バーレスク

バーレスク

土曜に見たのは

「バーレスク」です。

評価:(40/100点) – クリスティーナ・アギレラのPVそのもの


【あらすじ】

アリは田舎の鬱屈に耐えかねアイオワからロスへの片道切符を買った。彼女は歌手の仕事を探していろいろなバーを訪れる。ある日、偶然入ったクラブ・バーレスクで彼女はセクシーな女性達が往年の名曲に合わせてダンスパフォーマンスを行う光景に釘付けになる。なんとかバーレスクで働こうとする彼女は経営者のテスにあしらわれながらも何とかウェイトレスとして潜り込むことに成功した、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アリがウェイトレスとしてバーレスクで働く。
 ※第1ターニングポイント -> アリがニッキーの代役でステージに立つ
第2幕 -> アリの大躍進とマーカス。
 ※第2ターニングポイント -> アリがジャックの家を出る。
第3幕 -> 結末


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【感想】

昨日は1本、バーレスクを見て来ました。クリスティーナ・アギレラの初主演作という触れ込みですが、意外と客席は中年女性ばかりでした。とはいえそこまで混んではおらず、お客さんを他作品に取られているようです。
非常に簡単にいってしまえば、本作はクリスティーナ・アギレラというアイドルのPV以上のものではありません。とはいえ、アギレラはきちんと実力のある歌手ですので少なくとも日本に入ってきている情報だけ見ればあまりアイドルっぽい感じではありません。よく1歳違いのブリトニー・スピアーズと比べて優等生扱いされることの多いアギレラですが、本作でもアイオワ出身の垢抜けない隙だらけな感じを存分に出しています。それだけで「アイドル映画としては満点!」と言いたくはなります。
ただ映画としてはとても雑です。まずはBECKでもある「歌っただけでみんな感動」というまたもや生まれつき天才パターンです。とはいえ、きちんと歌唱力に説得力はありますから、そこまで目くじらを立てるほどではありません。あくまでも話としてどうかというぐらいのレベルです。
話の筋自体は大きく2つ、「ジャックとの恋愛話」と「バーレスクの身売り話」です。しかしどちらも大変唐突に決着がつきます。伏線らしい伏線もほとんど無く思いつきとひらめきで解決してしまうためまったくワクワクがありません。
そして肝心の音楽シーンも基本的には劇中で本当に舞台で歌っているシーンですので、いわゆるミュージカルの演出ではありません。つまり音楽シーンの度にストーリーが完全に止まります。ですので、ストーリー部分だけならこの映画はおそらく20分くらいにまとめられるはずですw そしてこの音楽シーン達は「クリスティーナ・アギレラ7変化」という類のまさにPVそのものです。音楽シーンに限っては、「アイオワから出てきた田舎者のアリ」では無く、完全に「世界的ポップスター・クリスティーナ・アギレラ」です。まったく役作り等はしていません。
ですのでミュージカル映画を期待して見に行くと大変がっかりすることになると思います。下手をすれば「NINE」以上にがっかり感が強いかも知れません。しかし、クリスティーナ・アギレラのファンであれば、これはもう絶対に見に行くべきです。約1時間程度の彼女のディナーショーを大音響の映画館でたっぷり見ることが出来ます。本末転倒な気がしないでもないですが(苦笑)、映画初主演という触れ込みに嘘偽りなく、これは彼女のファンのためだけに作られた映画です。
個人的にはオススメしたいのですが、あくまでもアギレラのファン限定という部分と、映画としては退屈という部分だけは念頭に置いておいた方が良いと思いますw
また、最近は「女主人の良き相方」としてのキャラが定着してきたスタンリー・トゥッチが本作でもとても良い味をだしていますので、コチラもオススメポイントです。

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記事の評価
ノルウェイの森

ノルウェイの森

2本目はこちらも久々の”危ない橋”

「ノルウェイの森」を見ました。

評価:(6/100点) – 春樹フリークスのみんな!!! ゴメンね!!!!


【あらすじ】

時は1969年、学生運動まっただ中の大学に通うワタナベは自殺した親友・キズキの恋人・直子と再会する。毎週末に直子と会っては無口に東京中を散策して周るワタナベは、徐々に直子に魅かれていく。直子の20歳の誕生日、彼は直子と一晩を過ごすがその後彼女と連絡が取れなくなってしまう。連絡したい一心で直子の実家に手紙を書いたワタナベのもとに、直子からの返事が届く。それは彼女が入院している京都の精神病療養所からであった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> ワタナベと直子の再会と交流。
 ※第1ターニングポイント -> ワタナベが療養所に向かう。
第2幕 -> ワタナベと直子と緑。
 ※第2ターニングポイント -> ワタナベが冬に療養所に向かう。
第3幕 -> 結末。


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【感想】

本日の2本目は新作映画「ノルウェイの森」です。ご存じ村上春樹の代表作であり、日本で最も有名な国産小説と言っても良いのではないでしょうか。その割には、お客さんは4割~5割ぐらいの入りでした。若い方もあまり居なかったので、微妙に「若者の活字離れ」という私の嫌いなキャッチコピーが思い浮かんでしまいましたw
一応念のためのお断りです。400万部以上売れている20年前の小説にネタバレも無いと思いますが、一部結末を感づいてしまうかも知れない程度のほのめかしは入ってしまうかも知れません。極力ネタバレをしない方向には致しますが、小説未見でまっさらな気持ちで映画を見たい方は以下の文章はご遠慮ください
また、せっかくの村上春樹作品なので、前置きとしてウダウダ書こうと思いますw 「知るかヴォケ~」という方は中項目「本題:~」からお読み下さい。

