聲の形

聲の形

昨日は今更ですが

「聲の形」を見ました。

評価:(40/100点) – アニメ版・中学生日記


【あらすじ】

石田将也(いしだ しょうや)は高校生である。小学生の時に聴覚障害のクラスメイト・西宮硝子(にしみや しょうこ)をいじめた罪を一心に背負い、自閉気味になりながらも親が肩代わりしてくれた賠償金を返済するためだけに生きてきた。ある日、バイト代で総額170万円を作り終えると、将也はそのお金を母に遺して自殺するために川へ向かう。途中、彼は最期の謝罪をするために硝子のもとを訪ねる、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 小学校時代の回想
※第1ターニングポイント -> 回想終了/硝子に会いに行く
第2幕 -> 西宮姉妹や永束との交流
※第2ターニングポイント -> 橋上で将也が当たり散らす
第3幕 -> 仲直り


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【感想】

さて、昨日は京アニの最新作「聲の形」を見てきました。最新作と言ってももう公開からだいぶ経ってますので、お客さんも学生カップルと一人サラリーマン数名といった所で、かなり空いていました。監督は「けいおん」の、、、というか京アニ社員の山田尚子。キャラデザも同じく西屋太志で、ルックスはまんまいつもの京アニ作品です。自慢じゃないですが、私、本作のウエノとけいおんの澪を並べられたら見分ける自信がありません(笑)。

一応最近はアニメ映画を取り上げる時はなるべく大真面目にちゃんと書くようにしてるんですが、(←実写でもいつもやれよというツッコミはご勘弁^^;)本作は面倒くさい要素がありすぎるのでさら~っと流させていただきたいと思います。

テーマと概要

この映画のテーマはとても明確です。「人と人との距離のとり方とコミュニケーションについて」。登場人物たちは、各々の思惑をもとに他者との関係を築き上げていきます。サバサバしていて仕切り屋のウエノ。根っからの「姫気質」で全てが自分のためにあると思っている川井。カツアゲから助けてもらったことで将也に全幅の信頼と友情を寄せる永束。そんな中で、物語の中心となる将也は、観客視点の受け皿として、まわりに流されていきます。

将也視点では彼はただ調子に乗ってからかってたのがエスカレートしただけなのに、結果としてイジメの極悪戦犯扱いされて自閉症寸前まで追い込まれます。一方、イジメの共犯者達は全てを将也に押し付けて逃げ出します。この作品は、将也の罪悪感と贖罪を中心として「人間同士のコミュニケーションと距離感の難しさ」を描きます。

差別的な意図は一切ございません

イジメだの障害者だの自殺だの核地雷級のポリティカル・コレクトネス案件なので、これをまとめるのは一苦労です。しかしそこはさすがに天下の京アニブランド。本作ではこの難問をガッチガッチのプロテクトで回避してみせます。

硝子が難聴である理由は劇中では特にありません。硝子が難聴なのは、ひとえに彼女を「他人との距離感がわからず、奥手であり、コミュニケーションに難がある、にも関わらず非が無い」というアクロバット設定にするためのオプションです。つまりなるべく観客に嫌悪感をいだかせないようにしつつ限りなく”無垢”であることの表現としての障害なんですね。また面倒なものを突っ込んでくるなぁと、、、、。だからこれに「障害者ポルノじゃねぇか!」「なんでもかんでも障害者=天使じゃねぇ」と怒る人がいるのは当然です。この設定の硝子はまさしくコミュニケーションのブラックホールです。他人同士の距離感を破壊し、しかし障害者であるが故に倫理的に守られていて責められることもなく、そして本人にもまったく悪意がない。彼女は彼女で「私はいつも周りに迷惑を掛けている」と罪悪感を背負っていて、結局行くところまで行くため、落とし前さえ付けている。ものすごく倫理的にプロテクトされた教育的・道徳的キャラクターです。

こんな最強守備力キャラに絡んでいく将也やウエノはまさに「スーサイド・スクワッド」でジョーカーに絡まれて「ハーレイあげよっか?」とか言われちゃったアンちゃんと一緒です。これは絡んだ時点で負け。どんな選択をしたって逃げ場はありません。

ただ、この作品の良い所は、ちゃんと観覧車の中でウエノがまさにそこにキレる視点を入れることです。「おまえ障害者だからって甘えてんじゃねぇぞ」って。これ、この作品をアメリカで公開したら変な団体から猛バッシング喰らうこと請け合いです。それをちゃんと聴覚障害者の団体の協力を取り付けたお墨付き作品で出来るっていうのが、日本もまだまだいけるなと感心しました。

だからですね、この作品は100%倫理的に正しい「ユニバーサルデザインな映画」です。耳が聴こえないからってコミュニケーションをサボる理由にはならない。健常者だからって、耳が聴こえないやつをめんどくさがってハブる理由にはならない。聴こえようが聴こえまいがそんなの関係ない。どうせ一人一人は別パーソナリティなんだから、各々に合ったコミュニケーションをちゃんとやれ。グゥの音も出ないほどの正論です。強いて言えば「面倒な案件には深く関わらない」という大人な世渡りオプションが提示されてませんが(笑)、そこは青年向けアニメだからね^^;

