星を追う子ども

星を追う子ども

今日は3本見ましたが、一番面倒なコレを最初に書きます。
そう、新海誠の最新作

「星を追う子ども」です。

評価:(9/100点) – みんなジブリが好きね、、、。


【あらすじ】

アスナは山の上で一人鉱石ラジオを聞くのが好きだった。父は他界し、医者の母親はいつも夜遅くまで帰ってこない。
ある日、彼女は山でケモノに襲われたところをシュンという少年に助けられる。はじめて秘密のラジオを共有できる仲間が出来たが、彼は数日後に忽然と姿を消し、川縁で遺体が発見される。アガルタという遠い所から来たというシュンの手がかりを探すため、彼女は新任教師のモリサキから話しを聞く。
その後暫くして、彼女の元にシュンとそっくりの少年が現れる、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アスナとシュンの出会いと別れ。
 ※第1ターニングポイント -> アスナがシンと出会う。
第2幕 -> アスナとモリサキの「生死の門」への旅。
 ※第2ターニングポイント -> アスナとモリサキが別れる。
第3幕 -> 生死の門


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【感想】

土曜の1本目は「星を追う子ども」です。知ってる人には超有名、知らない人は全く知らない新海誠監督の最新作です。完全に狭いマーケットの監督ですので客席も似たような雰囲気の20代~30代ぐらいのオタク系男子ばかりでした。結構みなさん大人数で連れ立って来ていまして、かなり埋まっていました。
さて、twitterでちょろっと書きましたが、ここから先は結構デリケートなことを書きます。ネタバレも含みますので未見の方はご注意ください。またアリバイを作るために(苦笑)、先ほどまで新海誠監督のDVD化された作品をすべて見返しました。「彼女と彼女の猫」「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」。まずはそもそも新海誠監督が歴史的にどういう位置にあって、そこから本作でどうなるのかという所を書いていきたいと思います。

前提:そもそも新海誠監督って、、、という話し

では面倒な話しに行きましょう。「新海誠」の名前を一躍有名にしたのは「ほしのこえ」です。2002年制作のこのアニメはほぼ全ての工程を当時まだ20代だった日本ファルコム社員・新海誠が制作した「同人アニメ」です。この作品は決して真新しいことはやっていませんでしたが、石原慎太郎のぶち挙げた「第1回新世紀東京国際アニメフェア21(いまの東京国際アニメフェア)」で一般公募部門の優秀賞を獲ることで歴史的な「象徴」となりました。なぜこの「ほしのこえ」が象徴になったかを説明するには、時代背景を理解する必要があります。以下3つのキーワードで新海誠を探っていきましょう。

新海誠を考える上でのキーワードの1つ目は「パソコン時代の自主制作アニメ」です。
自主制作フィルムというのはかなり昔からありました。1960年代にはNHK主催で一般公募の8mmフィルムコンクールがありましたし、例えば自主制作アニメという意味では80年代の関西SFオタクコミュニティを牽引したダイコンフィルム/ゼネラルプロダクツなんかもあります。ちなみにゼネプロは元々は輸入プラモデルやフィギュアを扱うグッズ屋でしたが、後にアニメ制作会社・GAINAXになります。
こういった状況がありつつ、90年代に入ると劇的な変化が始まります。それまで自主制作の現場ではあくまでも8mmフィルムが主体でしたがWindows98によってパソコン編集が使われるようになります。特に重要だったのは「Lightwave」「StrataVision 3D」という3Dモデリング・レンダリングのソフトと「Adobe Premiere」という編集ソフトの存在です。それまではパソコンを動画編集で使うとなるとAmigaみたいな100万円越えのワークステーションを用意するか、OpenGLに特化したグラフィックボードを数十万で用意する必要がありました。要はすっごいお金が掛かったんです。それがWindows98の登場で劇的に安上がりになりました。
この自主制作映像のパソコン編集の流れを決定づけたのが2000年に放送を開始したNHK衛星第一の番組「デジタル・スタジアム」です。
デジタル・スタジアムは毎週一般公募によって投稿された30秒~1分程度の映像をひたすら紹介・批評しつづけるというかなりチャレンジな30分番組でした。ここでいわゆる常連投稿者が誕生し、3Dモデリングのノウハウや編集方法がテレビで大々的にレクチャーされるというものすごいアグレッシブな内容になります。つまり、前述した2002年というのはパソコンを使った自主制作3D動画が一番盛り上がりを見せていたときだったんです。実は私も相当嵌っていまして、CGモデリングのためだけにLinuxマシンを自作してBlenderを回しまくっていました。
そこで登場したのが「ほしのこえ」だったんです。「ほしのこえ」は全編がパソコンを使って制作されており、まさしく2002年当時の自主制作シーンのど真ん中でした。しかもそれをほぼ一人で制作しているわけで、まさしく「21世紀の引きこもり型自主制作映画」の最先端だったんです。「ほしのこえ」はパソコン1台とガッツがあれば誰でもアニメ作品が作れるという夢に満ちていました。
「ほしのこえ」の作品自体はまったく新しいものではありません。宇宙と地球で離ればなれになった恋人達がお互いに携帯メールを送るものの、何光年も離れた2人のメールはとてつもない時差を伴って2人を引き裂いていきます。この作品の概要・世界観は前述のダイコンフィルム→GAINAXの代表作である「トップをねらえ!」からの影響と思われます。ヒューゴ賞・ネピュラ賞・ローカス賞のアメリカ3大SF賞を総ナメにした1974年の傑作「終りなき戦い」をモチーフにした「トップをねらえ!」のウラシマ効果を大々的にフィーチャーし、そこに恋愛と「セカイ系」の要素を入れてきます。

