アジャストメント

アジャストメント

土曜の2本目はみんな大好きSFラブロマンス、

アジャストメント」です。

評価:(60/100点) – レトロSF感満載の小品の良作。


【あらすじ】

2006年、下院議員のデヴィッドは上院議員選挙に出馬するも酔ってスキャンダルを起こしてしまい敗戦してしまう。敗北宣言の練習をしていたトイレの中で、彼は偶然エリースという女性と会う。彼女はホテルに知人の結婚式をぶちこわしに来て、警備員から隠れているのだという。2人は一目でお互い惚れてしまい、デヴィッドは彼女に感化されて敗北宣言をアドリブで行う。
その後暫くして、デヴィッドは偶然にも通勤バスの中でエリースと再会する。運命を感じる2人だったが、、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> デヴィッドとエリースの出会い。
 ※第1ターニングポイント -> デヴィッドがオフィスで襲われる。
第2幕 -> 三年後、調整局とデヴィッドの駆け引き。
 ※第2ターニングポイント -> デヴィッドとエリースが別れる。
第3幕 -> 11ヶ月後、エリース奪還作戦。


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【感想】

土曜の2本目はフィリップ・K・ディックがオービット・サイエンス・フィクション誌の1954年9月号に書き下ろした短編「調整班(アジャストメント・チーム)」の世界観だけを持ってきてオリジナルストーリーに膨らませた作品です。ですので、映画化というよりは「”調整班”からアイデアを得たオリジナル作品」という感じです。
マット・デイモンがスーツ姿で走るポスターというそのまんまジェイソン・ボーンシリーズのポスターで話題になっていまして、結構お客さんが入っていました。こういうオールドスクールなSFでちゃんと観客が入っているのはめずらしいです。
本作は典型的な「近未来ディストピアSF」の体裁をとっています。劇中での時間軸こそ2006年~2010年ですが、プロット上では「何者かに実は支配されている近未来」という雰囲気になっています。この「何者かにこっそり支配された世界」「人間に紛れた異物」という世界観はまさしくフィリップ・K・ディックのお家芸であり、例えばマイノリティ・リポートのプリコグやブレード・ランナーのレプリカントなんかがそうです。このあたりのテーマは実際にはディック自身の宗教観がものすごく大きく反映されている部分です。
本作も世界観はディックが作ったモノですから、非常にレトロ感があふれるディストピアSFになっています。本作の中盤で調整員は天使であるとはっきりと台詞で説明されます。この辺りは原作から何も変えていません。この作品の世界では神様が「運命の書」というシナリオブックを書いていて、これを遂行するために天使達がいろいろと弄くっているわけです。コーヒーをこぼしたりコケさせたりw、やってることは大変ショボいですw
ですがそこに追加したのが「神様は人間が自身の予想を超えた意志を獲得するのを期待している」という新しめのキリスト教的価値観なのがなんとも言えません。
原作の場合はこの世界観をドタバタコメディに落としてくるわけで「意外と世界ってこんな間抜けな感じじゃない?」となるわけですが、本作の場合は大真面目に大上段から「神様は人間が予測を超えた動きをするのを喜んでいるのじゃ!!!」みたいな宗教的価値観に振り切れるわけです。
まぁこれが良いかどうかというのはデリケートな問題なんですが、どうしてもこういう「宗教的価値観に基づいた教訓話し」にされると無宗教な私としてはちょっと微妙な気分になってしまいます。
もちろんエンタメとしてさらっと見れば普通に良く出来たSFラブロマンスなんですが、なんか引っ掛かる部分がある惜しい作品でした。いくら運命とはいえデヴィッドがストーカー過ぎますし、なんぼなんでもエリースが「都合の良い女」過ぎますしね。普通2回も裏切られたのに、それでもその男の事を信じますかね? 運命だからってちょっと可哀想すぎです。そんなマッチョイズムも含めて愉快なバカ映画ですw どこでもドアを使った追い駆けっこは夢が一杯ですから。 仕事帰りにレイトショーなんかでフラっと寄るのがちょうどいいのではないでしょうか? わりとオススメです!

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記事の評価
プリンセス・トヨトミ

プリンセス・トヨトミ

今日の一本目は大阪よ立ち上がれ!!!

「プリンセス・トヨトミ」でファイナルアンサー!!!!。

(4/100点) – 中学校のドアの件どうなった? 知らねヽ(´▽`)ノ


【あらすじ】

会計検査院の松平は部下2名を従えて大阪に会計監査に訪れた。特に何事もなく監査は進んだが、社団法人OJOの監査で不思議な事が起こる。監査後に忘れた携帯電話を取りに戻った松平が見たのは、つい1時間前までいた職員達が忽然と消え、電話も不通、机の中ももぬけの殻になった姿だったのだ。不信に思いながらも決定的な証拠を得られなかった松平だったが、空堀中学校で不思議な扉を見たことと研究者の漆原の言葉から、OJOに抜け道があることに気付く、、、。


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【感想】

本日の1本目は「プリンセス・トヨトミ」です。まるで2chのコピペでお馴染みの「大阪民国」を絵に描いたような映画ですが、結構客席は若い人もいて、埋まっていました。監督はフジテレビの鈴木雅之。フジテレビと東宝の協賛映画です。
ここでお約束のお断りです。本作にはロクにドラマがありませんがそれでも「話しが無い」という説明をするために結末付近までネタバレ有りで書きます。特に支障は無いと思いますが、未見の方はお気を付け下さい。

話しの地滑りっぷり

いきなりですが、本作はかなり話しが地滑りします。というか、そもそも話しが始まるまでに1時間以上かかります。
本作の前半は会計検査院の鬼の松平・ミラクル鳥居・旭の監査行脚を軸に物語が進みます。OJOで不思議な事があった後も監査は普通に進められます。物語が動き始めるのは開始約1時間目。松平がOJOの扉を開けさせるところです。ここまでがとにかく退屈です。いわゆる謎らしい謎もないまま(=話しが無いまま)ひたすら監査が続くものですから、とてつもなく退屈で睡魔との戦いになります。そして通路が開くと同時に、大阪国についての話しがすべて中井貴一の口から語られます。ここは完全に説明口調で、ナレーションで良いレベルで一気に情報が伝えられます。実は本作はある意味ではここで終わっているとも言えますw ここまでが言うなれば「前置き」にあたります。そして「木曜日」のインタールードの後、「金曜日」としてようやくドラマが始まります。最近の邦画にありがちなのですが、前置きでたっぷり状況やキャラクターの説明をして、映画上の第三幕だけで独立したドラマを語る構成になっています。これが私が良く使う「全○話のテレビドラマ」というやつです。
金曜日になると、ストーリーは監査から離れて一転、「豊臣国松の末裔が誘拐された」という話しになります。しかも「誘拐された」裏側も並行して見せながらの展開です。当然それまでにそんな誘拐の話しはありませんから、本当にここだけ全体から独立した話しになっています。そして、映画は最終的には「父と息子の関係性」「会話が途絶えがちな父と息子の幸せな一子相伝の話し」に着地します。前半の展開からは思いも寄らない所へのすごいすっ飛び方ですw 普通の映画は尺を最大限に使ってあるテーマ(=ゴール)を語るためにエピソードを逆算で構築するのですが、本作の場合はどうしても行き当たりばったりな感じがしてしまいます。だってこのテーマなら前半は丸々要らないですからw
ということで、本作にはかなり置いてきぼりにされた印象があります。「あれ、そこ曲がるの?」「あれ、その道は違くない?」って言ってる間に気がついたら知らない土地で迷ってる感じですw

