星を追う子ども

星を追う子ども

今日は3本見ましたが、一番面倒なコレを最初に書きます。
そう、新海誠の最新作

「星を追う子ども」です。

評価:(9/100点) – みんなジブリが好きね、、、。


【あらすじ】

アスナは山の上で一人鉱石ラジオを聞くのが好きだった。父は他界し、医者の母親はいつも夜遅くまで帰ってこない。
ある日、彼女は山でケモノに襲われたところをシュンという少年に助けられる。はじめて秘密のラジオを共有できる仲間が出来たが、彼は数日後に忽然と姿を消し、川縁で遺体が発見される。アガルタという遠い所から来たというシュンの手がかりを探すため、彼女は新任教師のモリサキから話しを聞く。
その後暫くして、彼女の元にシュンとそっくりの少年が現れる、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アスナとシュンの出会いと別れ。
 ※第1ターニングポイント -> アスナがシンと出会う。
第2幕 -> アスナとモリサキの「生死の門」への旅。
 ※第2ターニングポイント -> アスナとモリサキが別れる。
第3幕 -> 生死の門


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【感想】

土曜の1本目は「星を追う子ども」です。知ってる人には超有名、知らない人は全く知らない新海誠監督の最新作です。完全に狭いマーケットの監督ですので客席も似たような雰囲気の20代~30代ぐらいのオタク系男子ばかりでした。結構みなさん大人数で連れ立って来ていまして、かなり埋まっていました。
さて、twitterでちょろっと書きましたが、ここから先は結構デリケートなことを書きます。ネタバレも含みますので未見の方はご注意ください。またアリバイを作るために(苦笑)、先ほどまで新海誠監督のDVD化された作品をすべて見返しました。「彼女と彼女の猫」「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」。まずはそもそも新海誠監督が歴史的にどういう位置にあって、そこから本作でどうなるのかという所を書いていきたいと思います。

前提:そもそも新海誠監督って、、、という話し

では面倒な話しに行きましょう。「新海誠」の名前を一躍有名にしたのは「ほしのこえ」です。2002年制作のこのアニメはほぼ全ての工程を当時まだ20代だった日本ファルコム社員・新海誠が制作した「同人アニメ」です。この作品は決して真新しいことはやっていませんでしたが、石原慎太郎のぶち挙げた「第1回新世紀東京国際アニメフェア21(いまの東京国際アニメフェア)」で一般公募部門の優秀賞を獲ることで歴史的な「象徴」となりました。なぜこの「ほしのこえ」が象徴になったかを説明するには、時代背景を理解する必要があります。以下3つのキーワードで新海誠を探っていきましょう。

新海誠を考える上でのキーワードの1つ目は「パソコン時代の自主制作アニメ」です。
自主制作フィルムというのはかなり昔からありました。1960年代にはNHK主催で一般公募の8mmフィルムコンクールがありましたし、例えば自主制作アニメという意味では80年代の関西SFオタクコミュニティを牽引したダイコンフィルム/ゼネラルプロダクツなんかもあります。ちなみにゼネプロは元々は輸入プラモデルやフィギュアを扱うグッズ屋でしたが、後にアニメ制作会社・GAINAXになります。
こういった状況がありつつ、90年代に入ると劇的な変化が始まります。それまで自主制作の現場ではあくまでも8mmフィルムが主体でしたがWindows98によってパソコン編集が使われるようになります。特に重要だったのは「Lightwave」「StrataVision 3D」という3Dモデリング・レンダリングのソフトと「Adobe Premiere」という編集ソフトの存在です。それまではパソコンを動画編集で使うとなるとAmigaみたいな100万円越えのワークステーションを用意するか、OpenGLに特化したグラフィックボードを数十万で用意する必要がありました。要はすっごいお金が掛かったんです。それがWindows98の登場で劇的に安上がりになりました。
この自主制作映像のパソコン編集の流れを決定づけたのが2000年に放送を開始したNHK衛星第一の番組「デジタル・スタジアム」です。
デジタル・スタジアムは毎週一般公募によって投稿された30秒~1分程度の映像をひたすら紹介・批評しつづけるというかなりチャレンジな30分番組でした。ここでいわゆる常連投稿者が誕生し、3Dモデリングのノウハウや編集方法がテレビで大々的にレクチャーされるというものすごいアグレッシブな内容になります。つまり、前述した2002年というのはパソコンを使った自主制作3D動画が一番盛り上がりを見せていたときだったんです。実は私も相当嵌っていまして、CGモデリングのためだけにLinuxマシンを自作してBlenderを回しまくっていました。
そこで登場したのが「ほしのこえ」だったんです。「ほしのこえ」は全編がパソコンを使って制作されており、まさしく2002年当時の自主制作シーンのど真ん中でした。しかもそれをほぼ一人で制作しているわけで、まさしく「21世紀の引きこもり型自主制作映画」の最先端だったんです。「ほしのこえ」はパソコン1台とガッツがあれば誰でもアニメ作品が作れるという夢に満ちていました。
「ほしのこえ」の作品自体はまったく新しいものではありません。宇宙と地球で離ればなれになった恋人達がお互いに携帯メールを送るものの、何光年も離れた2人のメールはとてつもない時差を伴って2人を引き裂いていきます。この作品の概要・世界観は前述のダイコンフィルム→GAINAXの代表作である「トップをねらえ!」からの影響と思われます。ヒューゴ賞・ネピュラ賞・ローカス賞のアメリカ3大SF賞を総ナメにした1974年の傑作「終りなき戦い」をモチーフにした「トップをねらえ!」のウラシマ効果を大々的にフィーチャーし、そこに恋愛と「セカイ系」の要素を入れてきます。