新海誠のキーワードの2つめは「GAINAX」です。
新海誠の作風は直接的にGAINAXの影響を受けています。新海誠の最大の特徴である「ウジウジした男が延々と一人言をつぶやくモノローグ」は「新世紀エヴァンゲリオン」の影響で、これが「セカイ系」、つまりキャラクター個人の感情・事情が直接セカイと結びつくという「狭く閉じた自己中心的な世界観」に繋がります。プラスして、彼はカメラワーク・画面構成も庵野秀明から影響をうけています。人が映っていない自然風景からキャラクターに頻繁にパンしたり、廊下や線路といった奥行きのある背景を広角レンズ式の歪みで俯瞰で描いたり、こういった特徴的な画面構成です。これらは実際には庵野秀明の発明品ではなく実相寺昭雄監督の特徴的なカメラワークです。しかし新海誠はおそらく実相寺昭雄から持ってきたわけではなく、庵野秀明を経由した孫参照です。それは全体的に庵野流の演出・セリフ回しを多用していることから伺えます。

新海誠のキーワードの3つめは「サウンドノベル」です。
新海作品を注意深く見ていると、カメラフレームが静止することがほとんど無いことが分かります。キャラクターの動きとは関係無く、常にゆっくりとカメラフレームが縦・横にスライドしていきます。そして、画面の中央にキャラクターが居ることもほとんどありません。こういった手法はアニメーションにおいてはかなりイレギュラーといいますか、はっきりいって駄目出しされる手法です。少なくともアニメ制作会社で下積み勉強をした人間には出来ません。
これはアニメと言うよりは紙芝居・サウンドノベルの手法です。サウンドノベルはスーパーファミコンの名作「弟切草」が発明したジャンルで、名前の通り「音がでるゲームブック」です。(※最近は「ゲームブック」も見かけませんがw) このジャンルはカセットやディスクの容量との戦いなので、いかに挿絵を減らして音を入れるかというのが大切になります。ですので必然的に細かいエフェクトを多用することになります。これが前述のゆっくりスライドするカメラフレームであったり、中心よりずれたキャラクター配置です。つまり、新海誠はアニメ作品としてはかなり異端な事をしていて、どちらかというとビデオゲームに近い構図をとっているということです。逆に言うと、こういう構図を取るアニメ監督はあまりいないので、それが個性に繋がっています。

だらだらと書いてきましたが、一旦まとめましょう。新海誠監督は21世紀のはじまりに、パソコンによる映像自主制作の象徴として登場しました。彼の作風は直接的にGAINAX作品やビデオゲームから影響を受けています。つまり文脈上「いまどきの監督」というポジションで語られる人だということです。

本題:あれ、参照元を変えたの?

とまぁ延々と言い訳と予防線を張りつつ本題にいきますw
ジブリすぎ。さすがになんぼなんでもジブリすぎ。
本作はいままでの新海誠の特長・作風とはまったく違います。まず一見してわかるのが、うざったいほどのモノローグが無くなっている点です。単純にすっきりしています。そして画面の作り方もまったく違います。これまでは庵野演出 a.k.a. 実相寺昭雄演出だったのが、宮崎駿タッチにかわっています。宮崎駿演出の最大の特徴はフェティッシュなまでの「実動作のアニメ化」です。「水が流れるとはどういうことか」「草が風になびくとはどういうことか」。そして「空から女の子が落ちてくるとき、スカートはどういう風になびいてパンチラになるか」。彼は、スロービデオで研究したのかと思うほど、溜めと抜きによってデフォルメされた「実物よりも実物っぽい動き」をアニメーションで再現して見せます。今回の新海誠はこの宮崎駿演出を参照しています。いるんですが、あんまり出来てません。上っ面だけそれっぽい感じになってるだけです。