ただですね、、、、これ映画としての出来は正直あんまり良くないと思います。メッセージは超道徳的で超正しいですが、それを映画文法に起こすことをしていません。アニメ絵に演技をさせるってものすごい労力なので、つい表情や情景で描写するのをやめてモノローグ全開になってしまいがちです。とはいえ、本作はさすがにちょっと、、、、。たしかに、動き自体は良いんですよ。手書き風(なのか本当に手書きなのか)で入りと抜きがしっかり入った線を見事に動かしてます。この技術レベルは本当に凄いです。でもさすがに本作はほとんどがモノローグで、胸の内をボソボソ言ってるだけですからね、、、。ラジオドラマかっていうレベルでぜ~んぶセリフ化してくるので、そもそも映画じゃなくていいじゃんという感想しかありません。

【まとめ】

さら~っと書きますとか言いながらすでに2,000字超えたのでまとめに入ります(笑)。
こういう倫理的にガチガチに守られた映画って、すごい文句いいづらいです。某・村○蓮舫の二重国籍問題と一緒で、論点に関係なく「それは差別だ!」って言ったもん勝ちですから。だから私はハッキリとそこを分けます。メッセージは道徳的で正しいです。ただ作品としてはまったく乗れません。面白くないです。ずーーーっと2時間説教されてるだけですから。だから、私はオススメしません。オススメしませんが、全国の学校教師には是非、中学校の授業でヘビーローテーションして欲しいですね。そんでもって2,000字ぐらいの感想文を提出させると。これが道徳教育ってやつですよ(笑)。

まぁ、私は「時計仕掛けのオレンジ(1973)」のアレックスよろしく、そんなルドヴィコ療法からはランナウェイします^^;。

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記事の評価
涼宮ハルヒの消失

涼宮ハルヒの消失

ようやく原作で消失まで読み終わりました。ということで、満を持して

「涼宮ハルヒの消失」です。

評価:(85/100点) – 萌えアニメの皮を被った上質なヒューマノイドSF。


【あらすじ】

12月18日、もうすぐ終業式が来るクリスマスの準備も慌ただしい師走のただ中、キョンが目覚めると世界が変わっていた。
居ないはずのクラスメイトが居て、居るはずのクラスメイトが居ない世界。キョンは自分以外の全てが自然に生活する奇妙な世界に迷い込んだ。混乱の中で訪ねた文芸部室で彼は見知った長門有希を見つけるが性格は似てもにつかない。翌日、手詰まりながらも再び訪れた文芸部室で書棚の本を手に取ると、そこには元の世界の長門が残した手書きメッセージ付のしおりが挟まっていた。「プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限・二日後」。プログラムとは何か?そして鍵とは何か?
そしてキョンは元の世界に帰れるのだろうか?


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【感想】

満を持して「涼宮ハルヒの消失」です。原作未読の状態で二度見に行ったのですが、それは別に一度目で分からなかったからではありません。とにかく面白かったからです。
映画文法としてはイマイチなところもあるのですが、そんなアラは全て吹き飛ばすほどの圧倒的な展開と圧倒的なテンションで画面が迫ってきます。三時間近い上映時間ですが、まったくダレることなく二度ともあっという間でした。
サスペンス調なのでネタバレを控えようとも思ったのですが、どうせ見たい人は全員見てるだろうということでオチを含めて全開で書かせていただきたく思います。
この作品にはそれをするだけの価値があると思いますし、それは非常に偏愛を生みやすい作品だと言うことです。
なお、現在私は原作を六巻(涼宮ハルヒの動揺)まで読んだ状態でこの文章を書いています。

原作・涼宮ハルヒシリーズを読んで。

涼宮ハルヒ・シリーズは、傍若無人でツンデレで世界を再構築する能力を持った涼宮ハルヒ、どじっこ萌えキャラで未来から来た朝比奈みくる、無口で無表情なヒューマノイドの長門有希、優等生で少しイヤミな超能力者の古泉一樹、そして主人公のキョンを構成員とするサークル・SOS団を中心にしたドタバタコメディです。早い話が、非常にオタク的な要素を詰め込んだ典型的なキャラもの作品です。原作の熱狂的なファンには怒られるかも知れませんが、はっきり言ってオリジナルな要素はありません。涼宮ハルヒの機嫌が悪くなると世界が変質し涼宮ハルヒが願うとそれが実体化してしまうという、これ以上無いほど「セカイ系」のど真ん中です。
正直な話、原作を読んでいて特に「涼宮ハルヒの退屈」まではハッキリと微妙な感じでした。私自身が元々アニメオタクなので苦ではないんですが、一昔前のギャルゲーのテキストを読んでいる感じといいますか、ただただ類型的で没個性なキャラがワイワイやってるだけのどこにでもあるオタク向け文章という印象しかありませんでした。
ところが「涼宮ハルヒの消失」が面白いんです。今現在六巻までしか読んでいませんが、ここまでで唯一「萌えキャラ設定に頼らない正当な人間ドラマ」を描いています。実際、ここまで娯楽的なカタルシスを詰め込みつつもヒューマノイドの悲哀を描けている作品はなかなかありません。涼宮ハルヒというシリーズを無視してでも、作品単体で十分に評価されうる作品です。