細かい所が行き当たりばったりすぎる

当然話し全体の流れがずさんであれば、細部を見ればボロボロですw 例えばそもそものきっかけになった「OJOの職員が入り口から出ていないのに忽然と姿を消した件」は最後まで意味が分かりません。話しの流れ上は「OJOの建物に隠し扉があったのだ!!!!」ってことで解決しているような雰囲気になっていますが、この隠し扉の先は部屋が一つあるだけで行き止まりですw そもそもこの隠し扉の通路は「人生で2度しか歩かない」「父と子が語り合うための神聖な場所」なわけで、断じて昼休みに通るための通用口ではありませんw よしんばカメラが映していない所でこの行き止まりの部屋からさらに別の通路があったとしても、OJOの職員がそんな所を通って別箇所に行く理由がありません。OJOのオフィスで大阪国の業務をすればいいだけですからw
隠し通路といえば、やはりこちらも話しのきっかけになる中学校にあった不思議な扉があからさますぎる上にその後は一切登場しません。江守徹扮する漆原教授曰く「大坂城には最低でも三カ所の隠し通路がある」はずですが、これと中学校/OJOの扉との因果関係もまったくありません。けっきょくなんだったんでしょうか? もしかして中学校の扉とOJOの扉が中で繋がってたんでしょうか? じゃあOJOの職員って本業は学校の用務員とかっていう設定? なんかよく分かりません。
分からないと言えば、やっぱりそもそもこの「秘密結社 大阪国」という設定がさっぱりです。そもそも年間5億円の資金のためにものすごい苦労しているわけですが、有志団体で推定会員266万人(=大阪の人口)いるんだから、全員から年会費200円取った方が秘密が守れるんじゃないの? 「他へ引っ越した人はどうなるの?」とか、「そもそも大阪城が赤くなったら観光客にはバレバレじゃね?」とか「大阪城の前で数万人単位で集まって数で脅しといて秘密も何も無いだろ!」とか、「結局鉄砲もってるんだから危険分子じゃん!!」とか「御神体=教祖が匿名の”ミスX”じゃあ求心力無いでしょ。」とかツッコミ所は山ほどあります。
そもそもからしてメインのはずの「プリンセス・トヨトミ」がなんにもしませんから。ドロップキックを一回やったくらいですw
着地も結局「鬼の松平」が拳銃にびびって逃げ帰ったようにしか見えません。情にほだされたとも見えなくはないですが、それも単に拳銃で撃たれて気が弱ってただけにも見えます。っていうか検査員なんだから仕事しろ。ちゃんと報告挙げろ。おまえの独断で揉み消して良い規模の裏金じゃない。

でも良いところもあるよ!!!

文句ばっかりになってしまったので、良い所も挙げておきましょう。なんといっても一番良いところは沢木ルカの存在感です。この子がまだ13歳だというのでかなりビックリしてるんですが、かなり良いです。ちょっと古風な感じのボーイッシュさと相まって、往年の角川映画のヒロインっぽさを凄い感じます。東宝映画ですけどw
その他の存在感ではやはり玉木宏です。大阪城公園の屋台のお兄ちゃんというズルい役でシークエンスのすべてを掻っ攫っていきますw いきますが、残念ながら話しの本筋とは一切関係ない出オチです。本作で非常に困るのは、柱になる話しが無いためメインの役所のキャラクター達が総じて薄っぺらいことです。結果、沢木ルカや玉木宏や甲本雅裕のような直接ドラマに絡まない俳優の「地力」が目立ってしまっています。

【まとめ】

色々書きましたが、沢木ルカを見るためだけでお釣りがくるぐらい彼女は素晴らしいです。なのでオススメしておきたいのですが、、、ちょっと内容が内容だけに難しいです。幸い映画の日が近いですから、1日に1000円で見に行くぐらいでちょうど良いのではないでしょうか?
真面目に見るとやってられないくらいの出来ですから、あくまでも半笑いでビール片手に見るぐらいの態度でOKですw

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星を追う子ども

星を追う子ども

今日は3本見ましたが、一番面倒なコレを最初に書きます。
そう、新海誠の最新作

「星を追う子ども」です。

評価:(9/100点) – みんなジブリが好きね、、、。


【あらすじ】

アスナは山の上で一人鉱石ラジオを聞くのが好きだった。父は他界し、医者の母親はいつも夜遅くまで帰ってこない。
ある日、彼女は山でケモノに襲われたところをシュンという少年に助けられる。はじめて秘密のラジオを共有できる仲間が出来たが、彼は数日後に忽然と姿を消し、川縁で遺体が発見される。アガルタという遠い所から来たというシュンの手がかりを探すため、彼女は新任教師のモリサキから話しを聞く。
その後暫くして、彼女の元にシュンとそっくりの少年が現れる、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> アスナとシュンの出会いと別れ。
 ※第1ターニングポイント -> アスナがシンと出会う。
第2幕 -> アスナとモリサキの「生死の門」への旅。
 ※第2ターニングポイント -> アスナとモリサキが別れる。
第3幕 -> 生死の門


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【感想】

土曜の1本目は「星を追う子ども」です。知ってる人には超有名、知らない人は全く知らない新海誠監督の最新作です。完全に狭いマーケットの監督ですので客席も似たような雰囲気の20代~30代ぐらいのオタク系男子ばかりでした。結構みなさん大人数で連れ立って来ていまして、かなり埋まっていました。
さて、twitterでちょろっと書きましたが、ここから先は結構デリケートなことを書きます。ネタバレも含みますので未見の方はご注意ください。またアリバイを作るために(苦笑)、先ほどまで新海誠監督のDVD化された作品をすべて見返しました。「彼女と彼女の猫」「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」。まずはそもそも新海誠監督が歴史的にどういう位置にあって、そこから本作でどうなるのかという所を書いていきたいと思います。

前提:そもそも新海誠監督って、、、という話し

では面倒な話しに行きましょう。「新海誠」の名前を一躍有名にしたのは「ほしのこえ」です。2002年制作のこのアニメはほぼ全ての工程を当時まだ20代だった日本ファルコム社員・新海誠が制作した「同人アニメ」です。この作品は決して真新しいことはやっていませんでしたが、石原慎太郎のぶち挙げた「第1回新世紀東京国際アニメフェア21(いまの東京国際アニメフェア)」で一般公募部門の優秀賞を獲ることで歴史的な「象徴」となりました。なぜこの「ほしのこえ」が象徴になったかを説明するには、時代背景を理解する必要があります。以下3つのキーワードで新海誠を探っていきましょう。

新海誠を考える上でのキーワードの1つ目は「パソコン時代の自主制作アニメ」です。
自主制作フィルムというのはかなり昔からありました。1960年代にはNHK主催で一般公募の8mmフィルムコンクールがありましたし、例えば自主制作アニメという意味では80年代の関西SFオタクコミュニティを牽引したダイコンフィルム/ゼネラルプロダクツなんかもあります。ちなみにゼネプロは元々は輸入プラモデルやフィギュアを扱うグッズ屋でしたが、後にアニメ制作会社・GAINAXになります。
こういった状況がありつつ、90年代に入ると劇的な変化が始まります。それまで自主制作の現場ではあくまでも8mmフィルムが主体でしたがWindows98によってパソコン編集が使われるようになります。特に重要だったのは「Lightwave」「StrataVision 3D」という3Dモデリング・レンダリングのソフトと「Adobe Premiere」という編集ソフトの存在です。それまではパソコンを動画編集で使うとなるとAmigaみたいな100万円越えのワークステーションを用意するか、OpenGLに特化したグラフィックボードを数十万で用意する必要がありました。要はすっごいお金が掛かったんです。それがWindows98の登場で劇的に安上がりになりました。
この自主制作映像のパソコン編集の流れを決定づけたのが2000年に放送を開始したNHK衛星第一の番組「デジタル・スタジアム」です。
デジタル・スタジアムは毎週一般公募によって投稿された30秒~1分程度の映像をひたすら紹介・批評しつづけるというかなりチャレンジな30分番組でした。ここでいわゆる常連投稿者が誕生し、3Dモデリングのノウハウや編集方法がテレビで大々的にレクチャーされるというものすごいアグレッシブな内容になります。つまり、前述した2002年というのはパソコンを使った自主制作3D動画が一番盛り上がりを見せていたときだったんです。実は私も相当嵌っていまして、CGモデリングのためだけにLinuxマシンを自作してBlenderを回しまくっていました。
そこで登場したのが「ほしのこえ」だったんです。「ほしのこえ」は全編がパソコンを使って制作されており、まさしく2002年当時の自主制作シーンのど真ん中でした。しかもそれをほぼ一人で制作しているわけで、まさしく「21世紀の引きこもり型自主制作映画」の最先端だったんです。「ほしのこえ」はパソコン1台とガッツがあれば誰でもアニメ作品が作れるという夢に満ちていました。
「ほしのこえ」の作品自体はまったく新しいものではありません。宇宙と地球で離ればなれになった恋人達がお互いに携帯メールを送るものの、何光年も離れた2人のメールはとてつもない時差を伴って2人を引き裂いていきます。この作品の概要・世界観は前述のダイコンフィルム→GAINAXの代表作である「トップをねらえ!」からの影響と思われます。ヒューゴ賞・ネピュラ賞・ローカス賞のアメリカ3大SF賞を総ナメにした1974年の傑作「終りなき戦い」をモチーフにした「トップをねらえ!」のウラシマ効果を大々的にフィーチャーし、そこに恋愛と「セカイ系」の要素を入れてきます。

