代のポアロか」ってくらいすばらしい「金持ち一家にまつわる謎を解く」という探偵物を高いレベルで実現し、2作目で「ピンチになったスーパーヒロインの意地と執念の逆襲」を見せてくれたシリーズとしては、ちょっとこの「まぁまぁよくできた法廷劇」では物足りません。
前作以上にミカエルとリスベットの連携が見られますし、よりプレイグ(疫病神)を巻き込んでの「チームもの」としての完成度は上がっています。それだけにもう一押し、せめて班の連中に対する復讐を見せて欲しかったです。いくらなんでも普通に逮捕じゃねぇ、、、。
一応申し訳程度に最後にアクションがあるんですが、それもあまりにショボすぎてむしろ要らないかなという位の感覚です。
惜しいです。

【まとめ】

もちろんシリーズ1作2作を観た方は絶対に行くべきですし、行かないと悶々として過ごすことになりますw また、完全に前作の続きですから、前作を見ずに本作だけ見るというのは限りなく無意味です。
リスベットは相変わらず良い味だしていますし、ミカエルの「船越英一郎化」も着々と進行しています。欲を言えば思い切ってオリジナルストーリーでテレビドラマにしちゃえばいいのにと思わないこともないのですが、これはこれで「ミレニアム3部作」としては無難な着地なのかなとも思います。
なんにせよ1作目と2作目は傑作ですので、観ていない方は1作目をDVD、2作目を劇場で見て、惰性で本作もご鑑賞いただくと良いかと思います。にしても見たのになんか煮え切らないというか悶々とするというか、、、スティーグ・ラーソン生き返って続編書いてくれないかな、、、。

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彼女が消えた浜辺

彼女が消えた浜辺

2本目はイラン映画の

「彼女が消えた浜辺」です。

評価:(85/100点) – 文芸系作品の傑作。


【あらすじ】

大学時代の友人達は家族集まって夏休みの旅行に出かける。ドイツから離婚したばかりで帰国したアーマドのために、セビデーは子供が通う保育園で働く保育士のエリを誘う、、、。


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【感想】

今日の2本目はベルリン国際の監督賞を受賞した「彼女の消えた浜辺」です。こちらも年配の方を中心に結構お客さんが入っていました。
話の内容は至ってシンプルです。仲間内の旅行に一人だけ友達でない「異物」が誘われ、その女性がいなくなってしまったことに端を発してどんどん個々人のエゴが噴出していきます。サスペンス仕立てではあるものの、本作でエリがどうなったかはまったく重要ではありませんし、そこに論点があるわけではありません。大切なのは、「旅行に誘った良く知らない人が行方不明になってしまった」という何ともし難い状況に放り込まれた人間達が、どんどん本心をさらけ出してしまうというその人間模様です。ある者は責任を感じ、ある者はストレスに耐えきれずにヒステリーを起こし、ある者は事件そのものをもみ消そうとします。そしてそれが終盤に判明する重要な真実によって、イスラム教の信仰そのものを揺るがすような事態へと発展していきます。
イラン映画の割にというと失礼ですが、かなり普通に良く出来た文芸作品だと思います。それこそゾンビ映画とかディストピアSFで描くような「極限状態においてあぶり出される人間の本質」みたいなものをかなりストレートに描いています。もっとも、厳格なイスラム社会だからこその「極限状態」ではあるので、そこがどれほど「極限」なのかは理解しづらい部分かも知れません、しかし、そんな文化差を差し引いても、大変すばらしい作品だと思います。
公開規模は小さいですが、絶対に押さえて置いた方が良い作品だと思います。かなりオススメです。

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終着駅 トルストイ最後の旅

終着駅 トルストイ最後の旅

3連休初日の本日は3本です。1本目は

「終着駅 トルストイ最後の旅」を見ました。

評価:(75/100点) – 暗くなりがちな伝記物を上手くまとめた佳作


【あらすじ】

ヴァレンティンはチェルコフに論文を認められトルストイの世話係となる。トルストイ・コミューンで生活しながらトルストイの家に出入りするようになったヴァレンティンは、そこでトルストイの人間性を知ることになる。そこには自身の理想とチェルコフの信仰と妻との愛の間に揺れる一人の老人がいた、、、。