前置き1:作品の概要をおさらいとして。

本作の主題を端的に言うならば「生/性と死」です。
学生運動というテンション全開で暴れまくっていた時代背景の中で、本作の初期主要人物であるワタナベ、キズキ、直子は非常にローテンションな生活を送っています。冒頭に語られるキズキの自殺を筆頭に、作中では何人かが自殺します。そのそれぞれが絶望であったり理想とのギャップであったり、そういった今に通じる精神不安からの行動として自殺します。
一方本作ではその「死」の対義として「生/性」が取り上げられます。「愛する」ということと「欲情する」ということの違いで混乱する直子や、「愛する」ことと「欲情する」ことを明確に分けて考えるプレイボーイの永沢先輩、さらにはワタナベの「それでも生きていく」という美意識/決意、そうしたものを全てひっくるめて本作では生きることのタフさを繰り返し説いていきます。
本作ではワタナベと直子と緑の三角関係が物語りの中心になります。ワタナベは直子に自殺した親友の忘れ形見として「支える人間的義務」を感じる一方で、緑とは”普通の大学生として”恋をします。直子は自殺したキズキを想いながらも、一方で「キズキには欲情できなかったのにワタナベには欲情した」という事実に苦悩し精神的に混乱していきます。緑は”普通の大学生として”ワタナベを好きと公言しながらも、一方で別に付き合っている男がいることも公言し、ワタナベを翻弄します。3人が別々の場面で口にする「自分が幸せになる」というキーワードを巡り、物語は進んで行きます。

前置き2:村上春樹という作家について思うこと。

ここから危ない橋に突入していきますw 私の中学校の卒論の課題作品は村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でした。その際、村上春樹について「ハヤカワSF文庫や創元推理文庫で紹介された近代的アメリカ純文学のエッセンスを日本語ネイティブで書き起こした無国籍文学者」と書いたのを覚えています。中3にして村上春樹に痛烈だったわけですが(苦笑)、決して悪口として書いたつもりはありません。先生には当然細かく聞かれましたけどw
村上春樹の小説はとにかく読みやすいため、一般受けして部数が伸びるのはさもありなんと納得します。熱狂的なファンの方には申し訳ないのですが、私は村上春樹という作家の位置付けは「ライトノベル」の一つ前にあると考えています。つまり、レイ・ブラッドベリやカート・ヴォガネット、ジェイムズ・ティプトリーJr.といった1920年前後生まれの純文学要素をもったSF作家達が50年~60年代にハヤカワSF文庫によって日本で紹介され、その影響を受けたエンターテイメント寄りの現代作家達が続々と誕生した内の一人という位置です。その中には萩尾望都や竹宮惠子のように漫画界で一時代を築く作家がいる一方で、村上春樹のように小説界で活躍する作家もいます。さらにこれらの影響でエンターテイメント色が強くなったのが現代のライトノベルであったり最近の若い作家達の小説群です。そういう意味では村上春樹というのはある種の時代の転換点というか、純文学からエンタメ小説に移りゆく過渡期に誕生した無機質・無国籍な得体の知れない(=これがスタイリッシュな印象につながります)”いまどきの作家”だと思っています。
当然彼の特徴として真っ先にあがるのは、その直訳調の文体です。「おまえは日本語が苦手なのか!?」と突っ込みたくなるほど堅くぎこちない文語体を使い、倒置法や体言止め、さらには極端な擬態語・擬音語を多用します。「やれやれ。」「結局のところ、」「わかったよ。」等々、村上春樹は文章をパロディにしやすい作家としても有名ですw
これはかつての純文学の文法上は完全にアウトですが、一方でアメリカSF小説の翻訳に慣れた読者にとってみればこの上なく取っ付きやすいものとなります。ここが村上春樹という作家の評価がパックリ分かれる大きな要因です。純文学を保守的な文脈で「土着の文化の発露」と捉えるならば、村上春樹はただの得体の知れないエセ文学者です。しかし、彼の小説を「時代の肌感覚をドライに表した進歩的な作品」と考えることも出来ます。後は読み手が考える「文学」の定義次第です。ちなみに、私の友人で小説好きな人の中では村上春樹を擁護する人は皆無ですw 個人的には結構好きですが、私はSFの翻訳本と岩波文庫の政治思想書ばっかり読んでいるため、こと小説眼に関してはまったく当てにはなりません(苦笑)。

