プリンセスと魔法のキス

プリンセスと魔法のキス

二本目は今日見た作品です。

「プリンセスと魔法のキス」

評価:(85/100点) – ディズニー・アニメ完全復活!!!


【あらすじ】

ニューオリンズで母親と住むティアナは、亡き父との夢であるレストランを持つために二つの仕事を掛け持ちしてお金を貯めていた。ある時ニューオリンズにマルドニアのナヴィーン王子がやってくるニュースが飛び交う。プリンセスになることを夢見るティアナの友人にして金持ちのシャーロットは、父に頼んで王子とのパーティーを計画する。そしてパーティーの夜、ティアナはシャーロットの部屋で一匹のカエルと出会う。カエルは自身をナヴィーン王子だと言い張り、魔法を解くためのキスの見返りに開業資金の提供を申し出る、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ティアナの半生と夢。
 ※第1ターニングポイント -> ティアナがカエルになる。
第2幕 -> 人間に戻る方法探し。
 ※第2ターニングポイント -> ティアナ一行がニューオリンズに戻る。
第3幕 -> 解決編。


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【感想】

本日公開と同時に見て参りましたのは「プリンセスと魔法のキス」です。昨年「カールじいさんの空飛ぶ家」の時にも書きましたが、本作はジョン・ラセター体制になったディズニーの非3DCGの長編アニメーション第一作目です。「ボルト」でまだまだ実力があることを証明したディズニー・アニメーション部門が満を持して送る待望の「トラディッショナル・アニメ(=デジタル手塗り/非3DCG)」です。
監督はジョン・マスカーとロン・クレメンツで、80年代後半から90年代初頭のディズニー黄金期の終盤を担ったゴールデンコンビです。2004年に両名ともディズニーを辞めていましたが、ジョン・ラセターの依頼により復活しました。この配置を見ても、ラセターの「ディズニー黄金期復興計画」への想いが伺えます。
公開初日ですが私の見た箱では3割ぐらいの入りでした。子供連れも数組で、どちらかというと男・女問わず一人で見に来ている人が多かったように思います。

物語について

話のベースは劇中でも登場するグリム童話「かえるの王子様」です。ディズニーがかつて得意としていた「有名な童話をディズニー調に書き換えて家族向けのハートウォーム・テーマに噛み砕く」という手法を踏襲していまして、まさしくディズニー・クラシックスにふさわしい内容です。
物語の部分は文句のつけようがありません。ある種の”道徳的問題”を背負ったティアナとナヴィーンが一連のドタバタを通じて「本当の愛」に気がつき成長する普遍的ストーリーです。道徳的問題と書きましたが、ティアナは「働き過ぎ」、ナヴィーンは「女ったらし」というだけで、別にそんなに大問題ではありません。しかしそこはディズニー、「本当の愛」のためならそんな小さな人間的ほころびすら許しません(笑。とはいえこんな優等生的で正論すぎるテーマでも、押しつけがましくすることなく綺麗にストーリーの盛り上がりと併せて発信出来ています。その違和感の無さ(少なさ)がディズニーの特徴であり、そしてこの作品の脚本の巧さでもあります。
物語で言いますと、終盤にある悲劇的事件が起きます。これは過去のディズニー・アニメには無かった(※あったかも)シーンですが、これをエピローグで綺麗に回収して見せます。もしかしたら彼の夢も叶ったのかな、、、とか勝手な事を思えるシーンでして、私は完全に号泣モードでした。
一点気になることがあるとしたら、最後の最後の場面です。王子に起こったある事件は説明があって納得出来るのですが、でもその論法だとティアナに起こった事についてはまったく説明できないんです。なんか勢いで持って行かれますが、ちょっと引っかかりました。

「アナスタシア」について

実は本作を見ている最中に、ものすごい既視感を覚えていました。最後のエンドロールで気付いたんですが、原因は「アナスタシア」だったんです。
皆さん1997年公開の「アナスタシア」という劇場アニメをご存じでしょうか?アナスタシアは20世紀フォックスの作った長編アニメ第一号でして、80年代のディズニーアニメを支えたドン・ブルースとゲイリー・ゴールドマンがディズニーを辞めた後で制作しました。「アナスタシア」の名前は出しませんでしたが、「カールじいさんの空飛ぶ家」の時にちょろっと書いた作品です。
(※ カールじいさんの空飛ぶ家はこちら https://qbei-cinefun.com/up/)

この「アナスタシア」はメグ・ライアンが主役の声を当ててましたが、吹き替え版では本作と同じくミュージカル女優の鈴木ほのかさんが演じています。さらには敵役が優男の魔術師でして手下の影を使って主役を追い詰めます。この辺のディティールがそっくりなんです。これはパクリという意味ではなくて今回の作品がそれだけ「80年代ディズニー・クラシックス」のテイストを出せているということです。「アナスタシア」は完全にディズニーアニメのルックスでありながら(作ってるのがディズニーの人なので当然ですが)、ディズニーの枷をはずれたことで少し「怖い事」「酷い事」を描けていたのが画期的でした。本作はその「酷い事」の部分も上手に取り込んでいます。なので、必ずしも子供向けというわけでは無く、大人でも十分に楽しめる内容になっています。

数少ないノイズの部分

と、ここまで絶賛モードなんですが、どうかと思う部分が一点だけあります。それが「劇中内の日本語訳」です。私の気付いたところだと、「お父さんがイラストの上に書く”ティアナのレストラン”」「新聞の見出し”王子が来るよ”」「ティアナの店の看板」が、それぞれ日本語表記になったり英語表記になったりします。特に「ティアナのレストラン」は結構酷くて、同じシーンでもティアナが手に持ってる時は日本語で、額に入れた瞬間に英語になったりします。おそらくディズニーなりの「ローカライズ」なんだと思いますが、はっきり言ってズサンです。やるなら全部のシーンできっちり日本語表記にするべきだし、やらないなら他のアメリカ映画と同様に縦の字幕を出せば良いだけです。中途ハンパ過ぎてものすっごい気になりました。
見出しだけ日本語で本文が英語のニューオリンズ新聞ってどうなんでしょう?(苦笑

【まとめ】

最後にちょっとノイズ部分を書きましたが、作品全体ではとても素晴らしい出来です。なにせミュージカル・パートが楽しいですし、特にワニのルイスは最高です。ルイスのぬいぐるみがあれば欲しいですもの。そのためだけにディズニー・ストアに行くぐらいのテンションです(笑。
率直に言いまして、本作をもってディズニーアニメが完全復活をしたと思って間違いないと思います。
作品単体として見ても、そして歴史を目撃するという意味でも、間違いなくオススメの作品です!!!
ラセターはまだ53歳なので、あと20年はディズニーの第三黄金期が続くのでしょうか。いまからどんな傑作を量産してくれるのか楽しみで仕方がありません。