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【感想】

本日の1作目は「終着駅 トルストイ最後の旅」です。年配の方を中心に結構な人が入っていました。トルストイ役のクリストファー・プラマーと妻役のヘレン・ミレンは共にアカデミー/ゴールデングローブにノミネートされていまして、前評判はそこそこありました。
本作は若くしてトルストイの世話役になったヴァレンティンを観客の代弁者にし、そこからトルストイと妻ソフィアの関係を通じて魅力的な人間像を描いていきます。本作におけるトルストイは、さながら祭り上げられた宗教の教祖のような位置にあります。盟友チェルコフはトルストイの参謀としてトルストイ主義のイメージを作るべく奔走しますし、ヴァレンティンも熱狂的なトルストイ主義者として信仰にも似た尊敬を寄せます。そこに俗世の権化とも呼ぶべき妻・ソフィアが絡んでくるわけです。
トルストイがチェルコフに乗せられて「博愛的で私有財産を廃した理想的社会主義」に突き進もうとするのに反して、ソフィアは「夫婦愛」「家族愛」「子供への遺産」に執着してトルストイを現実に引き戻そうとします。確かに見ようによってはヒステリックなだけにも見えるのですが、それを全て愛で説明してくるのが本作の一番の肝です。
劇中で、トルストイは”人類愛”を掲げて著作権を放棄しようとしますが、ソフィアは”家族愛”を訴えて著作権の放棄を求めます。この両方の”愛”の大きな違いが、前者が「目に見えない概念」を対象としているのに対して、後者は完全に身近な「目に見える具体的な人」が対象だということです。
もちろん役者の力によって魅力的に見えるというのもあるのですが、この対比が「聖人と俗人」「理想と現実」「建前と本心」という感じがビンビン伝わってきてとても引き込まれます。
大前提としてトルストイがどういう位置の人なのか(ロシアの文豪でカリスマ的社会主義者で非暴力・人類愛をかかげたほとんど新興宗教の教祖のような人)だけは知らないとマズイですが、魅力的な夫婦愛の映画としても十分に楽しめると思います。

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ミレニアム2 火と戯れる女

ミレニアム2 火と戯れる女

2本目は

「ミレニアム2 火と戯れる女」を観てみました。

評価:(75/100点) – テレビドラマのクオリティでは無い。


【あらすじ】

前作にて逮捕されたミカエルが出所してから暫く経ち、「ミレニアム」には新たなネタの売り込みが来ていた。中でもダグが持ち込んだのは、政府高官達の売春に関わるスキャンダルネタ。2ヶ月の臨時雇用を得たダグだったが、まさに最終稿をあげるそのときになって、恋人と共に射殺体となって発見されてしまう。時を同じくして、リスベットの後見人・ビュルマンも寝室で射殺体で発見される。銃から指紋が発見され3名の殺人容疑で指名手配されたリスベットは、独自の捜査で犯人を捜索する。そこには彼女が長年追い続けた「ザラ」の関与の証拠があった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ダグの持ち込みと取材。
 ※第1ターニングポイント -> ダグが殺される。
第2幕 -> リスベットの逃亡とミカエルの捜査。
 ※第2ターニングポイント -> ミカエルがパルムグレンと接触する。
第3幕 -> リスベットとザラの対決。


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【感想】

今日の2本目は「ミレニアム2 火と戯れる女」です。1作目から1年も経たずに早くも続編の登場です。本日から渋谷のシネマライズではオールナイトイベントで「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」まで一挙上映していますが、とりあえず2作目だけ見てきました。前作の評判が良かったからか、そこまで宣伝していない非ハリウッド作品としてはかなりお客さんが入っていました。

立ち位置の確認

本作はスウェーデンの雑誌編集者・スティーグ・ラーソンの死後に発表されたミレニアム3部作の2作目の映像化です。元々テレビの二時間ドラマとして制作されていましたが、1作目の映画があまりに大ヒットしたため、急遽編集をしなおして映画として公開されました。そのため本作には35mmフィルム版が無く、日本でもブルーレイで上映されています。
ちょっと先日も「怪談新耳袋 怪奇」で書きましたが、ブルーレイ上映ですとどうしても色深度がフィルムより浅かったり、字幕の「シャギ」がすごく目立ったりします。ただ本作はそこまで画像的な破綻はなく、どちらかというとそのままセルBDにする気が満々なために入る「人物紹介テロップ」にゲンナリします。さすがに「リスベット(天才ハッカー)」と出たときは笑いを堪えるのに必死でしたw
特に前半は非常にテレビドラマ的な固定カメラワークが多く、たしかに映像はチープになったように感じます。しかし、それにもまして圧倒的に面白いサスペンス展開にグイグイ引き込まれるため、中盤以降はまったく気になりません。とにかく無類に面白いシリーズです。