本題:今回の映画化について。

既に2200文字も書いてますが(笑)ここからが本題です。 上の文章を読んでいただいた方は、村上春樹を映画化するというのがいかに難しいかというのがなんとなく分かっていただけると思います。つまり、彼は小説界の中での「純文学からエンタメ路線へ」というトレンドの移項という文脈ありきでの作家なんです。ですから、それを映画にする際には、どうにかしてこの「村上春樹の日本文学界における立ち位置」の空気感を映画に移植してやる必要があります。
その移植作業の一つとして、本作の監督にトラン・アン・ユンを起用したのは大正解だと思います。トラン・アン・ユンの持つ暗めのカメラカット・空気感は、村上春樹の持つ無国籍性に通じる物があります。そしてそれは、本作のほとんど唯一の見所となっています。早朝の療養所の森が見せる冷たい感覚、夜の森が見せる不安な感覚、そして冬の海の見せる孤独で厳しい感覚。どれもトラン・アン・ユンとリー・ピンビンが見せるカットの巧さで引き込まれます。
ですがもう一つの部分、すなわち村上春樹の直訳調文体をどう処理するかという部分については、まったく戴けません。よりにもよって、本作ではそのまま直訳調の文語体を俳優が喋ります。この直訳調の文語体というのは、俳優が喋るととたんに嘘くさく安っぽく見えてしまうと言う特徴があります。なぜかというと、それは単に棒読みで大根役者に見えてしまうからです。「わたしが今なに考えているか、分かる?」「わからないよ。」とか普通の会話では言わないでしょう? 口語体であれば、「ねぇ、私が何考えてるか分かる?」「わかんないよ。」となります。「わからないよ。」と「わかんないよ。」の間には、台詞としてはものっっっすごい大きな差があります。
個人的にはあまり好きではありませんが、この酷い台詞達をもってしても自然にみえてしまう菊地凛子はやっぱり凄いです。直子役には合ってないとも思いますけどねw
今回の映画化は、原作に”比較的”忠実にしています。前述の通り台詞はほぼそのままですし、プロットも省略がありこそすれ大幅な改編は(ワタナベと直子の療養所でのワンシーンを除いて)ほとんどありません。非常に意地悪な見方をすれば、これは原作小説のファンに最大限配慮したやり方だと思います。未読の人にとっては肝心な描写が足りないわりにレイコとの後日談のような本筋とあまり関係無い描写が入ってきますし、既読の人にとっては大急ぎで原作の名場面を端折って再現しているだけにも見えます。
結果、単体の映画として見た場合には、ファンには申し訳ないですがそこいらにあるどうしようもない映画と大差ない出来になってしまっています。実在感の無い若者達が無菌室の中で「勝手に人類を代表して悩んでやがる」感じです。小説ではあれほど読み易かった直訳調の台詞も、無機質な映像と相まって観客の感情移入を拒絶してきます。まったく観客のあずかり知らぬ所で勝手に140分過ぎていく感覚。そう、置いてきぼりとはこのことです。

【まとめ】

村上春樹作品を映像化する際にやってはいけないことをがっつりとやってしまっています。結果、単調で、無機質で、実在感の乏しい、謎のファンタジー世界で繰り広げられる文学的風景の連続写真になっています。原作ファンの方は当然見に行くと思いますが、原作を読んだことが無い方は先に原作を読むことをオススメします。その上で本作を見て頂けると、いかに小説の映画化が難しいのかが良く分かると思います。
村上春樹作品の映画化はまた30年後でいい気がします。

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劇場版マリア様がみてる

劇場版マリア様がみてる

今日はレイトショーで

「マリア様がみてる」を見てきました。

評価:(85/100点) – ポスターを見て舐めてました。m(_ _)mペコリ


【あらすじ】

お嬢様学校・私立リリアン女学園に通う一年生の福沢祐巳は、ある日学園のアイドル・二年生の小笠原祥子に声を掛けられる。その場面を写真部の蔦子に撮られた事から一転、祐巳は生徒会演劇に巻き込まれていく。

【三幕構成】

第1幕 -> 祐巳と祥子の写真。
 ※第1ターニングポイント -> 祥子が薔薇様との賭を受ける。
第2幕 -> 演劇の練習と賭け。
 ※第2ターニングポイント -> 祥子が優との関係を祐巳に告白する。
第3幕 -> 結末


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【感想】

本日は「マリア様がみてる」を見て来ました。シネマート新宿は1,000円の日だったからか、公開から一週間経ちますがお客さんは10名ぐらい入っていました。でもほとんど男性ですw

おさらい

今更ですが、一応おさらいをしておきましょう。「マリア様がみてる」は雑誌「Cobalt」に連載されたライトノベルで、1998年開始です。当時はまだそこまでジャンルとして確立していなかった「同性同士だけの閉じた世界の甘やかし合い」の代表格でありブームの火付け役です。とはいえ間違ってはいけないのは、この「マリみて」以降氾濫することになった「ホモソーシャルの馴れ合い」だけを拡大コピーした作品とは違い、少なくとも初期の「マリみて」はきちんとクラシカル少女漫画的な悲壮感・愛憎を描いていたという点です。
舞台は「私立リリアン女学園」という完全に閉じた世界で、ファンタジックな階級社会が形成されています。学園のアイドルとしての生徒会長が3名「赤薔薇」「白薔薇」「黄薔薇」の肩書きと共に君臨し、その見習い2年生が3名、さらにその見習いの1年生が3名で「山百合会」というエリート組織が学園の最上部に構成されます。
そのエリート組織にひょんなことから入ることになる「一般民衆」の福沢祐巳を中心とした「身分ギャップ・コメディ」で物語が展開されます。
作品の中心となるのは「紅薔薇のつぼみ」小笠原祥子とその妹(=見習い)・福沢祐巳の関係性です。片や超お嬢様の優等生で浮世離れした存在。片やリリアンには不似合いなほど庶民的で俗世的な存在(=大半の読者と同じ)。この二人がそういった環境のギャップを越えて友情・信頼を深めるというホモソーシャルが「マリみて」の売りです。
一方作品の構造上、「マリみて」は「レギュラードラマ(=同じ時間を永遠に繰り返す作品。ドラえもん等)」ではなく「ストーリードラマ(=時間が進んでキャラが成長する。)」にならざるを得ません。ですので、いつかはこの「閉じた世界」は壊れてしまうんです。それは祐巳が成長しきった時(=祥子を必要としなくなった時)であり、祥子が卒業する時です。
この構造が限界に達したのが11巻の「マリア様がみてる パラソルをさして」です。この11巻によって、祥子と祐巳の関係性は一種の完成を迎えます。そしてこの時点で作品内での「祥子が卒業するまでの時間」が9ヶ月を切ります。ここに至って、作者・今野緒雪は作品の続きを書けなくなってしまいます。なぜなら、これ以上作品内時間を進めると、世界が壊れてしまうからです。苦し紛れとしてこれ以降は短編が増えていくことになります。短編であれば時間をそこまで進める必要はないですから、限りなく「レギュラードラマ」に近い展開ができるからです。
結局、祥子が卒業する「マリア様がみてる ハロー グッバイ」までに6年間も掛かってしまっています。
ファンとしては残念ですが、少なくとも「マリア様がみてる」の作品寿命は11巻までと考えるのが妥当だと思います。それ以降は、良く言えば「ファンサービス」であり、悪く言えば「蛇足」「延命処置」です。

