ようやっと休みが取れたので
「さや侍」を観てきました。
評価:
– 切腹を申しつける!by 伊武雅刀【あらすじ】
伊香藩水位微調役だった野見は脱藩の身で追われていた。賞金稼ぎに追われながらも娘のたえと逃避行を続ける野見は、ある夜、多幸藩に入ったところを捕まってしまう。野見はお白州にて「三十日の業」を宣告される。それは母親の死でふさぎ込んでしまった若君を笑わせるために、30日間異なる芸を一日一個披露するというものだった、、、。
【感想】
さて、本日は2本観てきました。1本目は松本人志監督3作目の「さや侍」です。予告をみるだに危なげな臭いがプンプンでしたが、とりあえずはずせないので見てきました。平日の昼間ですが結構中高年で埋まっていました。TOHOシネマズで1000円だったからでしょうが、それでもまだまだファンはいるようです。
ちょっと今回は最終盤まで書かざるを得ないのでネタバレありで行きたいと思います。申し訳ございませんが、未見の方はご遠慮下さい。結論としては、前2作よりも映画っぽい部分は増えていますが、その分だけより明確に失敗しているのが見えてしまい残念な事になっています。さらにメッセージの不快さは桁違いにパワーアップしています。どうなるかはわかりませんが、個人的には仮に松本監督の次回作ができたとしても見に行くかどうかはかなり怪しいレベルです。
「三十日の業」の流れ
話は野見に課せられた「三十日の業」が中心になります。そして「三十日の業」にはフェイズが3つ用意されています。まず第1フェイズとして、野見は自分でギャグを考えます。これは腹芸だったりどじょうすくいだったりとクラシカルなものでクオリティは目も当てられませんが、劇中でもきちんとすべっているので特に問題はありません。
次に野見は門番2人を味方につけ、彼らのアイデアをそのまま実行するようになります。ここが一番長く取られている部分で、かご抜けだったり白刃取りだったりです。ここから最後まで野見は何も考えなくなります。これ以降はすべて誰かに言われた通りのネタを披露するだけで、本人が努力するような描写はありません。このフェイズが一番長いため、どうしても野見はただ周りに流されているだけのような印象がついてまわります。
最後のフェイズは人間大砲以降です。ここからヘソを曲げていた娘が協力して口上するようになり、ギャグはすべて大道具をつかったバラエティ的なものになります。また、これより舞台にギャラリーがはいるようになり公開の出し物になります。一貫してギャラリーたちは野見の出し物に手を叩いて喜びますが、若君は無表情なままです。
そんなこんなでクライマックスの最終日、殿様までも味方につけた野見は「何をやっても若君が笑ったことになる」というインチキな状況の中で、何もやらずに切腹します。作品上では、それまでみじめだった野見が最期に武士としてプライドをもって死を選ぶというような雰囲気で描かれています。
作品内での問題点
さて、全体を通して言える作品内での問題点は3つです。
1つは野見の努力がほとんど描かれないことです。野見は最初から最後までただただ周りに流されまくるだけでほとんど自主的な行動をしません。ですから、そもそも感情移入も出来なければ応援しようという気もおきません。
2つめはギャグのクオリティの問題です。特に2フェイズ目までは作品内でもすべっているので気にはなりませんが、3フェイズ目は作品内のギャラリーは爆笑しているのに実際にはまったくおもしろくないという現象がおきています。これは例えば「ランウェイ☆ビート」で作品内では絶賛されているのに実際にフィルムに映っているファッションはダサいというのと同じで、どんどんフィルム内との価値観のズレが気になって興味自体がなくなっていってしまいます。
3つ目はフィクション・ラインの設定の問題です。本作では、冒頭で三味線の隠し刀で背中をざっくり切られて血が噴き出してもすぐに治ってしまいますし、鉄砲で頭を撃たれてもケロっとしています。ですから、どう見ても本作はルーニー・テューンズのような世界なんです。上から大岩が振ってきて押しつぶされても「ひらひらひらひら」みたいに人間がペチャンコになってすぐ元に戻るような世界観です。だから切腹くらいじゃ野見は死なないと思えるんです。介錯で首を切られたとしても、すぐ首がもどって生き返るんじゃないですか? だから全然感動できません。そもそも散々それまで生き恥をさらしていたくせに最期だけ「侍のプライド」みたいなことを言われてもどういう反応をしていいか分かりませんし。最終盤でお墓参りをした娘と若君の前に幽霊っぽい野見がでてきますが、このフィクション・ラインだとそれが幽霊かどうかすら分からないんですよ。単に切腹して首を切られても死ななかっただけにも見えます。
作品の世界観から見るメッセージの不愉快さ
とまぁ単純に映画としてかなり如何かと思う出来なのですが、はっきりいってこれだけであればそんなにケチョンケチョンに言うようなレベルの作品ではありません。よくある失敗した邦画です。ですがここに描かれるメッセージというのが本当に不愉快で本当にがっかりするんです。
見ればすぐ分かるように、本作は監督の前作「しんぼる」と同じく「天才・松本人志の苦悩」という自己評価がテーマになっています。本作の野見は松本人志の投影になっています。松本はアンチ松本(賞金かせぎトリオ)から致命傷と思われる攻撃をくらいますが、しかし本人はそんなことは一切気にせず、またたいしたダメージも負いません。ところが松本は奉行所につかまってしまい、辛口評論家である若君を笑わせなければいけないというバツゲームを食らうハメになります。しかし彼一人の力ではまったく笑わせることが出来ません。体を使った小規模なギャグではまったく笑いをとることが出来なかった彼は壁にブチ当たります。