シリーズの肝

本作は、1作目よりも謎解き/サスペンス要素はかなり減っています。というよりも、まさに三部作の二部目といった感じでキャラクターを掘り下げるためのストーリーとなっています。当然掘り下げる対象は暴走少女・リスベットなわけで、本作はリスベットの過去にグイッと入り込むことに重点が置かれています。
ですので、例えば犯人は誰かとか、犯行手法はどうとうか、そういった要素はほとんどありません。実行犯はかなり早めに分かりますし、黒幕もパルムグレンに会いに行くだけで分かります。
本作は1作目にあった「リスベットとミカエルの信頼/愛情関係」をすれ違わせ続けて物語の推進力にしています。「果たしてミカエルはリスベットと会えるのか!?」だけで二時間持たせるわけです。なのでどうしても「キャラもの」として見ざるを得ない部分があります。もっとも、リスベットのキャラが濃すぎてまったく問題は無いんですが、ファン限定の作品ということにはなってしまうかと思います。

【まとめ】

サスペンスものは毎回物凄い書きづらいんですが(苦笑)、本作は間違いなくイかした良作です。アクション要素あり、連続殺人あり、そしてお色気あり、娯楽作としては相当に良い線に行っていると思います。
1作目の「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」はDVDも出てますしレンタルにもありますので、是非前作を見てから、ダッシュで映画館に駆け込んで下さい! 3作目がすぐに公開されてしまうため、2作目の公開期間はあらかじめどこも短く予定されています。最近は数が減っているサスペンスでは間違いなく良作ですので、是非是非劇場で見て下さい。大プッシュでオススメです。

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オカンの嫁入り

オカンの嫁入り

本日は二本です。まずは

オカンの嫁入り」です。

評価:(35/100点) – 危ないですから駆け込み乗車はご遠慮下さいw


【あらすじ】

ある日、母子家庭の月子は夜中の三時に玄関の音で起こされる。帰ってきた母・陽子は泥酔しており、なんとヤンキー風の男を連れてきてしまったのだ。朝になって、陽子は連れてきた男・研二との結婚を宣言する。受け入れられない月子は、隣にある大家の家へ逃げ出すのだが、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> オカンが男を連れてくる。
 ※第1ターニングポイント -> 月子の家出。
第2幕 -> 月子の過去と研二の過去。
 ※第2ターニングポイント -> 母が倒れる。
第3幕 -> トラウマの克服と母の結婚