そして実写版

ようやっと実写映画版の話に行きます。この実写版は原作一巻を元に、「祐巳と祥子」にのみ絞って物語を展開させます。元々が「学校」と「祐巳の家」ぐらいしか舞台の出て来ない話ですが、本作では完全に学園内で完結しています。祐巳の家族は出てきませんし、祐巳の友達もほぼ蔦子のみ。山百合会に至っては祥子と志摩子以外の誰一人、明確に台詞や紹介もありません。白薔薇の二人や令・由乃コンビは原作では相当なファンがついていますが、このあたりの要素は全てばっさりカットしています。あくまでも「祥子が祐巳をスールに出来るか否か」というストーリーのみで転がしています。
私はこの整理は大正解だと思います。というのも、90分程度で話をまとめるのであれば、、、そして映画として3幕構成に落とし込むのであれば、あきらかに祥子の成長をメインに据えるよりほかないからです。原作一巻の肝は、「庶民派の祐巳の影響で、お嬢様の祥子が成長する」という部分にあります。これにより、身分を越えた信頼関係が生まれるからです。最初は「シンデレラをやりたくない(=優と向き合いたくない)」から祐巳を構っていた祥子が、第二ターニングポイントで祐巳に相談することで「私はむしろシンデレラをやりたい(=優と向き合ってケリをつける)」と変化するところが一番大事です。
この実写版ではその肝を中心にして、見事に原作がシュリンクされています。映画化はこの時点で確実に大成功です。
もちろん細かい演出からもきちんと原作を噛み砕いているのが見て取れます。本作における原作からの最大の変更点はラストシーンです。ラストのクライマックスにおける祐巳と祥子の会話が変更され、祐巳の台詞が削られています。本作ではあくまでも祐巳は「自信の無い庶民」として描かれますから、クライマックスのシーンで「あまりのことに声も出ない」というのは映画演出としては正しいです。ここは非常に有名な掛け合いシーンですので変更には相当勇気がいたと思いますが、個人的には良い変更だと思います。
また、BECKの時に書いた「歌を誤魔化す」演出も本作では見事にクリアしています。本作の演劇シーンは「夕暮れ時の教室や生徒会室の風景」と「BGM」と「徐々にフェードアウトする台詞」で誤魔化されます。そしてそのシーンの直後に、蔦子と祐巳の会話で「夢のような日々が終わってしまった」という内容が語られます。つまり、演劇シーンの演出は「祐巳が感じたセンチメンタル/ノスタルジーの表現」になっているわけです。これによって、「誤魔化すため」の演出に作品内で必然性をもたせたることに成功しています。

【まとめ】

大枠では原作に忠実な流れでありながら、きちんと映画にするための整理を行った素晴らしい映画化だと思います。もちろん、キャラクター人気の高い作品ですから、キャストにあれこれ文句は絶対に出ると思います。個人的には鳥居江利子と柏木優のキャスティングは無しですw
冒頭にも書きましたが、ポスターを見るとものすごい地雷の香りがただよってきますw っていうかはっきり書きますと、未来穂香の顔と鼻が丸すぎます。でも本編を見て納得しました。本作では「祥子が祐巳を心より必要とした」のが大事なんです。だから外見がブサイクならブサイクなほど「内面に惚れた」という表現になるわけです。ストーリー上も、「志摩子には外見で判断してスールを申し込んだけれど、祐巳には内面に惚れてスールを申し込んだ」わけですから、志摩子と祐巳は絶妙な顔バランスでキャスティングしないといけないわけですw
もうすでに公開スクリーンが小さくなってきているようですが、お近くで上映している方は是非是非見てみて下さい。かなり意外な掘り出し物です。オススメします!

