今日も今日とて2本です。1本目は
「あしたのジョー(2011年版)」に突撃です!。
評価:
– これは断じて「あしたのジョー」では無い。【あらすじ】
時は高度経済成長期の日本。ドヤ街に流れ着いた矢吹丈はヤクザと喧嘩をし逮捕されてしまう。前科たっぷりの丈は刑務所へと収監される。刑務所内でも喧嘩の絶えない丈は、ある日食堂でのいつもの喧嘩でプロボクサーの力石徹に伸されたことから心を入れ替える。階級を超えた打倒・力石の戦いが始まる、、、。
【三幕構成】
第1幕 -> 丈の喧嘩と刑務所
※第1ターニングポイント -> 丈と力石の刑務所マッチ。
第2幕 -> 丈の出所とプロデビュー。
※第2ターニングポイント -> vs力石開戦。
第3幕 -> 矢吹丈vs力石徹
※第三ターニングポイント -> 力石の死。
第四幕 -> エピローグ。
【感想】
本日の1本目はおそらく上半期一番の(ニヤニヤ視点での)注目作、「あしたのジョー」です。客席は大半が若い女性とカップルで、いわゆる「梶原一騎世代」のおじさんはほとんどいませんでした。今のティーンエイジャー女子が「あしたのジョー」を読んだ事があるかはよくわかりませんが、ジャニーズファンが大挙しているということなのでしょう。監督はCGアニメーターの曽利文彦。脚本は人間描写とストーリー構成が苦手でおなじみの(苦笑)、TBS外注脚本家・篠崎絵里子です。
私は「あしたのジョー」が大好きなので、ちょっと長くなります。ですので先に結論だけ。
この映画は「あしたのジョー」として見なければ、せいぜい出来が微妙なジャニーズタレント・アイドル映画としてスルー出来るレベルです。積極的に見るレベルではないですが、怒りを呼ぶほどの出来でもありません。CGが下手くそで、無駄なスローモーションを多用していて、音楽が五月蠅くて、顔のドアップと棒読みが多い、標準的なテレビ屋映画です(苦笑)。
ただし、、、、、ただし、、、、、これを「あしたのジョー」だと思って見た場合どうしても「ハァ(呆れ)」みたいな溜息が多くなります。それはあまりにも脚本家が「あしたのジョー」を分かってないからです。
前提: なぜ「あしたのジョー」が最高に燃えるのか。
私は20代後半ですので当然「梶原一騎世代」ではありません。最初に梶原一騎に出会ったのは中学に入ったときで、学校の図書館にあった「巨人の星」「新巨人の星」でした。今調べてみたら、1980年代後半に刊行されたサンケイコミックス「梶原一騎傑作全集」版です。そのあまりの面白さに衝撃を受け、「あしたのジョー」や「タイガーマスク」を買いました。これがきっかけで「ドカベン」や「アパッチ野球軍」なんかに流れていってます。
さて、もう30年以上語られていることですが、「あしたのジョー」の魅力とはなんでしょうか? なぜ「あしたのジョー」は世代を超えて私のような若造の目頭までも熱くさせるのでしょうか?
簡単に二点だけ挙げます。一つはこれが「人生の負け犬・持たざる者が努力と根性でエリートを倒していく話」だと言うこと。もう一つは「全精力を注いだ男達の”青春の一瞬の輝き”を描いていること」です。
前提: テーマその1: 「持たざる者」の戦い
ジョーが孤児でグれている状態から物語は始まります。彼はたまたまドヤ街に流れ着き、そこで自分の居場所を獲得していきます。親のように愛情を注いでくれる丹下段平。自分を心配してくれる紀ちゃん。そして少年院のお山の大将で盟友の西。彼らは全員が人生の落伍者であり、その悲しみと反骨心と夢をジョーは一身に背負います。
そして彼は生き甲斐であるライバル・力石徹とそのパトロン・白木葉子に出会います。葉子は財閥のお嬢様で世間知らずの典型的な上流階級で、ことある事に丈と力石の間に入ろうとします。一方の力石は無敗のエリートであり、金持ちの彼女(=葉子)までおり将来を100%約束された人間です。
この「持つ者」と「持たざる者」の対立がそのまま「あしたのジョー」のテーマの一つになります。題材もそのままに、明らかに「ロッキー」に影響を与えています。
前提: テーマその2: 「青春」の持つ爆発力と儚さ
そしてもう一つのテーマが「青春」です。ジョーが決戦を前にして紀ちゃんと交わす有名なセリフがあります。
おれ、負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃないぜ。拳闘が好きだからやってきたんだ。紀ちゃんのいう青春を謳歌するってこととちょっと違うかもしれないが、燃えているような充実感は今まで何度も味わってきたよ…血だらけのリング上でな…。そこいらの連中みたいにブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない…。ほんの瞬間にせよ、まぶしいほどまっ赤に燃えあがるんだ。そしてあとにはまっ白な灰だけが残る…燃えかすなんか残りやしない…。まっ白な灰だけだ。そんな充実感は拳闘をやるまえにはなかったよ。わかるかい紀ちゃん。