新海誠のキーワードの2つめは「GAINAX」です。
新海誠の作風は直接的にGAINAXの影響を受けています。新海誠の最大の特徴である「ウジウジした男が延々と一人言をつぶやくモノローグ」は「新世紀エヴァンゲリオン」の影響で、これが「セカイ系」、つまりキャラクター個人の感情・事情が直接セカイと結びつくという「狭く閉じた自己中心的な世界観」に繋がります。プラスして、彼はカメラワーク・画面構成も庵野秀明から影響をうけています。人が映っていない自然風景からキャラクターに頻繁にパンしたり、廊下や線路といった奥行きのある背景を広角レンズ式の歪みで俯瞰で描いたり、こういった特徴的な画面構成です。これらは実際には庵野秀明の発明品ではなく実相寺昭雄監督の特徴的なカメラワークです。しかし新海誠はおそらく実相寺昭雄から持ってきたわけではなく、庵野秀明を経由した孫参照です。それは全体的に庵野流の演出・セリフ回しを多用していることから伺えます。

新海誠のキーワードの3つめは「サウンドノベル」です。
新海作品を注意深く見ていると、カメラフレームが静止することがほとんど無いことが分かります。キャラクターの動きとは関係無く、常にゆっくりとカメラフレームが縦・横にスライドしていきます。そして、画面の中央にキャラクターが居ることもほとんどありません。こういった手法はアニメーションにおいてはかなりイレギュラーといいますか、はっきりいって駄目出しされる手法です。少なくともアニメ制作会社で下積み勉強をした人間には出来ません。
これはアニメと言うよりは紙芝居・サウンドノベルの手法です。サウンドノベルはスーパーファミコンの名作「弟切草」が発明したジャンルで、名前の通り「音がでるゲームブック」です。(※最近は「ゲームブック」も見かけませんがw) このジャンルはカセットやディスクの容量との戦いなので、いかに挿絵を減らして音を入れるかというのが大切になります。ですので必然的に細かいエフェクトを多用することになります。これが前述のゆっくりスライドするカメラフレームであったり、中心よりずれたキャラクター配置です。つまり、新海誠はアニメ作品としてはかなり異端な事をしていて、どちらかというとビデオゲームに近い構図をとっているということです。逆に言うと、こういう構図を取るアニメ監督はあまりいないので、それが個性に繋がっています。

だらだらと書いてきましたが、一旦まとめましょう。新海誠監督は21世紀のはじまりに、パソコンによる映像自主制作の象徴として登場しました。彼の作風は直接的にGAINAX作品やビデオゲームから影響を受けています。つまり文脈上「いまどきの監督」というポジションで語られる人だということです。

本題:あれ、参照元を変えたの?