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エクリプス/トワイライトサーガ

エクリプス/トワイライトサーガ

久々に休日出勤から解放された今日は2本です。1本目は

エクリプス/トワイライトサーガ」を見て来ました。

評価:(30/100点) – 逆輸入的な「日本の少女漫画風アメリカンラノベ」


【あらすじ】

エドワードを取り戻したベラは高校卒業を控え幸せな日々を送っていた。ある日、エドワードの姉アリスがヴィクトリアの気配を予知する。
その頃、ニューブラッドと呼ばれる吸血鬼に成り立ての集団は暴虐の限りを尽くしていた。果たして彼らの黒幕は、ヴィクトリアか、それともヴォルトゥーリ一族か、、、。


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【感想】

本日の一作目は「エクリプス/トワイライトサーガ」です。世界的には大ヒットしているライトノベルですが、劇場はガラガラでした。
概要は前作と同様に「イケメン吸血鬼とイケメン狼男にモテモテ」というだけの物ですので、別にどうと言うことはありませんw ただ、そういった下らない内容であったとしても、さすがはハリウッドという画面のクオリティだけでそれなりに見えてしまうのが恐ろしい所です。本作では前作より一層、ベラが調子に乗っています。なにせ冒頭からエドワードとジェイコブに対して堂々と二股を掛けてきますw しかも2人ともわかっている上でそれでもベラを奪い合います。いいですね、モテモテでw
挙げ句の果てに「私もあなた(ジェイコブ)の事を愛しているけど、エドワードの方が好きなの」と来たもんです。おじさんには若い娘のモラリティは良く分かりません。
面白いと思うのは、こういった「花より男子」的なモテモテ話がキャストが外人になった途端に日本ではヒットしないと言うことです。もしこれで登場人物が日本人だったら、間違いなくこのガラガラっぷりはあり得ません。極端なことを言ってしまえば、こういう妄想系オトメゲー的な物は日本が本場だったりしますから、どうしても「日本のライトノベルっぽいアメリカの小説」という倒錯が日本の女性には中途半端に見えるのかも知れません。
少なくともテレビ局主導で作るマンガ原作邦画よりは確実によく出来ていますので、一見の価値はあるシリーズだと思います。

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ブロンド少女は過激に美しく

ブロンド少女は過激に美しく

本日は3本です。

1本目は「ブロンド少女は過激に美しく」を見ました。

評価:(80/100点) – これぞ男の悲哀ロマン。


【あらすじ】

リゾートへと向かう長距離列車の中。会計士のマカリオは偶然隣り合わせた老女に自身の身の上話を始める。それはかつて愛した女性との悲しくも愚かしい物語だった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 列車での会話。
 ※第1ターニングポイント -> 少女との出会い。
第2幕 -> 少女との恋愛と波乱の人生。。
 ※第2ターニングポイント -> 叔父に結婚を認められる。
第3幕 -> 顛末。


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【感想】

本日の1本目は「ブロンド少女は過激に美しく」です。中高年を中心にかなりお客さんは入っていました。本作はご存じポルトガルの巨匠・マノエル・デ・オリヴェイラ監督の作品です。ここ20年ほどはかなり他作な上に本作撮影中に100歳の誕生日というちょっとどうかと思うほどの健在ぶりに、圧倒されるばかりです。

併映の「シャルロットとジュール」

最初に本作の話に行く前にTOHOシネマズ・シャンテで二本立てになっている「シャルロットとジュール」から書いてしまいましょう。といっても、さすがにジャン=リュック・ゴダール作品にどうこう言う根性は私にはございませんw
このシャルロットとジュールは1961年の作品でゴダールの4作目です。出て行った恋人・シャルロットがふらっと部屋に戻ってきたことで、ジャンが一方的に「いかにシャルロットが馬鹿か」と「いかに自分がシャルロットを愛しているか」をまくし立てるだけの10分くらいのフィルムです。とはいえ、この10分でジャンのマヌけっぷりと愚かしさを通じて恋する男の悲哀をストレートに描いたコメディとなっていまして、今でも十分に楽しめる傑作です。ゴダールの歴史的傑作「勝手にしやがれ」のクライテリオン版DVDに特典で入っていますので、興味のあるかたはこちらも見てみて下さい。
本作とのからみで言いますと、おそらく併映の理由はテーマ部分にあると思います。非常に乱暴に言ってしまえば、この「シャルロットとジュール」と「ブロンド少女は過激に美しく」は同じ話です。共に、恋に盲目的な男が”一方的に女性を理解した気になって”愛してしまった事の愚かしさを描きます。そういった意味ではゴダールが普遍的すぎるとも言えますしオリヴェイラが古風だとも言えるのですが、何にせよヘタレな男なら共感せずには見られないロマン溢れる題材なのは間違いありません。

本題

肝心の「ブロンド少女は過激に美しく」です。本作はフィルムグレインがたっぷり乗った古風な絵作りが真っ先に目を惹きます。音楽もほとんど使われませんし、何より極力セリフを廃した「映画らしい映画表現」のど真ん中を直球で攻めてきます。「映画らしい」という定義は難しいですが、そんな問題も本作を見ればすべて吹き飛ぶこと請け合いです。
ストーリー自体は前述したような悲恋話です。本作はそのストーリー部分もさることながら、風景を使った場面転換の仕方であったり、ほとんど固定カメラのようなかっちりした構図であったり、そういった映画としての圧倒的なまでの説得力=正しさが大変魅力的な作品です。なので、非常に教科書的と言いましょうか、優等生的と言いましょうか、ほとんど文化遺産レベルでの職人芸を堪能することができます。
こういう言い方をすると反発を招くかも知れませんが、本作を見れば映画のすばらしさは全部分かります。もちろん後述する「エクスペンタブルズ」でも全部分かるんですが(笑)、格調ある「文芸系作品」という意味ではほとんど上限レベルの作品ではないかと思います。
小規模な公開のされ方をしている作品ですので見るのは大変かも知れませんが、間違いなく一見の価値はあります。
是非是非映画館でご覧ください。いまどきゴダールを映画館で見られるだけでも駆けつける価値があります。

