本日は三池崇史最新作、
「一命」です。
評価:
– オリジナルよりは落ちるけど、良くなってる所もあるし十分合格!!!【あらすじ】
桜田門外の井伊家上屋敷を、ある日一人の浪人が訪ねる。名を津雲半四郎。かつて広島藩主・福島正則の家臣であったが改易によって路頭に迷ったという。武士としての最後の意地として名家・井伊の屋敷での切腹を希望する半四郎に、井伊家家老・斎藤勧解由は直々に面会する。勧解由が語り出したのは春先に起きた狂言切腹の顛末だった、、、。
【三幕構成】
第1幕 -> 半四郎が井伊家を訪ね、勧解由の話を聞く。
※第1ターニングポイント -> 下男が沢潟(おもだか)彦九郎を呼びに行く
第2幕 -> 半四郎の昔話。
※第2ターニングポイント -> 半四郎の昔話が終わる
第3幕 -> 半四郎の問いただしと結末。
【感想】
ご無沙汰しちゃってすみません。本日は三池崇史監督の最新作「一命」です。1962年の松竹映画でカンヌ国際映画祭の審査員特別賞をとった傑作「切腹」のリメイクです。制作に名コンビのジェレミー・トーマスを迎え音楽はオリジナル版の武満徹先生に対抗する坂本龍一。「海外向けの日本映画」として盤石の体制をとっています。
さて、ここで毎度のお願いです。本作を考える上ではどうしてもオリジナル版の「切腹」と比べざるを得ません。でまたこの比較が大変おもしろいのですが、どうしても結末近辺に触れざるを得ない箇所があります。未見の方はお控えください。
話の概要
本作は津軽半四郎が井伊家の屋敷に「切腹したいから庭先を貸してほしい」と訪ねてくるところから始まります。第一幕では井伊家家老(=つまり殿様以外の最高責任者)の斉藤勧解由が直々に説得にあたります。春先に同じように訪ねてきた千々岩求女(もとめ)が狂言切腹(※別名「死ぬ死ぬサギ」。武家が迷惑だから金をあげて追い払うのを見越したタカリ行為)をしかけてきたこと。そしてそんなタカリ行為を一度許すと貧乏浪人が押しかけてしまうことから、詰め寄って本当に切腹させたことを伝えます。半四郎は自分は本当に切腹しにきたのだと告げ、ついに庭先に通されます。最後の願いとして介錯人を指名する半四郎でしたが、指名した人物がことごとく病気で休んでるというのです。これに何か裏があると踏んだ勧解由が詰め寄ると、半四郎は昔話を始めます。そこで件の狂言切腹をした求女が半四郎の義理の息子であったことが明らかになります。
本作のキーワードは「武士の面目」です。このキーワードを巡り、求女と半四郎と勧解由と彦九郎がそれぞれの行動を起こしていきます。
ジャンルとしては私が勝手に呼んでいるところの「悪魔型サスペンス」です。まるで「エクソシスト」に出てくる悪魔パズズや「ダークナイト」のジョーカーのように、半四郎は「常識の中に潜む欺瞞」を暴いていきます。「武士の面目とはかくあるべし」という欺瞞を暴こうとする者、欺瞞やプライドをすてて実利を得ようとする者、プライドを捨てきれず欺瞞であることを露呈してしまう者、そしてその欺瞞を必死で守ろうとするもの。この4者を通して、はたして観客には何が見えてくるのか? それが本作の肝です。
オリジナル版との決定的な違い~リテラシーは時代で変わるという話~
本作とオリジナル版との違いをざっくりと言うならば、「ウェットなリメイク版」と「痛烈なオリジナル版」という所でしょうか。本作もオリジナル版も基本的なプロットは同じです。ですが、演出面や語り口ではかなり違いがあります。一番わかりやすいのは第一幕の求女の狂言切腹のエピソードです。オリジナル版では求女は追い詰められて一気に切腹を行いますが、本作では最後に往生際悪くお金をせびります。また本作では湯浴みを行う場面やお茶菓子が出てくる場面などが追加されています。
また本作で最も長い求女が狂言切腹に至るまでの回想では、猫のエピソードや求女と美穂がまんじゅうを分け合うエピソード、さらには半四郎の笠貼りにまつわるエピソードや金吾お食い初めなどなど、多くの「人間味あふれるエピソード」が追加されています。そして極めつけはラストの大立ち回りに関するある決定的な変更です。