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【感想】

本日の1本目は「オカンの嫁入り」です。結構お年寄りの夫婦連れで賑わっていましたし、上映中も特に犬の仕草に対して笑いが結構出ていました。公開一週経って、ある程度評判が出回っているということでしょうか?
とはいえ、私個人としてそこまで面白い話だとは思いません。ただ、決してグダグダというわけではありません。相変わらず氾濫している「難病で全部解決」パターンではありますが、一応月子の視点できっちり統一はされています。まぁ統一しているにも関わらず心が変化していくポイントが適当という問題はあるんですが、それは物語部分の問題であり、もっというと原作の問題なので仕方無いのかなとは思います。そう、本作で全体をわりと台無しにしてしまっているのがストーリー運びの不味さです。
本作はプロット上はそこまでイベントが入りません。月子が「異物」として邪険にした研二が実は結構良い奴だと言うことに気付いて徐々に受け入れ始め、そして母の余命を知ることで決定的に心変わりします。あとはこの研二と脇役の村上先生のエピソード、そして月子のトラウマを入れるだけです。なので、本来であればそこまで変になるボリュームではないんです。
やはり問題は、研二のエピソードで祖母の死を使って、さらに陽子の部分でも死を使ったことです。そうすると研二が自分の祖母に孝行できなかったことを悔いていて、陽子を代替にしようとしているように見えてしまいます。このおかげで研二が手放しで良い奴に見えなくなってしまいます。さらに月子のトラウマ・パートがあまりにも衝撃的過ぎるため、全っっ然笑えないというかメチャクチャ重い話になってしまい、むしろ後半の陽子の説得が「ちょ、、、そんな簡単なことじゃないでしょ。」とツッコミたくなってしまいます。
そうなんです。これ、ストーリーとキャラクターのトーンがずれちゃってるんです。みんなポジティブ過ぎるというか、エピソードのエグさに対してキャラクターが軽すぎるんです。これは携帯小説の映画化によくある問題でして、起こるイベントに対して反応が鈍すぎるというか、実在感がなさ過ぎるというか、衝撃が過剰すぎるというか、誠実さが無いように見えてしまうんです。
例えば、月子は駅でストーカー男に襲われたことがトラウマで電車に乗れなくなってしまいます。でも男(研二)は平気なんです。本来このレベルでトラウマ化したら、電車はおろか男も自転車も怖くなってもおかしくないんです。そもそも電車は直接関係ないですし、そちらの方がよほど実在感があります。でも実際には電車が怖いだけで、駅も男も自転車も全然OKなんです。こういう細かいところが駄目です。
父親の位牌を持ち出したのにその後で拝むシーンがないとか、犬の尿道結石についてエサが変わったことと関係がないとか、極めつけは散々やっておいて最後まで結局母が生きてるとか、すごく物語の詰めが甘いです。後日談は当然母の死後どうなったかでないと月子の成長物語にならないじゃないですか。だって、月子が「トラウマを負った後は好き勝手にニートを満喫していたけど結局は母親に守ってもらっていたのだ」という事に気付くのがクライマックスなんです。なのに最後まで母親に世話してもらっていたら振り出しに戻って終わりですよ、それ。せっかく俳優が良い仕事をしているのにかなりもったいない事になっています。

【まとめ】

ツッコミばかり入れてしまいましたが、難病ものの中では比較的マシな方だとは思います。一応ですが核として月子の成長物語(風味)がありますし、なにより宮あおいと桐谷健太と國村隼はアップだけで画面を持たせる力があります。
俳優のファンであれば文句なしで行った方が良いですが、あくまでも浅いネット小説を良い俳優をつかってちょっとたどたどしく映画化したという事だと思います。
余談ですが、呉美保さんは映画監督2本目だと思いますが場面転換含めて課題山積みだと思います。特にトラウマパートに繋ぐ場面転換の不細工さは結構すごいです。そういったところも見所だと思いますw

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怪談新耳袋 怪奇

怪談新耳袋 怪奇

本日は一本、

「怪談新耳袋 怪奇」を見てきました。。

評価:(16/100点) – 演出が下手すぎて全然怖く無い。


【あらすじ】

[ツキモノ]
大学三年生のあゆみは、登校中のバスで裸足で何事かをつぶやき続ける女性を目撃する。体調が悪いと思ったあゆみは「大丈夫ですか?」と声を掛けると、彼女は「背負う気あんの!?」と謎の問いかけをしてくる。不審に思ったあゆみはそのままバスを降りる。そして授業中、突如学内に侵入した女性はあゆみを襲ってきた、、、。
[ノゾミ]
かつて目の前で妹が溺死してしまったあゆみは、そのトラウマから自傷癖を持ち不登校を続けていた。ある日から、彼女は夢の中で溺死のシーンを繰り返し見てしまうようになる。そして彼女は妹と思われる少女の霊を目撃するようになる、、、。


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【感想】

本日は一本、「怪談新耳袋 怪奇」を見てきました。結構お客さんが入っていまして、やっぱりまだまだJホラーが死んだわけではないのだという実感と共にうれしくなりました。余談ですが、小学生の女の子を連れてきてるお母さんがいまして、それはちょっとどうかと思いましたw
本作はフィルムを作っていないためBlu-rayでの上映でした。インディ映画ではよくありますし、メジャー公開作品でも今年は「劇場版 文学少女」が同じBlu-ray上映でした。これ自体はそんなに気にはならないのですが、たぶんソニーのHDCAMで撮影しているせいか、特に「ノゾミ」の方の暗い場面でほとんど画面がつぶれてしまっていて怖さの半減につながってしまっていました。予算上仕方がないのかもしれませんが、それで作品にデメリットが出てしまうと本末転倒かなと言う気がします。

