ようやく原作で消失まで読み終わりました。ということで、満を持して
「涼宮ハルヒの消失」です。
評価:
– 萌えアニメの皮を被った上質なヒューマノイドSF。【あらすじ】
12月18日、もうすぐ終業式が来るクリスマスの準備も慌ただしい師走のただ中、キョンが目覚めると世界が変わっていた。
居ないはずのクラスメイトが居て、居るはずのクラスメイトが居ない世界。キョンは自分以外の全てが自然に生活する奇妙な世界に迷い込んだ。混乱の中で訪ねた文芸部室で彼は見知った長門有希を見つけるが性格は似てもにつかない。翌日、手詰まりながらも再び訪れた文芸部室で書棚の本を手に取ると、そこには元の世界の長門が残した手書きメッセージ付のしおりが挟まっていた。「プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限・二日後」。プログラムとは何か?そして鍵とは何か?
そしてキョンは元の世界に帰れるのだろうか?
【感想】
満を持して「涼宮ハルヒの消失」です。原作未読の状態で二度見に行ったのですが、それは別に一度目で分からなかったからではありません。とにかく面白かったからです。
映画文法としてはイマイチなところもあるのですが、そんなアラは全て吹き飛ばすほどの圧倒的な展開と圧倒的なテンションで画面が迫ってきます。三時間近い上映時間ですが、まったくダレることなく二度ともあっという間でした。
サスペンス調なのでネタバレを控えようとも思ったのですが、どうせ見たい人は全員見てるだろうということでオチを含めて全開で書かせていただきたく思います。
この作品にはそれをするだけの価値があると思いますし、それは非常に偏愛を生みやすい作品だと言うことです。
なお、現在私は原作を六巻(涼宮ハルヒの動揺)まで読んだ状態でこの文章を書いています。
原作・涼宮ハルヒシリーズを読んで。
涼宮ハルヒ・シリーズは、傍若無人でツンデレで世界を再構築する能力を持った涼宮ハルヒ、どじっこ萌えキャラで未来から来た朝比奈みくる、無口で無表情なヒューマノイドの長門有希、優等生で少しイヤミな超能力者の古泉一樹、そして主人公のキョンを構成員とするサークル・SOS団を中心にしたドタバタコメディです。早い話が、非常にオタク的な要素を詰め込んだ典型的なキャラもの作品です。原作の熱狂的なファンには怒られるかも知れませんが、はっきり言ってオリジナルな要素はありません。涼宮ハルヒの機嫌が悪くなると世界が変質し涼宮ハルヒが願うとそれが実体化してしまうという、これ以上無いほど「セカイ系」のど真ん中です。
正直な話、原作を読んでいて特に「涼宮ハルヒの退屈」まではハッキリと微妙な感じでした。私自身が元々アニメオタクなので苦ではないんですが、一昔前のギャルゲーのテキストを読んでいる感じといいますか、ただただ類型的で没個性なキャラがワイワイやってるだけのどこにでもあるオタク向け文章という印象しかありませんでした。
ところが「涼宮ハルヒの消失」が面白いんです。今現在六巻までしか読んでいませんが、ここまでで唯一「萌えキャラ設定に頼らない正当な人間ドラマ」を描いています。実際、ここまで娯楽的なカタルシスを詰め込みつつもヒューマノイドの悲哀を描けている作品はなかなかありません。涼宮ハルヒというシリーズを無視してでも、作品単体で十分に評価されうる作品です。
物語の根幹・迷い込んだ異人の話
本作はキョンの独白から始まり、全編を通じて合間合間でキョンの独り言がナレーションで挟まり、ラストもキョンの独白で終わります。元々、涼宮ハルヒシリーズ自体の構造として「SOS団で唯一普通の人間」であるキョンは読み手の感情移入先として用意された器のような存在です。そして映画でも視聴者は完全にキョンの視点のみから世界を見せられます。これが非常に効果的に働いています。本作においてキョンは終盤まで「巻き込まれた善意の第三者」という立場を崩しません。唯一終盤の長門有希の台詞を除き、キョンが作中で得た情報は例外なく視聴者にも提示されます。これにより視聴者はキョンを利用して不思議な世界と時空修正中のタイムパラドックスのハラハラドキドキに完全に同調することが出来ます。非常に丁寧な作りで、上手く感情移入させています。
