昨日見てちょっとツイートしちゃいましたが、
「ダーリンは外国人」です。
評価:
– ダーリンは団体職員。私は夢見る漫画家志望!(のニート)【あらすじ】
小栗左多里は漫画家志望の女の子である。左多里はイラストを人権団体に持ち込んだ際に知り合ったアメリカ人のトニーと恋仲になり同棲を始める。
そんな中、姉の結婚式で両親にトニーを紹介した左多里だったが、父から交際を反対されてしまう。父に認めてもらうため、自身が漫画家になって自立できるよう、左多里は漫画に打ち込んでいく。しかしそれはトニーとのすれ違いを生んでしまった、、、。
【三幕構成】
第1幕 -> トニーとの三回目のデート
※第1ターニングポイント -> 姉の結婚式。
第2幕 -> 左多里、漫画家への道。
※第2ターニングポイント -> 父が死ぬ。
第3幕 -> 左多里の渡米と結婚。
【感想】
さて一日遅れですが本日は「ダーリンは外国人」です。小栗左多里の自伝的マンガの映画化で、原作には無い恋愛要素を拡大して劇映画にしています。
で、いきなり結論を言いますが、私は本作を見て怒りも悲しみも湧いてきませんでした。代わりにあったのはものすごい虚無感と放心です。というのも、本作の心底くだらない内容もさることながら、あきらかに適当にテイクをつないだカットとなんとなく適当に撮った構図に辟易したからです。
本作の適当ポイント
まず誰もが思うであろう事をツッコませていただけば、そもそもこの物語自体が「ダーリンは”外国人”」になっていません。
ハッキリ言って、トニーが外国人である必要がまったく無いんです。だって、本編の中でカルチャーギャップコメディはただの一度も成立していません。洗濯物の表示が分からないのは外国人に限りませんし、食器を適当にゆすぐのは外国人だからではありません。もっというと、父親が反対した理由は「外国人だから」ではなく「同棲開始時に挨拶に来なかった」からです。本編の中で、ただの一度も、本当に一瞬ですら、トニーが外国人である事が原因で喧嘩するシーンはありません。
はっきり言います。
本作は「ダーリンは外国人」ではなく「私は夢に恋するニート」です。
全ての喧嘩や仲違いの原因は、左多里の八つ当たりおよび常識の欠如であり、トニーの適当な性格に起因するものです。そこに日本人だの外国人だのといった文化論の入り込むスキは1ミリたりともありません。全て、個人の性格・性質のせいです。
本作で本気で呆れかえったのは、最終盤で左多里が母に「やっぱりトニーが外国人だから上手くいかないのかな」とボヤくシーンです。
400人収容の映画館で私含めて3人しか見ていなかったせいもあるのですが、思わず声に出してツッコんでしまいました。
ちげぇ~よ。オメェがワガママで無神経だからだ!外人関係ねぇし。
ホントに関係ないんですよ。カルチャーギャップ皆無。トニーが日本語ペラペラすぎるため、まったく左多里が異文化交流をしません。冒頭のパーティシーンで孤立する描写が良い例です。もし、彼女が異文化交流をしたがるタイプなら、パーティシーンでは英語が分からなくても身振り手振りだけで飛び込まないといけません。ところが実際には壁際でオロオロしてるだけです。だから、そもそも左多里は異文化交流に興味が無いんです。
ではここで問題です。異文化交流に興味の無い女が、日本語ペラペラの外国人と付き合いたがって、いきなり同棲を始める理由はなんでしょう?
もちろん本気で好きだからもあるんでしょうが、しかし彼女はことあるごとに「トニーは外国人だから」という言い訳/こだわりを持ち込みます。
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と言うことで、私の考える答えはコレです。
外国人の彼氏とつきあえる私が大好きだから。
少なくとも本作を見る限りにおいて、左多里はトニーをブランドバッグか何かと勘違いしているようです。可愛そうなトニー。ちょっと間抜けで気が利かないだけなのに、外国人というレッテルで特別視されるなんて、、、。
本作の適当ポイント・その2
さて、カルチャーギャップコメディになっていないという問題もさることながら、次に挙げる点はある意味もっと深刻です。
左多里とトニーは何して食べてるの?
要は二人とも社会生活を営んでいるように見えないんですよ。二人が同棲している家はすごい広いですし、左多里の実家は石垣付きの大豪邸です。もちろんトニーの実家もアメリカでもかなり広い方の一戸建てです。
さて、冷静に考えてみましょう。左多里は漫画家志望で、バイト等している様子はありません。ほぼ収入ゼロです。一方のトニーは、人権ボランティア団体の勤務らしいですが、作中では一日中家に居ます。本物のトニー・ラズローの政治活動は一端脇に置いといて、この作中のトニーはそんなに儲かってるんでしょうか?
二人に全然生活感がないんです。トニーはいつも同じTシャツ着てますし、この二人がどうやって生活しているかがさっぱり見えないんです。少なくとも作中を見る限り、左多里は親からの仕送りのみで生活しているように見えます。
ニートに「私の彼氏って外国人なの。いいでしょ?」って自慢されても、そんなん知るかってことですよ。別にアンタが幸せならいいんじゃない?って。
でも自分と夫の馴れ初めをこんなファンタジー世界に脚色されて全国公開されたら、普通の”日本人”なら恥ずかしくなると思いますよ?
あ! これってカルチャーギャップコメディとして成立してるじゃないですか!?
観客と監督と脚本家と原作マンガ家のカルチャーギャップ(苦笑)。
全員日本人だし、、、どんだけメタ構造のアバンギャルド映画だよ、、、。
【まとめ】
原作ファンの方には怒られるかも知れませんが、この映画を見る限りに於いて、左多里には人種差別主義者の匂いがプンプンします。だってトニーが何をやっても「外国人だから」と思ってるような奴ですよ。根本的に左多里の精神構造では「外国人」を馬鹿にして(=特殊視して)見下してるんですよ。個人個人として向き合いたいとか言っておきながら、その心中ではものすごい差別意識があるわけです。しかもブランドバッグ扱い。最低ですね。左多里の両親の態度の方がよっぽど誠実です。
結局ですね、、、この作品はカルチャーギャップコメディにもなっていなければ、恋愛映画にもなっていません。ただワガママな女の見当違いな自慢話を見せられるだけです。
別にこれで良いと思うならいいんじゃないでしょうか?
ただし、こういった精神構造の人間が勢いづいて自己愛が肥大していくと、待っているのは辻仁成や押尾学のラインしかありませんので是非お気をつけ下さい(苦笑)。
ダーリンは、予告編からして、「あいあむあまんがらいたぁ」とか、いまどきそんなひらがな発音するやついるかってくらい、なめてる感じがしていて、いやーな空気を出しまくりでしたが、実際の映画も「あんたたち、ダーリンは外国人って漫画みたことあるの?」とスタッフに問い詰めたいくらい、原作のおもしろさの一部もないナンセンスな内容でした。おかげで井上真央まで大嫌いになってしまった。
このぶんでは、「つれがウツになりまして」のようなマンガも、夫婦愛をメインにベタベタに描くようなセンスのない制作者がつくってしまうのではないかと心配になったが、よく考えてみたら、注目度ゼロだったのでつい忘れていたが、「つれウツ」はすでに、危惧したまさにそのとおりのくだらないドラマになっていたのであった。
さいきんの日本の映画・テレビの制作者は、自信をもって世界最低ですと豪語できるレベルですね。