「ツキモノ」編 失敗気味のシリアルキラー・パニック

まずは前半の「ツキモノ」からです。
こちらは非常にオーソドックスなシリアルキラーものです。なんか良く分からないお化けが居て、それに取り憑かれると次々に人を殺していくようになるというジェイソンっぽい話です。それ以上でもそれ以下でもありませんで、こちらはびっくりするほど怖くなる要素がありません。
強いて言えば取り憑かれた人のメイクが怖いっていうだけです。
このツキモノ編の一番の失敗要因は、間違いなく監督の演出力です。というのも、こういったシンプルな「得体の知れない人殺しに追われる」話というのは、純粋に演出によってどこまで追われる恐怖をだすのかという所しか勝負ができないからです。そこに行きますと、本作の襲撃者はものすごく足が速く、ものすごく耐久力があり、そしてほぼ不死身です。なのでチェイス部分での面白みはありません。「ウガー!!!!」って襲ってくるのを「キャー!!!」って言いながら走って逃げてるだけです。あとは全ていきなりの音で脅かしてくるだけです。要は出来の悪いお化け屋敷ですね。
ストーリー的な部分でいいましても、本作でのぞみがストーキングされるのは、不気味な女に声を掛けたからです。つまり「知らない人に声を掛けるのはやめましょう。」という教訓以外は残りません。
日本では珍しいタイプのホラーだっただけに、ちょっともったいなかったかなと思います。

「ノゾミ」編 オーソドックスな心霊ホラー。でもかなり情緒寄り。

後半は「ノゾミ」編です。
こちらはオーソドックスな心霊ホラーでして、目の前で死なせてしまった妹の霊に呪われちゃって、、、と見せかけて、、、、という静かな作品です。正直こちらは結構好きです。
実際には、こちらも演出的にかなり微妙な部分が多く、怖さはやっぱりありません。話自体も幽霊側から直接的にアタックを食らう類のものではなく、あくまでも「死んだはずの少女が見える」という部分のホラー要素だけです。後はいつもの音による脅かしです。ですが、こちらは思いっきり親子愛や姉妹愛に振ってきていますので普通に「良い話」な着地になっています。ちょっとクライマックス後のエピローグが長すぎたり、途中で唐突に登場するヘルパーの信子さんが無敵すぎていささか萎えるんですが、それも50分で収めようとしたら仕方がないのかなという気もします。新しい何かをしているわけでも無く決して出来の良い作品ではありませんが、楽しめる部分もある作品でした。

【まとめ】

さらっと流してしまいましたが、ホラー好きであればとりあえず見て損はないと思います。ホラーとして怖く無いのはかなり致命的ですが、面白みはある作品でした。
映画初主演となるハロプロの真野恵里菜さんも、大根ながら結構良いハマリ方をしていたと思います。今回は二本とも「おとなしい主人公が霊現象に巻き込まれる」話なため、とりあえず困った顔をしてればOKみたいな雑な演出部分も見られました。でも決して悪くはありませんでしたので是非ともキャリア積んで頑張っていただければと思います。
気付いたら篠崎誠監督作を一週間で二本見ているわけですが、ちょっと私とは相性悪いかもしれませんw プロデューサとしては良い企画を立てる人なんですが、監督としては演出が駄目駄目かなという印象です。

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記事の評価
BECK

BECK

本日はこっちが書きたい!

「BECK」です。

評価:(45/100点) – 桐谷健太に40点。佐藤健と忽那汐里に20点。堤に-15点。


【あらすじ】

田中幸雄は高校性にして人生に飽き始め、いじめに耐える無気力な生活を送っていた。ある日、下校途中にいじめられていた犬を助けたことから、犬の飼い主・南竜介と出会う。彼は犬を助けたお礼に幸雄にギターを教える。それから数ヶ月後、竜介は先輩にしてフリースタイルラッバーの千葉と、天才ベーシスト平と共にバンド・BECKを結成する。そこに幸雄と幸雄の友人・サクが合流し、新生BECKが誕生する。彼らはいつか大舞台に立つことを夢見てバンド活動に邁進していく、、、。