実はこのナレーションの時制がおかしいという問題はあるのですが、それも作品の勢いに圧されてそこまで気になりません。
不思議な世界に迷い込んだキョンの行動も非常に理にかなっています。目立ったご都合主義的強引さも無く、非常にスムーズにタイムリミットが迫り、そして嵐のように傍若無人なハルヒによってあっという間に問題が”勝手に”解決します。それもそのはずで、キョンは本当に普通の無力な人間なんです。なので問題を解決するような超人的活躍は一切しません。彼は終始オドオドしているだけで実質的にはたいしたことは何にもやっていません。でも、だからこそ視聴者は感情移入できるわけです。あくまでもこれは一般人が巻き込まれて体験してしまった不思議な世界を描いた作品です。
長門有希とタイムパラドックス
そして本作を私が気に入った一番の理由は、この長門有希の存在です。彼女を通してヒューマノイドの悲哀がシンプルに描かれます。
本作では、非常に独特な人生観・世界観がまかり通っています。それは未来至上主義と言っても良いほど、「予定調和」を大事にする世界です。本作には朝比奈さんが居てタイムトラベルが可能です。そこで未来で何かが起こっていると言う事それ自体が、「必須イベント・ノルマ」として過去に求められます。例えば、本作では最初からハッピーエンドに終わることは分かっているわけです。なぜなら、未来から朝比奈さんが来ているからです。これがすなわち「未来が存在する」ことの証明になり、「世界が終わらないこと」の証明になっています。長門も三年後に自身が暴走する未来を知っておきながら、そのイベントを起こすために振る舞います。すでに未来というのが決定していて、それに向かって行動をしていくだけという何とも地獄のような世界観です。しかしそんな世界観の中で、長門は「感情らしきバグ」を発現させます。これも予定調和の一つではあるんですが、それを十分に理解した上で「予定調和」として受け入れる長門の姿に「ヒューマノイドは心を持ちうるのか」というありがちな問題提起がすんなりと回答されます。
心を持つかも知れないが、その心ですら一種の計算結果であり予定調和であるという発想。この世界には人間に自由意志がほとんどありません。終盤にキョンが変革後の世界と変革前の世界のどちらを選択するかで葛藤するシーンがありますが、それですらこの世界観の中では予定調和なのです。「全てが起こるべくして起きている。」という冷たい舞台の中で、それでも自由意志のような物を見せるキョンの姿が、そのまま「心を持ってバグってしまった長門有希」の姿と重なります。
2人とも定められた枠組みの中で必死にもがいているわけです。でもその”もがき”ですらこの世界では「予定されたイベント」になってしまいます。
タイムパラドックスの論法をそのまま世界観にまでシフトさせてしまった作者の発想にはただただ脱帽します。
巨大な運命に対して無力と分かっていながらもがいて自己証明をしようとする人間達が図らずも描かれているわけです。
これが本作をただの「キャラもの作品」ではない一級品のSFにしています。
【まとめ】
最後になりましたが、本作では大きく二カ所が原作から変更されています。一カ所は、変革後の世界でハルヒ・古泉・キョンが東中に入り込むシーン。もう一カ所はラストのキョンと長門の会話シーンです。前者はキョンが教室と外を往復する場面をカットして話のテンポをスムーズにしています。後者はおそらく雪が降るシークエンスをやりたいためだけに屋上に舞台を移しています。両場面とも変更した効果は十分に出ていると思いますし、監督および脚本家の方が十分に原作を租借している様が全編から伝わってきます。
実は私は原作の「涼宮ハルヒの消失」以外はそこまで好きではありません。というのもあまり読み返す気が起きないほど内容が薄く、萌えキャラものに偏重しているからです。しかし、少なくとも「涼宮ハルヒの消失」は傑作ですし、映画も大変面白くできています。なにせシリーズ未読の私がリピートするほどでした。是非シリーズ未読の方も劇場に足を運んでみてください。
「アイ、ロボット」を見るぐらいなら、本作を見る方が何倍もヒューマノイドに心揺らされることでしょう。
日本のアニメ映画に抵抗が少ない方であれば、全力でオススメいたします。