物語の根幹・迷い込んだ異人の話

本作はキョンの独白から始まり、全編を通じて合間合間でキョンの独り言がナレーションで挟まり、ラストもキョンの独白で終わります。元々、涼宮ハルヒシリーズ自体の構造として「SOS団で唯一普通の人間」であるキョンは読み手の感情移入先として用意された器のような存在です。そして映画でも視聴者は完全にキョンの視点のみから世界を見せられます。これが非常に効果的に働いています。本作においてキョンは終盤まで「巻き込まれた善意の第三者」という立場を崩しません。唯一終盤の長門有希の台詞を除き、キョンが作中で得た情報は例外なく視聴者にも提示されます。これにより視聴者はキョンを利用して不思議な世界と時空修正中のタイムパラドックスのハラハラドキドキに完全に同調することが出来ます。非常に丁寧な作りで、上手く感情移入させています。
実はこのナレーションの時制がおかしいという問題はあるのですが、それも作品の勢いに圧されてそこまで気になりません。
不思議な世界に迷い込んだキョンの行動も非常に理にかなっています。目立ったご都合主義的強引さも無く、非常にスムーズにタイムリミットが迫り、そして嵐のように傍若無人なハルヒによってあっという間に問題が”勝手に”解決します。それもそのはずで、キョンは本当に普通の無力な人間なんです。なので問題を解決するような超人的活躍は一切しません。彼は終始オドオドしているだけで実質的にはたいしたことは何にもやっていません。でも、だからこそ視聴者は感情移入できるわけです。あくまでもこれは一般人が巻き込まれて体験してしまった不思議な世界を描いた作品です。

長門有希とタイムパラドックス

そして本作を私が気に入った一番の理由は、この長門有希の存在です。彼女を通してヒューマノイドの悲哀がシンプルに描かれます。
本作では、非常に独特な人生観・世界観がまかり通っています。それは未来至上主義と言っても良いほど、「予定調和」を大事にする世界です。本作には朝比奈さんが居てタイムトラベルが可能です。そこで未来で何かが起こっていると言う事それ自体が、「必須イベント・ノルマ」として過去に求められます。例えば、本作では最初からハッピーエンドに終わることは分かっているわけです。なぜなら、未来から朝比奈さんが来ているからです。これがすなわち「未来が存在する」ことの証明になり、「世界が終わらないこと」の証明になっています。長門も三年後に自身が暴走する未来を知っておきながら、そのイベントを起こすために振る舞います。すでに未来というのが決定していて、それに向かって行動をしていくだけという何とも地獄のような世界観です。しかしそんな世界観の中で、長門は「感情らしきバグ」を発現させます。これも予定調和の一つではあるんですが、それを十分に理解した上で「予定調和」として受け入れる長門の姿に「ヒューマノイドは心を持ちうるのか」というありがちな問題提起がすんなりと回答されます。
心を持つかも知れないが、その心ですら一種の計算結果であり予定調和であるという発想。この世界には人間に自由意志がほとんどありません。終盤にキョンが変革後の世界と変革前の世界のどちらを選択するかで葛藤するシーンがありますが、それですらこの世界観の中では予定調和なのです。「全てが起こるべくして起きている。」という冷たい舞台の中で、それでも自由意志のような物を見せるキョンの姿が、そのまま「心を持ってバグってしまった長門有希」の姿と重なります。
2人とも定められた枠組みの中で必死にもがいているわけです。でもその”もがき”ですらこの世界では「予定されたイベント」になってしまいます。
タイムパラドックスの論法をそのまま世界観にまでシフトさせてしまった作者の発想にはただただ脱帽します。
巨大な運命に対して無力と分かっていながらもがいて自己証明をしようとする人間達が図らずも描かれているわけです。
これが本作をただの「キャラもの作品」ではない一級品のSFにしています。

【まとめ】

最後になりましたが、本作では大きく二カ所が原作から変更されています。一カ所は、変革後の世界でハルヒ・古泉・キョンが東中に入り込むシーン。もう一カ所はラストのキョンと長門の会話シーンです。前者はキョンが教室と外を往復する場面をカットして話のテンポをスムーズにしています。後者はおそらく雪が降るシークエンスをやりたいためだけに屋上に舞台を移しています。両場面とも変更した効果は十分に出ていると思いますし、監督および脚本家の方が十分に原作を租借している様が全編から伝わってきます。
実は私は原作の「涼宮ハルヒの消失」以外はそこまで好きではありません。というのもあまり読み返す気が起きないほど内容が薄く、萌えキャラものに偏重しているからです。しかし、少なくとも「涼宮ハルヒの消失」は傑作ですし、映画も大変面白くできています。なにせシリーズ未読の私がリピートするほどでした。是非シリーズ未読の方も劇場に足を運んでみてください。
「アイ、ロボット」を見るぐらいなら、本作を見る方が何倍もヒューマノイドに心揺らされることでしょう。
日本のアニメ映画に抵抗が少ない方であれば、全力でオススメいたします。

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