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コララインとボタンの魔女

コララインとボタンの魔女

「コララインとボタンの魔女」を観てみました。

評価:(95/100点) – ヘンリー・セリックの狂気の職人芸


【あらすじ】

コララインは両親と共にピンク・パレス・アパートに引っ越してきた。両親に構ってもらえないコララインは、居間に壁紙で隠された小さなドアを発見する。その夜、小さなトビネズミを追ってそのドアをくぐると、そこには現実とうり二つの世界が広がっていた。しかもそちらの世界の両親はとても優しくコララインをもてなしてくれる。もう一つの世界はまさしく夢のようだった。ただ一つ、彼らの目がボタンであることを除けば、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> コララインが引っ越してくる。アンバーとの出会い。
 ※第1ターニングポイント -> コララインがもう一つの世界に行く
第2幕 -> もう一つの世界での楽しみ。
 ※第2ターニングポイント ->コララインがボタンの魔女と賭けをする。
第3幕 -> 解決編。


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【感想】

遅ればせながら、本日はコララインとボタンの魔女を見てきました。監督はご存じ「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」で有名なヘンリー・セリックです。ストップモーション・アニメ(=コマ撮りアニメ)の巨匠にして、ディズニーのファンタジアやバンビで有名なジュール・エンゲルの弟子筋に当たる御大です。
本作では「ナイトメア~」からさらに進化/深化した、狂気としか言いようのない程の精巧で緻密な人形コマ撮りを披露してくれます。そもそも、ストップモーション・アニメは一日気合いを入れてガッツリ撮影してようやく数秒の画が撮れるような世界です。
それをこの情報密度で100分間も突っ走るわけですから、もうただただ脱帽です。

物語の推進力

本作はそのストップモーションアニメの凄まじさもさることながら、それ以上に物語の語り口がとても良くできています。本作の様に登場人物が限られた作品の場合、もっとも難しいのは観客の興味を引っ張りながら物語の推進力を得ることです。そこで本作の場合には徹底してコララインを追い詰めていくことで実に上手く物語を進めていきます。
例えば序盤、コララインは両親から冷たく扱われることへの現実逃避としてもう一つの世界へ行きます。次はもう一つの世界で起こるある恐怖から逃げるために奔走します。あまり書くとネタバレになってしまいますが、さらに追加で2つの事件がコララインを襲います。要は映画100分間の内ほとんどで彼女は何かから逃げたり何かをやらざるを得ない状況に追い込まれています。それによって、観客も高いテンションを常に維持しながら画面に引き込まれ続けます。まったく気が休まるときがないですし、画面の情報量も物語の盛り上がりに比例してドンドン上がっていきます。

テーマ

さらに本作が圧倒的なのは、ホラー風味でかつ驚異的なルックスでありながらもテーマがとてもオーソドックスな教訓話だということです。「うまい話には罠がある」「家族は大切に」「変わり者のご近所さんでも実は良い人かも」。こんなに道徳的な話をこんなに怖く描ける人もそうそういないと思います。

【まとめ】

物語、画面構成、演出、全てが超一流レベルでまとまったとんでもない傑作です。アメリカで大ヒットした話は聞いていましたが、正直なところここまでは期待していませんでした。今年はのっけから高レベルな作品が目白押しでうれしい限りです。もし、子供向けアニメーションだと思って敬遠している方は、騙されたと思って是非見に行ってください。圧倒的な映像体験を確約します。
またストップモーションアニメと3D上映の親和性の高さも良く表れていました。ボタンの魔女が迫ってくる場面は本気で怖かったですし、なんか夢に出てきそうです。
もしかしたら早くも今年一番の作品かもと思いつつ、絶対にオススメな作品です!!!
一応最後に触れなければいけない点がありまして、それはGAGAで良くある吹き替え問題です。なにせオリジナルは天才・ダコタ・ファニングですよ。戸田恵子さんはまったく問題無いですが、やはり榮倉奈々と劇団ひとりをメイン級で使うのはどうかと思います。芸能人枠なら脇役でやってくださいよ、本当。でもそのノイズを差し引いても素晴らしい大傑作なのは間違いありません。

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涼宮ハルヒの消失

涼宮ハルヒの消失

ようやく原作で消失まで読み終わりました。ということで、満を持して

「涼宮ハルヒの消失」です。

評価:(85/100点) – 萌えアニメの皮を被った上質なヒューマノイドSF。


【あらすじ】

12月18日、もうすぐ終業式が来るクリスマスの準備も慌ただしい師走のただ中、キョンが目覚めると世界が変わっていた。
居ないはずのクラスメイトが居て、居るはずのクラスメイトが居ない世界。キョンは自分以外の全てが自然に生活する奇妙な世界に迷い込んだ。混乱の中で訪ねた文芸部室で彼は見知った長門有希を見つけるが性格は似てもにつかない。翌日、手詰まりながらも再び訪れた文芸部室で書棚の本を手に取ると、そこには元の世界の長門が残した手書きメッセージ付のしおりが挟まっていた。「プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限・二日後」。プログラムとは何か?そして鍵とは何か?
そしてキョンは元の世界に帰れるのだろうか?


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【感想】

満を持して「涼宮ハルヒの消失」です。原作未読の状態で二度見に行ったのですが、それは別に一度目で分からなかったからではありません。とにかく面白かったからです。
映画文法としてはイマイチなところもあるのですが、そんなアラは全て吹き飛ばすほどの圧倒的な展開と圧倒的なテンションで画面が迫ってきます。三時間近い上映時間ですが、まったくダレることなく二度ともあっという間でした。
サスペンス調なのでネタバレを控えようとも思ったのですが、どうせ見たい人は全員見てるだろうということでオチを含めて全開で書かせていただきたく思います。
この作品にはそれをするだけの価値があると思いますし、それは非常に偏愛を生みやすい作品だと言うことです。
なお、現在私は原作を六巻(涼宮ハルヒの動揺)まで読んだ状態でこの文章を書いています。