とまぁ延々と言い訳と予防線を張りつつ本題にいきますw
ジブリすぎ。さすがになんぼなんでもジブリすぎ。
本作はいままでの新海誠の特長・作風とはまったく違います。まず一見してわかるのが、うざったいほどのモノローグが無くなっている点です。単純にすっきりしています。そして画面の作り方もまったく違います。これまでは庵野演出 a.k.a. 実相寺昭雄演出だったのが、宮崎駿タッチにかわっています。宮崎駿演出の最大の特徴はフェティッシュなまでの「実動作のアニメ化」です。「水が流れるとはどういうことか」「草が風になびくとはどういうことか」。そして「空から女の子が落ちてくるとき、スカートはどういう風になびいてパンチラになるか」。彼は、スロービデオで研究したのかと思うほど、溜めと抜きによってデフォルメされた「実物よりも実物っぽい動き」をアニメーションで再現して見せます。今回の新海誠はこの宮崎駿演出を参照しています。いるんですが、あんまり出来てません。上っ面だけそれっぽい感じになってるだけです。

これまでの新海作品は背景を実際の風景写真からトレースした高密度の線で埋め、一方の人物は線の少ないアニメアニメした陰影で構成されています。そうすると背景から人物が浮き上がって見えますので、それが”素人っぽさ”に繋がり、結果的には新海誠の「インディ界の大物」という雰囲気にマッチしていました。ところが、今回は背景の線が減り、より「普通のアニメ」っぽくなっています。

今回の作品を総括すると、「いままでの新海誠節を捨てて”より普通のアニメ”を目指した結果、下手な上に参照元とおぼしき”ジブリ調”が露骨に出過ぎた」ということに尽きます。何度も書きますがジブリすぎ。
ムスカっぽい先生・モリサキが最後ちゃんと「目が~~~目が~~~!!!!」な展開になったり、ミミ(猫)のデザインや仕草はナウシカのテト(キツネリス)だし、クラヴィスのペンダントはそのまんまラピュタの飛行石と同じデザインだし、ちょっとこれは酷すぎます。そもそも「自然(=生死)を受け入れる」「ボーイ・ミーツ・ガール(少女と出会うことで少年が成長する)」ってのは宮崎駿のお家芸なワケで、絵柄から小物のデザインからテーマから一緒にして「知りません」はさすがに無理でしょう。
でも、別にパクるのがいけないというつもりはまったくありません。参照は大いに結構。だって全ての作品は大なり小なり他作品からの引用で出来ているわけで、本当にブランニューな革新的作品なんてまずありません。だから参照行為それ自体によって作品がマイナス評価になることはありません。
問題は、本作の完成度が参照元に遠く及ばないってことです。
例えば終盤近くの殺陣のシーン。チャンバラをやっているのに絵がほとんど動いていません。集中線の止め絵とカットエフェクトだけで構成されています。これは宮崎駿オマージュでは絶対にあり得ません。宮崎駿はこういった動きをアニメーションに起こすところに労力を傾ける人です。でも本作では新海誠はいままでどおりの「サウンドノベル」のやり方を使って、少ない枚数でいかに乗り切るかという方法論でやっています。
例えば前半の渓谷橋からバケモノが落ちるシーン。ただ漫然と同じスピードで落ちています。でも本来の物理法則からしたらそうはなりません。現実では、始めに溜めがあり、そこから徐々に加速して最後は一気に川に突っ込んで、そして突っ込んだ水面が落下点だけ最初一気にへこみ、次に周りの水が戻ってきて真ん中で高く舞い王冠型になります。こういった現実世界の動作/現象を、宮崎駿は徹底的にデフォルメ/再現してみせます。しかし、本作にはこういった細かいフェティッシュな表現はまったくといっていいほど出てきません。
本作に出てくる宮崎演出/ジブリっぽさというのは、本当に絵面だけです。なんとなくそれっぽい記号としてのジブリだけです。
その薄っぺらさを象徴するのが本作のストーリーのずさんさです。本作はストーリーが彷徨いまくっています。「モリサキ先生が亡き妻を蘇らせるためにアガルタにある生死の門を目指す」という軸はありますが、それに対してシンとアスナの行動原理がまったくはっきりしません。てっきりアスナはシュンに会いたくてアガルタに行ったと思ったのですが、終盤には死んだお父さんの話にすり替わっていて、あげく「さびしかっただけ」とか元も子もないことを言い出す始末です。友達に「一緒に帰ろう!」って誘われてるのに断ってたじゃん。
シンはシンで「異種族交流」みたいな無難な線に着地するんですが、「アガルタにも地上にも居場所がない」件はいつの間にか無かったことになってハッピーエンドっぽくなっています。
そもそも本作のフォーマットは「行って帰ってくる話」であって、「アスナが異世界に迷い込むけど成長して戻ってくる」という最近多いパターンの作品です。で、、、、アスナってなんか成長してましたっけ??? アスナってほとんど主体的に行動して無いと思うんですけど。ものすごい勢いで周りに流されまくってるだけでは、、、。アスナが主体的に行動したのは「アガルタから出ない」と決断したときと「モリサキ先生を追って生死の門に行く」って言った時だけです。そしてその二つとも理由がよく分かりません。
これらは駄目な作品の典型で、「興行上の必要はあるけど物語内での必然性がない」ということなんです。つまり、アスナが「じゃあ帰ります。お母さんが心配してますので。」って言うと映画が30分で終わりますし、「モリサキ先生は行ってしまいました。私達は帰りましょう。」っていうと盛り上がらないままシンミリと終わってしまいます。でも、作品内でのアスナの性格を考えれば帰って良いんですよ。だって家で洗濯物があるから友達の誘いを断る人物なわけでしょ。お母さんが心配してるんだから帰れよ、、、、、とかいってるとエピローグで母親がまったく心配していないという驚愕の事実が浮き彫りになるんですけどね。万事が万事これです。「誰がどうしたからどうなった」っていう因果関係がグチャグチャなので、見ててかなりどうでもよくなります。
前作までの新海監督は、基本的にはGAINAX作品のテイストを参照しながらも、そこに「現代の若者達の社会性/関係性」というテーマを入れてきていました。だから多少嘘くさかったり中2病っぽく見える恥ずかしい部分もなんとか「作家性」としてカバーできていました。
ところがいわゆる「普通のファンタジー」みたいな所に挑戦した結果、脚本も演出もガタガタで、素人っぽいというより、ただ下手なだけのトンデモ作品になってしまいました。