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乱暴と待機

乱暴と待機

今日は一本、

乱暴と待機」を見て来ました。

評価:(45/100点) – 音楽と役者は良かった。主題歌だけはiPodでヘビーローテーション。


【あらすじ】

番上貴男とあずさの夫婦は妊娠をきっかけに府中の片田舎へ引っ越してきた。同じ長屋に挨拶回りをしていた貴男は異常なほど挙動不審な奈々瀬という女性に出会う。兄と二人で暮らしているという彼女は、偶然にもあずさの高校の同級生だった。いかにも訳ありで突っかかるあずさは、奈々瀬の兄を見て驚愕する。「あいつら、兄妹なんかじゃないよ」、、、。


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【感想】

本日は一本、「乱暴と待機」です。予告で若干エロ要素をアピールしているせいか、一瞬「ヌードの夜」かと思うほど客席はおじさんばかりでした。原作は「劇団、本谷有希子」の舞台です。

概要

本作は登場人物がわずか4人のこじんまりとした話です。舞台ならではのミニマムさで、これまた舞台特有の入り組んだ人間模様を展開してきます。原作者の本谷有希子さんというと私はどうしても「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を思い出してしまいます。「腑抜けども~」ではおとなしいけど策略家の清深を中心に、勘違い馬鹿女の姉とその姉を異常なほど溺愛する兄を配して、頭のイかれた男女の妄想・策謀入り乱れる様子をブラックコメディとして描ききりました。「パーマネント野ばら」の時にも書きましたが、この本谷有希子の人物配置と吉田大八監督の資質が完全にマッチして恐ろしいほどの化学反応を見せたヘンテコで魅力的な映画になりました。
さて、では本作はどうかと言いますと、「腑抜けども~」における清深の位置には今回は奈々瀬が着きます。表面上はおどおどしていても裏では超腹黒で自分だけが楽しめる事を探しているという屈折したパーソナリティです。そしてそこにいかにも駄目人間を絵に描いたようなニートの”番上君(貴男)”とこれまたオタクを絵に描いたような”山根さん”が絡んできます。
本作では本谷有希子のブラックジョーク・センスが演出によって直接的に表面に出てきます。ですので、悪く言えばコントのように見えてしまう場面も多々有り、映画としてはいささかどうかと思うほど安っぽく見えてしまいます。ただその一方で、やはりイかれたキャラクターを作り出すことにかけては天才なのは間違いありませんので、100分間なんか引っ掛かりながらも雰囲気で持って行かれてしまうのは事実です。
とはいえ、結局本作でもやっていること自体は「腑抜けども~」の焼き直しレベルでして、「表面を取り繕った腹黒女が内面を暴露した瞬間に本当の愛が生まれてしまう」というクライマックスはまったく同じです。「腑抜けども~」では姉妹愛だったのが、本作では男女愛になっただけです。
そして、本作が「腑抜けども~」と決定的に違うのはこれはもう監督の真面目さというか”まともさ”としか言いようがありません。良くも悪くも吉田大八監督はマッドな世界を自身で批評しながら世界観に入って撮れるのに対して、今作の冨永昌敬監督は真面目に客観視して構築しようとしてきます。その冨永監督の生真面目さが、本作を妙に普通な感じの映画のルックにしてしまっています。だから結果としてマッドな登場人物達を突き放し過ぎていて、何考えているか分からない本当に頭のおかしな人たちに見えてしまうんです。番上君と奈々瀬がいままさに事に及ぼうとするときにカメラがパンしてあずさが映るシーンは本作でも屈指の爆笑ポイントですが、一方で画面内では妙に登場人物達が冷静過ぎるんです。「真剣に酷い目にあっているほど端から見て面白い」というのはコメディの基本ですが、本作の場合はあまりにも演出が冷静すぎて逆に戸惑ってしまいます。

【まとめ】

どうしても同じ作家で同じプロットの原作ということで比較してしまうのですが、個人的にはちょっとハードルを上げ過ぎてしまったかなと思う次第です。ですが、役者は四人とも本当に面白い演技を見せてくれますし、本作も決してつまらないということはありません。公開館が非常に少ないですが、お近くで上映している方は行って損はないと思います。
冨永監督については、本作で劇伴を担当している大谷能生さんのイベントで対談した様子が「大谷能生のフランス革命」に収録されています。僕自身、菊池成孔・大谷能生コンビの一連の共同仕事(東大講義→TOKYO FM水曜Wanted!→東京大学のアルバートアイラー→M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究→アフロ・ディズニー)に大分影響されていますので、興味のあるかたは是非本屋さんで探してみてください。本当は本よりもトークの方が圧倒的に面白い方達ですので、ネット上を探してラジオ音源があればそちらもオススメです。

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記事の評価
君に届け

君に届け

本日の1作目は

「君に届け」です。

評価:(65/100点) – 緩い恋愛映画かと思ったら熱血友情物語だったの巻


【あらすじ】

高校性の黒沼爽子は長い黒髪と愛想の無さから「貞子」と呼ばれいじめられていた。彼女は入学式の朝に出会った風早翔太や、クラスのはみだし者である吉田千鶴・矢野あやねコンビらと友情を深めていく、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 爽子と翔太
 ※第1ターニングポイント -> 席替えが行われる。
第2幕 -> 千鶴・あやねとの友情と、くるみの策謀。
 ※第2ターニングポイント -> 翔太がくるみの告白を断る。
第3幕 -> 翔太の告白と大晦日