その後に板尾と柄本Jrというブレーンを仲間にしてギャグを繰り出しますが、それでも評論家(若君)を喜ばせる事は出来ません。しかし、喧嘩別れしていた後継者(娘)が戻ってくることで、彼は本来の力を発揮します。大道具を使ったお金の掛かるギャグ(映画orTV)を繰り出すようになり、彼は一般大衆の人気者になります。しかしそれでも評論家(若君)を笑わせることは出来ません。評論家以外のほぼ全てを味方につけた彼は完全にイエスマンに囲まれた状況の中で「何をやっても笑ってもらえる」という状況を拒絶します。「自分にも表現者/男としてのプライドがあるんだ」として自ら切腹するわけです。
時は経ち、何百年もたって、町に残ったのは若君(評論家)ではなく彼の墓石(=作品)でした。彼は若君を笑わせることは出来ませんでしたが、歴史が彼を正当に評価したのです、、、。
ということなので、本作のテーマは「天才・松本人志の苦悩」となるわけです。彼の脳内では、彼はいま正当に評価されていないのです。「市中の人(一般人)には受けているのに若君(評論家)には評価されていない」というのが彼の自己認識です。しかしイエスマン・松本信者ばっかりに囲まれて甘やかされるのは嫌だと。そんな事になるぐらいなら引退したほうがマシだって言ってるんです。だけど今に見てろと。周りがどうこう言おうと、自分の正当性は50年とか100年経ったときにひっそりと作品が語り継がれていることで証明されるんだと。
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好きにすればいいんじゃないですか。でも、今の松本人志さんの状況はまさしく「イエスマン・信者に囲まれて甘やかされている」んですから、わざわざ映画を撮ってまで宣言した以上はさっさと引退するべきだと思いますよ。それこそ「生き恥をさらすぐらいなら自害しましょう(by たえ)」な状況なんですから。
そもそもこの作品自体にオリジナリティがないんですけど、、、。
実は一番どうかと思うのはこの作品のオリジナリティの部分です。本作の元ネタは「千夜一夜物語」または「最後の一話(A Story Short/ケルト民話)」です。どちらもある事情によって毎日一つずつネタを披露しなければいけなくなった人間がネタ切れに悩みながらも表現者としての能力を発揮していく話です。本作はこれに松本人志本人の自己表現をかぶせてくるんです。そこに乗っかるギャグもクラシカルなものから大道具を使った良くあるバラエティ企画ものまで、まったくオリジナリティがありません。「わざと寓話的にしたんだ」と言われればそうかも知れませんが、ここまで類型的なモノで固めておいて「表現者でござい」と言われてもかなり困ります。しかもこのテーマ自体も前作でやったことの焼き直しなわけで、それすらオリジナルではありません。だから本作にはどこにも見所がありません。
【まとめ】
最初に戻りますが、私は本作を見て松本人志作品はもうお腹いっぱいです。私は「ごっつええ感じ」のど真ん中世代でとんねるずよりもダウンタウン派でしたし、松本人志のダラダラしゃべりのショートコントは本当に天才的だと思います。ですが、ここまで自意識が肥大化してしまうと、これはもう手が付けられないように思えます。松本さんの中ではもう彼は立派な歴史的映画監督になってしまっていて、死後に評価が改められるような位置に自分を置いちゃってるんです。そりゃあ確かに吉本興行の映画では良い方ですし、周りも稼ぎ頭に文句をいいづらいのも分からないではないですが、、、いい加減これは誰か止めた方がいいと思いますし、100歩譲ってもちゃんとした監督や脚本家を雇って本人は制作とか原案とかでクレジットさせた方が良いと思います。
特にオススメはしません。でも松本さんが好きな人は見に行った方が良いと思います。ある意味では信心テストのようなもので、「これでもまだついてこれるか?」って聞かれているようでした。申し訳ないですが私にはもう無理です、、、。本当にすべっているにも関わらず「わざとすべってるんだ」という負け惜しみを前面にだしてしまった時点で、もう彼に求心力は残っていないんだと思います。寂しい話です。
おもしろうて やがて悲しき。
『遺書』だか『松本』だか『愛』だったか、それともなんかの雑誌のインタビュー記事だったか、とにかくどこで言ったのかは忘れてもうたが、昔、このひとは
「笑いも実は悲しみを含んでいる。オレも自虐ネタで笑いを取るが、ほんとうのところではちょっと傷ついている」
…
はじめまして。
今までさや侍のラストが意味が分からなくて、ずーっと疑問符が浮かんでいたんですが
きゅうべいさんの解説ですーっと納得しました。
あれは松本の苦悩を書いてたんですね。
今までテーマを「親子の絆」だの「侍の誇り」だのと言う解釈をされている方はいらしたんですが
それを見る度にすごく納得がいかなかったと言うか何だか違うと漠然と思ってました。
きゅうべいさんの解決のおかげで心のもやもやがスッキリしました。
ありがとうございます。
しかしテーマが分かると余計クソ映画ですね。
私も松ちゃん好きですが、前2作品は一つもおもしろくありませんでした。(さや侍未見)私が彼に期待するのはやはりビジュアルバムのような作品です。この意見を彼に伝えると『素人はそう言うやろなぁ。あれは七割の力で作ったもんやし。』などと言われそうですが。
いつも見させてもらってます。
これからも楽しみにしてます!
くだらないギャグをずっと続けているさや侍を若君はだんだん好意的に見てくるようになってくる。
さや侍は若君が絶対に笑えるというつぼを教えてもらう。
最後にそのギャグをしたとき娘の身に危険なことが起こり、娘を助けようとして
ギャグが失敗。滑ってしまう。
それを若君がさや侍のことが不憫に思い、愛想笑いをする。
こんなストーリーかと思ってました。