【まとめ】

相変わらずグダグダと愚痴ってきましたが(苦笑)、結論は前述したとおりです。
「いままでの新海誠節を捨てて”より普通のアニメ”を目指した結果、下手な上に参照元とおぼしき”ジブリ調”が露骨に出過ぎた」
あえて書きますが、見終わった後の感覚は「ゲド戦記」に近いです。本家に似ても似つかない妙なパチモノ感だけが残ります。
いやぁ、、、、、「作家性」って本当に難しいですね。ということで、オススメDEATH!!!!!

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星を追う子ども」への61件のフィードバック

  1. ジブリジブリって。
    あんた見る目ないよな。
    一作品単体で見て批評もできねえのに、
    映画通気取って評価すんな。
    映画みないでくださいね
    あんたじゃ理解できないだろ

  2. 確かにジブリっぽいというのはみな思うでしょうね。
    ただ最近のジブリ作品より、よほどジブリっぽくてよかったと思います。
    軸がないとのことですが、ゲド戦記やアリエッティのどこに軸があったのやら。。。
    まだこれからの方ですし、作風を固める必要もないと思います。
    色々な作品の影響を最終的に自分の個性として昇華させてほしいものです。
    ただ、稚拙な人物画とすばらしい背景とのアンバランス感は作品の個性とも言えたものでした。
    その点は残念です。

  3. やっと見れました!!
    田舎なもんで、放映するとこ近くにないっていう、まさかの事態でして...
    ぼくの感想は、この人の作品でこぉいうのもアリなんだなぁってビックリしました。
    前の3作品は現実とその近未来とか、どこかリアルな感じがあったと思います(個人的に)。
    なので、今回の山の中!っいう感じと、キャラクターの感じとで、ジブリ作品を思い出してしまいました。
    まさか、先生の目がねぇ...(笑
    でも、これはこれでおもしろかったと思います♪
    たぶん、みなさん頭のどこかでこの人の作品はこうだってイメージが邪魔して、ちょっと批判気味?なんかな?
    でも、この人の作品の醍醐味は「空」とそのとき流れる「音楽」だと思うんです! ぼくだけですかね?
    この作品もやっぱりキレイでした!
    次の作品にも期待したいですね♪
    長々と失礼しました。