これが「あしたのジョー」の2つめのテーマです。丈の年齢は不詳ですが、少年院やプロライセンスを取得したことを考えるとラストマッチでもギリギリ20歳前後ぐらいです。彼は20歳にして、人生のドン底を味わい、ライバルを(事故とはいえ)殺し、そして全てのドヤ街の希望を背負うんです。この濃密すぎる時間を紀ちゃんに「普通じゃない」と言われたときの答えが上記のセリフです。丈はあまりにも残酷であまりにも劇的な運命に襲われながらも、本人はそれを「青春」として納得しているんです。彼は20歳そこそこにして「まっ白な灰」になるために死に場所を求めます。
これこそが「青春」という言葉の持つ、一瞬で過ぎてしまう儚さと、若いからこその無謀さと、そして「大人になったら自殺しよう」と本気で決めてしまえるような圧倒的な充実感です。後から考えると滑稽な事でもあるのですが、この青春の光と影を「あしたのジョー」は完璧に描ききっています。
「あしたのジョー」の評論は星の数ほどでていますので気が向いた方は是非そちらを当たって見て下さい。大切なことは、「あしたのジョー」は普遍的なテーマを2つも盛り込んだ上で完璧にまとめ上げているということです。
本題: この実写版ってさぁ、、、、、、
相変わらず2000字近く書いてからの本題ですw
本作で描いていることは原作「あしたのジョー」のテーマとはまったく別のものです。
本作では2つの物語が並行して描かれます。そのそれぞれが上記の前提で書いたことを「表面だけなぞっているように見せかけて、実は全然関係無い」という凄い事になっています。
この映画版では白木葉子はドヤ街の孤児院出身ということになっており、その経歴のコンプレックスからドヤ街を再開発でつぶそうとします。劇中ではその再開発の現場で明確に「ドヤ街の連中vs葉子」という対立が描かれます。一見すると「持つ者と持たざる者の対立」に見えないことも無いのですが、実際にはこれは「白木葉子個人の物語」であり普遍的なものではありません。白木葉子という一人の人間のコンプレックス克服物語なんです。ものすごい矮小化されています。ポスト・エヴァンゲリオンの「セカイ系」に良くみられる症状ですw
一応さらっと俳優に触れるならば、伊勢谷友介と香川照之は(意外にも)大変よかったです。特に香川さんについては予告を見て失笑していたことを全力で謝罪いたします。いや、良い仕事をされていました。普段はどうかと思う大袈裟でわざとらしい演技も、劇画の勢いを表現するにはぴったりです。意外な食い合わせです。
そして伊勢谷さんもグッドシェイプで非常に素晴らしかったです。雰囲気だけは本当に良かったです。最近の日本ではあんまりメソッド演技をする俳優さんはいないんですが、今後もかなり期待できると思います。メソッド演技をやる場合どうしても本気で演じられる本数が限られます。できれば出演作品は吟味して戴いて、良い映画を見せて欲しいですw
その対極で評価だだ下がりなのは山下智久と香里奈です。この2人は演技以前の問題。お遊戯会か。山下さんは伊勢谷さんと同じく減量して撮影に臨んだそうですが、大事なのはそこではありません。減量は役作りの一部であり、それによってキャラクターを自分と一体化させるためのプロセスにすぎません。酷い棒読みな上、感情表現もわざとらしい顔芸だけでは話になりません。役者は目指さずに歌ものアイドル一本で行った方が良いと思います。香里奈は、、、もういいっす。美人だとは思うけど全然進歩しないし。白木葉子の持つ優雅さがどこにもないし。あと土下座の仕方が汚いw
【まとめ】
ということで相変わらずウダウダと書いてきましたが結論は前述の通りです。原作のファンはおそらく制作者の想定するターゲットに入っていませんので(苦笑)、なかったことにした方がよさそうです。山下智久のファンが見に行って彼の上半身裸にムハムハいって悶えてればいいんじゃないですか、別に。
実はこういう映画が一番困ります。繰り返しますが、単体の映画としてはそこまで無茶苦茶酷いわけではありません。お遊戯会レベルではありますが決してボロカスに叩くレベルではありません。怒りも悲しみもない諦めの死んだ目で2時間10分を過ごしましたw
ジャニーズファンニカギリオススメデス(棒読み)。