新海誠のキーワードの2つめは「GAINAX」です。
新海誠の作風は直接的にGAINAXの影響を受けています。新海誠の最大の特徴である「ウジウジした男が延々と一人言をつぶやくモノローグ」は「新世紀エヴァンゲリオン」の影響で、これが「セカイ系」、つまりキャラクター個人の感情・事情が直接セカイと結びつくという「狭く閉じた自己中心的な世界観」に繋がります。プラスして、彼はカメラワーク・画面構成も庵野秀明から影響をうけています。人が映っていない自然風景からキャラクターに頻繁にパンしたり、廊下や線路といった奥行きのある背景を広角レンズ式の歪みで俯瞰で描いたり、こういった特徴的な画面構成です。これらは実際には庵野秀明の発明品ではなく実相寺昭雄監督の特徴的なカメラワークです。しかし新海誠はおそらく実相寺昭雄から持ってきたわけではなく、庵野秀明を経由した孫参照です。それは全体的に庵野流の演出・セリフ回しを多用していることから伺えます。

新海誠のキーワードの3つめは「サウンドノベル」です。
新海作品を注意深く見ていると、カメラフレームが静止することがほとんど無いことが分かります。キャラクターの動きとは関係無く、常にゆっくりとカメラフレームが縦・横にスライドしていきます。そして、画面の中央にキャラクターが居ることもほとんどありません。こういった手法はアニメーションにおいてはかなりイレギュラーといいますか、はっきりいって駄目出しされる手法です。少なくともアニメ制作会社で下積み勉強をした人間には出来ません。
これはアニメと言うよりは紙芝居・サウンドノベルの手法です。サウンドノベルはスーパーファミコンの名作「弟切草」が発明したジャンルで、名前の通り「音がでるゲームブック」です。(※最近は「ゲームブック」も見かけませんがw) このジャンルはカセットやディスクの容量との戦いなので、いかに挿絵を減らして音を入れるかというのが大切になります。ですので必然的に細かいエフェクトを多用することになります。これが前述のゆっくりスライドするカメラフレームであったり、中心よりずれたキャラクター配置です。つまり、新海誠はアニメ作品としてはかなり異端な事をしていて、どちらかというとビデオゲームに近い構図をとっているということです。逆に言うと、こういう構図を取るアニメ監督はあまりいないので、それが個性に繋がっています。

だらだらと書いてきましたが、一旦まとめましょう。新海誠監督は21世紀のはじまりに、パソコンによる映像自主制作の象徴として登場しました。彼の作風は直接的にGAINAX作品やビデオゲームから影響を受けています。つまり文脈上「いまどきの監督」というポジションで語られる人だということです。

本題:あれ、参照元を変えたの?

とまぁ延々と言い訳と予防線を張りつつ本題にいきますw
ジブリすぎ。さすがになんぼなんでもジブリすぎ。
本作はいままでの新海誠の特長・作風とはまったく違います。まず一見してわかるのが、うざったいほどのモノローグが無くなっている点です。単純にすっきりしています。そして画面の作り方もまったく違います。これまでは庵野演出 a.k.a. 実相寺昭雄演出だったのが、宮崎駿タッチにかわっています。宮崎駿演出の最大の特徴はフェティッシュなまでの「実動作のアニメ化」です。「水が流れるとはどういうことか」「草が風になびくとはどういうことか」。そして「空から女の子が落ちてくるとき、スカートはどういう風になびいてパンチラになるか」。彼は、スロービデオで研究したのかと思うほど、溜めと抜きによってデフォルメされた「実物よりも実物っぽい動き」をアニメーションで再現して見せます。今回の新海誠はこの宮崎駿演出を参照しています。いるんですが、あんまり出来てません。上っ面だけそれっぽい感じになってるだけです。

これまでの新海作品は背景を実際の風景写真からトレースした高密度の線で埋め、一方の人物は線の少ないアニメアニメした陰影で構成されています。そうすると背景から人物が浮き上がって見えますので、それが”素人っぽさ”に繋がり、結果的には新海誠の「インディ界の大物」という雰囲気にマッチしていました。ところが、今回は背景の線が減り、より「普通のアニメ」っぽくなっています。

今回の作品を総括すると、「いままでの新海誠節を捨てて”より普通のアニメ”を目指した結果、下手な上に参照元とおぼしき”ジブリ調”が露骨に出過ぎた」ということに尽きます。何度も書きますがジブリすぎ。
ムスカっぽい先生・モリサキが最後ちゃんと「目が~~~目が~~~!!!!」な展開になったり、ミミ(猫)のデザインや仕草はナウシカのテト(キツネリス)だし、クラヴィスのペンダントはそのまんまラピュタの飛行石と同じデザインだし、ちょっとこれは酷すぎます。そもそも「自然(=生死)を受け入れる」「ボーイ・ミーツ・ガール(少女と出会うことで少年が成長する)」ってのは宮崎駿のお家芸なワケで、絵柄から小物のデザインからテーマから一緒にして「知りません」はさすがに無理でしょう。
でも、別にパクるのがいけないというつもりはまったくありません。参照は大いに結構。だって全ての作品は大なり小なり他作品からの引用で出来ているわけで、本当にブランニューな革新的作品なんてまずありません。だから参照行為それ自体によって作品がマイナス評価になることはありません。
問題は、本作の完成度が参照元に遠く及ばないってことです。
例えば終盤近くの殺陣のシーン。チャンバラをやっているのに絵がほとんど動いていません。集中線の止め絵とカットエフェクトだけで構成されています。これは宮崎駿オマージュでは絶対にあり得ません。宮崎駿はこういった動きをアニメーションに起こすところに労力を傾ける人です。でも本作では新海誠はいままでどおりの「サウンドノベル」のやり方を使って、少ない枚数でいかに乗り切るかという方法論でやっています。
例えば前半の渓谷橋からバケモノが落ちるシーン。ただ漫然と同じスピードで落ちています。でも本来の物理法則からしたらそうはなりません。現実では、始めに溜めがあり、そこから徐々に加速して最後は一気に川に突っ込んで、そして突っ込んだ水面が落下点だけ最初一気にへこみ、次に周りの水が戻ってきて真ん中で高く舞い王冠型になります。こういった現実世界の動作/現象を、宮崎駿は徹底的にデフォルメ/再現してみせます。しかし、本作にはこういった細かいフェティッシュな表現はまったくといっていいほど出てきません。
本作に出てくる宮崎演出/ジブリっぽさというのは、本当に絵面だけです。なんとなくそれっぽい記号としてのジブリだけです。
その薄っぺらさを象徴するのが本作のストーリーのずさんさです。本作はストーリーが彷徨いまくっています。「モリサキ先生が亡き妻を蘇らせるためにアガルタにある生死の門を目指す」という軸はありますが、それに対してシンとアスナの行動原理がまったくはっきりしません。てっきりアスナはシュンに会いたくてアガルタに行ったと思ったのですが、終盤には死んだお父さんの話にすり替わっていて、あげく「さびしかっただけ」とか元も子もないことを言い出す始末です。友達に「一緒に帰ろう!」って誘われてるのに断ってたじゃん。
シンはシンで「異種族交流」みたいな無難な線に着地するんですが、「アガルタにも地上にも居場所がない」件はいつの間にか無かったことになってハッピーエンドっぽくなっています。
そもそも本作のフォーマットは「行って帰ってくる話」であって、「アスナが異世界に迷い込むけど成長して戻ってくる」という最近多いパターンの作品です。で、、、、アスナってなんか成長してましたっけ??? アスナってほとんど主体的に行動して無いと思うんですけど。ものすごい勢いで周りに流されまくってるだけでは、、、。アスナが主体的に行動したのは「アガルタから出ない」と決断したときと「モリサキ先生を追って生死の門に行く」って言った時だけです。そしてその二つとも理由がよく分かりません。
これらは駄目な作品の典型で、「興行上の必要はあるけど物語内での必然性がない」ということなんです。つまり、アスナが「じゃあ帰ります。お母さんが心配してますので。」って言うと映画が30分で終わりますし、「モリサキ先生は行ってしまいました。私達は帰りましょう。」っていうと盛り上がらないままシンミリと終わってしまいます。でも、作品内でのアスナの性格を考えれば帰って良いんですよ。だって家で洗濯物があるから友達の誘いを断る人物なわけでしょ。お母さんが心配してるんだから帰れよ、、、、、とかいってるとエピローグで母親がまったく心配していないという驚愕の事実が浮き彫りになるんですけどね。万事が万事これです。「誰がどうしたからどうなった」っていう因果関係がグチャグチャなので、見ててかなりどうでもよくなります。
前作までの新海監督は、基本的にはGAINAX作品のテイストを参照しながらも、そこに「現代の若者達の社会性/関係性」というテーマを入れてきていました。だから多少嘘くさかったり中2病っぽく見える恥ずかしい部分もなんとか「作家性」としてカバーできていました。
ところがいわゆる「普通のファンタジー」みたいな所に挑戦した結果、脚本も演出もガタガタで、素人っぽいというより、ただ下手なだけのトンデモ作品になってしまいました。

【まとめ】

相変わらずグダグダと愚痴ってきましたが(苦笑)、結論は前述したとおりです。
「いままでの新海誠節を捨てて”より普通のアニメ”を目指した結果、下手な上に参照元とおぼしき”ジブリ調”が露骨に出過ぎた」
あえて書きますが、見終わった後の感覚は「ゲド戦記」に近いです。本家に似ても似つかない妙なパチモノ感だけが残ります。
いやぁ、、、、、「作家性」って本当に難しいですね。ということで、オススメDEATH!!!!!