原作・涼宮ハルヒシリーズを読んで。

涼宮ハルヒ・シリーズは、傍若無人でツンデレで世界を再構築する能力を持った涼宮ハルヒ、どじっこ萌えキャラで未来から来た朝比奈みくる、無口で無表情なヒューマノイドの長門有希、優等生で少しイヤミな超能力者の古泉一樹、そして主人公のキョンを構成員とするサークル・SOS団を中心にしたドタバタコメディです。早い話が、非常にオタク的な要素を詰め込んだ典型的なキャラもの作品です。原作の熱狂的なファンには怒られるかも知れませんが、はっきり言ってオリジナルな要素はありません。涼宮ハルヒの機嫌が悪くなると世界が変質し涼宮ハルヒが願うとそれが実体化してしまうという、これ以上無いほど「セカイ系」のど真ん中です。
正直な話、原作を読んでいて特に「涼宮ハルヒの退屈」まではハッキリと微妙な感じでした。私自身が元々アニメオタクなので苦ではないんですが、一昔前のギャルゲーのテキストを読んでいる感じといいますか、ただただ類型的で没個性なキャラがワイワイやってるだけのどこにでもあるオタク向け文章という印象しかありませんでした。
ところが「涼宮ハルヒの消失」が面白いんです。今現在六巻までしか読んでいませんが、ここまでで唯一「萌えキャラ設定に頼らない正当な人間ドラマ」を描いています。実際、ここまで娯楽的なカタルシスを詰め込みつつもヒューマノイドの悲哀を描けている作品はなかなかありません。涼宮ハルヒというシリーズを無視してでも、作品単体で十分に評価されうる作品です。

物語の根幹・迷い込んだ異人の話

本作はキョンの独白から始まり、全編を通じて合間合間でキョンの独り言がナレーションで挟まり、ラストもキョンの独白で終わります。元々、涼宮ハルヒシリーズ自体の構造として「SOS団で唯一普通の人間」であるキョンは読み手の感情移入先として用意された器のような存在です。そして映画でも視聴者は完全にキョンの視点のみから世界を見せられます。これが非常に効果的に働いています。本作においてキョンは終盤まで「巻き込まれた善意の第三者」という立場を崩しません。唯一終盤の長門有希の台詞を除き、キョンが作中で得た情報は例外なく視聴者にも提示されます。これにより視聴者はキョンを利用して不思議な世界と時空修正中のタイムパラドックスのハラハラドキドキに完全に同調することが出来ます。非常に丁寧な作りで、上手く感情移入させています。
実はこのナレーションの時制がおかしいという問題はあるのですが、それも作品の勢いに圧されてそこまで気になりません。
不思議な世界に迷い込んだキョンの行動も非常に理にかなっています。目立ったご都合主義的強引さも無く、非常にスムーズにタイムリミットが迫り、そして嵐のように傍若無人なハルヒによってあっという間に問題が”勝手に”解決します。それもそのはずで、キョンは本当に普通の無力な人間なんです。なので問題を解決するような超人的活躍は一切しません。彼は終始オドオドしているだけで実質的にはたいしたことは何にもやっていません。でも、だからこそ視聴者は感情移入できるわけです。あくまでもこれは一般人が巻き込まれて体験してしまった不思議な世界を描いた作品です。

長門有希とタイムパラドックス

そして本作を私が気に入った一番の理由は、この長門有希の存在です。彼女を通してヒューマノイドの悲哀がシンプルに描かれます。
本作では、非常に独特な人生観・世界観がまかり通っています。それは未来至上主義と言っても良いほど、「予定調和」を大事にする世界です。本作には朝比奈さんが居てタイムトラベルが可能です。そこで未来で何かが起こっていると言う事それ自体が、「必須イベント・ノルマ」として過去に求められます。例えば、本作では最初からハッピーエンドに終わることは分かっているわけです。なぜなら、未来から朝比奈さんが来ているからです。これがすなわち「未来が存在する」ことの証明になり、「世界が終わらないこと」の証明になっています。長門も三年後に自身が暴走する未来を知っておきながら、そのイベントを起こすために振る舞います。すでに未来というのが決定していて、それに向かって行動をしていくだけという何とも地獄のような世界観です。しかしそんな世界観の中で、長門は「感情らしきバグ」を発現させます。これも予定調和の一つではあるんですが、それを十分に理解した上で「予定調和」として受け入れる長門の姿に「ヒューマノイドは心を持ちうるのか」というありがちな問題提起がすんなりと回答されます。
心を持つかも知れないが、その心ですら一種の計算結果であり予定調和であるという発想。この世界には人間に自由意志がほとんどありません。終盤にキョンが変革後の世界と変革前の世界のどちらを選択するかで葛藤するシーンがありますが、それですらこの世界観の中では予定調和なのです。「全てが起こるべくして起きている。」という冷たい舞台の中で、それでも自由意志のような物を見せるキョンの姿が、そのまま「心を持ってバグってしまった長門有希」の姿と重なります。
2人とも定められた枠組みの中で必死にもがいているわけです。でもその”もがき”ですらこの世界では「予定されたイベント」になってしまいます。
タイムパラドックスの論法をそのまま世界観にまでシフトさせてしまった作者の発想にはただただ脱帽します。
巨大な運命に対して無力と分かっていながらもがいて自己証明をしようとする人間達が図らずも描かれているわけです。
これが本作をただの「キャラもの作品」ではない一級品のSFにしています。

【まとめ】

最後になりましたが、本作では大きく二カ所が原作から変更されています。一カ所は、変革後の世界でハルヒ・古泉・キョンが東中に入り込むシーン。もう一カ所はラストのキョンと長門の会話シーンです。前者はキョンが教室と外を往復する場面をカットして話のテンポをスムーズにしています。後者はおそらく雪が降るシークエンスをやりたいためだけに屋上に舞台を移しています。両場面とも変更した効果は十分に出ていると思いますし、監督および脚本家の方が十分に原作を租借している様が全編から伝わってきます。
実は私は原作の「涼宮ハルヒの消失」以外はそこまで好きではありません。というのもあまり読み返す気が起きないほど内容が薄く、萌えキャラものに偏重しているからです。しかし、少なくとも「涼宮ハルヒの消失」は傑作ですし、映画も大変面白くできています。なにせシリーズ未読の私がリピートするほどでした。是非シリーズ未読の方も劇場に足を運んでみてください。
「アイ、ロボット」を見るぐらいなら、本作を見る方が何倍もヒューマノイドに心揺らされることでしょう。
日本のアニメ映画に抵抗が少ない方であれば、全力でオススメいたします。

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Fate / stay night UNLIMITED BLADE WORKS

Fate / stay night UNLIMITED BLADE WORKS

本日の2本目は

Fate / stay night UNLIMITED BLADE WORKS」です。

評価:(2/100点) – これはどうしたものか、、、。


【あらすじ】

冬木市では数年に一度、7人の魔術師(マスター)が使い魔(サーヴァント)を召還して殺し合う聖杯戦争が行われていた。
衛宮士郎は放課後の学校でランサーとアーチャーが殺し合う場面を目撃してしまう。目撃者としてランサーに口封じされそうになった士郎は、自覚の無いままにサーヴァント・セイバーを召還、マスターとして第5次聖杯戦争に参加することとなる、、、。