  4. たまたま目に入ったので観てみたのですが、ここで叩かれているほどそんな悪くはありません。
    人によって観ている状況や心理によって見方は異なるでしょうが、、、
    たしかに宮崎演出の影響を受けてはいると思いますがそれならジブリ以外の作品はどうなのか?にたどり着きます。
    今の日本のアニメ技術はジブリが作り上げてきたに等しいです。
    なので、ジブリもしくは宮崎演出はアニメの基盤でしかありません。
    また、この作品の物語進行にも特に問題はないと思います。
    よくありがちなストーリー?
    それならばジブリ作品やカラフルやマルデュック・スクランブルなどの世界観、ストーリーは?しかし無論それらにもオリジナルが追加され進化していくのでは?
    この作品もその一つだと思います。

  5. こういうアニメは純粋な人が見るアニメだと思う。
    新海さんの思いとか、新海さんにしか作る事の出来ないアニメなんだって強く感動しながら見ました。
    少なくとも自分には考えきれないストーリでいい作品だと思った。
    アニメの作画をまずこだわって見る人にそれが伝わらないのかな・・とここの評価(コメント)みて思った。
    ジブリに似てるだろうがなんだろうが、新海さんの作品に変わりないんだし・・・ぶっちゃけ作画似たような作品他にもいっぱいあるし。。。
    難しく考えずに見てほしい作品ですね。

  6. 感想、読ませていただきました。私は先ほどDVDで初めて観賞いたしました。
    今回の新海さんの作品は手放しで絶賛できるものでないのは確かですね。
    作画的な面でのキャラの動かし方やジブリを意識したと思われても仕方のない表現の数々の批評については、これといって大声で反論するものはありません。
    が、キャラクターの設定やストーリーに関して、一部歪曲して記憶なされてしまったのか、感想の中に作品内で描かれている事実とはっきり違っている点がいくつかあったのでそこは指摘させていただきます。
    >終盤には死んだお父さんの話にすり替わっていて
    すり替わってはいませんでしたよ。父のエピソードは気絶してる間に夢に見たり、モリサキの姿が父に少し重なったくらいです。目的にとって代わるほど大きな変化はありませんでした。
    >シンはシンで「異種族交流」みたいな~~~ハッピーエンドっぽくなっています。
    終盤の戦闘シーンでシンはアスナ達の追手に流浪の中で生きることになるといい捨てられており、またEDでシンとモリサキが地上へ帰るアスナを見送っています。
    異種族交流で落ち着くというより、シンとモリサキ二人でどこの村へも住まず放浪人として生きていくのが示されただけです。はっきり良い結果になったと捉えられるものではありません。むしろ二人とも目的がないけどとにかく生きていくことだけは覚悟したという、捉え方によっては辛い未来が待つ終わりではないでしょうか。
    >だって家で洗濯物があるから友達の誘いを断る人物なわけでしょ。
    作中でアスナが「洗濯物があるから~」と言って誘いを断るシーンはありませんでした。
    「ちょっと急がないと」とは言っていましたが、それも山の丘へ行く時間を作るために家事を早く済ませたかったからと思われます。早く山へ行きたい理由は前の晩に山で何かが光っているのを目撃するシーンがあったので一応示されてはいます。
    >エピローグで母親がまったく心配していないという驚愕の事実が浮き彫りになるんですけどね。
    エピローグでは母親が「卒業式なんだから」と言っていたり、桜の木が咲いている点から、アガルタから帰還してかなり時間が経っていることがはっきりわかります。
    そして解釈についてですが、
    >シンとアスナの行動原理がまったくはっきりしません。
    これは正しいです。そして新海さんはむしろそれを描こうとしていたと思われます。
    自分の中で信念のような明確な目的があるわけではないけれど、とにかく目の前のことに必死になっている姿そのものを描きたかったのです(このことはDVD特典のインタビューでも監督自身がはっきり述べられていたので、自分はより納得できました)。
    むしろアスナやシンの年齢を考えると、この設定は案外しっくりきます。中学生くらいの年で自分の信念やら目的がはっきりしている子なんて実際は少ない方です。
    よくわからないけど流れに乗って、目の前のことは内容に関わらずとりあえずやらなきゃいけないことと判断してただがむしゃらにこなす。アニメらしくはないかもしれませんが、ある種非常にリアルな設定で自分としてはアリだと思いました。
    あえて信念をあげるとすれば「目の前で困ってる人を見過ごしちゃいけない」とか「提示されたものにはとりあえず立ち向かわなきゃならない」とかそういう所でしょうか。まじめな子がとりあえず宿題をこなすような、能動的ではなく受動的な目的だけどやらないのは悪い、そういう心情ですね。
    それはアニメとしてどうなの? と思う方も当然いらっしゃると思いますが、むしろそう言う設定で最初からやろうとしてたと思われるので、それならば表現の仕方は間違ってはいません。
    私は「こういう作品やストーリーはこうあるべきだ」とか「これがあってこそのこの人らしい作品だ」という固定観念のようなものは持たず、倫理的にやっちゃいけない表現とかそういう最低限の部分以外は割と柔軟に捉えて「どう見ることができて何を得られるか」を探しながら見るタイプなので、こう言う結論に至りました。
    視点が違うので評価が違うのは当然ですが、事実と異なって認識していた部分だけは正したかったので、自分の感想も添えて指摘させていただきました。
    きゅうべいさんは観賞されてから大分時が経っていると思われるのでどれほど憶えておられるかはわかりませんが、もし気が向いたらもう一度ご覧になって確認してみてください。
    長文失礼いたしました。