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GANTZ PERFECT ANSWER

GANTZ PERFECT ANSWER

土曜は

「GANTZ PERFECT ANSWER」を見てきました。

評価:(45/100点) – 名作の使い捨て、モッタイナ~イ。


【あらすじ】

前作から数ヶ月後、玄野は多恵とともに死んだ加藤の弟の面倒を見ながら、着々とGANTZの得点を稼いでいた。そんなある日、玄野の元に死んだはずの加藤が現れる。時を同じくして打倒黒服星人のミッションではバトルフィールドが現実世界とリンクし、一般人に直接的な被害者が出てしまう。果たしてGANTZはどうなってしまうのか、、、?


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【感想】

土曜日は劇場版GANTZの後編、「GANTZ PERFECT ANSWER」を見てきました。相変わらず中高生の女子を中心に物凄い人が入っていまして、客席は8割方は埋まっていました。これについては言いたいことは一杯あるのですが、とりあえず興行的には良い線に行っていると思います。製作費用もかかっているのでペイできるかは厳しそうですが(苦笑)。

本作の良い所:CG満載だけど十分に見応えがある剣劇アクション

後から不満をたくさん書きますので、まずは良かったところを挙げてしまいたいと思います。
本作で本当に良かった点は前作から大幅に改善したバトルシーンです。前作では引き金を引けば全てが片付く絶大な威力の「Xガン」しか武器がほぼ無かったため、バトルは「いつ引き金を引くか」というしょうもない引っ張りしかありませんでした。ところが本作ではXガンはほとんど使われず、ガンツソードが多用されます。これによって前作のテイストとは全く違うCGテンコ盛りの剣劇アクションが展開されます。たしかにCGを使ったワイヤーアクションもどきばっかりだったりカメラを揺らしすぎだったりはしますが、この剣劇アクションは本当に面白いです。特に序盤の地下鉄での黒服討伐ミッションでの水沢奈子vsGANTZ古参3人の対決はかなり良いクオリティです。
後半に行くと剣劇が減ってバトルシーンもかなり失速していくのですが、それでも偽加藤vs玄野&加藤でもそこそこ見られる瞬間もあるぐらいの感覚です。これに関しては、邦画の中ではかなり頑張っている方です。

本作の悪い所:剣劇アクション以外の全て

とまぁ一応褒めた上でなのですが、、、ハッキリ言って剣劇アクション以外はかなり厳しい事になっています。「剣劇以外」と言っているのは、つまり剣劇アクション以外のバトルシーンもがっかりポイントだという意味です。というか突っ込み所が多すぎます。
時系列で行きますと、まずはチビガンツの存在です。本作では冒頭でチビガンツが鮎川の元に届けられ、彼女がチビガンツからのミッションを遂行していく所から始まります。そしてそこをフックにして時間を戻して、そこに至る経緯を描いていきます。
本作では鮎川を使ってガンツ100点卒業生達を殺させることで、ガンツはガンツ部屋にOBを召還しようとします。そのターゲットとなるのが小林(メガネデブ)と中村(アフロ)と山本(女子高生)と多恵です。
ところが本作では多恵がガンツに召還される意味が分かりませんし、何の説明も何の伏線もありません。普通に考えれば多恵も100点卒業生なのですがそれに対するものがなにも無いので、後半のストーリーの流れが非常に理解しづらいです。
後半はガンツからの「小林多恵を倒せ」という緊急ミッションを巡るあれこれになります。このミッションはそもそも「チビガンツのミッションを偽加藤が完遂してしまうとガンツ部屋に来られてしまうから、ミッションを完遂できないように先に多恵を殺せ」というガンツの意志だという説明が作中にあります。ところが、チビガンツはあくまでもガンツのパシリみたいなもので、そもそもガンツの意志でOB集めをしていたはずです。「4人殺せというミッションなのに最後の一人を殺すだけで手柄になるのか?」という話しもありますし、「そもそも自分でだしたミッションなんだからミッション自体を無かったことにすればいいんじゃないか?」とか思いますが、やっぱり何の説明もないので良く分かりません。
実はここも含めて今回の作品では「GANTZ」の設定そのものが持っている変な所がかなり目立ってしまっています。例えば冒頭の黒服ミッション編です。GANTZの世界ではミッションが始まると異次元に迷い込んでターゲットの星人以外は誰もいない世界でバトルが行われます。ところが異次元で破壊された建物は現実でも実際に壊れます。これは前作でも何度か描写されています。
そうすると当然思うのは、「ミッションが始まる瞬間、ターゲットの星人はどうなるのか」です。ガンツの討伐メンバーは変な光で転送されますが星人もそうなのでしょうか? でもそんなあからさまなことになったら星人側に警戒をあたえてしまいます。前作でも星人とのファーストコンタクトで星人が「自分が狙われている」という明確な警戒を抱いている描写はありませんでした。
一方、地下鉄のシーンではその逆で異次元から現実に討伐メンバーが移動して、その直後に乗客が「何かのイベントかしら?」とつぶやく描写があります。人が急に現れたら「イベントかしら?」じゃすまないと思うのですが、これは現実側からはどういう風に見えていたんでしょう?本来こういう部分は気にしないで適当にスルーするべきなのですが、下手に「現実とリンクする」という展開にしたためにワケの分からないことになっています。
とはいえ、設定や描写の変さというのはそれ以外が良ければ勢いで何とかなったりします。例えば前述の地下鉄のシーン。普通地下鉄には緊急安全装置が付いてますし司令室から送電停止すると止まります。本作では運転手が殺されていますし、発砲事件になっているのですからすぐに止めてしかるべきです。また本作では前方の電車に追突もしないですし対向列車とすれ違うこともありません。明らかに変です。でもそんな細かいことは気にならないくらいアクションが良く出来ているため、こういった描写のおかしさはあまり気になりません。
特に後半につらくなっていく一番の理由は、作品に玄野と多恵のヌル~い恋愛要素が入り始めるからです。せっかく玄野が多恵を背負って逃げるという良いシーンなのに、途中で突然手を引いて走り出したり(※背負ってるときはガンツスーツのおかげで超速いですが、手を引いてるときは普通の人間の早さです。じゃないと多恵の腕がもげます。)いきなり甘ったるい愁嘆場を展開したりします。前編では西君がスーツのステルス機能を使う描写がありましたが、よりによって今回は追いかけっこの最中に誰一人ステルス機能を使いません。なによりシラケるのは、鈴木と多恵が二人で逃げる場面です。よりによってここのシークエンスでは、予想外に見つかったり画面の外から急に攻撃されたりする描写が一回もありません。かならず追っ手側は画面の向かって奥からゆっくりと現れ、鈴木達にXガンを向けながら警告します。さっさと撃てばいいのに、そして不意打ちすればいいのに、何故か一回もそういった行動は取りません。これは偽加藤にも言えます。偽加藤はかなりジェントルメンで、目の前でいちゃついているのを待ってくれたり、わざわざ多恵がすぐに死なないように急所をはずして3回も甘く切りつけたりしてくれます。あまりのジェントルメンぶりにちょっと涙が出てきました。アクビのせいですけど、、、。
そうなんです。相変わらず後半は安い泣き脅しの展開になってしまうんです。せっかく前半はアクションのテンポが良かったのに、後半はいつもどおり愁嘆場を演じて、いつもどおり致命傷を負ってるのになかなか死ななくて、いつもどおり都合の良い生き返り方をします。最終盤なんて銃弾の嵐で蜂の巣にされてるのに、加藤はピンピンしていて、玄野はハァハァいいながらも10分ぐらい雑談する余力があって、それなのに他のメンバーはみんな即死なんです。意味がまったく分かりません。主人公補正かかりすぎ。というか本来はここのシーンって玄野以外はみんな虫けらのようにあっさりと死なないと成立しないんです。そこで絶望するから自己犠牲に繋がるわけで、劇中だと別に玄野がそういう決断をする必要はなくて他のだれかでも良いんです。そもそも玄野って本当は死んでいてガンツに生かされている立場なんだから、最終盤の状況はマッチポンプになっておかしいでしょ。電池を入れ替える際には一瞬とはいえ電源が落ちるわけだから。
今回の作品では、「ガンツとは何だったのか?」とか「星人って何なのか?」という事に関しては全く触れられません。でもそれはOKです。「CUBE」シリーズが「CUBE ZERO」で設定を説明された途端にものすごいズッコケたように、おそらくガンツについても下手な説明があるくらいなら謎のままの方がSFとして遙かに面白いはずです。
ただ、「多恵が何故チビガンツに召還されたのか?」というようなストーリーの流れを把握するために絶対に必要な部分まで説明がないのは頂けません。あまりにもそういった細かい部分の整合性がとれていないため、とても難解でわけのわからないストーリーになってしまっています。(もちろんGANTZの大ファンなら描かれていない部分も汲み取って想像で補ってやることはできますけど、、、)