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【感想】

はじめに

え~、、、まずは恒例の言い訳から(笑)。
一応ですね、、、予習として昔のPCゲームを引っ張り出してきてやり直しましたし、「Fate/Zero」という同人ラノベもアニメイトで買ってきて読みました(←これ値段高すぎ。でも面白かったです)。このシリーズに熱心なファンの方々がたくさんついてるのも理解しています。
今回は書く内容が長くなると思いますが、一応シリーズ初見ではなく、そして信者というほどのめり込んでもいない映画好きの戯言です。もし万が一「Fateシリーズ」が大好きでこの映画に100%満足できた方がいるとするならば、それは非常に貴重で大切なことです。私も仕事柄そういう方々には大変助けられていますので。是非その想いを大事にしていただいて私のような訳のわからん若造の戯れ言なんぞ気にせずに絶賛してDVDやBDの初回限定版を一人三個ずつ買っていただければと思います。そんなあなた方のおかげで日本のコンテンツ業界は回っています。
とまぁ言い訳を書いておいて、さらにお約束の注意をば書かせていただきます。
今回、冒頭の点数を見ていただくと分かるように酷評致します。そして以下ネタバレを大量に含みます。さすがに5年前のゲームにネタバレもないとは思いますが、もし本作を楽しみで楽しみでしょうが無い「Fate/stay night」未プレイの方がいましたら直ちにブラウザを閉じてください。
そんなこんなでセーフガードを大量に貼りつつ(苦笑)、本論へと行きます。

本作の立ち位置の確認

本作は2004年に成人向けサウンドノベルゲームとして発売された「Fate/stay night」内の「UNLIMITED BLADE WORKS(=遠坂凛ルート)」を映像化/映画化したものです。非常に忠実に映像化されています。ですので、ゲームの熱狂的なファンの方にとっては「あの名場面が映画館で見られる!」というような位置で語られるような作品です。ということは、いうなれば昨年の「ROOKIES -卒業-」と同種です。作り手側が特定の層のみをターゲットにして、その中でいかに観客一人あたりの収益率を上げるかに特化した作品ということです。なのでゲームの「Fate/stay night」が大好きな人が満足して何度も劇場に入ってグッズやDVDやBDを買ってくれるならば、商業的狙いは成功です。もしかすると、映画として評価すること自体が的外れなのかも知れません。もっというと「映画という収益システムを使っているだけで、これは映画ではない」と開き直られる恐れもあります。
これから書くことは「曲がれ!スプーン」にもあった「別のメディアの作品をそのまま映像化して映画とする問題」に帰着します。ゲームでは問題の無かったものでも、それをそのまま劇場に持ってくるとどうしようも無い駄作になるという構図そのものです。

ストーリー上の問題点

本作の一番の問題点は脚本です。脚本家さんがよくエンドロールで名前を隠さなかったと拍手を送りたい程です。「アマルフィ 女神の報酬」はみんな逃げたのに(苦笑)。とにかくストーリーの構成がメチャクチャでまったく映画の体をなしていません。
いわゆるアート系映画以外には、必ず主題が存在します。そしてその主題に向かって90分なり120分なりで主人公が突き進んでいきます。それが物語(ストーリー・テリング)です。さて、本作の主題は何でしょう?
すでに観た方ならばこれは自明です。すなわち「主人公・衛宮士郎が自分自身(の行く末であるアーチャー)と向かい合うことで葛藤し成長する話」。これです。
では本作の構成はどうなっているでしょう。
作品の前半部はほとんど主題と関係ありません。これは元々のゲームの性質上の問題です。元のゲームは選択肢でストーリーが分岐していくため、ストーリーの前半部分については後からどうとでもなるような内容しか語れません。これを映画にそのまま持ってくると前半で延々と蛇足のような当たり障りのない話を見せられることになります。この時点で白けます。
さらにまずいのは、テーマ上のクライマックスであるはずの「自分自身と向き合う葛藤・対アーチャー戦」が終わった後、まったく関係無いギルガメッシュ戦を見せられる点です。無関係とは言っても、一応、士郎が自分にアーチャーと同じ能力があると気づいて「UNLIMITED BLADE WORKS」を発動するシーンはあります。ただしこれは成長にはなっていません。あくまでも「自分がアーチャーになる可能性があると自覚した」という場面であり、「自分の考えの破滅性を受け入れた」という表現です。さらにはギルガメッシュがラスボスとして登場する必然性が無いのも問題です。
本来ならばアーチャー戦で文字通り自分自身に打ち勝ってテーマを消化しなければいけません。でも作品上のクライマックスは、演出の仕方でも分かるようにギルガメッシュ戦での「UNLIMITED BLADE WORKS」を発動する場面になってしまっています。つまりクライマックスがずれてしまっているんです。これは「ゼロの焦点」にもあった症状です。そのため最後のギルガメッシュ戦が完全に蛇足になってしまいました。
結局の所、本作のストーリー上の問題は「整理不足」という言葉に要約できます。きちんと「主人公・衛宮士郎が自分自身と向かい合うことで葛藤し成長する話」にするのであれば、前半でアーチャーとの共闘と確執を描き第1ターニングポイントで決裂、中盤でアーチャーと士郎の対立を通してお互いの主張を明文化した上で残るサーヴァント達を一掃、クライマックスで聖杯を巡ってアーチャーがラスボスとして士郎と決闘するべきです。
ゲームをそのまま映画にしてしまったために話がグチャグチャになってテーマがボケボケです。映画にするのであればきちんと映画の文法で書き直す必要がありました。この部分については映画の長さは関係ありません。この手の映画でありがちな「原作を100分にまとめるためにダイジェストみたいになって話が難しくなった。三部作でやればもっと楽しめたのに。」というフォローは残念ながら本作には適用できません。いくら枝葉を詳しくしても構造上の問題は変わらないからです。むしろ100分で語りきるためにテーマを絞るべきです。極端な話、イリヤや慎二や綺礼はテーマには関係無いので出番を全部カットしても良いくらいです。

演出面について

ストーリーの壊滅的な状況と違い、アニメーションはとても良くできていると思います。良い動きをしていますし画面構成も結構きちんとしています。ですので、動きをみるアニメ映画としてはそこそこ楽しめます。しかし演出は本当に酷く、全部台詞で説明してくれるのでラジオドラマで十分なのではないかと思う程です。これは原作者の特徴でもあるのですが登場人物がみんな文語調で会話をします。そんなウザい人間は現実には居ません。さらにはアジテーションまで文語調なので、うっとうしい「中2病」に見えます。「格好つけようとしたら物凄くダサくなった」という目も当てられないシーンの連続です。これは村上春樹の”直訳調文体”を映像化する際に陥っている問題と同種です。そのまま映画に持ってきては通用しません。その雰囲気をいかに映像に置き換えるかが演出家の腕の見せ所です。
驚くことに、後半でついに画面に文字を置いてサウンドノベルそのままの演出がなされます。これにはあまりにも投げやりすぎて呆れかえってしまいました。それならば、画面にゲームのスクリーンキャプチャをそのまま100分流してた方が良かったのではないでしょうか?