これらはすべて求女や半四郎に人間味・生活感を付加するためのエピソードであり、より感情移入をしやすいようにするものです。
この変更は大変合点がいくもので必要なものだとは思います。しかし単純になりすぎている気がしますし、なによりオリジナル版にて痛烈に皮肉られて描かれる井伊家(=エリート)の「武士の面目」が本作ではかなりヌルくなっています。
前述の通りこの話は「武士の面目」がキーワードとなります。ところが非常に面倒なことに、本作の半四郎の主張は大変誤解されやすいものとなっています。というのも、半四郎の主張を理解するためにはそもそもの「武士とはかくあるべし」というリテラシーが大前提として観客に求められるからです。
求女は事情はどうあれ「死ぬ死ぬサギ」をやろうとした結果本当に切腹せざるを得なくなってしまったわけで、情状酌量の余地があるとはいえまったくほめられたことではありません。ですので、半四郎は求女の仇討ちに来たわけではありません。半四郎が訴えているのは、求女に「武士に二言はないのだから切腹すると言った以上は切腹しろ」と迫った井伊家に対して、「だったらおまえらも武士の情けをちょっとは見せたらどうだ。」というものであり、「そこまで言った以上はおまえらも武士の面目を死ぬ気で守ってるだろうな。」という問いかけです。「本当に切腹はしますから一日だけ待ってください」といった求女の申し出を逃げ口上と断じて信用しなかったり、見せしめにするために竹光で切腹させたり、それは「武士として立派な行い」とは到底言えないという価値観です。
このあたりの「武士の面目/武士とはかくあるべし」という前提がないと、本作は詐欺師の仇を討ちに来たハタ迷惑な逆ギレ貧乏浪人の話に見えてしまいます。
話を戻しますが、おそらく制作者側はこの誤解を恐れて、理屈はわからなくても感情的に半四郎側に感情移入できるように前述のようにエピソードを追加したのだと思われます。逆に言えば、オリジナル版の1962年の頃はそんな配慮をする必要もないほど「武士道精神」が常識として浸透していたわけで、なんか微妙~~~な気分にさせられます。まぁ時代劇が少なくなって久しいですし、今日も客席がお年寄りばっかりでしたから仕方がないのかもしれません。
そしてオリジナル版では一貫してこの欺瞞を滑稽なまでに取り繕う役である勧解由は、今回のリメイク版では時折同情を見せる「サラリーマン侍」になっています。こちらの変更は個人的にはオリジナル版よりも好きです。オリジナル版の当時はとことんまでエリート武士側の「体面を保つ」行為を皮肉に描いていたわけですが、今回は「とはいえエリート側にだって建前を守らなきゃいけない事情がある」という視点が追加されています。このあたりも時代性かなと思います。オリジナル版が公開された1962年は高度経済成長期のど真ん中であり、中流階級であり”普通であること”が美徳とされた時代です。だからエリートはまとめてみんな嫌いです(笑)。ところが今では家老の勧解由はエリートではなく「中間管理職」扱いされてるわけです(笑)。このあたりは映画の出来とは別に大変おもしろい所です。
【まとめ】
映画みたいな表現文化はたまに露骨に時代性がでてしまうことがあります。良い方向にせよ悪い方向にせよ、”今の観客”を意識する以上は当然っちゃあ当然のことです。そんな所に注目するとリメイク映画も結構楽しめるのではないでしょうか?
個人的にはオリジナル版の方が面白いし出来も良いと思いますが、でも本作もかなり善戦していると思います。たぶんオリジナル版を事前に見ていなければ、手放しで絶賛していたと思います。十分に自信をもってオススメできます。
これはリメイクだったんですね・・・知らなかったです。
静かで、テンポも緩やかだな~と思いながらもグイグイ引き込まれてしまいました。