これまでの新海作品は背景を実際の風景写真からトレースした高密度の線で埋め、一方の人物は線の少ないアニメアニメした陰影で構成されています。そうすると背景から人物が浮き上がって見えますので、それが”素人っぽさ”に繋がり、結果的には新海誠の「インディ界の大物」という雰囲気にマッチしていました。ところが、今回は背景の線が減り、より「普通のアニメ」っぽくなっています。

今回の作品を総括すると、「いままでの新海誠節を捨てて”より普通のアニメ”を目指した結果、下手な上に参照元とおぼしき”ジブリ調”が露骨に出過ぎた」ということに尽きます。何度も書きますがジブリすぎ。
ムスカっぽい先生・モリサキが最後ちゃんと「目が~~~目が~~~!!!!」な展開になったり、ミミ(猫)のデザインや仕草はナウシカのテト(キツネリス)だし、クラヴィスのペンダントはそのまんまラピュタの飛行石と同じデザインだし、ちょっとこれは酷すぎます。そもそも「自然(=生死)を受け入れる」「ボーイ・ミーツ・ガール(少女と出会うことで少年が成長する)」ってのは宮崎駿のお家芸なワケで、絵柄から小物のデザインからテーマから一緒にして「知りません」はさすがに無理でしょう。
でも、別にパクるのがいけないというつもりはまったくありません。参照は大いに結構。だって全ての作品は大なり小なり他作品からの引用で出来ているわけで、本当にブランニューな革新的作品なんてまずありません。だから参照行為それ自体によって作品がマイナス評価になることはありません。
問題は、本作の完成度が参照元に遠く及ばないってことです。
例えば終盤近くの殺陣のシーン。チャンバラをやっているのに絵がほとんど動いていません。集中線の止め絵とカットエフェクトだけで構成されています。これは宮崎駿オマージュでは絶対にあり得ません。宮崎駿はこういった動きをアニメーションに起こすところに労力を傾ける人です。でも本作では新海誠はいままでどおりの「サウンドノベル」のやり方を使って、少ない枚数でいかに乗り切るかという方法論でやっています。
例えば前半の渓谷橋からバケモノが落ちるシーン。ただ漫然と同じスピードで落ちています。でも本来の物理法則からしたらそうはなりません。現実では、始めに溜めがあり、そこから徐々に加速して最後は一気に川に突っ込んで、そして突っ込んだ水面が落下点だけ最初一気にへこみ、次に周りの水が戻ってきて真ん中で高く舞い王冠型になります。こういった現実世界の動作/現象を、宮崎駿は徹底的にデフォルメ/再現してみせます。しかし、本作にはこういった細かいフェティッシュな表現はまったくといっていいほど出てきません。
本作に出てくる宮崎演出/ジブリっぽさというのは、本当に絵面だけです。なんとなくそれっぽい記号としてのジブリだけです。
その薄っぺらさを象徴するのが本作のストーリーのずさんさです。本作はストーリーが彷徨いまくっています。「モリサキ先生が亡き妻を蘇らせるためにアガルタにある生死の門を目指す」という軸はありますが、それに対してシンとアスナの行動原理がまったくはっきりしません。てっきりアスナはシュンに会いたくてアガルタに行ったと思ったのですが、終盤には死んだお父さんの話にすり替わっていて、あげく「さびしかっただけ」とか元も子もないことを言い出す始末です。友達に「一緒に帰ろう!」って誘われてるのに断ってたじゃん。
シンはシンで「異種族交流」みたいな無難な線に着地するんですが、「アガルタにも地上にも居場所がない」件はいつの間にか無かったことになってハッピーエンドっぽくなっています。
そもそも本作のフォーマットは「行って帰ってくる話」であって、「アスナが異世界に迷い込むけど成長して戻ってくる」という最近多いパターンの作品です。で、、、、アスナってなんか成長してましたっけ??? アスナってほとんど主体的に行動して無いと思うんですけど。ものすごい勢いで周りに流されまくってるだけでは、、、。アスナが主体的に行動したのは「アガルタから出ない」と決断したときと「モリサキ先生を追って生死の門に行く」って言った時だけです。そしてその二つとも理由がよく分かりません。
これらは駄目な作品の典型で、「興行上の必要はあるけど物語内での必然性がない」ということなんです。つまり、アスナが「じゃあ帰ります。お母さんが心配してますので。」って言うと映画が30分で終わりますし、「モリサキ先生は行ってしまいました。私達は帰りましょう。」っていうと盛り上がらないままシンミリと終わってしまいます。でも、作品内でのアスナの性格を考えれば帰って良いんですよ。だって家で洗濯物があるから友達の誘いを断る人物なわけでしょ。お母さんが心配してるんだから帰れよ、、、、、とかいってるとエピローグで母親がまったく心配していないという驚愕の事実が浮き彫りになるんですけどね。万事が万事これです。「誰がどうしたからどうなった」っていう因果関係がグチャグチャなので、見ててかなりどうでもよくなります。
前作までの新海監督は、基本的にはGAINAX作品のテイストを参照しながらも、そこに「現代の若者達の社会性/関係性」というテーマを入れてきていました。だから多少嘘くさかったり中2病っぽく見える恥ずかしい部分もなんとか「作家性」としてカバーできていました。
ところがいわゆる「普通のファンタジー」みたいな所に挑戦した結果、脚本も演出もガタガタで、素人っぽいというより、ただ下手なだけのトンデモ作品になってしまいました。