【まとめ】

残念ですが、映画としてはあまりにも酷すぎます。ストーリーも演出も、ちょっと他作品とは比べようもないレベルです。
しかし冒頭にも書いたように、本作を映画として評価することに意味は無いかも知れません。ただ、それならそれでOVAでやって欲しかったです。終わった後の満員の劇場では少なくともあまりハッピーな雰囲気ではありませんでした。20世紀少年最終章の時と同じような「観なかったことにしよう」という感じで、ただただどんよりとしていました。
「ファンだからこそこの出来は許せない」となるのか「原作に忠実にやってくれてありがとう」となるかは、観た方の判断次第です。でも、ファンであれば観に行くに越したことはありません。原作ファン限定でオススメします。

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ティンカー・ベルと月の石

ティンカー・ベルと月の石

うってかわって2作目は「ティンカー・ベルと月の石」です。

評価:(80/100点) – 子供向けと侮る無かれ。堂々たる傑作!

【三幕構成】

第1幕 -> ティンカー・ベルが“聖なる杖”を制作する大役を任される。
 ※第1ターニングポイント -> ティンカー・ベルが月の石を割ってしまう。
第2幕 -> インカンタの魔法の鏡を探す冒険
 ※第2ターニングポイント -> 魔法の鏡を手に入れる
第3幕 -> テレンスとの仲直りと秋の祭典


【あらすじ】

「物作りの妖精」ティンカー・ベルはフェアリー・メアリーの推薦で、秋の祭典用の聖なる杖を制作する大役を任される。秋の祭典は、8年に1度昇る「青い月」の光を杖の先の「月の石」に当てることで青い妖精の粉を生みひいては妖精達を生む大事な儀式である。ところがひょんなことからテレンスと大喧嘩したティンカー・ベルは、癇癪を爆発させた際の事故で月の石を割ってしまう。月の石は大変貴重な石で、簡単には手に入らない。そこで彼女は、願いの叶う伝説の「インカンタの魔法の鏡」を使って月の石を直す事を決意する。こうして魔法の鏡を求めるティンカー・ベルの冒険が始まった、、、。


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【感想】

素晴らしい。素晴らしいの一言に尽きます。わずか90分で道徳的でシンプルなテーマを完璧に語りきっています。是非とも文部科学省推薦で小学校低学年の道徳の授業に見せるべきです。お子さんをお持ちの親御さんは是非子連れで見に行ってください。正直に言って期待を大幅に上回る出来です。ディズニーはジョン・ラセターによって本格的に復活したのかも知れません。
あまりの出来の良さにちょっと興奮気味です。
話の構成は至ってシンプルです。「友達と喧嘩した女の子が一人で困難に立ち向かうが失敗し、友達の大切さを知って仲直りをする。二人で協力した結果、困難を乗り越え大成功を収める」。
超が付くほどベタで道徳的な話です。でも説教臭さが全然ないのです。アクションあり笑いあり冒険あり。そして根幹には道徳的なストーリー。「子供向けアニメとはかくあるべし」という鉄則を完璧に超ハイレベルで実践しています。大変よくできた子供向けファミリーエンタメ映画ですので、見終わった後に考えさせられるとか余韻に浸るとかいったことはありません。評価80点としてのはあくまでも映画として見たときにまだ上があるというだけの意味ですので、子供向けファミリー映画として見れば文句なしに100点満点です。脚本も一切無駄がありませんし、人物配置も完璧です。ただただ脱帽します。ディズニー・アニメもやれば出来るじゃない!というかジョン・ラセター凄すぎ。貫禄の安定感です。

【まとめ】

本作を「どうせ子供向けのアニメでしょ」と思って侮ってはいけません。ここまで基本を完璧にこなしている劇映画はそうそうありません。お子さん連れに限らず、カップルでも友達同士でもお一人でも、是非見に行ってください。間違いなく2009年のトップ10に入れるレベルの傑作です。超おすすめです!

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記事の評価
レイトン教授と永遠の歌姫

レイトン教授と永遠の歌姫

久々の映画は「レイトン教授と永遠の歌姫」です。

評価:(20/100点) – 子供騙しなのに劇場に子供がいないっていう、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> レイトン教授とルーク少年の日常、またはジェニスから手紙が届く。
 ※第1ターニングポイント -> クラウン・ペトーネ劇場でゲームが始まる
第2幕 -> 永遠の命を巡るゲーム大会
 ※第2ターニングポイント -> レイトン教授が別行動を取る
第3幕 -> デスコールとの対決とアンブロシア王国の復活


【あらすじ】

ある日大学教授のレイトンはかつての教え子にしてオペラ歌手のジェニスから一通の手紙を受け取る。その手紙は一年前に死んだ友人のミリーナが子供の姿でよみがえったという相談であった。レイトンと助手のルーク少年はジェニスに会うためにクラウン・ペトーネ劇場のオペラへと出かけていった。しかしオペラ終了後、劇場では「勝者は永遠の命を手に入れ、敗者は命を奪われる」というゼロサムゲームが始まってしまった、、、。


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【感想】

はじめに

まず言い訳からはじめさせてくださいw
というのも正直な話、別にこの映画見る気が無かったんです。たまたまアバターまで時間が空いちゃいまして、せっかくだからとスケジュール見てたらたまたま都合の良い時間だったと、、、それだけのことです。このシリーズのゲームはやったことがありませんし、事前知識は劇場のパンフレットが全てです。ファンの方には大変申し訳ありませんが、あくまでも門外漢がパッと見たらイマイチだったと、、、その程度に捉えてください。