【まとめ】

とまぁグダグダとグチを書いてきましたが、前作を見た上で本作を見るかどうか悩んでいる方は間違いなく観た方が良いです。少なくとも漫画に囚われずに映画は映画でまとめるんだという制作者側のガッツは見ることが出来ますし、なにより前半の地下鉄バトルまでは本当に面白いです。
私は冒頭で「中高生の女子が一杯入っていることに言いたいことがある」と書きましたが、たぶん一番の微妙な点はここだと思うんです。GANTZの話しは本来的には「魔物狩り」の話しであり、それってグロい描写と相まって非常にアクション色やカルトSF色・モンスター映画色が強い作品なんです。だから当然それは男の子向けなワケです。本作は主演と準主演に二宮和也と松山ケンイチというあんまり演技の上手く無いアイドルを起用することで、女性向けなマーケティングに寄らざるを得なくなったように思います。結果、話しの本筋に全く関係無い薄っぺらい恋愛要素が入ってきて、それがせっかくのアクションシーンのテンポを壊滅的に破壊していきます。そうすると残るのはいつものテレビ屋映画、大袈裟でテンポが悪い愁嘆場の連続になってしまいます。
せっかく作って貰ってなんですが、多分GANTZの映画化はVシネのように限られた予算でアクションに徹した方が良い出来になったと思います。そういった意味では惜しい作品でした。
とりあえずしばらくは劇場で掛かっていると思いますので、迷っている方はゴールデンウィークの合間にでも暇つぶしで見てみて下さい。前半は結構テンション上がります。オススメします。

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エンジェル ウォーズ

エンジェル ウォーズ

土曜は一本、

エンジェル ウォーズ(サッカー パンチ)」を見てきました。

評価:(70/100点) – さすがザック!!! オタク丸出しのダークファンタジー!!


【あらすじ】

母の遺産を全て継ぐことになったベイビードールと妹は、継父に逆恨みされ命を狙われる。妹は継父に殺され、ベイビードールはその殺人の罪を着せられ(※)レノックス・ハウス精神病院に入れられてしまう。
継父に買収されたレノックス・ハウスのブルー・ジョーンズは、ベイビードールにロボトミー手術を行って廃人にしようとする。ベイビードールは果たしてレノックスから脱出することができるのだろうか?
※ http://www.metacafe.com/watch/6185190/exclusive_six_minutes_of_sucker_punch/
  何度かこのシーンを見直してるんですが、ベイビードールが撃った弾が誤って妹に当たっている様な
  演出にも見えます。その場合普通に逮捕されただけです。

【三幕構成】

第1幕 -> レノックスへの入所とロボトミー手術
 ※第1ターニングポイント -> ベイビードールが始めてダンスを踊る。
第2幕 -> 脱出作戦。
 ※第2ターニングポイント -> 脱出作戦がばれる。
第3幕 -> 結末。


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【感想】

今週の土曜日は信頼できるバカ(笑)、ザック・スナイダー監督の最新作「エンジェル ウォーズ」を見てきました。新宿ピカデリーでは半分ぐらいの座席が埋まっていたと思います。アメリカでは漫画オタク狙い撃ちなマーケティングをして見事に興行的に大コケしていますが、日本ではファンタジー色を前面に出して上手い具合にその辺りはぼかしています(笑)。とはいえ、アイドル声優ユニットのスフィアを吹き替えのメインどころに起用して、ちゃんとオタクを狙い撃ちにしてはいます。このマーケティングがすごい嫌だったので(笑)、あえて字幕上映に行ってみました。なんですが、字幕公開館が少なすぎです。3D映画以外でここまで吹き替えに偏重しているのはかなり異例です。

ここでいつものお約束です。本作にはいわゆる”オチ”がつきます。オチが付くんですが、構造上そのオチを前提にしないと色々と説明が出来ません。ここ以後、直接的なネタバレが含まれます。未見の方はご注意下さい。とりあえず本作は確実に面白い映画ですので是非見に行って下さい。かなりオススメです。

本作の構造

いきなりネタバレから話しを始めたいと思います。
本作はデヴィッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ(2001)」と同じ構造をしています。要はある少女の夢見心地な走馬燈の話しです。それを時系列で見てみましょう。

物語はベイビードールが過去形で喋るモノローグから始まります。冒頭は台詞無しで彼女がレノックス精神病院に入れられるまでの経緯が描写されます。そして開始7分~8分ぐらいには彼女は椅子に縛られロボトミー手術(※目の上に長い釘を刺される治療)を受けます。その釘がささる瞬間に突然舞台が変化し、売春宿の話しが始まります。ロボトミー手術自体は夜の出し物の舞台で、縛られていたのはスイートピー。スイートピーは唐突に「やめやめ!!」と宣言し、そこから舞台がガラッと変わります。ベイビードールは夜の舞台で踊るダンスの練習をさせられ、その踊りの最中に突如迷い込んだ夢の中で老人に「5つのアイテムを探して自由を勝ち取れ」と教えられます。必要なアイテムは「地図」「炎」「ナイフ」「鍵」、そして最後だけが謎。ベイビードールはスイートピーを含めた4人の仲間と共に、この売春宿からの脱出を謀ります。本作はこの4人+1人の脱出作戦がメインになります。色々あって物語の終盤、舞台は再びレノックスに戻りロボトミー手術を受けた直後のベイビードールが映されます。そしてそこで事の真相が明らかになります。

この物語はベイビードールがロボトミー手術を受ける瞬間の頭の中を描写しています。彼女は妹を助けられなかった自責の念とレノックスに入ってからブルー・ジョーンズに受けた虐待によって、そのとき既に頭がおかしくなってしまっています。これにより彼女の走馬燈(=回想)は彼女の妄想によって実在の登場人物や舞台の設定が変わってしまっています。実際にレノックスで起きた出来事がそのまま歪んだ形で描写されていますので、これは夢の様なものです。現実の人物が彼女の印象によって別の設定で登場してきます。この回想の中で語られる出来事に「スイートピーとロケットという姉妹の話」があります。このエピソードで、ベイビードールがこの姉妹を助けることを自分の「運命」と割り切ったことが伺えます。自分の妹を助けられなかったことを悔いた彼女がいかにレノックスの中で振る舞い、そして受け入れたのかが明らかになります。

最後の最後、エピローグとして登場するスイートピーのバス停シーンはまるでベイビードールの見た妄想です。なぜならバスの運転手として登場する老人は唯一ベイビードールの回想の中のさらにファンタジーシーンだけで登場する人物で、彼女に助言を与える人物、すなわち彼女自身の意識の投影だからです。そして本作は完全にベイビードールの一人称視点であることも言及しないといけません。本作の妄想シーン以外は全て彼女の見た(=見られる)シーンで構成されています。このあたりは冒頭でベイビードールが鍵穴から継父が妹を襲いに行くのを見るシーンで印象づけられます。

ということを踏まえると、本作は病んだハッピーエンドだということになります。妹を助けられず継父に嵌められた少女が、精神病棟からの脱出を試み、そして仲間が犠牲になりながらもスイートピー(=精神病院にいれらている姉妹の姉。)だけを脱出させることに成功します。ベイビードールはロボトミー手術を受け、その瞬間に自分の人生を「自身の境遇に似たスイートピーを助けるためのものだった/彼女が主役だった」と割り切って納得します。そして壊れた心の中で、スイートピーが脱出した後で見事に故郷に戻るというハッピーエンドの妄想に閉じこもります。もちろん実際にどうなったかは分かりません。誰かを逃げそうとしたのは間違いないですが、本当に逃げられたのかもしれないですし、妄想かもしれません。

この辺はオリジナル版(143分バージョン)の「未来世紀ブラジル」とも同じです。

ザック・スナイダーの頭の悪さ(笑)。

という基本的なフォーマットを言い訳に使いつつ、本作は予算の限りをアクションとパンチラにつぎ込んできます(笑)。いきなりフェティッシュなコスチュームでパンツをチラチラ見せながら刀を振り回してゾンビをぶっ殺しまくるわけで、これは完全に言い訳できません(笑)。