【まとめ】

相変わらずグダグダと愚痴ってきましたが(苦笑)、結論は前述したとおりです。
「いままでの新海誠節を捨てて”より普通のアニメ”を目指した結果、下手な上に参照元とおぼしき”ジブリ調”が露骨に出過ぎた」
あえて書きますが、見終わった後の感覚は「ゲド戦記」に近いです。本家に似ても似つかない妙なパチモノ感だけが残ります。
いやぁ、、、、、「作家性」って本当に難しいですね。ということで、オススメDEATH!!!!!

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星を追う子ども」への61件のフィードバック

  1. 流行りの「君の名は」を見る前に、過去の新海監督作品で予習しようと、「星を追う子ども」をチョイスしました。
    けど見た後の感想が、「なんか微妙…」だったことから、他の人の感想が気になって検索したところ、このブログを見つけ、自分が疑問に感じたところを分かり易く文章にしてくれていたので、胸のもやもやがすっかり取れました。

    自分は、主人公が何であんな危険を冒してまで、のこのこ旅をするのかわからなかったんです。
    ちょこっとお話しただけのシュンのために、あんな大冒険をする意味がわからなくて、イケメンにキスされて舞い上がってしまった、ちょっと考えの足りない娘にしか見えませんでした。(一応命を救われたとかあるけど)
    そんなことよりも死んだ父親のことをずっと恋しく思っていて、先生に便乗して旅にでるみたいな流れが良かったんじゃないかなと感じました。
    そもそも映画を見ている最中は、「旅の途中で、死んだ父親のことは心の中で整理をつけ、先生とともに元の世界に戻って、先生と母親が再婚」みたいな流れになるのかと思っていたのですが、そんなことはなく、よくわからない流れで終わってしまって、もやもやが残るだけでした。

    見ている自分にとって、何でこの人はこんな行動しているのかが、さっぱり理解できないままストーリーが進むので、結局見終わった感想は「ジブリのパチモンくさい映画だなあ」です。
    今までも映画を見て、「よくわかんないなあ」で終わるものがあったのですが、その理由がレビューにある「興行上の必要はあるけど物語内での必然性がない」であることが今日はじめてわかりました。

    長々と書いてしまいましたが、参考とさせていただき、ありがとうございました。

  2. はじめまして。
    なるなるさんと同じようにここにたどり着きました。
    昨夜「星を追う子ども」を見終わり、なにかもやもやとした物を解決させたく検索していると、ここに答えを見つけました。こういう雰囲気を見たかったわけではなくちょっと残念でしたが、新海誠監督が嫌いになったわけではありません。むしろ良く知れてよかったです。「ほしのこえ」がどういう生い立ちだったのかも分かりました。
    続いて今夜は『雲のむこう、約束の場所』を見ようと思います。

  3. 昔新海さんの秒速を見て好きになり、言の葉などを見たあとにこちらを数日前に見終わりました。
    作品をあまり考えずに見れる人には面白かったかも!とサクッと見れてしまう神話を盛り込んだSFに仕上がったかなと

    ただし、登場人物の行動に何故?どうして?を作品を見ながら付加していき、その答えを作品の中におおむね見出しスッキリした、感動した、そういう伏線だったのか〜を求める人にはちとキツい内容になってます。必ずモヤがかかり、私のように他の人はどう感じたのか気になる、あのシーンはどういった解釈だったのか、答えは全てあるのかと検索をかけてしまうかも