大枠について

冒頭でいきなり手厳しいことを書きますが、要はよくある子供騙しの冬休み映画です。なのに大きなお友達しかいないていう、、、マーケティング的には大丈夫なんでしょうか?
「英国紳士」が口癖で謎解きが大好き、シルクハットにスーツで助手を連れていてちょいニヒルというキャラターは、そのまんまシャーロック・ホームズで良いと思います。子供の助手を連れているという意味では、それこそ大正・昭和初期の少年探偵団とか明智小五郎シリーズに通じる子供向け探偵物のお約束です。そしておとぎ話に出てくる「不老不死の薬をもった伝説の国」を巡るアドベンチャーと”どうかと思うほど適当な”ナゾナゾの数々。ライバルとして出てくるデスコールの仮面舞踏会的な格好(=セーラームーンのタキシード仮面に通じるセンス)。レイトンの助手一号のレミ女史が格闘が出来るという、コナンの毛利蘭以来のお約束。かように画面内の全ての要素がどこかで見たことがあるお約束で占められています。別にパクリとかパロディとか言うつもりはありませんで、要は大人が企画会議を繰り返して出てくる「子供が喜ぶ要素の集合知」ということです。そういった意味ではよくぞここまで突っ込んだという「強引なコラージュ感」が結構面白かったりします。
ただですね、、、劇場に子供がいないんですよ。日曜の昼間でしかも冬休みなんて一番子供連れが入りそうじゃないですか?どっか連れてくのも面倒になったお父さんが近場の映画館で子供と見るにはなかなかの作品だと思います。もしかして皆さん「カールじいさん~」や「ウルトラ~」に行っちゃってるんでしょうか?
実際にこの手の映画を見る場合は子供が劇場内に居るのってかなり重要なんです。子供が驚いたり喜んだりするのを見てこちらも納得したり、そういうポイントが分かるのって子供向け映画を劇場で見る醍醐味だったりします。でも居ない、、、本当に大きなお友達ばっかりなんです。ばっかりっていっても150人のキャパで観客10人ぐらいでしたので、もうみんな見ちゃったのかも知れません。そんな中ですと、ただただショボくて飽きてきてしまってポップコーンを食べる手が倍速になってしまいますw
たぶんアイデアは悪く無いと思います。少なくともゼロサムゲームをきっちり描いてくれれば、それこそ「KR-13」的なソリッド・シチュエーション・スリラーとしてカルトな人気が出たかも知れません。でも、やっぱり子供向けなので、人は死にませんし、別にどうと言うことはありません。特に、チェルミー警部がサメだらけの海の中を泳いで逃げるシーンのコミカルさを考えると、たぶんこの世界では車にひかれても「ペチャンコになってヘナヘナヘナ」みたいな描写で終わったり、大爆発に巻き込まれても「頭がアフロになって顔がすすける」程度のレベルで済んでしまうと思います。それが冒頭で分かってしまうので、後半に小型ヘリでレイトンが巨大ロボットに立ち向かうシーンも別にハラハラドキドキ出来ません。「どうせ墜落したって死なないでしょ」って思ってしまうんです。その辺の「世間スレした感性(笑)」を持っている人はたぶんこの映画には向いていません。あくまでも子供が見たときに「格好良い~」「イェ~イ!!!」みたいなテンションになるように画面・物語が設計されていますから。

「子供向け」と「子供騙し」

非常にデリケートな話題なのですが、「子供向け」と「子供騙し」には明らかに乖離があります。「子供向け」というのはあくまでも子供の感性や子供の知識力の中でエンターテインメイントを成立させているものへの呼称で、「子供騙し」は明らかに子供を侮って手を抜いている場合の呼称です。そういった意味で本作は残念ですが子供騙しになってしまっています。
子供が好きな要素を詰め込むのは良いのですが、それが非常に恣意的なせいでちょっと舐められてる感じがしてしまいます。作り手側が子供の目線まで降りておらず、すっごい上の方の大人目線で「こんなもんでしょ」って放り出されているような感覚です。その一番の理由は序盤の謎解きゲームに対する不誠実さです。
序盤の謎解きゲームは観客も一緒に頭を使って考えられないと意味が無いのですが、観客への情報提供が不十分なために成立していません。本来ならこちら(子供の観客)が考えてギリギリ分からないナゾナゾを解いてこそ「レイトン教授は分かるんだスゴ~い!」となるわけです。ところがナゾナゾを解くための材料が提示されないために、画面内で後出しじゃんけんをしているようにしか見えずに他人事になってしまいます。これだとレイトンの凄さが伝わりませんので、必然的にルークへの感情移入も出来ません。
物語の根幹は非常にハードコアなサイコ・スリラーなのに、あまりにも子供騙し要素を詰め込みすぎて、ただショボくなってしまっています。大変もったいないです。

【まとめ】

ただただ惜しいです。下手なファンタジー要素や子供狙いを詰め込まずに、「マッドサイエンティストvs大学教授のアドベンチャー」にテーマを絞ればとっても面白かったはずです。だって話のプロット自体は「インディ・ジョーンズの新作ですw」って言われても何の違和感もないほど良いんです。しかもどうせ子供が見に来てないんですから(←失礼)これは本当にもったいない話です。是非、デスコール関連をばっさりカットして実写リメイクして欲しいですね。船の中だけで完結すれば良いんですよ。
一週間の船旅でゼロサムゲームをやって勝者には永遠の命を授ける。最初は派閥に分かれる参加者だったが、裏切り者が仲間を罠にはめたことで疑心暗鬼になっていく。極限状態の中でついには殺人事件が起きてしまう。レイトン教授と助手のルークは一癖も二癖もある参加者たちから犯人を捜すことは出来るのか?そもそも不老不死の秘薬は存在するのか?そして主催者の意図は?なぜ死んだはずのミリーナがよみがえったのか?、、、、レイトン教授は生き残ることが出来るのか?
これで良いと思うんですけど、、、。
実写化のあかつきには、是非、井口昇監督でお願いします!!!そしたら間違いなく初日に見に行きますよ。シアターNかシネパトスの単館上映でしょうけどw

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カールじいさんの空飛ぶ家

カールじいさんの空飛ぶ家

「カールじいさんの空飛ぶ家」を見てきました。
3Dで見るか迷いましたが、最初なんで2D字幕にしました。

評価:(90/100点) – 号泣でございます。本当にすみません。


【あらすじ】

冒険好きの少年カールは「スピリッツ・オブ・アドヴェンチャー」号の冒険家チャールズ・F・マンツに憧れていた。カールは同じく冒険好きの少女・エリーと恋をする。彼女の夢は、マンツが行ったという「楽園の滝(Paradise Falls)」の上に家を建てて暮らす事だった。結婚したカールは動物園の風船売りとして子供がいないながらも日々を幸せに暮らしていく。しかし、エリーに先立たれて状況が一変する。地上げ屋に難癖をつけられる形で、彼はエリーとの思い出が詰まった家を離れ老人ホームに入らねばならなくなってしまった。老人ホーム入居の朝、カールは家にたくさんの風船を付けて空の冒険に出ることにした。目的地はマンツが行った「楽園の滝」。亡きエリーを連れて行くと約束した夢の場所だった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> カールとエリーの出会いと結婚。そしてエリーの死。
 ※第1ターニングポイント -> カールが旅に出る。
第2幕 -> 楽園の滝への冒険。マンツとの出会い。
 ※第2ターニングポイント -> カールと家が楽園の滝にたどり着く。
第3幕 -> ケヴィンの奪還。