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【感想】

今日の1本目は「君に届け」です。ティーンエイジの女性を中心にかなりお客さんが入っていました。別マガ連載の人気少女コミックの映画化で、去年末から2クールで深夜アニメにもなっています。
作品としてあんまり内容がないので、ざっくりと書いてしまいますw
要は性格は物凄い良いが社交性が薄く見た目が冴えない爽子が、イケメンでクラスでも人気者の翔太に好かれるという夢のような話です。「あの人だけが私の内面を分かってくれる」というヲトメの欲望そのままな内容ですので、それだけなら「都合良すぎ」「甘えるな」でバッサリ切って捨てるんですが(苦笑)、本作にはバッサリいけない部分が一カ所だけあります。それが爽子・千鶴・あやねの「仲良し三人組」のチーム分です。
この三人組の描写がベタながら完璧なんです。三人とも「見た目で誤解されがちだけど根は超良い人」であって、お互いが足りない部分を支え合うように友情を深めていきます。不覚ながら、中盤に夜の神社前で千鶴・あやねが相談するシーンとその後の屋上のシーンで、私完全に涙腺決壊いたしましたw
あやねのヘルプコールを受けて男子陣を捨ててすぐに駆けつけるシーンであったり、千鶴がお好み焼きを泣きながらヤケ食いするシーンであったり、この3人が集まったシーンはどれも大変素晴らしいです。
ただその一方で、やはり翔太・くるみ絡みの恋愛要素は限りなく類型的で退屈です。爽子も翔太もほとんど一目惚れ状態なためそもそもエピソードの積み重ねがありませんし、くるみも用意周到というにはお粗末です。なので、中盤以降はテンションがみるみる降下していってしまいます。

【まとめ】

恋愛映画としてはお世辞にも出来が良いとは言えませんが、女同士の友情物語としては大変すばらしい出来です。「女の子ものがたり」や「パーマネント野ばら」が好きだった方には是非オススメです!!!

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記事の評価
ハナミズキ

ハナミズキ

本日の2本目は

「ハナミズキ」です。

評価:(1/100点) – テレビでやれ。


【あらすじ】

釧路に近い北海道の港町。水産高校に通う木内康平は、免許筆記試験の日、自動車教習所に向かう途中の電車が止まってしまう。そこで同じく早稲田大学の推薦試験のために急いでいた平沢紗枝を連れだって、親戚の自動車を盗んで高校に向かうが、スピード違反したあげくにハンドル操作を誤って事故を起こしてしまう。
停学を食らった康平だったが、なぜか紗枝からは感謝され急接近。紗枝は康平からの励ましで早稲田の文学部を受験する事を決める。やがてつきあい始める2人だったが、紗枝が早稲田に受かって上京することで遠距離恋愛になってしまう。紗枝は大学の写真部の北見先輩と仲良くなり、やがて康平とは疎遠になってしまう。康平は地元で漁師をするが、借金苦から父が船を手放すことになり、さらに最後の漁で父が心臓発作で死んでしまう。母と妹と借金を背負った康平は、紗枝と別れ漁師として一生暮らす事を決意する。一方の紗枝は夢を見すぎるあまりなかなか就職が決まらず、結局北見先輩の紹介でニューヨークの写真会社に潜り込むことになる。
やがて康平は幼なじみのリツ子と結婚し、紗枝も北見からプロポーズを受ける。しかし康平は借金苦から自己破産しリツ子から三行半を突きつけられ、マグロ漁船に長期勤務することにする。紗枝も北見との結婚を決意した矢先に北見が写真撮影中に死亡し、結局傷心のまま生まれた地・カナダのルーネンバーグを訪ねる。そこでたまたま康平のマグロ漁船とニアミスした紗枝は、康平にメッセージを残し北海道へと戻る。そしてメッセージを受け取った康平も北海道へと戻る。
ついに再会した2人はやがて結婚し、娘を持つ。

【五幕構成】

第1幕 -> 康平と紗枝の出会いと交通事故。
 ※第1ターニングポイント -> 康平と紗枝がつきあい始める
第2幕 -> 紗枝の受験。
 ※第2ターニングポイント -> 紗枝が上京する。
第3幕 -> 遠距離恋愛と破局。
 ※第3ターニングポイント -> 紗枝がニューヨークに行く。
第4幕 -> 康平の結婚と紗枝のニューヨーク生活。
 ※第4ターニングポイント -> 北見が死ぬ。
第5幕 -> カナダへの旅と結末。


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【感想】

さて本日2本目は「ハナミズキ」です。お客さんは若いカップルを中心に大変入っていまして、日本の未来が心配になってきますw
ここを読んでる時点で遅いかも知れませんが、今回はネタバレ100%でお送りします。っていうか上のあらすじで全部書いちゃってるんですけど、それはそれ。お察しください。