【四幕構成】

第1幕 -> 幸雄と竜介の出会い。
 ※第1ターニングポイント -> 幸雄がギターを竜介にもらう。
第2幕 -> 幸雄の練習。
 ※第2ターニングポイント -> 幸雄がBECKに入る。
第3幕 -> グレートフルサウンド・ロックフェスティバルへの道。
 ※第三ターニングポイント -> グレートフルサウンド出場が決まる。
第四幕 -> バンドの不和とグレートフルサウンド。


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【感想】

さて、本日2本目は「BECK」です。ご存じ超人気コミックスの映画化で、学生さん中心に物凄いお客さんが入っていました。監督は「20世紀少年」で悪評をほしいままにした(笑)堤幸彦。キャストに人気イケメン俳優どころを揃えた青春バンドストーリーです。
いきなりですが、結論めいた事を先に書いてしまいます。本作の俳優さんは水嶋ヒロを除いてほぼ完璧です。そして音作りも悪くありません。ストーリーは原作をなぞっていてこちらもそこまで問題はありません。全ての問題は、演出です。演出によって、根幹がボロボロです。俳優のファンの方と原作のファンの方は文句なく見に行って損はありませんので、是非行ってください。
と書いた所で、いつものお約束です。以後一部ネタバレを含みますので、堤幸彦の大ファンで彼の演出が好きで好きでしょうが無いというマゾっ気のある方はご遠慮ください。

堤幸彦、20世紀少年より学ぶも詰めを誤る。

本作を見た観客が間違いなく引っ掛かるポイントは「BECKの音」についてだと思います。
本作において「BECK」はフォークロック系のコユキとラッパーの千葉のツインボーカル・ラップメタル・バンドとして描かれます。この辺りは初期のリンキン・パークに近いメンバー構成です。その時点でこれは「ロック」かどうかという一晩掛けても終わらない問題がありますが、とりあえず脇に置きましょうw
何度も流れるBECKのつかみ曲「エヴォリューション」はほぼそのまんまレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの「Guerrilla Radio (1999)」です。フジ・ロックにも出てましたし、総合格闘技・PRIDEのTV放送でも使われていたので聞いたことがある人は多いと思います。オープニングがレッチリなのも詳しくない人の思いつくラップメタルの源流って感じでベタベタです。
とはいえ、この「エヴォリューション」に関しては個人的には嫌いではありません。あからさまに吹き替えで、あからさまに音圧で誤魔化している感はありますが、そこまで酷いクオリティだとは思いません。もっとも、本作での対立構図である「セルアウトvsクオリティ重視」「パブリシティ先行vs実力派」という流れの中では問題があります。というのも「エヴォリューション」が明らかにセルアウト系の音だからです。ハッキリ言うと「ラップメタル」というよりは「ヴィジュアル系歌謡曲」です。この曲に関しては、桐谷健太さんの仕草は完璧です。ほかのフリースタイルシーンは目を背けるほど恥ずかしいのですが、このエヴォリューションに関してはまったく問題ないどころか、すごく嵌っています。この曲は個人的にはプラスポイントです。
問題は当然コユキ側の演出です。
20世紀少年最終章でラストに唐沢寿明が歌う「Bob Lennon」が悶絶死する程はずかしい出来すぎて猛バッシングを食らったのは記憶に新しいところです。それが堤監督にはよほど堪えたのか、本作ではきっちりとその反省を活かして来ています。すなわち、「歌を観客の想像に委ねる」事です。この進歩は大変大きいです。堤監督、頭使えるんじゃない!!!
しかし、、、「歌を観客の想像に委ねる」ことに気付いたまでは良かったんですが、その演出が酷すぎて逆に安心してしまいますw いきなり全体がスローモーションになって、音もスローで観念的になり、そして謎のフラッシュバックでスピリチュアルな光景がコユキの顔や観客にサブリミナルで差しこまれるんです。あの~~~そういうことじゃないんだけどw 観客の想像に委ねるって言うのは、上手くシーンチェンジしたりして歌を巧妙に隠さないといけないんです。こんなあからさまに「コユキの声だけが聞こえない」という演出をされても失笑するしかありません。 そこは例えば観客の主観映像になるとか、いくらでもやり方はあるんです。なんでこんな不細工な演出にしてしまったのか理解に苦しみます。
この「コユキの歌が聞こえない」演出は劇中で何度も繰り返されます。「月を見ながら真帆と歌う」「ボーカルに立候補して竜介の家で歌う」「チッタでエディと共演で歌う」「ライブハウスで新曲披露」「ラストのフェスで歌う」。確かこの五回だったと思います。私はこれを見ている最中は「フック」だと思ってたんです。演出があまりに不細工だったため、これは引っ張るだけ引っ張ってラストのフェスでどかんと超絶クオリティのボーカル曲を(例え吹き替えでも)流すのだと思ったんです。
ところが結局最後までこの不細工な演出が続いて、OASISの「Don’t Look Back In Anger」に行ってしまうんです。
ちょっと話がずれますが、私、実は10年以上前から「Don’t Look Back In Anger」をカラオケの持ち歌にしてます。どういうことかというと、この曲はOASISが「音響ロック派」から「セルアウト派」に転向した直後の記念碑的な曲なんです。OASISがクオリティを捨ててヒットを狙うようになった際の代表曲です。だから超歌いやすい(苦笑)。加減が分からなかったのか、クオリティがガクッと下がって耳障りを良くしすぎたんですねw
ですから、これをBECKのエンディングに使うという決定をした人間は明らかに音楽が分かっていません。だって、本作のクライマックスは「クオリティの伴わない商業主義丸出しのベル・アームより、クオリティを追求したBECKが実力でファンを多く獲得する」というストーリーなんです。なのにそこで前述の「Don’t Look Back In Anger」を流してしまうと、これは話が逆転しちゃうわけです。OASISはクオリティの追求では世界一にはなれないと判断してポップスに転向したんです。でもBECKはそれを良しとせず、あくまでもクオリティの追求を目指すバンドのはずでしょう? そしてそこに奇跡が起きてクオリティと人気の両立が(一瞬とはいえ)達成されてしまうところが本作の肝なんです。それこそがBECKの歌う「世界が変わる音楽」なんです。だから「Don’t Look Back In Anger」では駄目なんです。