    行動に対する動機が弱いとは言いませんが、万人とまではいかずとも多くの方が納得できる行動原理が盛り込めなかった分この作品の評価は高くはなれなかったことは他の方もレビューしてる通り

    でも面白かったと感じてる人がいるのも事実です、この作品は新海という枠の先入観を外して視聴することをお勧めします。その方がきっともっと広い感受性をもって作品に接してあげることができるから

  4. わざとやってないわけないじゃない
    天空の谷の明日菜姫の神隠し
    ジブリに捧げるアニメだったね
    あるいはジブリとの決別を意識したのか
    まぁこれはこれで

  5. ジブリっぽさとかはどうでもいいとして、新海誠のモノローグまみれは必要だったのかと思います。
    ストーリーに関しては僕も同感でした。アスナの内的欲求とモリサキの内的欲求にそもそも矛盾が生じていたのだと思います。死を受けいるれる冒険がテーマなのであって、アスナが「寂しかった」という言葉はもっとシュンや父の死ともっと直接的に関わり合うべきだったと思います。
    家庭を顧みらない母と、父の死、シュンの死は確かに孤独を感じさせるものなのですが、アスナ自身の旅の目的は結局誰かを生き返らせることなのでしょうか?
    旅を通してシンを巻き込み、結果としてシンの居場所を無くしてしまったわけですが、そのシンの「居場所」という面においても上手く昇華できずに終わったように思えます。
    この話ならば、モリサキを視点において、死の旅にでて、人を殺してまで誰かを生き返らせたいものなのかを問うほうがしっくりくる感じがしました。
    まぁ、一意見なので。
    普通に感動しましたし、見終わったあとも胸にぐっとくるものはありました。

  6. 新海誠自体知らずたまたま本作品みた者です。
    面白かったです。
    スタジオジブリ?宮崎の弟子かな?とWikipediaで調べたら全く関係無いみたいで。
    貴方の感想は確かにうんちくが多くアニメにさぞ詳しいのだろうなと読んでて思いました。
    その反面、素直に作品が見れない可哀想な人だなと思いました。
    なんか頭でっかちの嫉妬?嫉み妬み?みたいな物を読んでて感じました。そんなに詳しいならご自分でも制作してみたらどうですか?
    あーでもないこーでもない、批判だけなら誰でも出来ます。
    同じ舞台に上がりもしないで口先だけのこの批判は見苦しいです。

  7. 日常系(秒速みたいな)を書いてればいいのにあえてファンタジーに挑戦したっぽいからどうなったんだろって思ってみてみたらまさに中身空っぽ映画でした
    ストーリーに抑揚もないし、神話神話言っておきながら大して神話要素も重大視されてないし夷族も存在価値分からんしシュンの登場した意味も理解出来んかった
    アスナとシンをくっつけるキーになったのはわかるけど、だったらシュンとアスナで旅させりゃぁ良かったものの、何故死なせたのかが分からない
    寿命を縮めても見たかったものがあるとか言いながらこの子2日も地上で過ごしてましたやん
    そして忘れがちだけど一番理解できなかったのがアスナの父親の存在
    父親の形見がクラヴィスの欠片=アガルタ人ってことだけれども、何でこの人地上来ちゃったの?なんで地上の文明に溶け込んじゃってるの?そしてなんですぐ死んでしまうん?
    アガルタと地上人のハーフだからって理由でアスナが夷族に狙われたのはわかるけど、そこ強調してほしかった
    他人と違うところがあるとか、シュンかシンのどっちかがクラヴィスの欠片を見てアスナに教えるとか、でないとよく見てない人は夷族がアスナを攫うシーンで「うはwww先生忘れられてるwww乙ww」とか言っちゃうじゃん
    声優が豪華な分もっと引き立てれるような内容だったらよかったのに残念ですわ

  8. 個人的に、私は良かったと思う。
    ジブリジブリって… 別にジブリに戦いを挑んでるんじゃないしな~(゚o゚;
    話に不十分な点もありますが、まるっきりハッピーエンドではないと思います。
    アスナの父などの点で不明なところは、コミックなどで補充されています。
    いろいろ言いたいことがありますが、割愛します。
    個人的に、私は星を追う子どもが好きですよ。

  9. つい先程、映画を観ました。
    前からとても興味があった作品で、
    たまたまテレビで放送されていたので
    観たのですが……。
    始めの方から
    「ジブリに似てるな…」
    という印象で(笑)
    ジブリ作品が大好きなので、
    物語が進むにつれてモヤモヤしたり、
    ガッカリしたりしていました。
    しかし、このページを拝見し、
    なんだかスッキリしました(笑)
    ありがとうございました(^^)

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