  7. 異論はまったくなし。
    この映画を見て得られるのは
    こういうことをしたらいけないのだよ。
    っていう反面教師的なことだけ。

  8. 大変面白い批評でした。
    宮崎駿の漫画(絵本?)「シュナの旅」をおすすめします。
    この作品の影響も、「星を追う子ども」に如実に現れています。
    この「シュナの旅」という傑作の呪いにかかってしまっているという点が「ゲド戦記」との共通点かもしれません。
    後発の宮崎駿の作品自体も自らの作品の呪いにかかっているという点で似ているのですけれど。

  9. DVD検索してたら、見つけてしまって・・ちょっとコメントを。
    絵について詳しいところは良く分かりませんが、
    ジブリを意識して失敗している点は同意見だと思います。
    ただ、あまりにジブリとの比較を必死にしすぎ・・。
    ”「自然(=生死)を受け入れる」「ボーイ・ミーツ・ガール(少女と出会うことで少年が成長する)」ってのは宮崎駿のお家芸”
    といいつつ、比較しているのは殺陣のシーンや物の落ちる描写のシーンで、肝心の生死を受け入れるシーンのやボーイ・ミーツ・ガールの比較については?
    モリサキとムスカってそんなに似てますかね~、匂わせてるだけで、全然違う人間だと思いますけど。それで、目がー目がー展開と言われてもちょっとピンときません。
    アスナの心情の捉え方が乱暴すぎ・・
    主体性が無い事は監督曰くそういう役なんだそうです。
    実際、主体性の塊な子どもなんています?子どもの頃の行動に何一つ後悔した事がないとでも?
    子どもにとって主体性なんて、周りに流された中で育まれていくものだと思いますけど。
    まぁ、どの物語を作る教科書にも主役には主体性を持たせて・・と書いてあるそうなので、別に間違ったレビューじゃないかもしれません。
    あと、”アスナって成長しましたっけ?”って、それ、あなたが勝手に作った枠組みでしょ。
    この話の”喪失を知らぬ子どもが喪失を理解するまで”の流れは普通にできてたと思いますけど。
    具体的にアスナの得た物を言ってるんでしたら、”死んだ人の足跡を辿って行ったけど、そこには何もありませんでした”という経験を得ただけです。
    その上で、何か成長したか?となるんでしたら、それは、自身で喪失を経験してみるしかないかもしれませんね。
    ・・で、ハッピーエンドってどの辺がハッピーエンド?シンが故郷に帰って受け入れられていた場面があったんなら、ハッピーエンドで差し支えないと思いますが。
    作画については、凄く面白く拝見させて頂いたんですが、ストーリーについては、
    なんだか、揚げ足を取ってるだけに見えるのでちょっと残念です。

  10. 非常に興味を持って批評を読ませていただきました.
    新海誠ファンが「新海誠」を期待して見に行ったら,
    新海誠成分は「ストーリーの拙さ」しか無かったよー
    という感じを観賞後私は受けました.
    こういう新海誠ファンの裾野の広げ方は,なんか違う様な…
    毎回言われてる様な気がしますが,「次回作に期待」です.

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