パっと見ただけでも、ベイビードールは押井守の「Blood The Last Vampire(2000)」、最初のファンタジーシーンは純オリエンタルな「鬼武者(2001/Play station)」、その次のナチスとの戦争シーンはスチームパンク風の「ナチス・ゾンビ 吸血機甲師団(1980)」「処刑山 -デッド・スノウ-(2009)」に「サクラ大戦(1996/Sega Saturn)」のロボット付き、さらに中世ファンタジー風の「ドラゴン・ハート(1996)」「ロード・オブ・ザ・リング(2001~2003)」、その後の暴走列車は「スパイダーマン2(2004)」や「バットマン ビギンズ(2005)」「ファイナルファンタジー7(1997/Play Station)」のような近未来風な舞台で「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス(1999)」風の対アンドロイドのチャンバラ活劇。きちんとやりたいことをぶち込んだ上で好きなように予算を使っています。まさにオタクの夢可愛い女の子達に可愛いコスチュームを着せて好きなようにゾンビやロボットをぶち殺すアクション映画を撮る。70億円もかかったあまりにもスケールがでかい中二病ですが、ある種の到達点という感じがして大変好感が持てます。というか画面からもハッキリとザック・スナイダーがはしゃいで居るのが分かります(笑)。

本作は「ガフールの伝説(2010)」という本当に酷い企画の映画を撮ってきっちりと利益を出してみせたザック・スナイダーへのワーナーブラザースからのご褒美の意味合いが強いです。

WB:「よくやったザック。予算をやるから好きな映画を撮って良いぞ。」
ザック:「マジッスか!?じゃあアクションものやらせて下さい!!!! パンチラとゾンビ多めで!!」

ってなもんです。まぁいいんじゃないですか、、、楽しそうだし(苦笑)。一応本作全体という意味での一番の元ネタはイギリスのロックバンドコンビ「ユーリズミックス」のセカンドアルバム「スイート・ドリームス」です。本作のレノックス・ハウスの名前もこのユーリズミックスのアニー・レノックスから取ってますし、冒頭でそのままずばりこの曲が流れて「レノックス・ハウス」の門が映るというコントみたいなシーンもあります(笑)。

ザックの素晴らしい所はこういう元ネタを一切隠さないことです(笑)。クリストファー・ノーランやダーレン・アロノフスキーは元ネタを指摘されてもしらばっくれるのですが、間違いなくザックはそこからオタク話に花が咲くタイプです。つまり生粋の良い人。クエンティン・タランティーノとかJ・Jエイブラムスみたいな明るいリア充オタクです(笑)。

【まとめ】

とりあえず男の子は見に行って下さい。苦笑しながらも微笑ましく見られること必至です。大傑作というわけではないですが、ザック・スナイダーが趣味丸出しで好きなことを好きなようにやっているそのテンションの高さは感じとれると思いますし、そのテンションがフィルムから否応なく漏れ出しています。ちょっと吹き替えを見に行く気力はないですが、字幕版であれば終了前にもう一回ぐらいは見に行こうと思っています。こういう無駄使いなバカ映画は無駄に大きなスクリーンで見た方が面白いに決まってますから(笑)、DVD待ちと言わずに劇場に駆けつけましょう。オススメです。

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わたしを離さないで

わたしを離さないで

ようやく原作を読み終わりました。先週の日曜日に見たのは

わたしを離さないで」です。

評価:(96/100点) – 原作の世界観を利用した極上のラブストーリー


【あらすじ】

キャシー・Hは28歳の介護士である。彼女は提供者の安らかな最期を看取りながら、昔を振り返っていく。それは「ヘールシャム」という幻想的な学校で育った思い出だった、、、。

【三幕構成】

第1幕 -> 1978年、ヘールシャムでの思い出。
 ※第1ターニングポイント -> トミーとルースが付き合い始める。
第2幕 -> 1985年、三人のコテージでの思い出。
 ※第2ターニングポイント ->
第3幕 -> 1994年、現在。


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【感想】

原作を読んでいて一週間遅くなりました。先週の日曜日は「わたし離さないで」を見ました。原作はご存じ日本の生んだイギリス人ブッカー賞作家・カズオ・イシグロ。昨年の東京国際映画祭でも上映されていましたが、当日券目当てで朝8時に窓口にならんだらもう完売してました。当時は「カズオ・イシグロの作品がついに」っていうよりは「若手俳優の有望株が豪華集合!」みたいな扱いだったと記憶しています。公開2日目だったのですが、そこまでお客さんは入っていませんでした。たぶんこの一週間でだいぶ評判にはなっていると思いますが、勿体ない事です。
本作を見ていると、これは確かに俳優力が半端でなく凄いことになっていると分かります。一種のアイドル映画と見られないこともありません。ですが、それ以上に、本作はすばらしい純愛映画に仕上がっています。この「純愛映画」と言う部分がこれ以降書くことのキーワードです。アメリカやイギリスでの評判を見ますと、この「純愛」成分が賛否両論の的になっています。つまり、「原作と全然違うじゃないか」という不満が原作ファンから挙がっているんです。原作付きの作品にはある程度仕方が無いことですが、私は原作を映画の後に読んでみてそれでもこの映画は最高に上手く脚色していると思います。
ここで例によって注意があります。本作はSFラブストーリーですが若干のミステリー要素も含んでいます。個人的には世界観のネタバレについては全く問題ないと思いますし、実際、映画の冒頭2分ぐらいの「匂わせ」でSFファンならすぐ理解できる程度の内容です。原作者のカズオ・イシグロ氏も「ミステリーのつもりで書いたワケじゃないけど、発表後に読者に言われて気付いた。」と語っていますが、やはりネタバレによって幾分か面白さが減ってしまう可能性はあります。肝心の部分については書きませんが、もし完全にまっさらな状態で観たい方は、ここから先はお控え下さい。

作品の世界観

本作について書こうと思いますと、やはりまずは世界観と原作について触れなければいけません。正直に申しますと、世界観については本来なら予告編や公式のあらすじでバラしてしまっても良いと思います。というか本作の一番の肝はこの世界観の設定の部分なので、ここを説明しないと面白さがまったく伝わりません。この辺りがいつもの「SF作品はお客さんが入らない」という例の宣伝方針なのかな、、、とちょっと複雑な気分になります。
さて、本作は今現在2011年から見て過去の話しになります。そして映画の冒頭で一気にダイアログによって世界観が説明されます。
1952年、科学技術の発展によってそれまで不治の病とされてきた病気が駆逐され平均年齢が100歳を越えます。そしてその中で、提供者と呼ばれる人々を育てる学校が各所に建てられます。作品はその中の一つ「ヘールシャム」で育った仲良し三人組をメインに語られます。
本作の世界観は「臓器提供のためだけに”造られた”クローン人間達」の人生を描きます。原作にしろ映画にしろ、この世界観を設定したことですでに「勝ち」です。
まったく同じ世界観に大味馬鹿映画でお馴染みマイケル・ベイの「アイランド」があります。しかし本作は「アイランド」とは”人生”についての解釈が180度違います。「アイランド」は不条理な一生を余儀なくされたクローン人間の復讐・逆襲を描きます。つまり「被差別層の最終目標は自身が差別層と入れ替わることである」という価値観をストレートに描きます。一方で本作のクローン人間達は常に達観しています。彼女たちは幼少時より隔離された世界で育てられ、自身の人生を「そういうものだ」という前提として受け入れています。そして受け入れた上で一生を”普通に”送っていきます。
言うなれば、本作におけるクローン人間・臓器移植という設定は「人生をギュッと圧縮するための設定」なんです。本作のクローン人間達は成人すると「通知」と呼ばれる手紙が来ます。そして自身の臓器を提供します。最高でも4回、通常は2~3回目の提供手術でクローン人間は亡くなります。このとき大抵は30歳前後です。一方、その臓器を提供された「普通の人間」は、移植によって100歳近くまで生きることが出来ます。つまり寿命という点では非常に両極端な事態になっているわけです。
肝は、クローン人間達の寿命が極端に短いからといって一生が薄いというワケではないという点です。彼女たちはまさしく普通の人間が送るのと同じような一生を、ギュッと圧縮して送るわけです。幼少時は学校で保護者達に守られた生活を送り、次は同年代の人間達のみで共同生活を送り、そして成人して一人暮らしをしながら仕事をし、通知を受け取ってからは臓器提供を行うことで体が思うように動かなくなり、ついには一生を終えます。これはモロに幼少期→青年期→成人期→老年期のメタファーです。
本作はSF設定を用いることで人間の一生を擬似的に圧縮し、それによって「否が応でも迫ってくる人生の不透明性/不条理性」を浮かび上がらせています。
昨年末の「ノルウェイの森」の時にちょっと書きましたが、これはまさしく1960年代的な純文学要素をもったSFそのものです。原作「わたしを離さないで」は、新しいような古典的なような、懐かしさをいれつつ今風のポップな文体に起こした大傑作だとおもいます。