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【感想】

まず最初に言わなければならないことがあります。この年末になって今年のトップ5クラスの映画が出てくるとは正直思っていませんでした。最高です!!!本気で号泣すること2回。ヤバイっす。マジでヤバイっす。今回は様子見で2D版を見ましたが、たぶん3D版も近日中に行きます。本作は幸いなことに3Dかつ字幕の映画館がクリスマスキャロルより増えています。これは大変喜ばしいことです。今後の作品も是非、3D字幕をやっていただければと思います。
本作はごちゃごちゃ言わなくても、素晴らしいストーリーと素晴らしいCGでもう文句なくオススメです!!!
ただ、ブログでピクサー作品を扱うのは初めてですし、せっかくなんでディズニー周りについて考えてみたいと思います。

アシュマンとピクサーとジョン・ラセターとディズニー復活について

ディズニーといえば、ミッキーを筆頭とするアニメーション映画が有名です。私の子供の頃には「宝島」とか「メリー・ポピンズ」とか実写も良く見ましたが、やっぱり柱はアニメーションです。
ここではディズニーのアニメーションの歴史と現状をざっくりと確認したいと思います。

ディズニーは1937年に初の長編アニメ「白雪姫」を世に出して以降、おとぎ話や有名な児童書を次々と映画化してアニメ界の頂点に長いこと君臨しました。しかし1973年の「くまのプーさん」以降は暗黒期に突入します。実写映画でなんとか食いつないでいたディズニーを救ったのは脚本・作詞家のハワード・アシュマンと作曲家アラン・メンケンのコンビでした。この2人によりミュージカル要素を取り入れたディズニーアニメは80年代中盤から再び黄金期を迎えます。
ところが1992年、「アラジン」制作中に41歳の早さでアシュマンが亡くなってしまいます。これだけでもディズニーアニメには大打撃だったのですが、その後決定的な出来事が起こります。70年代~80年代のディズニーを支えた名アニメーターのドン・ブルースとゲイリー・ゴールドマンが20世紀フォックスの出資を受けて対ディズニーで本格的にアニメ映画制作に取り組み始めます。これに同調する形でディズニーのスタッフ達が離脱、ディズニーのアニメ部門は内部崩壊してしまいます。
さらにこれを機にディズニーは既存作品のスピンオフをビデオスルー(映画館でやらない作品)で制作し始めて、崩壊が決定的となります。新しい作品を作れる人がいないから既存のブランドで食べて行こうとした結果、ブランド力がなくなっちゃった訳です。当時ディズニーのCEOだったマイケル・アイズナーの完全に失策でした。こちらのディズニー作品リスト(wikipedia)を見ていただくと分かるように、アラジン以降は本当に悲惨です。
ディズニーに影響を受けた手塚治虫のジャングル大帝をパクリ返した「ライオン・キング」、アメリカ先住民のどうでもいい恋愛を描いた「ポカホンタス」。この辺りまではまだ知名度がありましたが、「ノートルダムの鐘」「ヘラクレス」「ムーラン」「ターザン」なんかは知名度も落ちてますし、見た人も少ないと思います。その一方で「美女と野獣3:ベルのファンタジーワールド」みたいな誰も喜ばないビデオを作ったりしてまして相当にグダグダだったんです。
そういった危機的な状況の中でディズニーを支えたのが、ジョン・ラセターを中心とするピクサー・アニメーション・スタジオです。ピクサーは元々コンピュータ機器の製造・販売会社です。1986年にアップル・コンピュータのカリスマ・スティーブ=ジョブスが買収・CEO就任以降、新規事業として3DCGの制作請負を始めました。
そして1991年にディズニーと3本の劇場用長編作品の制作契約を結びます。4年間の長期制作期間を経て1995年、低迷するディズニーからピクサースタジオ第1作目が公開されます。これが大ヒットとなった「トイ・ストーリー」です。1995年の興行収入第1位となった同作で、ディズニーはピクサーとの長期契約を決めます。以降はヒット作を連発、そのハイレベルな作品と手堅い興行収入により、監督・総制作のジョン・ラセターはアニメ界にその名を轟かせます
しかし2004年、ディズニー以外の可能性を探るピクサーとドル箱を離せないディズニーの間で一触即発の契約抗争が起きます。ピクサーとしては別に配給がディズニーじゃなくても良いわけですが、一方のディズニーはほとんどピクサーに食べさせてもらってる状況だったため何としても引き留めねばなりません。そんなこんなで2006年、ディズニーはピクサーを買収します。
実はこの買収について、多くの映画評論家・アニメ評論家が誤解しています。この買収は面白いことに、買収したディズニーよりも買収されたピクサーの方が立場が上なんです。現にピクサーとの契約抗争の責任を取って、アニメ低迷の原因を作ったCEO・アイズナーは2005年に任期満了目前で引責退任し、株主総会ではピクサーとの関係修復議案まで飛び出ました。2006年5月のピクサー買収直後、ジョン・ラセターはディズニーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーに就任します。横文字で分かりにくいですが、日本風に言えば「アニメーション部門 制作統括本部長」でして、要はアニメ部門で社長の直下、一番偉い人です
つまりピクサーの柱で今やディズニー子会社の一社員となったジョン・ラセターは、ついに本丸ディズニー・アニメの船長も任された訳です。ということで、ラセターは名実共にディズニー・アニメの大黒柱となりました。イメージ的にはディズニーがラセターに泣きついたような状況です。これはすごいことです。何せ社員を一人獲得するのに社長が辞任させられちゃうんですから。
そして、ついに来年3月にラセター体制になって復活した初の長編フルアニメーション映画「プリンセスと魔法のキス」が公開されます。これはもう公開初日に見に行くしかないわけですよ!
だって1992年にアシュマンが亡くなって以降まともな長編アニメは作られてないわけです。ディズニーも公式には「5年ぶりの長編アニメ復活」と言ってますが、はっきりいって「18年ぶりの”まともな”長編アニメ復活」です。ラセターの実力とやる気がハンパじゃないのは、「WALL・E」「ボルト」「カールじいさんの空飛ぶ家」と立て続けに3本も傑作を送り出したことからも明らかです。
現代のカリスマ・ジョン=ラセターを獲得したディズニーが再び黄金期を作れるのか?「プリンセスと魔法のキス」はその試金石となる作品です。ということで、今からワクワクしながら待ちわびています。
あ、、、、「カールじいさんの空飛ぶ家」と関係無い長文を書いている、、、、すみません。