本作の概要と基本プロット

本作は一青窈の歌「ハナミズキ」をモチーフに制作され、TBSと東宝が中心に、新垣結衣の所属事務所「レプロエンタテインメント」と生田斗真のジャニーズ事務所の別働隊「ジェイ・ストーム」が出資しています。肝心の一青窈の所属事務所「大家」やフォーライフミュージックが出資していないというところがポイントですw 一青窈はあくまでダシであって、話自体には彼女は一切関係ありませんし、彼女へのリスペクトも感じられません。
基本的なプロットは単純明快です。高校時代にナンパで知りあった高卒ヤンキーと良いとこのお嬢さんが、10年間いろいろあった末、結局結婚するという話です。いや~いいですね、バカっぽくてw
このプロットとキャッチコピーの「君と好きな人が、百年続きますように」を見るとまるで純愛ラブストーリーと勘違いしてしまうかも知れませんが、本作はサイコ・スリラーです。 康平の父は最後の漁で偶然にも心臓発作で他界し、紗枝の恋人も「帰ってきたら結婚しよう」というまるでどこぞのコピペのような安い展開で死にます。でも、そんな不幸を物ともせず、2人はお互いの尻を追いかけます。
奥さんが居ようが、恋人が居ようが、そんなことは関係ありません。ただひたすらお互いを安全牌として確保しつつ、結局全てに挫折して傷の舐め合いのように最後にはくっつくんです。
そう、これ純愛じゃないですし、ハッピーエンドでもないんですよ。要は、バラ色の未来を夢見た男と女が夢のためにお互いを捨てて邁進するけれど、結局挫折してお互いに傷を舐め合う話なんです。実際に結構至る所で泣いている女性が居たんですが、よくこんなんで泣けると感心します。

映画作品としての圧倒的な不細工さ

とまぁ話としては相当いかがなものかと思うのですが、本作は映画作品としての体裁すら成していません。顔のアップが多すぎるとか、台詞で説明しすぎとか、そういう基本的な駄目さもあるんですが、それ以上に構成が酷いです。
本作は珍しく5幕構成を採用しています。あんまり聞いたことがないかと思うのですが、5幕構成はギリシャ演劇の古典スタイルの一種です。「導入」→「葛藤」→「進展」→「危機」→「解決」からなりまして、通常は「葛藤」「進展」「危機」がセットで二幕目になります。ですので、別にこれはこれで良いんです。
ところが、本作の五幕というのは明確に主役2人の関係性に寄っていまして、「出会い」→「付き合い始める」→「遠距離恋愛と破局」→「新恋人との別れ」→「寄りを戻す」となっています。このそれぞれのセクションについて、さらに起承転結が存在しているんです。だから話としては物凄い不細工です。なにせ開始1時間頃に紗枝の上京に合わせて一青窈の歌が流れ始めるんです。これでエンドロールに行くかと思ったらまだ1時間半近くあるのでゲンナリしましたw
はっきり言いましょう。これは5幕構成ではなく、全5話のドラマです。つまり、映画としてまとめることなしにテレビの企画をそのまま5話分垂れ流しているだけなんです。これは恐ろしい事です。いつかやる奴が出てくるとは思っていたんですが、こんなえげつないやり方で制作されるとは思いませんでした。それが証拠に、いちいち各セクションに起承転結があってその度にえげつないイベントがあるので、見ていて物凄い疲れるんです。しかもセクションをまたぐ前に「次週も見てね」と言わんばかりの”フック”が入るんです。これはもう、、、有料放送のテレビでやれよ。
TBSやフジテレビは昔から映画を「有料放送の一括上映システム」としか見ていない節があるんですが、ここまで開き直った作りは珍しいです。もはや映画の形すらしてないんですから。
さて、そもそも純愛じゃないという件はまだ良いでしょう。新垣結衣が偏差値57.5程度で早稲田の推薦取る気満々でしかも受験して普通に受かるとか、日本で仕事を探せないメンヘラがニューヨークで成功するとか、北海道の田舎で個人経営の子供向け英語塾が大繁盛するとか、そういう細かいディティールも1万歩譲りましょう。そもそもマグロ漁船はカナダに寄らないとか、マグロ漁であんなヒョロイ奴は役に立たないとかそういうのも1億歩譲ります。(詳しくはこちらを参照 http://www.maguro-jp.com/fishing/tuna-boat/)
一番問題で一番腹が立つのは、結局こいつら(メイン2人および脚本家)は北見先輩やリツ子さんをどう思ってるんだってことなんです。要は2人以外の全てがただの撮影セットでしかないんです。 紗枝と別れた翌日に康平がリツ子を襲うのは「愛」じゃないでしょ? 死んだ恋人の追悼をした直後に紗枝が康平の尻をワクワクして追いかけるのは変でしょ? おまえら何考えてるわけ? これでは2人がただのイカレた馬鹿にしか見えないんです。描写としておかしいんです。
だから、彼らがエンディング後に正常な生活を営めるとは思えません。紗枝は就活で1社も引っ掛からなかったわけで、康平は釧路で漁師をしていけなくなってマグロ漁船に乗ったわけでしょう? しかも康平は浮気性の甲斐性無しで親戚にあずけた扶養家族が居ます。この2人が釧路の片田舎で幸せに生計を立てられる可能性は限りなくゼロです。

【まとめ】

なんといいますか、、、胸くそ悪いメンヘラ向けテレビドラマを1,800円払って大画面で見るという素敵体験ができました。まともな神経の方には絶対にオススメしませんが、もしあなたが「恋空」とかで泣いちゃうような思考回路の持ち主ならもしかしたら刺さるかも知れません。繰り返しますが、決してまともな方は行かない方が賢明です。
ちなみにテレビ宣伝に出ずっぱりでまるで主役扱いの向井理は、扱いも出番も少ないためファンの方は要注意です。もう向井理ばっかで生田斗真が宣伝にあんまり出ない時点で、宣伝的にもお察しくださいな状態ではないでしょうか。

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