映画における脚色の妙

さて、前述のように「わたしを離さないで」は人間の一生を圧縮して見せています。原作において、キャシー・Hは一生を多感に過ごします。幼少時には無邪気なグループ間の争いやイジメ的なものも目撃しますし、青年期には一夜の遊びも何度も経験します。成人期には仕事に没頭しつつもストレスや学閥による嫉妬も経験します。まさしく私達が送るであろう人生そのものを経験します。
一方、映画版においてはその描写は恋愛要素に大きく偏っています。キャシー・Hは幼い頃より好きだったトミーをずっと思い続けます。なかなか自分に振り向いてくれないトミーを見ながら、それでもずっと一生を送っていきます。映画版におけるテーマはここです。「人生は怖い」「いつかは終わりが来てしまう」「もしその恐怖に対抗できるとしたら、それは愛だけである」。本作のクライマックスにくるエピソードはまさしくこれを表現しています。そして、クローン人間達の人生が圧縮されていることで、この「愛」が相対的に長くなり、それが「純愛」要素を帯びてくるワケです。ファンタスティックMr.FOX的な表現をするなら、「人間時間で15年、提供者時間で70年の恋愛」です。
これによって、本作はもの凄い大河ロマン的な恋愛ストーリーとなります。私はここの部分において映画版は原作を越えているとさえ思います。大河ロマンになることで、最終盤にふとキャシー・Hが見せる涙が、それまで達観していた人生からふと漏れ出して見えるわけで、これこそ一生の不条理性を強烈に印象づけます。しかもそこに人生の不条理を絞り出すブルース調の「Never let me go」と、まだそれに気付いていない無邪気で無垢な少年少女達による「ヘールシャム校歌」がかぶさってくるワケです。
まぁ泣くなって方が無理です。

【まとめ】

本作はキャシー・Hという内気な女性の一代記になっています。そしてそれがとんでも無いほどの魅力を放っています。ですので、当然演じるキャリー・マリガンのアイドル映画として見ることも出来ます。そう、本作は1年かけて大河ドラマでやるような「女性の一代記」をわずか100分に濃度そのままで超圧縮しているんです。この恐るべき編集力と脚本力はどれだけ褒めても褒めきれません。小説版にでてくる脇役達も大きく削り、メインの三人組に集中したのも上手い脚色です。しかもそれでいて端折っている感じはありません。きちんと100分で完結しています。アンドリュー・ガーフィールドも神経質で多感な少年をすばらしく演じていますし、キーラ・ナイトレイの悪女っぷりも最高です。
これは心の底から是非映画館で見て欲しい作品です。確かに原作をゴリゴリのSFとして読んだ方には若干甘ったるい印象を与えるかも知れませんし、そこで違和感を感じるのも分かります。しかし、ここまですばらしく纏まったラブストーリーはなかなか見られません。かなりのテンションでオススメします。とりあえず、この1本!

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劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~

劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~

3月の1本目は先週末スルーした

劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~」です。

評価:(45/100点) – 絵は凄い。絵は。曲もまぁまぁ。でも話しが、、、。


【あらすじ】

バジュラのフロンティア船団侵攻を食い止めたS.M.S.とシェリル・ランカは一躍船団のスターとなっていた。そんなおりスパイ容疑でギャラクシー船団からの避難者達が続々と襲撃・逮捕されていく。逮捕されたシェリルを尻目に、フロンティア船団のミシマはギャラクシー船団の技術を盗みバジュラ達を操ろうとする。実現すれば宇宙最大の脅威になると考えたS.M.Sマクロス・クォーターのジェフリー艦長は反逆罪を覚悟でシェリルを脱獄させ、ミシマの野望阻止に動き出す、、、。


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【感想】

今日はレイトショーで「劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~」を見て来ました。21:30開始の結構遅い回だったのですが、観客は2~3割ぐらいの入りでした。この時間だと観客1ケタが当たり前なので、結構入っている方だと思います。一昨年公開された「劇場版マクロスF 虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~」の後編です。
ここで読んでいただいている方に注意があります。本作は私もちょっと整理しながら書かないと分からないくらい話しが大混乱しています。ですので、100%ネタバレで書こうかと思います。総論としては、アニメーションの動きは凄いけどストーリーが無茶苦茶でかなり観客を選ぶ作品だと思います。具体的にはTVアニメを見てシェリルやランカといったキャラクターが好きなことを前提として、「彼女たちを見ていれば満足できる」という人のみがターゲットです。完全なキャラものです。TVシリーズ未見の方はまずTVシリーズと劇場版前編を見てから、それでも興味があれば行きましょう。

今回のストーリーの大混乱っぷり

今回のストーリーで一番厳しいのは、劇中の行動の動機・因果関係がグッチャグッチャだからです。しかもそのグチャグチャなストーリーの合間に「ミュージックPV」や「萌え要素」のような本筋と関係無いシーンが長く入るものですから、余計わけがわからなくなります。ですから、まずは時系列に沿って話しのプロットを整理しましょう。
・シェリルのV型感染症が末期であることが分かる。助かるには免疫を持ったランカを殺してシェリルに臓器移植する必要がある。
・フロンティア船団の前に巨大バジュラ艦が現れる。アルトとブレラの活躍で撃退するが、アルトが被弾し入院する。
・ギャラクシー船団幹部の野望が明らかになる。
 フォールド細菌を持つシェリルとランカの歌を通じてバジュラの意志ネットワークを解析、
 バジュラを操り世界征服を目論む
・ギャラクシーの幹部がフロンティアの公安に襲撃される。グレイスが重傷で拘束、シェリルが逮捕される。
・フロンティア幹部のミシマがギャラクシー幹部の世界征服案をそのまま流用しようとする。
・ミシマの野望を阻止するべく、S.M.Sマクロス・クォーターがシェリルの救出作戦を行う。
・ミシマがバジュラ・ネットワークの解析を終える。バジュラにインプラント弾を撃つことで操れるようになる。
・ミシマがバジュラを寝返らせつつ、バトル・フロンティアでバジュラの母星を目指し侵攻する。
・S.M.Sのマクロス・クォーターがバトル・フロンティアを追撃する。途中シェリルとオズマ隊長とはぐれる。
・バトル・フロンティアがブレラに襲撃され皆殺しにされる。
・ブレラはギャラクシー3幹部のインプラント体を起動しバトル・フロンティアを乗っ取る。
・バトル・フロンティアがバジュラ・クイーンと融合する。
・マクロス・クォーターのアルトがシェリル・オズマと合流。
・アルトが単機でバトル・フロンティアに突撃する。周囲のバジュラを押さえ込むためランカとシェリルがデュエット。
・S.M.S救援連合艦隊が到着。
・ランカの歌でブレラが正気に戻りインプラントを自らはずす。バトル・フロンティアに特攻し、3幹部を自爆破壊。
・バジュラ・クイーンとバトル・フロンティアの融合が外れる。
・救援連合艦隊の複数のマクロス級戦艦でバトル・フロンティアとバジュラ・クイーンを一斉射撃し破壊する。
・爆発に巻き込まれアルトが行方不明になる。
・ランカからの輸血で一命は取り留めたものの、重度の感染症からシェリルが昏睡する。
・バジュラ・クイーンの死によって無人になったバジュラ母星にフロンティア船団が入植する。
 はからずも第2の地球をゲット!
え~たぶんこの箇条書きだけ見ても訳が分からないと思いますが、大丈夫です。本編を見ても所々意味がわかりませんw
例えばシェリルを脱獄させる動機です。どう考えても「シェリルが好きだから」なんですが、劇中では「ミシマを止めるため」としか言いません。でもフォールド波はランカでも出せるんですから、対バジュラ兵器としてはこの時点でシェリルはもういらないんです。なぜこれが「ミシマを止める」ことに繋がるか分かりません。ちなみに救出作戦でのランカの歌声でミシマがバジュラ・ネットワークの解析を終えますから、むしろ「ミシマに勢いを与えて」います。
次いで一番引っ掛かるのはラスト付近のアルトの突撃です。「歌を届けるため」に突撃するということになっていますが、それって要はスピーカーを担いでいくイメージです。でもこの時点ではもうバジュラ・クイーンとバトル・フロンティアは融合しているので、その直前まであった「バジュラを救うためバトル・フロンティアを倒す」という構図はなくなっています。一応、マクロス・クォーターの唯一の大義名分は「バジュラにも意志がある=異星人だから、ミシマの異星人への侵攻は銀河連邦法違反である」という点です。ところが結局はマクロス・クォーターもバジュラを殺して母星を奪っていますw それって駄目なんじゃなかったの? しかも主人公・アルトがこの件に関してはまったく役にたっていませんw 勝手に突っ込んで勝手に爆発に巻き込まれただけです。