【まとめ】

細かいことは良いので、是非映画館に行ってください。悪いこと言わないですから行った方が良いです。大人も子供も楽しめる、笑いあり涙ありの大傑作です。
文句なしで、冬休み、ご家族で一本行くならこの映画です!!!
さすがにイングロリアス・バスターズとかアバターとかパブリック・エネミーとか家族で見られないですからね(苦笑)。

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劇場版 マクロスF 虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~

劇場版 マクロスF 虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~

劇場版マクロスF 虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~」をレイトショーで見てきました。
お盆のサマーウォーズ以来のアニメ映画です。

評価:(60/100点) – 3DCGは素晴らしいがドラマパートに難あり。


【あらすじ】

西暦2059年、第25次新マクロス級超長距離移民船団マクロス・フロンティアは、1,000万人規模もの居住民を乗せて銀河の中心を目指す航海をしていた。ある日、近隣宙域を航行中の第21次新マクロス級移民船団マクロス・ギャラクシーより、トップアイドル・シェリル=ノームがコンサートツアーのため来訪する。しかしコンサート中に巨大生物バジュラがマクロス・フロンティアに襲いかかってくる。アクロバット飛行要員としてコンサートに参加していた早乙女アルトは、混乱の中でシェリルと知人のランカ・リーを助けるために可変ロボットVF-25に乗りバジュラを迎え撃つ。この事件をきっかけにシェリルと親交を深めるアルトであったが、シェリルにはスパイ容疑がかけられていた。そんな状況の中マクロス・ギャラクシーがバジュラの大群に襲われる。ギャラクシーのSOS信号を無視するフロンティア政府を尻目に、シェリルは自己資金で民間軍事サービス・S.M.S.を雇いギャラクシーへ派遣、残存艦の救助を命じた、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> シェリルのコンサート
 ※第1ターニングポイント -> マクロス・フロンティアがバジュラに襲われる
第2幕 -> アルトとシェリルの交流
 ※第2ターニングポイント -> マクロス・ギャラクシーがバジュラに襲われる
第3幕 -> S.M.Sのギャラクシー救助作戦とフロンティアでの戦い


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【感想】

私は学生時代にものすごい分量のアニメを見てまして、70年代・80年代のクラシック作品も体系立てて見まくっておりました。ところが大学在学中に急に飽きまして、というか正確には萌えアニメの氾濫と作品レベルの低下に嫌気がさしまして、全く見なくなってしまいました。その代わりに映画の比重が上がりまして、いまでは年間三〇〇本とか映画館で見る映画ジャンキーになっております。とはいえアニメが嫌いなわけではなく、話題になった作品については後からレンタルDVDで追いかけています。
そんなこんなでマクロスFについても当然追いかけていました。TV版を見た感想は「イビつな作品だな」という物です。もともとマクロス・シリーズ自体が「男の子の好きな物はアイドルとロボットと飛行機!」という分かりやすいアホ・コンセプトです。それをとことん推し進めたというか、ドラマはどうでも良くてアイドルとロボットが格好良いから全部OK!ってな感じです。TV版は、はっきりとアルトとランカのキャラクターが混乱・崩壊していました。

■ テレビ版と比べて

まず本作のターゲットという部分ですが、順当に考えて9割方がテレビシリーズのファンだと思います。あきらかにテレビ版をミスリードの材料に使っている演出が目立ちます。ストーリーについては、テレビ版の煩雑なソープオペラ要素を極力抑えて、可能な限り最短距離で直進していっています。これは非常に素晴らしいと思います。特にアルトとランカの関係を「昔から知人」で片付けて、その分シェリルとの関係性に当てているのは好感が持てます。ただ正直に言ってストーリーテリングが上手いとは思えません。日本のSFアニメの悪い癖で、台詞で解説している間にストーリーが止まってしまうんですね。それに加えてどうでもいい単語にまで薀蓄がついてくるので、どうしても間延びしてしまいます。本作は120分ですがもう一声で90分程度までスリム化出来たように思います。

■ 3D・CGについて

本作の見所はなんと言ってもシェリルのコンサートシーンとヴァルキリーの戦闘シーンのCGの使い方です。シェリルのコンサートについては、音楽コンサートと言うよりはイリュージョン・ショーでありCGのプロモです。特に序盤のコンサートで歯車と小型ロボットを使った組み立てはとてもよいです。シェリルの歌自体が人を選ぶヘンテコな曲調ですが、映像との組み合わせが本当に良くできていて、単体でも十分に鑑賞に堪えます。
一方の戦闘シーンですが、これがまたとても良くできています。いわゆる「板野サーカス」をCGで再現しているわけですが、良い感じに歪んでいってます。
CGでロボットの映画というとマイケル・ベイのトランスフォーマーがあります。そして間違いなくトランスフォーマーの方がお金は掛かっていますが、演出(見せ方)によって本作の方が映像的にゴージャスに見えます。というのもマイケル・ベイはパン(カメラ視点の横移動)とカットバック(カメラ位置の切り替え)を頻繁に行ってスピード感をあげる方法をとりますが、河森正治は戦闘機やロボットの後ろを追う長回しのカメラフレームを使うことで臨場感をだします。前者は画面上の物体の位置関係が分からなくなるという欠点があり、後者は臨場感を出すために空間を歪ませる必要があります。この歪みというのがモデリングされたCGには難しい点です。そこで本作では爆発エフェクトやロケット軌道を利用して上手く歪む場面(=物理法則を無視した変な場面)を隠しています。この戦闘シーンについては当代随一のクオリティと言って差し支え無いと思います。ここだけでも1,200円の価値があります。

【まとめ】

個人的にはテレビ版よりも良くできていると思います。ストーリーが駄目でCG演出がすごいという点は共通ですが劇場版の方が話が整理されています。なかなか良く風呂敷を広げていますので、これを次作でどうやって上手く畳むかがポイントかなと思います。なんといっても劇場の大音響でロボットの戦闘シーンを見るとテンションがあがりますしね。オススメできる作品だと思います。



でもやっぱりドラマパートが退屈なんですよね~、、、。

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