アイドル映画としてのBECK

上に書いた「コユキの歌を聞かせない」演出によって、はっきり言って「BECKを映画化する」意味は限りなくゼロになってしまっています。逆に言えば、BECKを映像化するのであれば、当然その音楽を説得力を持って聴かせる必要があったわけです。
ではそこが無くなった本作の存在意義とはなんでしょうか?
それは当然、旬のアイドル達を集めるというテレビ局的・広告代理店な目的です。
本作を見ると、間違いなく桐谷健太と中村蒼は評価が上がると思います。この2人は存在感と佇まいが完璧です。佐藤健も演技の幅が見えづらいですが純朴で内気なコユキの雰囲気が良く出せています。向井理はバンドで唯一の調停役としての振る舞いに十分に説得力があります。これもOKです。忽那汐里もキャラとしては弱いですが良い味だしています。当たり前ですが英語の発音は完璧。帰国子女としてのキャリアプロモーションとしても十分に機能しています。
問題は水嶋ヒロです。この人も帰国子女のはずなんですが英語の発音が訛っていてすごい聞き取りづらいです。そして演技が単調で竜介が直情型の馬鹿に見えてしまっています。おいしい役だけにもっと評価を上げないといけないんですが、ちょっと厳しい内容になりそうです。

【まとめ】

本作を「チームもの」としての側面でみると、桐谷健太と向井理を中心に良く纏まっていると思います。ですから俳優のファンの方は安心して見に行って下さい。ただし、バンド映画としては明らかに問題があります。20世紀少年とは違い原作自体が上手くまとまっていますから、普通に撮ればそれなりの出来になるのは保証されています。そのBECKをこの程度のレベルにしてしまったというのはやはりがっかりしてしまいます。とはいえ、悪いところも含めて語れる作品なのは間違いありません。迷っている方は間違いなく見に行った方が良いと断言します。原作のファンであれば演出が酷くてもギリギリなんとか許せるかも知れません。
迷わず行けよ 行けばわかるさ。オススメです!!!、、、、、、、、オススメか???

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