良かったところ

とまぁ話しに関してはつっこみ放題なほど酷いんですが、もちろん良かったところもありました。当然戦闘シーンとミュージックPVシーンです。戦闘シーンは相変わらず勢い重視で、各機体の位置関係はわかりません。ただ、ひたすら大音量でドガシャーンと動かすためテンションはかなり上がります。
「ミュージックPV」部分については、こちらも3DCG中心でかなり気合いの入ったものでした。こちらも相変わらず客観視点がありませんが、手持ちカメラっぽい動きをバーチャルに再現していて非常に面白かったです。こちらはハッキリ言って本編と一切関係がありませんから別に無くても良い部分ではあるんですが、やっぱりマクロスと言えば「アイドル」「飛行機」「三角関係」なのでここのクオリティは大事ですw

【まとめ】

上に書かなかった本作の特徴として、パロディが多いという事も言えます。ざっと思いつくだけでも、「エウレカセブン」のロボットが波乗りするシーン、「ガンダムW」の岩を盾にして大気圏突入するシーン、「F91」のセシリーっぽいシェリルの衣装。バジュラ母星での戦闘は「ダンバイン」の最終回です。バジュラ自体もダンバインっぽい造形です。
ということで、本作は完全にアニメオタク向けの作りですし、もっというとキャラクターもののアニメを好きな人向けです。話しの整合性よりは勢いや萌えがあればOKという割り切り方が出来ないと、結構つらいかもしれません。オススメはしません。本作のターゲットになるような方は勧めなくても見に行くでしょうし(苦笑)、見に行く気が無い人にオススメして無理に見せてもどうせ意味がわかりません。すごく閉鎖的で人を選ぶ作品です。前編が比較的わかりやすい整理をしていただけに、後編でなんでここまでグチャグチャになったのか結構不思議ですw

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記事の評価
GANTZ

GANTZ

土曜日は二本見て来ました。1本目は、

「GANTZ」です。

評価:(9 /100点) – 適当でショボい「予告編」。


【あらすじ】

就職活動中の玄野は地下鉄の駅で小学校の同級生・加藤を見かける。加藤は線路に落ちた酔っ払いを救うため、自らも線路に降りてしまう。なんとか酔っ払いを助けた加藤だったが電車はすぐそこまで来ている。ためらいながらも加藤に手を貸した玄野だったが、加藤に引き込まれ線路に転落、2人共電車に轢かれてしまう、、、、。
しかし気がつくと、玄野と加藤はマンションの一室に居た。まわりには数名の男子。目の前には謎の黒い玉。はたして二人は死んだのか、、、そして黒い玉は何なのか、、、。


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【感想】

土曜の1本目は「GANTZ」です。おなじみヤングジャンプ連載のコミックの映画化で、日テレ、東宝、ジェイ・ストーム、ホリプロが制作委員会に名を連ねます。二宮君と松ケン狙いなのか若い女性が多く、漫画ファンの層とはちょっとずれているように感じました。かなりお客さんは入っていまして、一度アニメ化もされている人気シリーズです。

ソープオペラと映画について

当ブログを読んで戴いている方には「そもそも」という単語が出ると危ないというのはご想像できると思いますが(苦笑)、いきなり「そもそも論」から行きたいと思いますw
そもそもですね、原作コミックスはいわゆる「ソープオペラ」の形式をとっています。当ブログでも何度か出てきていますが、一応念のため。「ソープオペラ」はアメリカの連続ドラマの形式の一種で、キャラクターだけを配置して延々と下世話に話を転がしていくものです。ストーリー自体にゴールは無く、またあったとしても限りなく薄いゴールが設定されます。基本的にはシチュエーションとキャラクターの魅力しかありませんので、いくらでも続けることができますし、いつでも止めることができますw 実はそういう風に考えると、連載漫画とソープオペラがとても相性が良いというのがお分かり頂けると思います。つまり編集部やファンの要請が続く限りいくらでも話を転がせますし、また打ち切りが決まればすぐにでも完結させることが出来るからです。
しかしその一方で、ソープオペラは映画にはまったく向いていません。というのも映画には元々「フィルムリール」と言う形で物理的な尺の制限があるからです。もちろん複数リールをつなげるようになってからも、単純にリールが増えるとそれだけダビングに時間も費用もかかりますのである程度の制限は残ります。長さに制限があるということは、つまり作品に明確なゴールを設定した上で、時間に合わせて的確にストーリーを語る必要があるということです。二時間半ならそれに見合った話の内容があり、きっちり二時間半でゴールまで行かないといけません。
さて、原作の「GANTZ」はラストミッションまではこの「ソープオペラ」形式で「星人狩り」のゲームが繰り返されます。この繰り返しの一回一回には特に意味は無く、ゲームや星人のシチュエーションとそこに放り込まれるキャラクターを楽しむものです。正しいソープオペラであり、よく考えられた連載向けの物語構成です。
しかし前述のような映画とソープオペラの相性の悪さがありますから、この原作を映画化するのであれば当然そのままではどうにもならないわけです。(逆に言えば、例えば毎週放送するアニメやドラマであればそのままでもある程度格好は付きます。)
この「原作のストーリーをテーマを絞ってまとめる」事が映画化する際の一番の肝であり、もっとも監督や脚本家の手腕が問われる箇所です。

本作におけるストーリーについて

では今回の映画化はどういった形でテーマをまとめているでしょうか? これは明確で、「玄野の自分探しと成長」です。物語の冒頭では、玄野は面接のマニュアル本を暗記するだけで何の熱意や希望もなく安穏と生活していました。それがGANTZのゲームに参加することで段々と調子に乗り始めます。自分が「いじめっ子をやっつけるのが得意」だと認識した上で、星人狩りを天職だと思うようになり独善的に暴走していきます。しかし対おこりんぼう星人戦で仲間を失ったことで戦いの惨さを再認識し、皆で力を合わせて生き残る事を決意します。これが本作のストーリーの全てです。
問題は、本作のストーリーがどう考えても130分という尺に対して薄すぎることと、そしてストーリーに対して起こっているGANTZを巡る事態が風呂敷を広げすぎな事です。物語の最後で玄野が決意することは、物語の冒頭ではすでに自明であり加藤が連呼していたことです。ですから130分も使った上で成長するゴールとしては低すぎます。
また、映画の尺が伸びすぎている大きな要因がこれでもかというほどクドい「ウェット」で「だるい」演出です。この映画版ではXガンが強力な銃として登場します。実際に劇中で戦う敵は全てこのXガンで撃たれることで倒されます。引き金を引いたら戦闘が終了するような武器を持っているにも関わらず、玄野はなかなか銃を撃ちません。挙げ句の果てには敵の目前で愁嘆場を演じたりする始末です。
特に酷いのがラストの千手観音戦です。ここでは「岸本と加藤」「玄野と加藤」の二回、まったく同じシチュエーションで敵の目前で「感動的なお涙頂戴話」を始めます。それを待ってあげている千手観音もお茶目ですし、「そんなことしている間にXガンで撃てよ」という文句が何度も頭をちらつきます。実際問題、本作の戦闘シーンはほとんどが「そんなことしている間にXガンで撃てよ」で片付いてしまいます。アクションもへったくれもありません。CGがショボイとかカット割りすぎとか以前に、アクションシーンとしておかしな事になっています。しかも玄野と加藤と岸本以外が完全に何の役にもたっていません。ソープオペラというのは各キャラクターを群像劇のように立たせるものですが、本作ではこの3人以外は誰が誰やらさっぱり分からないため、そもそもソープオペラとしても失敗しています。

【まとめ】

だらだらとグチを書いてきましたが、要は本作は後編「GANTZ PERFECT ANSWER」の予告編以上のものではありません。130分も使っておきながら、「みんなで力を合わせよう」などどいうヌルイ着地をしつつ、結局「GANTZ」関連のストーリーには進展がないままです。まるで打ち切り漫画のようなラストショットと、そしてエンドロールの後に流れる心底がっかりする後編の予告によって、本作がただの「前振り」でありただの「お試し版」であることがハッキリします。
本作は見る必要が1ミリたりともありません。どうせ後編をやる直前に日テレで放送するでしょうし、別に後編からいきなり見ても十分に話が通じる程度のボリュームです。まったくオススメしませんが、二宮君と松山ケンイチのファンであれば見に行っても良いかと思います。完全なるドラマ演出によって顔のどアップばかりですので、ファンであれば顔だけは楽しめると思いますw

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